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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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114/235

第114話 腹が減っていただけです

 ホテルの部屋に、長机が三つ並べてあった。


 三つとも同じ高さのはずなのに、真ん中の一つだけ、天板の合わせ目に紙が挟んである。挟んであるほうの脚が短いらしい。


 紙は四つに畳んであった。角のところが黒く潰れていて、潰れた層が何枚ぶんも重なっている。何度も踏み直された跡だ。


 パイプ椅子は六脚あって、そのうち二脚には誰も座っていなかった。


 俺は、いちばん壁に近いところに座らされた。


 朝の六時に、戸倉さんから電話が来た。寝ていても出ろと言われていたので、出た。用件は、今日の時間と場所だけだった。


   ◇


「高町様、お飲み物はいかがなさいますか」


 ドアのところに、ホテルの人が立っていた。


「水をお願いします」

「かしこまりました」


 その人は下がって、すぐに戻ってきた。戻ってきたときには、蓋の開いていないペットボトルが四本、盆に載っていた。


 盆は木で、縁のところだけ塗りが剥げている。剥げているところに、指を置く位置の跡が付いていた。


 四本のうち一本を、俺の前に置いた。残りの三本は、机の端にまとめて置いた。


 置いたあとで、ラベルの向きを三本とも同じ側へ揃えた。


   ◇


「高町くん」


 戸倉さんが、机の向こうから紙を一枚こちらへ出した。


「これを持っていてください」

「はい」

「読まなくていいです。持っているだけでいいです」

「持ちます」

「膝の上ではなく、手に持ってください。膝の上に置くと、下を向くので」


 戸倉さんは眼鏡をかけていない。かけていないのに、紙を読むときだけ、目を細める癖がある。


   ◇


「もう一度、順番を言います」


 戸倉さんは指を三本立てた。


「一、わたしが状況を説明します。二、高町くんが事実を述べます。三、質疑を十五分。それで終わりです。三十分から四十分で建物を出ます」

「はい」

「事実というのは、あなたが自分の目で見たことだけです。人から聞いた話、あとで知ったこと、思ったこと、これは全部いりません」

「はい」

「言い直します。思い出せないものは、思い出せないと言ってください」

「思い出せません」


 戸倉さんは、そこで指を三本立てたまま止まった。


 止まってから、指を折らずに手を下ろした。


   ◇


 犬飼さんは、机ではなく壁のほうに立っていた。


 立ったまま、上着の内ポケットから箱を出して、机の端に置いた。置いてから、飲まなかった。


「高町」

「はい」

「聞かれたことだけ答えろ」

「はい」

「聞かれてないことは、思いついても言うな」


 犬飼さんは箱を指で押して、机の縁と平行にした。


「それから、謝るな。謝ることが無いからだ」


 犬飼さんは箱から手を離した。


「頭を下げると、下げた絵だけが残る。何について下げたかは残らない」

「はい」

「わかるか」

「絵が残ります」

「そうだ」


   ◇


 部屋にはドアが二つあった。


 一つは会見の部屋につながっていて、もう一つは廊下に出る。廊下側のドアには、内側から回す金色の取っ手が付いていた。


 あの取っ手を回して外へ出ると、エレベーターが左に三つある。下りて、正面玄関を抜けて、大通りを渡ると、駅までは歩いて十分もかからない。


 十分で駅に着けば、四時前には家にいる。


 四時前に帰れば、風呂はまだ誰も使っていない。妹が帰るのは、たいてい六時を回る。


 制服のままエレベーターに乗っても、たぶん、そんなに変ではない。さっき玄関の横を通ったとき、制服の集団が旗を持った人のうしろに並んでいた。ああいう顔をして立っていれば、たぶん、誰にも止められない。


 俺は取っ手を見るのをやめて、水のラベルを見た。


   ◇


「高町さん、上着の裾が椅子の下に入ってます」


 有本さんがタブレットを持ったまま近づいてきて、そう言った。


「入ってますか」

「立ったときに引っかかります」

「はい」

「それと、学校には四限からの公欠で出してあります。先生には、わたしが電話しました」

「なんて言いました」

「所属事務所の都合、と言いました」

「そうですか」

「ほかに言いようがなかったので」


 俺は腰を浮かせて、裾を引き出した。引き出したら、椅子が少し後ろへ動いた。


 動いた音が、部屋の中でやたら大きく聞こえた。


 絨毯の毛が、ドアのほうへ倒れている。倒れているほうへ引いたので、椅子は軽かった。


 俺は元へ引き直した。今度は重かった。


   ◇


 腹が減っていた。


 四限で早退したので、昼を食っていない。教室を出るときに購買の前を通ったが、四限の途中だったので、まだ何も出ていなかった。


 朝は食った。食ったが、朝である。


 有本さんの車の中で、飴を一つもらった。もらったが、飴は飯ではない。


 この部屋には菓子の類が一つも置いていない。長机の上にあるのは、水と、紙と、犬飼さんの箱と、俺の鞄だけだ。


   ◇


 肩越しに、机の上の影が伸びた。


 天井の照明が真上より少し後ろにあるので、長机の端の鞄の影が、天板の上へ伸びる。伸びた影の先に、頭が一つ余分に付いていた。


「あんた、隣の部屋、何人いるの」


(知らない)


「いっぱいいるわよ。音でわかるもの」


(そうか)


「あんた、昨日のこと覚えてる?」


(覚えてる)


「今日は、絶対にやらないでね」


(歌わない)


「そういう話じゃないって、昨日も言ったでしょう」


 人形はそれきり黙った。


 黙ったまま、鞄の中で位置を変えたらしく、留め具のところが一度鳴った。鳴った音は、絨毯に落ちて、そこで終わった。


   ◇


 十五時ちょうどに、隣の部屋のドアが開いた。


 開いた向こうは、明るかった。


 前のほうに机が一つ、その上にマイクが二本。机の向こう側に椅子が三つ。こっち側に、椅子が何列も並んでいる。


 並んでいる椅子は、全部埋まっていた。埋まっていて、いちばん後ろの壁際には、椅子に座れなかった人が立っていた。


 部屋の横の壁に、三脚が並んでいる。三脚のあいだに人が立っていて、その人たちは椅子のほうを見ていない。全員、机のほうだけを見ている。


 天井の照明とは別に、白いライトが二つ立ててあった。そっちのほうが明るい。


   ◇


 俺は真ん中の椅子に座った。


 左に戸倉さん、右に犬飼さんが座った。


 マイクは二本あって、一本が俺の口の高さより上に、もう一本が下にある。上のほうを直そうとしたら、根元のねじが固かった。固かったので、諦めて、顔の位置を下げた。


   ◇


 カメラのシャッターの音は、始まってからずっと止まなかった。


 止まないまま、戸倉さんが喋りだした。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。株式会社ソレイユ、宣伝部の戸倉と申します。十二月五日発売の週刊誌の記事について、弊社所属の高町灯真より、事実関係をご説明いたします」


 戸倉さんの声は、部屋のいちばん後ろまで同じ大きさで届いていた。


   ◇


 戸倉さんは、その先も読んだ。


「記事に掲載された写真については、弊社として確認できていない点が複数ございます。本日は、高町本人が承知している事実のみを申し上げます。憶測についてはお答えいたしかねます」


 誰も何も言わなかった。シャッターだけが鳴っていた。


   ◇


「では、高町から」


 俺はマイクのほうへ顔を寄せた。


「高町灯真です」


 シャッターの音が、そこで一段大きくなった。


「記事の写真に写っているのは、俺です。相手は神楽坂澪さんです。歩きました。車に乗りました。以上です」


 俺は顔を戻した。


   ◇


 部屋が、少しのあいだ動かなかった。


 戸倉さんが横で紙を一枚めくった。めくる音がした。


   ◇


「では、質疑に移ります」


 戸倉さんがそう言うと、前の列の人が手を挙げた。


「高町さん、いま『歩きました』とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」

「覚えていません」

「覚えていない」

「はい」

「記事には夜と書かれていますが」

「夜でした」

「日付は」

「覚えていません」


 前の列の人は、手元のノートに何か書いた。書いてから、顔を上げた。


「日付を覚えていないというのは、事実関係を確認されていないということですか」

「確認していません」

「事務所とも」

「していません」

「それは、どうしてですか」

「聞かれていなかったので」


   ◇


「お二人きりでしたか」

「歩きだしたときは、他にも人がいました」

「途中から二人になった、ということですか」

「途中で、他の人が先に帰りました」

「なぜですか」

「聞いていません」


 後ろのほうの人が、椅子を鳴らして立った。


「事務所には報告されましたか」

「していません」

「していない?」

「はい」


 俺の左で、戸倉さんの手が机の上で止まった。


   ◇


「なぜ報告しなかったんですか」


 俺は考えた。


「報告することだと、思っていませんでした」


 部屋の中で、誰かが息を吸う音がした。


「それは、隠していたということですか」

「隠していません」

「では、なぜ」

「歩いただけなので」


   ◇


「交際されているんですか」


 その質問は、いちばん後ろの列から来た。


「していません」

「今後の可能性は」

「わかりません」

「わからない?」

「先のことは、わからないので」


 俺の右で、犬飼さんが背もたれから背中を離した。離しただけで、何も言わなかった。


「神楽坂さんの側とは、話をされましたか」

「知りません」

「知らない?」

「俺は聞いていません」


 左で、戸倉さんがマイクに手を伸ばした。伸ばして、触る前に引っ込めた。


   ◇


「高町さん」


 真ん中あたりの列から、女の人が手を挙げた。


「記事に、二枚の写真が載っています。どちらも、あなたの表情が変わっていません。あのとき、あなたはどんなお気持ちだったんですか」


 俺は答えた。


「腹が減っていました」


   ◇


 部屋が静かになった。


 シャッターの音が、そこで一度だけ途切れた。途切れて、それからまた鳴りだしたが、鳴り方が前と違っていた。


 戸倉さんが、横で紙を持ち直した。持ち直しただけで、俺のほうは見なかった。


   ◇


「すみません、いまのを、もう少し詳しく」


 その人はそう言った。


「打ち上げのあとでした。俺は食べていませんでした」

「食べていなかった」

「はい。何も出ていなかったので」

「……なるほど」

「歩いているあいだ、そのことを考えていました」


 女の人はペンを持ったまま、手を動かさなかった。


 動かさないまま、少し前へ体を出した。


「それは、記事のことを軽く見ているという意味ですか」

「違います」

「では、どういう意味ですか」

「聞かれたので、答えました」


 その人は座った。座って、それから、ペンのおしりで自分の顎に触れた。


   ◇


 その次の質問は、なかなか来なかった。


 来ないので、俺は水のペットボトルを見た。蓋がまだ閉まっている。開けていいのかどうかがわからないので、開けなかった。


 いま開けたら、たぶん、音が全部に入る。


 マイクは、俺の口から拳一つぶんのところにある。紙をめくる音が入るくらいだから、蓋の音は確実に入る。


 喉は乾いている。乾いているが、あと十分くらいなら、たぶん持つ。


   ◇


 部屋の温度が、始まったときより高くなっていた。


 人が入っている部屋は、時間が経つと暑くなる。窓は無い。あるのは、天井の吹き出し口が四つで、そのうち二つの下にだけ、机が置いてある。


 俺のいるところは、吹き出し口の下ではなかった。


   ◇


「最後に一問」


 前のほうの人が手を挙げた。


「神楽坂さんに、何かおっしゃりたいことは」

「ありません」

「無い?」

「歩いただけなので」


 俺は同じことを二回言った。


 言ってから、一回目と同じ言い方だったかどうかが気になった。気になったが、確かめる方法は無い。


 部屋の後ろで、誰かが小さく笑った。笑った人は、そのあと慌てて咳をした。咳のほうが大きかった。


   ◇


「以上で終わります」


 犬飼さんが立った。


 立って、俺の椅子の背に手をかけた。かけた手で、椅子を引いた。


 俺は立った。立ったら、上着の裾は引っかからなかった。


 立ったところで、シャッターがまた一斉に鳴った。前の列の人が、椅子に座ったまま体をこちらへねじって、レンズを上に向けている。


 俺はドアのほうへ歩いた。歩きながら、椅子の脚をよけた。


   ◇


 控えの部屋に戻ると、机の上のペットボトルが二本に減っていた。


 誰が飲んだのかは、わからない。ラベルの向きは、まだ揃っていた。


 十五時四十分だった。


 隣の部屋からは、まだ音がしていた。椅子を戻す音と、三脚を畳む音と、人の声である。声のほうは、何を言っているかまではわからない。


   ◇


 戸倉さんは壁際で携帯を見ていた。


 見たまま、こっちに背中を向けている。背中の肩のところが、上がって、下がった。


「犬飼さん」

「どうだ」

「半分です」

「半分」

「半分は、誠実だと言っています。もう半分は、冷たいと」


 犬飼さんは机の端の箱を取って、袋を一つちぎった。


 ちぎってから、飲まないで、手のひらに載せたままにした。


   ◇


「冷たいほうは、どこを見て言ってるんだ」

「表情です」

「表情か」

「表情しか見えないので」


 戸倉さんは携帯を伏せて、机に置いた。


 置いてから、初めて俺のほうを見た。


 見たあとで、もう一度携帯を表に返した。返して、画面を上から下へ送った。送る指の速さが、さっきより速くなっていた。


「増えてます」

「どっちがだ」

「両方です」

「向こうは」

「神楽坂さんは、今日は何も出していません。真壁さんも止めていません」

「動かせないか」

「動かせません。あの人がいつ何を出すかは、あの人が決めます」


   ◇


「高町くん」

「なんでしょう」

「さっきの、腹が減っていたというのは、本当ですか」

「本当です」

「作戦ではなく」

「作戦ではないです」


 戸倉さんは、そこでもう一度、指を三本立てた。


 立てて、今度は自分で三本とも折った。


「わたしは、今日のために三日かけて原稿を作りました」

「はい」

「あなたが読まなかったので、あの原稿は使っていません」

「すみません」

「謝らなくていいです。謝るなと言われたでしょう」

「言われました」


 戸倉さんは机の上の携帯を、伏せたまま少し動かした。


「あの原稿には、何が書いてあったんですか」

「読まなくていいと言ったので、言いません」

「はい」


   ◇


 犬飼さんは手のひらの薬を口に入れた。


 入れて、水を飲まないで飲み込んだ。飲み込んでから、机の端に空いた袋を置いた。


「有本、下でパンを買ってこい」


 犬飼さんはそう言って、廊下側のドアのほうを見た。


「甘くないやつだ」

「わかりました」

「二つでいい」

「三つ買います」


 有本さんはタブレットを机に置いて、部屋を出ていった。


   ◇


「高町」

「はい」

「パンが来たら、全部食え」

「三つですか」

「三つだ」


 犬飼さんは、そこで初めて椅子に座った。


 この部屋に入って以来、ずっと壁のほうに立っていた。座ると、背中が椅子の背もたれより高い位置にあった。背もたれの上に、肩が出ている。


 座ってから、両手を膝の上に置いた。置いた手の、片方だけが小刻みに動いていた。動いているのに自分で気づいて、犬飼さんはその手を上着のポケットに入れた。


   ◇


 鞄の影は、さっきより短くなっていた。


「今日は、何ともなかったわね」


(何ともない)


「そう。……ならいいわ」


 人形は、それ以上は何も言わなかった。


 言わないで、鞄の口のところで頭の向きだけを変えた。向けた先には、廊下側のドアの金色の取っ手がある。


   ◇


 俺は、まだ紙を持っていた。


 戸倉さんが渡した一枚である。持っているだけでいいと言われた紙で、一度も開かなかった。


 角が、握っていたところだけ湿っている。


 俺はそれを二つに折って、上着の内ポケットにしまった。

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