第114話 腹が減っていただけです
ホテルの部屋に、長机が三つ並べてあった。
三つとも同じ高さのはずなのに、真ん中の一つだけ、天板の合わせ目に紙が挟んである。挟んであるほうの脚が短いらしい。
紙は四つに畳んであった。角のところが黒く潰れていて、潰れた層が何枚ぶんも重なっている。何度も踏み直された跡だ。
パイプ椅子は六脚あって、そのうち二脚には誰も座っていなかった。
俺は、いちばん壁に近いところに座らされた。
朝の六時に、戸倉さんから電話が来た。寝ていても出ろと言われていたので、出た。用件は、今日の時間と場所だけだった。
◇
「高町様、お飲み物はいかがなさいますか」
ドアのところに、ホテルの人が立っていた。
「水をお願いします」
「かしこまりました」
その人は下がって、すぐに戻ってきた。戻ってきたときには、蓋の開いていないペットボトルが四本、盆に載っていた。
盆は木で、縁のところだけ塗りが剥げている。剥げているところに、指を置く位置の跡が付いていた。
四本のうち一本を、俺の前に置いた。残りの三本は、机の端にまとめて置いた。
置いたあとで、ラベルの向きを三本とも同じ側へ揃えた。
◇
「高町くん」
戸倉さんが、机の向こうから紙を一枚こちらへ出した。
「これを持っていてください」
「はい」
「読まなくていいです。持っているだけでいいです」
「持ちます」
「膝の上ではなく、手に持ってください。膝の上に置くと、下を向くので」
戸倉さんは眼鏡をかけていない。かけていないのに、紙を読むときだけ、目を細める癖がある。
◇
「もう一度、順番を言います」
戸倉さんは指を三本立てた。
「一、わたしが状況を説明します。二、高町くんが事実を述べます。三、質疑を十五分。それで終わりです。三十分から四十分で建物を出ます」
「はい」
「事実というのは、あなたが自分の目で見たことだけです。人から聞いた話、あとで知ったこと、思ったこと、これは全部いりません」
「はい」
「言い直します。思い出せないものは、思い出せないと言ってください」
「思い出せません」
戸倉さんは、そこで指を三本立てたまま止まった。
止まってから、指を折らずに手を下ろした。
◇
犬飼さんは、机ではなく壁のほうに立っていた。
立ったまま、上着の内ポケットから箱を出して、机の端に置いた。置いてから、飲まなかった。
「高町」
「はい」
「聞かれたことだけ答えろ」
「はい」
「聞かれてないことは、思いついても言うな」
犬飼さんは箱を指で押して、机の縁と平行にした。
「それから、謝るな。謝ることが無いからだ」
犬飼さんは箱から手を離した。
「頭を下げると、下げた絵だけが残る。何について下げたかは残らない」
「はい」
「わかるか」
「絵が残ります」
「そうだ」
◇
部屋にはドアが二つあった。
一つは会見の部屋につながっていて、もう一つは廊下に出る。廊下側のドアには、内側から回す金色の取っ手が付いていた。
あの取っ手を回して外へ出ると、エレベーターが左に三つある。下りて、正面玄関を抜けて、大通りを渡ると、駅までは歩いて十分もかからない。
十分で駅に着けば、四時前には家にいる。
四時前に帰れば、風呂はまだ誰も使っていない。妹が帰るのは、たいてい六時を回る。
制服のままエレベーターに乗っても、たぶん、そんなに変ではない。さっき玄関の横を通ったとき、制服の集団が旗を持った人のうしろに並んでいた。ああいう顔をして立っていれば、たぶん、誰にも止められない。
俺は取っ手を見るのをやめて、水のラベルを見た。
◇
「高町さん、上着の裾が椅子の下に入ってます」
有本さんがタブレットを持ったまま近づいてきて、そう言った。
「入ってますか」
「立ったときに引っかかります」
「はい」
「それと、学校には四限からの公欠で出してあります。先生には、わたしが電話しました」
「なんて言いました」
「所属事務所の都合、と言いました」
「そうですか」
「ほかに言いようがなかったので」
俺は腰を浮かせて、裾を引き出した。引き出したら、椅子が少し後ろへ動いた。
動いた音が、部屋の中でやたら大きく聞こえた。
絨毯の毛が、ドアのほうへ倒れている。倒れているほうへ引いたので、椅子は軽かった。
俺は元へ引き直した。今度は重かった。
◇
腹が減っていた。
四限で早退したので、昼を食っていない。教室を出るときに購買の前を通ったが、四限の途中だったので、まだ何も出ていなかった。
朝は食った。食ったが、朝である。
有本さんの車の中で、飴を一つもらった。もらったが、飴は飯ではない。
この部屋には菓子の類が一つも置いていない。長机の上にあるのは、水と、紙と、犬飼さんの箱と、俺の鞄だけだ。
◇
肩越しに、机の上の影が伸びた。
天井の照明が真上より少し後ろにあるので、長机の端の鞄の影が、天板の上へ伸びる。伸びた影の先に、頭が一つ余分に付いていた。
「あんた、隣の部屋、何人いるの」
(知らない)
「いっぱいいるわよ。音でわかるもの」
(そうか)
「あんた、昨日のこと覚えてる?」
(覚えてる)
「今日は、絶対にやらないでね」
(歌わない)
「そういう話じゃないって、昨日も言ったでしょう」
人形はそれきり黙った。
黙ったまま、鞄の中で位置を変えたらしく、留め具のところが一度鳴った。鳴った音は、絨毯に落ちて、そこで終わった。
◇
十五時ちょうどに、隣の部屋のドアが開いた。
開いた向こうは、明るかった。
前のほうに机が一つ、その上にマイクが二本。机の向こう側に椅子が三つ。こっち側に、椅子が何列も並んでいる。
並んでいる椅子は、全部埋まっていた。埋まっていて、いちばん後ろの壁際には、椅子に座れなかった人が立っていた。
部屋の横の壁に、三脚が並んでいる。三脚のあいだに人が立っていて、その人たちは椅子のほうを見ていない。全員、机のほうだけを見ている。
天井の照明とは別に、白いライトが二つ立ててあった。そっちのほうが明るい。
◇
俺は真ん中の椅子に座った。
左に戸倉さん、右に犬飼さんが座った。
マイクは二本あって、一本が俺の口の高さより上に、もう一本が下にある。上のほうを直そうとしたら、根元のねじが固かった。固かったので、諦めて、顔の位置を下げた。
◇
カメラのシャッターの音は、始まってからずっと止まなかった。
止まないまま、戸倉さんが喋りだした。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。株式会社ソレイユ、宣伝部の戸倉と申します。十二月五日発売の週刊誌の記事について、弊社所属の高町灯真より、事実関係をご説明いたします」
戸倉さんの声は、部屋のいちばん後ろまで同じ大きさで届いていた。
◇
戸倉さんは、その先も読んだ。
「記事に掲載された写真については、弊社として確認できていない点が複数ございます。本日は、高町本人が承知している事実のみを申し上げます。憶測についてはお答えいたしかねます」
誰も何も言わなかった。シャッターだけが鳴っていた。
◇
「では、高町から」
俺はマイクのほうへ顔を寄せた。
「高町灯真です」
シャッターの音が、そこで一段大きくなった。
「記事の写真に写っているのは、俺です。相手は神楽坂澪さんです。歩きました。車に乗りました。以上です」
俺は顔を戻した。
◇
部屋が、少しのあいだ動かなかった。
戸倉さんが横で紙を一枚めくった。めくる音がした。
◇
「では、質疑に移ります」
戸倉さんがそう言うと、前の列の人が手を挙げた。
「高町さん、いま『歩きました』とおっしゃいましたが、それはいつのことですか」
「覚えていません」
「覚えていない」
「はい」
「記事には夜と書かれていますが」
「夜でした」
「日付は」
「覚えていません」
前の列の人は、手元のノートに何か書いた。書いてから、顔を上げた。
「日付を覚えていないというのは、事実関係を確認されていないということですか」
「確認していません」
「事務所とも」
「していません」
「それは、どうしてですか」
「聞かれていなかったので」
◇
「お二人きりでしたか」
「歩きだしたときは、他にも人がいました」
「途中から二人になった、ということですか」
「途中で、他の人が先に帰りました」
「なぜですか」
「聞いていません」
後ろのほうの人が、椅子を鳴らして立った。
「事務所には報告されましたか」
「していません」
「していない?」
「はい」
俺の左で、戸倉さんの手が机の上で止まった。
◇
「なぜ報告しなかったんですか」
俺は考えた。
「報告することだと、思っていませんでした」
部屋の中で、誰かが息を吸う音がした。
「それは、隠していたということですか」
「隠していません」
「では、なぜ」
「歩いただけなので」
◇
「交際されているんですか」
その質問は、いちばん後ろの列から来た。
「していません」
「今後の可能性は」
「わかりません」
「わからない?」
「先のことは、わからないので」
俺の右で、犬飼さんが背もたれから背中を離した。離しただけで、何も言わなかった。
「神楽坂さんの側とは、話をされましたか」
「知りません」
「知らない?」
「俺は聞いていません」
左で、戸倉さんがマイクに手を伸ばした。伸ばして、触る前に引っ込めた。
◇
「高町さん」
真ん中あたりの列から、女の人が手を挙げた。
「記事に、二枚の写真が載っています。どちらも、あなたの表情が変わっていません。あのとき、あなたはどんなお気持ちだったんですか」
俺は答えた。
「腹が減っていました」
◇
部屋が静かになった。
シャッターの音が、そこで一度だけ途切れた。途切れて、それからまた鳴りだしたが、鳴り方が前と違っていた。
戸倉さんが、横で紙を持ち直した。持ち直しただけで、俺のほうは見なかった。
◇
「すみません、いまのを、もう少し詳しく」
その人はそう言った。
「打ち上げのあとでした。俺は食べていませんでした」
「食べていなかった」
「はい。何も出ていなかったので」
「……なるほど」
「歩いているあいだ、そのことを考えていました」
女の人はペンを持ったまま、手を動かさなかった。
動かさないまま、少し前へ体を出した。
「それは、記事のことを軽く見ているという意味ですか」
「違います」
「では、どういう意味ですか」
「聞かれたので、答えました」
その人は座った。座って、それから、ペンのおしりで自分の顎に触れた。
◇
その次の質問は、なかなか来なかった。
来ないので、俺は水のペットボトルを見た。蓋がまだ閉まっている。開けていいのかどうかがわからないので、開けなかった。
いま開けたら、たぶん、音が全部に入る。
マイクは、俺の口から拳一つぶんのところにある。紙をめくる音が入るくらいだから、蓋の音は確実に入る。
喉は乾いている。乾いているが、あと十分くらいなら、たぶん持つ。
◇
部屋の温度が、始まったときより高くなっていた。
人が入っている部屋は、時間が経つと暑くなる。窓は無い。あるのは、天井の吹き出し口が四つで、そのうち二つの下にだけ、机が置いてある。
俺のいるところは、吹き出し口の下ではなかった。
◇
「最後に一問」
前のほうの人が手を挙げた。
「神楽坂さんに、何かおっしゃりたいことは」
「ありません」
「無い?」
「歩いただけなので」
俺は同じことを二回言った。
言ってから、一回目と同じ言い方だったかどうかが気になった。気になったが、確かめる方法は無い。
部屋の後ろで、誰かが小さく笑った。笑った人は、そのあと慌てて咳をした。咳のほうが大きかった。
◇
「以上で終わります」
犬飼さんが立った。
立って、俺の椅子の背に手をかけた。かけた手で、椅子を引いた。
俺は立った。立ったら、上着の裾は引っかからなかった。
立ったところで、シャッターがまた一斉に鳴った。前の列の人が、椅子に座ったまま体をこちらへねじって、レンズを上に向けている。
俺はドアのほうへ歩いた。歩きながら、椅子の脚をよけた。
◇
控えの部屋に戻ると、机の上のペットボトルが二本に減っていた。
誰が飲んだのかは、わからない。ラベルの向きは、まだ揃っていた。
十五時四十分だった。
隣の部屋からは、まだ音がしていた。椅子を戻す音と、三脚を畳む音と、人の声である。声のほうは、何を言っているかまではわからない。
◇
戸倉さんは壁際で携帯を見ていた。
見たまま、こっちに背中を向けている。背中の肩のところが、上がって、下がった。
「犬飼さん」
「どうだ」
「半分です」
「半分」
「半分は、誠実だと言っています。もう半分は、冷たいと」
犬飼さんは机の端の箱を取って、袋を一つちぎった。
ちぎってから、飲まないで、手のひらに載せたままにした。
◇
「冷たいほうは、どこを見て言ってるんだ」
「表情です」
「表情か」
「表情しか見えないので」
戸倉さんは携帯を伏せて、机に置いた。
置いてから、初めて俺のほうを見た。
見たあとで、もう一度携帯を表に返した。返して、画面を上から下へ送った。送る指の速さが、さっきより速くなっていた。
「増えてます」
「どっちがだ」
「両方です」
「向こうは」
「神楽坂さんは、今日は何も出していません。真壁さんも止めていません」
「動かせないか」
「動かせません。あの人がいつ何を出すかは、あの人が決めます」
◇
「高町くん」
「なんでしょう」
「さっきの、腹が減っていたというのは、本当ですか」
「本当です」
「作戦ではなく」
「作戦ではないです」
戸倉さんは、そこでもう一度、指を三本立てた。
立てて、今度は自分で三本とも折った。
「わたしは、今日のために三日かけて原稿を作りました」
「はい」
「あなたが読まなかったので、あの原稿は使っていません」
「すみません」
「謝らなくていいです。謝るなと言われたでしょう」
「言われました」
戸倉さんは机の上の携帯を、伏せたまま少し動かした。
「あの原稿には、何が書いてあったんですか」
「読まなくていいと言ったので、言いません」
「はい」
◇
犬飼さんは手のひらの薬を口に入れた。
入れて、水を飲まないで飲み込んだ。飲み込んでから、机の端に空いた袋を置いた。
「有本、下でパンを買ってこい」
犬飼さんはそう言って、廊下側のドアのほうを見た。
「甘くないやつだ」
「わかりました」
「二つでいい」
「三つ買います」
有本さんはタブレットを机に置いて、部屋を出ていった。
◇
「高町」
「はい」
「パンが来たら、全部食え」
「三つですか」
「三つだ」
犬飼さんは、そこで初めて椅子に座った。
この部屋に入って以来、ずっと壁のほうに立っていた。座ると、背中が椅子の背もたれより高い位置にあった。背もたれの上に、肩が出ている。
座ってから、両手を膝の上に置いた。置いた手の、片方だけが小刻みに動いていた。動いているのに自分で気づいて、犬飼さんはその手を上着のポケットに入れた。
◇
鞄の影は、さっきより短くなっていた。
「今日は、何ともなかったわね」
(何ともない)
「そう。……ならいいわ」
人形は、それ以上は何も言わなかった。
言わないで、鞄の口のところで頭の向きだけを変えた。向けた先には、廊下側のドアの金色の取っ手がある。
◇
俺は、まだ紙を持っていた。
戸倉さんが渡した一枚である。持っているだけでいいと言われた紙で、一度も開かなかった。
角が、握っていたところだけ湿っている。
俺はそれを二つに折って、上着の内ポケットにしまった。




