第113話 嫌われてるほうが、よく出る
桜坂駅の駅前で、俺の前を歩いていた人が足を止めた。
止まって、こっちを向いた。向いたまま、動かなかった。
俺はよけて通った。よけたら、その人も同じ側へ半歩ずれた。
ロータリーのバス停で、列に並んでいた人たちが顔を上げた。上げてから、隣どうしで短く何か言って、また上げた。
◇
鞄の口が、閉めたはずなのに開いていた。
「あんた、そこで止まりなさい」
(止まってる)
「歩くのをやめなさいって言ってるの」
(同じだろ)
「同じじゃないわよ」
人形は鞄の中で、口の側へ体を向けていた。台座の縁が教科書の背に当たって、少しだけ斜めになっている。
◇
クリーニング屋の看板の下に、よその学校の制服が並んで立っていた。
携帯を持っている。持っているだけで、画面は見ていない。
俺は改札のほうを振り返った。振り返ったところで、そっちにも人が立っていた。券売機の前でも、駐輪場の柵の横でもなく、ただ通路の真ん中に立っている。
風があった。看板の下に貼ってある紙が、端だけめくれて戻った。
◇
駅前のロータリーは、バスの停留所が三つと、タクシーの乗り場が一つある。
停留所の屋根は真ん中のだけ新しくて、両端の二つは支柱の根元が茶色い。時刻表のケースの中の紙は、いちばん下の行が日に焼けて読めなくなっている。
その時刻表の前に、さっきから同じ人が立っていた。紙は見ていない。ケースのガラスに映っている、うしろのほうを見ている。
その人は座らなかった。
◇
「あんた、今日は駅を出ないほうがよかったわね」
(電車は降りた)
「降りたあとの話をしてるのよ」
(家はこっちだ)
「家がこっちなのは知ってるわよ。わたしが言ってるのは、あんたが今、ぜんぶの人の真ん中に立ってるってこと」
俺は自分の足元を見た。
駅前のタイルは、真ん中の列だけ色が違う。俺はその上に立っていた。夏に張り替えた区画だ。目地の白さが、両隣と揃っていない。
◇
「本物?」
横から声がした。
男の人だった。上着の前を開けて、片手にコンビニの袋を提げている。袋の中で、缶が二本、寄りかかって鳴った。
「本物です」
「うわ、ほんとだ」
その人は袋を持ち替えて、俺の顔を下から見た。見て、それから一歩下がった。
「顔、動かねえんだな」
「動きません」
「テレビと一緒だ」
その人はそう言って、駅のほうへ歩いていった。三歩ほど行って、一度だけ振り返った。
振り返って、袋を持ち直した。持ち直したときに、缶がまた鳴った。
鳴った音のほうが、その人の声より遠くまで届いた。
◇
次に声を掛けてきた人は、もう少し離れたところで止まった。
「よくこんな日に外を歩けるな」
その人は近づいてこなかった。
「学校の帰りです」
「聞いてねえよ」
「はい」
その人は舌打ちをして、横断歩道のほうへ行った。行ったあとも、途中で二度止まってこっちを見た。
◇
花屋の前で、店員の人がバケツの水を替えていた。
替えている途中で手が止まって、こっちを見た。見て、また水に戻った。戻ってから、バケツの縁を持ち上げる角度が浅くなって、水がこぼれた。
こぼれた水は、タイルの色の違う列のほうへ流れていった。流れて、目地の手前で止まった。
止まってから、そこで細くなった。
◇
(今のは、何の話だ)
「あんたに聞いてるのよ、あの人は」
(何を)
「何も。聞いてないわよ、あの人。言いに来ただけ」
人形の声が、鞄の中で少し高くなった。
「あんた、いま笑わなくてよかったわ」
(笑えない)
「そうだったわね」
◇
頭の中で、曲が回っていた。
今年の春に録ったやつである。二日スタジオに入って録って、そのままドラマの頭に流れた。それきり、人の前では歌っていない。
電車の中からずっと同じところが回っていて、降りても止まらなかった。
止まらないのは、同じ一行だった。
◇
駅前の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。
背筋が伸びた。
輪郭がはっきりしすぎて、ロータリーの向こうの時計の針まで見えた。
◇
目に映るものの縁が、全部立っていた。
看板の文字の角。柵の塗装が剥げたところ。誰かの鞄の金具。どれも手前にあって、見なくていいものまで見えている。
俺は口の中が乾いているのに気づいた。
(冷蔵庫に、昨日の鶏がある)
立っているのに、膝も足首も、どこにも力が要らなかった。
◇
「あんた、いま、点いたわね」
(点いた)
「誰も、あんたのこと好きじゃないわよ」
(そうだろうな)
「……関係ないのよ。好きかどうかは」
(関係ないのか)
「関係ないの。今わかったわ」
人形は、そこで言葉を切らずに続けた。
「点いたのは、あの人たちのせいよ。あんたが決めたわけじゃないの。決めたわけじゃないから、たちが悪いのよ」
◇
俺は試してみることにした。
頭の中の一行が、口のすぐ裏まで来ていた。来ていたので、出してみたくなった。
息を吸ったら、胸ではなく腹の下のほうまで入った。入れた覚えは無い。
喉の奥が、あくびの手前の形に開いていた。開けた覚えも無い。
俺は鞄を提げたまま、その一行を鼻歌くらいの大きさで出した。
出したつもりだった。
◇
バス停は、俺の立っているところから十歩ほど離れている。
その列が、こっちを向いた。
クリーニング屋の看板の下の制服が、二歩ぶん近づいた。近づいてから、それ以上は来なかった。
携帯を持っている人がいた。持ち上げて、こっちへ向けて、そのまま止まっている。画面を見ていない。構えたことを忘れた形で、腕だけが上がっていた。
止まる人が増えた。
駅前のタイルの上で、鞄を提げたまま歌い出した男に見えたはずだが、そのとき頭にあったのは、二行目がもう出ているということだけだった。
◇
「あんた」
(なんだ)
「声、大きいわよ」
(小さく出した)
「出てないの。全然、小さくないの」
俺は口を閉じようとした。
閉じようとして、閉じなかった。
◇
一行が終わった。
終わったのに、口が動いていた。
次の行が出て、その次が出た。曲の終わりまで来て、そこで切れるはずのところが切れなかった。切れないまま、頭のところへ戻っていた。
自分の声が、自分の耳より先に、前の人の顔に当たっているのがわかった。
花屋の軒の下で、置いてあるバケツの水面が細かく震えていた。
ロータリーの向こうの、信号待ちの列まで届いていた。横断歩道を挟んで、二十メートルはある。列の端の人が、こっちへ体ごと向いた。向いた人の隣の人も向いた。
信号が青になっても、その列は動かなかった。
◇
二周目に入っていた。
入ってから、俺は自分の指を見た。鞄の持ち手を握っている指が、持ち手に食い込むくらい曲がっている。曲げた覚えがない。
息継ぎの位置も、勝手に決まっていた。
◇
「やめなさい」
人形が言った。
俺は続けていた。
「やめなさい!」
鞄の中の声が、これまでで一番大きかった。台座が教科書の背を叩いて、鞄の口の布が跳ねた。
◇
止まった。
口が閉じたのが先で、そのあとに音が消えた。順番が逆だった。
駅前の音が戻ってきて、バスの扉が閉まる音と、自転車のベルと、券売機の電子音が、いっぺんに耳に入った。
◇
膝が抜けた。
俺は前へ倒れないように、片手をタイルについた。ついた手のひらが冷たくて、指の先まで力が入らない。
視界の端が白い。
俺はそのまま、駅前のタイルに座った。
◇
座ったところで、制服のズボンのことを思い出した。
タイルは乾いている。乾いていても、砂は付く。母さんは洗濯機を回す前にズボンの尻を見る人で、砂が付いていると、俺ではなく洗濯機のほうに文句を言う。
前に一度、砂ごと回したことがある。あのときは、槽の底で音が鳴った。鳴った次の日は、蓋を開けたまま干してあった。
俺は尻の下を確かめたかった。確かめる方法が、今は無い。
手のひらには、タイルの目地の跡が付いていた。細い線が二本、斜めに入っている。押し当てていた時間のぶんだけ、白くなっていた。
白いところを親指でこすったら、少し赤くなった。
◇
立っていた人たちが、順に動きだした。
バスが来て、列が乗った。制服が改札のほうへ歩いていった。携帯を構えていた人は、腕を下ろして、下ろしたことに自分で気づいた顔をしてから、下を向いて歩いていった。
花屋のこぼした水は、目地の手前で止まったところから、先へは進んでいなかった。
◇
「あんた、聞きなさい」
人形は鞄の中から言った。
(聞いてる)
「今日みたいなのは、いつもより出るの。あんたが上手くなったんじゃないわよ。出る量の話をしてるの」
(出た)
「出たでしょう。それで、止まらなかったでしょう」
(これは、何なんだ)
「知らないわよ」
(知らないのか)
「知らないわ。わたしが見てるのは、あんたの外側だけなの。中で何が起きてるかは、あんたの体しか知らないって、さっき言ったでしょう」
人形の言い方が、そこだけ速かった。
「だから、面白がるのはやめなさい」
(面白がってない)
「面白がってたわよ、あんた。歌い出すときの顔で、わたしにはわかるの」
(顔は動いてない)
「動いてないわよ。動いてないから、わかるのよ」
◇
「いい? 二回言うわよ」
(一回でいい)
「二回言うの。……止めどきを、あんたが決められてないの。それが、いちばん悪いところ」
(決めてた)
「決めてないわよ。一周して、もう一周始めてたのよ、あんた」
人形は、そこで声を落とした。
落としてから、また続けた。
「わたしが叫ばなかったら、三周目に行ってたわ」
(三周目で、どうなる)
「知らないって言ったでしょう。知らないから、止めたのよ」
人形は、そこでもう一度声を大きくした。
「あんた、いい? わたしが叫ぶまで、あんたは止めようとしてなかったの。止められなかったんじゃないの。止めるって考えが、頭に無かったの」
(あった)
「無かったわよ」
(無かったな)
「そうでしょう」
人形は鞄の中で体の向きを直した。直したはずみで、留め具の金物に台座が当たって、鈍い音がした。
「それとね」
(まだあるのか)
「あんたの体は、いつもと同じことをしただけなの。違うのは、あんたを見てた人の中身だけ」
(中身)
「そう。それだけ。それ以上は、わたしにもわからないわ」
人形はそこで黙った。
黙ったのが長かった。
◇
俺は空を見た。
十二月の五時前で、駅前の街灯はもう点いている。点いているのに、まだ明るい。
空の低いところだけが赤くて、そこから上は青のままだった。境目のところに雲が一枚あって、下の面だけ色が付いている。
「立てるの」
(立てない)
「じゃあ座ってなさい」
(座ってる)
「そう」
人形はそれきり口をきかなかった。
鞄の中で位置を変えたらしく、台座の当たる音が一度した。
◇
十五分くらい、そこにいた。
そのあいだに、電車が三本着いた。
さっき止まっていた人の立っていた場所には、今は自転車が停めてある。
◇
駅前の自販機の下の段に、缶コーヒーが二列並んでいた。
微糖は右の列である。左の列はブラックで、今日も右のほうが減っていた。
俺は座ったまま、その列を見ていた。買いに行くには、まだ足が足りない。
自販機の右下の取り出し口に、誰かの空き缶が置いてあった。缶を捨てる箱は自販機の裏側にあって、表からは見えない。
今日の空き缶は二本で、二本とも同じ銘柄だった。
◇
「あんた、今日のことを説明しなさい」
(誰にだ)
「わたしによ」
(人が見てた。点いた)
「ほかには」
(ほかには無い)
「それでいいのよ」
人形の言い方が、そこで少し変わった。
「それ以上、考えないで。あんたが自分で考え始めると、ろくなことにならないから」
◇
腹が減っている。
減っているのに、口の中は乾いたままだった。
冷蔵庫には、水曜の残りがある。水曜は鶏だった。妹は残りものを皿に移し替えない。鍋のまま台所に立って食う。
俺が帰るころには、鍋は空になっている。空になった鍋は、水を張って流しに置いてある。張ってあるだけで、洗ってはいない。
なっていても、飯と、卵と、あと何かがあれば足りる。
◇
「あんた、明日でしょう」
(何がだ)
「人の前で喋る日」
(明日だ)
「明日は、絶対にやらないでね」
(歌わない)
「歌う歌わないの話じゃないわよ」
人形は言い直した。
「止まらなくなる話をしてるの」
◇
俺は明日のことを考えた。
考えたが、思い出せたのは集合が一時半だということと、学校を四限で出るということだけだった。
弁当が要るのかどうかは、まだ聞いていない。
一時半に集合して、それから何時間あるのかも聞いていない。途中で腹が減ったときにどうするのかも、まだ聞いていない。
◇
バスがもう一本来た。
来て、扉が開いて、誰も乗らないで閉まった。運転手の人が、乗り場の柱に貼ってある紙のほうを見て、それからハンドルの上で腕を組んだ。組んで、そのまま発車した。
次のバスは五分後で、そっちは駅の反対側まで行く。乗り場には誰も立っていなかった。
小学校のとき、俺は間違えてそっちに乗ったことがある。
◇
街灯の光が、タイルの色の違う列の上だけ、少し白く見えた。
新しいほうが白く見えるのか、光の当たり方でそう見えるのかは、下から見ていてもわからない。
目地に溜まった水は、まだ乾いていなかった。
俺は立った。
立って、鞄を持ち直した。持ち直したら、口の開いたところから人形の頭が見えたので、押し込んで、留め具を留めた。
自販機までは十歩だった。
十歩歩いて、下の段を押した。落ちてきたのは左の列のほうだった。指が右まで届いていなかったらしい。両手で持つと、温かいほうだったので、指の先まで熱が届いた。
「あんた、帰らないの」
(飲んでから帰る)
「……そう」
俺は缶を持ったまま、もう一度タイルに座った。




