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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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113/235

第113話 嫌われてるほうが、よく出る

 桜坂駅の駅前で、俺の前を歩いていた人が足を止めた。


 止まって、こっちを向いた。向いたまま、動かなかった。


 俺はよけて通った。よけたら、その人も同じ側へ半歩ずれた。


 ロータリーのバス停で、列に並んでいた人たちが顔を上げた。上げてから、隣どうしで短く何か言って、また上げた。


   ◇


 鞄の口が、閉めたはずなのに開いていた。


「あんた、そこで止まりなさい」


(止まってる)


「歩くのをやめなさいって言ってるの」


(同じだろ)


「同じじゃないわよ」


 人形は鞄の中で、口の側へ体を向けていた。台座の縁が教科書の背に当たって、少しだけ斜めになっている。


   ◇


 クリーニング屋の看板の下に、よその学校の制服が並んで立っていた。


 携帯を持っている。持っているだけで、画面は見ていない。


 俺は改札のほうを振り返った。振り返ったところで、そっちにも人が立っていた。券売機の前でも、駐輪場の柵の横でもなく、ただ通路の真ん中に立っている。


 風があった。看板の下に貼ってある紙が、端だけめくれて戻った。


   ◇


 駅前のロータリーは、バスの停留所が三つと、タクシーの乗り場が一つある。


 停留所の屋根は真ん中のだけ新しくて、両端の二つは支柱の根元が茶色い。時刻表のケースの中の紙は、いちばん下の行が日に焼けて読めなくなっている。


 その時刻表の前に、さっきから同じ人が立っていた。紙は見ていない。ケースのガラスに映っている、うしろのほうを見ている。


 その人は座らなかった。


   ◇


「あんた、今日は駅を出ないほうがよかったわね」


(電車は降りた)


「降りたあとの話をしてるのよ」


(家はこっちだ)


「家がこっちなのは知ってるわよ。わたしが言ってるのは、あんたが今、ぜんぶの人の真ん中に立ってるってこと」


 俺は自分の足元を見た。


 駅前のタイルは、真ん中の列だけ色が違う。俺はその上に立っていた。夏に張り替えた区画だ。目地の白さが、両隣と揃っていない。


   ◇


「本物?」


 横から声がした。


 男の人だった。上着の前を開けて、片手にコンビニの袋を提げている。袋の中で、缶が二本、寄りかかって鳴った。


「本物です」

「うわ、ほんとだ」


 その人は袋を持ち替えて、俺の顔を下から見た。見て、それから一歩下がった。


「顔、動かねえんだな」

「動きません」

「テレビと一緒だ」


 その人はそう言って、駅のほうへ歩いていった。三歩ほど行って、一度だけ振り返った。


 振り返って、袋を持ち直した。持ち直したときに、缶がまた鳴った。


 鳴った音のほうが、その人の声より遠くまで届いた。


   ◇


 次に声を掛けてきた人は、もう少し離れたところで止まった。


「よくこんな日に外を歩けるな」


 その人は近づいてこなかった。


「学校の帰りです」

「聞いてねえよ」

「はい」


 その人は舌打ちをして、横断歩道のほうへ行った。行ったあとも、途中で二度止まってこっちを見た。


   ◇


 花屋の前で、店員の人がバケツの水を替えていた。


 替えている途中で手が止まって、こっちを見た。見て、また水に戻った。戻ってから、バケツの縁を持ち上げる角度が浅くなって、水がこぼれた。


 こぼれた水は、タイルの色の違う列のほうへ流れていった。流れて、目地の手前で止まった。


 止まってから、そこで細くなった。


   ◇


(今のは、何の話だ)


「あんたに聞いてるのよ、あの人は」


(何を)


「何も。聞いてないわよ、あの人。言いに来ただけ」


 人形の声が、鞄の中で少し高くなった。


「あんた、いま笑わなくてよかったわ」


(笑えない)


「そうだったわね」


   ◇


 頭の中で、曲が回っていた。


 今年の春に録ったやつである。二日スタジオに入って録って、そのままドラマの頭に流れた。それきり、人の前では歌っていない。


 電車の中からずっと同じところが回っていて、降りても止まらなかった。


 止まらないのは、同じ一行だった。


   ◇


 駅前の音が遠のいた。


 輪郭がはっきりした。


 背筋が伸びた。


 輪郭がはっきりしすぎて、ロータリーの向こうの時計の針まで見えた。


   ◇


 目に映るものの縁が、全部立っていた。


 看板の文字の角。柵の塗装が剥げたところ。誰かの鞄の金具。どれも手前にあって、見なくていいものまで見えている。


 俺は口の中が乾いているのに気づいた。


(冷蔵庫に、昨日の鶏がある)


 立っているのに、膝も足首も、どこにも力が要らなかった。


   ◇


「あんた、いま、点いたわね」


(点いた)


「誰も、あんたのこと好きじゃないわよ」


(そうだろうな)


「……関係ないのよ。好きかどうかは」


(関係ないのか)


「関係ないの。今わかったわ」


 人形は、そこで言葉を切らずに続けた。


「点いたのは、あの人たちのせいよ。あんたが決めたわけじゃないの。決めたわけじゃないから、たちが悪いのよ」


   ◇


 俺は試してみることにした。


 頭の中の一行が、口のすぐ裏まで来ていた。来ていたので、出してみたくなった。


 息を吸ったら、胸ではなく腹の下のほうまで入った。入れた覚えは無い。


 喉の奥が、あくびの手前の形に開いていた。開けた覚えも無い。


 俺は鞄を提げたまま、その一行を鼻歌くらいの大きさで出した。


 出したつもりだった。


   ◇


 バス停は、俺の立っているところから十歩ほど離れている。


 その列が、こっちを向いた。


 クリーニング屋の看板の下の制服が、二歩ぶん近づいた。近づいてから、それ以上は来なかった。


 携帯を持っている人がいた。持ち上げて、こっちへ向けて、そのまま止まっている。画面を見ていない。構えたことを忘れた形で、腕だけが上がっていた。


 止まる人が増えた。


 駅前のタイルの上で、鞄を提げたまま歌い出した男に見えたはずだが、そのとき頭にあったのは、二行目がもう出ているということだけだった。


   ◇


「あんた」


(なんだ)


「声、大きいわよ」


(小さく出した)


「出てないの。全然、小さくないの」


 俺は口を閉じようとした。


 閉じようとして、閉じなかった。


   ◇


 一行が終わった。


 終わったのに、口が動いていた。


 次の行が出て、その次が出た。曲の終わりまで来て、そこで切れるはずのところが切れなかった。切れないまま、頭のところへ戻っていた。


 自分の声が、自分の耳より先に、前の人の顔に当たっているのがわかった。


 花屋の軒の下で、置いてあるバケツの水面が細かく震えていた。


 ロータリーの向こうの、信号待ちの列まで届いていた。横断歩道を挟んで、二十メートルはある。列の端の人が、こっちへ体ごと向いた。向いた人の隣の人も向いた。


 信号が青になっても、その列は動かなかった。


   ◇


 二周目に入っていた。


 入ってから、俺は自分の指を見た。鞄の持ち手を握っている指が、持ち手に食い込むくらい曲がっている。曲げた覚えがない。


 息継ぎの位置も、勝手に決まっていた。


   ◇


「やめなさい」


 人形が言った。


 俺は続けていた。


「やめなさい!」


 鞄の中の声が、これまでで一番大きかった。台座が教科書の背を叩いて、鞄の口の布が跳ねた。


   ◇


 止まった。


 口が閉じたのが先で、そのあとに音が消えた。順番が逆だった。


 駅前の音が戻ってきて、バスの扉が閉まる音と、自転車のベルと、券売機の電子音が、いっぺんに耳に入った。


   ◇


 膝が抜けた。


 俺は前へ倒れないように、片手をタイルについた。ついた手のひらが冷たくて、指の先まで力が入らない。


 視界の端が白い。


 俺はそのまま、駅前のタイルに座った。


   ◇


 座ったところで、制服のズボンのことを思い出した。


 タイルは乾いている。乾いていても、砂は付く。母さんは洗濯機を回す前にズボンの尻を見る人で、砂が付いていると、俺ではなく洗濯機のほうに文句を言う。


 前に一度、砂ごと回したことがある。あのときは、槽の底で音が鳴った。鳴った次の日は、蓋を開けたまま干してあった。


 俺は尻の下を確かめたかった。確かめる方法が、今は無い。


 手のひらには、タイルの目地の跡が付いていた。細い線が二本、斜めに入っている。押し当てていた時間のぶんだけ、白くなっていた。


 白いところを親指でこすったら、少し赤くなった。


   ◇


 立っていた人たちが、順に動きだした。


 バスが来て、列が乗った。制服が改札のほうへ歩いていった。携帯を構えていた人は、腕を下ろして、下ろしたことに自分で気づいた顔をしてから、下を向いて歩いていった。


 花屋のこぼした水は、目地の手前で止まったところから、先へは進んでいなかった。


   ◇


「あんた、聞きなさい」


 人形は鞄の中から言った。


(聞いてる)


「今日みたいなのは、いつもより出るの。あんたが上手くなったんじゃないわよ。出る量の話をしてるの」


(出た)


「出たでしょう。それで、止まらなかったでしょう」


(これは、何なんだ)


「知らないわよ」


(知らないのか)


「知らないわ。わたしが見てるのは、あんたの外側だけなの。中で何が起きてるかは、あんたの体しか知らないって、さっき言ったでしょう」


 人形の言い方が、そこだけ速かった。


「だから、面白がるのはやめなさい」


(面白がってない)


「面白がってたわよ、あんた。歌い出すときの顔で、わたしにはわかるの」


(顔は動いてない)


「動いてないわよ。動いてないから、わかるのよ」


   ◇


「いい? 二回言うわよ」


(一回でいい)


「二回言うの。……止めどきを、あんたが決められてないの。それが、いちばん悪いところ」


(決めてた)


「決めてないわよ。一周して、もう一周始めてたのよ、あんた」


 人形は、そこで声を落とした。


 落としてから、また続けた。


「わたしが叫ばなかったら、三周目に行ってたわ」


(三周目で、どうなる)


「知らないって言ったでしょう。知らないから、止めたのよ」


 人形は、そこでもう一度声を大きくした。


「あんた、いい? わたしが叫ぶまで、あんたは止めようとしてなかったの。止められなかったんじゃないの。止めるって考えが、頭に無かったの」


(あった)


「無かったわよ」


(無かったな)


「そうでしょう」


 人形は鞄の中で体の向きを直した。直したはずみで、留め具の金物に台座が当たって、鈍い音がした。


「それとね」


(まだあるのか)


「あんたの体は、いつもと同じことをしただけなの。違うのは、あんたを見てた人の中身だけ」


(中身)


「そう。それだけ。それ以上は、わたしにもわからないわ」


 人形はそこで黙った。


 黙ったのが長かった。


   ◇


 俺は空を見た。


 十二月の五時前で、駅前の街灯はもう点いている。点いているのに、まだ明るい。


 空の低いところだけが赤くて、そこから上は青のままだった。境目のところに雲が一枚あって、下の面だけ色が付いている。


「立てるの」


(立てない)


「じゃあ座ってなさい」


(座ってる)


「そう」


 人形はそれきり口をきかなかった。


 鞄の中で位置を変えたらしく、台座の当たる音が一度した。


   ◇


 十五分くらい、そこにいた。


 そのあいだに、電車が三本着いた。


 さっき止まっていた人の立っていた場所には、今は自転車が停めてある。


   ◇


 駅前の自販機の下の段に、缶コーヒーが二列並んでいた。


 微糖は右の列である。左の列はブラックで、今日も右のほうが減っていた。


 俺は座ったまま、その列を見ていた。買いに行くには、まだ足が足りない。


 自販機の右下の取り出し口に、誰かの空き缶が置いてあった。缶を捨てる箱は自販機の裏側にあって、表からは見えない。


 今日の空き缶は二本で、二本とも同じ銘柄だった。


   ◇


「あんた、今日のことを説明しなさい」


(誰にだ)


「わたしによ」


(人が見てた。点いた)


「ほかには」


(ほかには無い)


「それでいいのよ」


 人形の言い方が、そこで少し変わった。


「それ以上、考えないで。あんたが自分で考え始めると、ろくなことにならないから」


   ◇


 腹が減っている。


 減っているのに、口の中は乾いたままだった。


 冷蔵庫には、水曜の残りがある。水曜は鶏だった。妹は残りものを皿に移し替えない。鍋のまま台所に立って食う。


 俺が帰るころには、鍋は空になっている。空になった鍋は、水を張って流しに置いてある。張ってあるだけで、洗ってはいない。


 なっていても、飯と、卵と、あと何かがあれば足りる。


   ◇


「あんた、明日でしょう」


(何がだ)


「人の前で喋る日」


(明日だ)


「明日は、絶対にやらないでね」


(歌わない)


「歌う歌わないの話じゃないわよ」


 人形は言い直した。


「止まらなくなる話をしてるの」


   ◇


 俺は明日のことを考えた。


 考えたが、思い出せたのは集合が一時半だということと、学校を四限で出るということだけだった。


 弁当が要るのかどうかは、まだ聞いていない。


 一時半に集合して、それから何時間あるのかも聞いていない。途中で腹が減ったときにどうするのかも、まだ聞いていない。


   ◇


 バスがもう一本来た。


 来て、扉が開いて、誰も乗らないで閉まった。運転手の人が、乗り場の柱に貼ってある紙のほうを見て、それからハンドルの上で腕を組んだ。組んで、そのまま発車した。


 次のバスは五分後で、そっちは駅の反対側まで行く。乗り場には誰も立っていなかった。


 小学校のとき、俺は間違えてそっちに乗ったことがある。


   ◇


 街灯の光が、タイルの色の違う列の上だけ、少し白く見えた。


 新しいほうが白く見えるのか、光の当たり方でそう見えるのかは、下から見ていてもわからない。


 目地に溜まった水は、まだ乾いていなかった。


 俺は立った。


 立って、鞄を持ち直した。持ち直したら、口の開いたところから人形の頭が見えたので、押し込んで、留め具を留めた。


 自販機までは十歩だった。


 十歩歩いて、下の段を押した。落ちてきたのは左の列のほうだった。指が右まで届いていなかったらしい。両手で持つと、温かいほうだったので、指の先まで熱が届いた。


「あんた、帰らないの」


(飲んでから帰る)


「……そう」


 俺は缶を持ったまま、もう一度タイルに座った。

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