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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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115/235

第115話 大晦日は家にいられるらしい

 四階の廊下は、月曜は床が濡れている。


 掃除の人が土曜の夜に拭いて、日曜のあいだ乾かないのだと、前に受付の人が言っていた。この廊下には日が入らないので、月曜は一日そのままなのだ、とも言っていた。濡れているのは、エレベーターの扉から三歩ぶんのところまでだ。


 俺はその三歩を、短い歩幅で渡った。渡りきったところで、靴の裏がまだ鳴った。


 鳴っているうちは、床がまだ乾いていない。三歩ぶん先まで行くと、鳴らなくなった。


   ◇


「高町さん」


 有本さんが、その三歩の先に立っていた。


 タブレットを持っている。持ち方が、今日は片手だった。


「電話、今日は十二本です」

「十二本ですか」

「はい」

「多いんですか」

「わたしは、数えて言うだけなので」


 有本さんはそれ以上、数のことを言わなかった。


 言わないで、廊下の先のほうを見た。


   ◇


 有本さんの靴は、片方だけ踵の内側が汚れていた。


 汚れているほうが右で、右足だけブレーキを踏む人の汚れ方だ、と前に誰かが言っていた。誰が言ったかは覚えていない。


「昨日、車に乗ってましたか」

「乗ってました」

「日曜ですよ」

「そうですね」


 有本さんはそれだけ言うと、廊下の壁のほうへ半歩寄って、俺に道を空けた。


 空けたわりに、自分は動かなかった。壁に寄ったまま、タブレットの角を親指で撫でている。撫でているうちに、画面が点いた。点いた画面には、表が出ていた。


 表は縦に線が引いてあって、線と線のあいだが、下のほうへ行くほど白い。


 有本さんは画面を伏せた。


   ◇


 四階の廊下の途中で、犬飼さんが立っていた。


 背中がこっちを向いている。壁のほうを向いて、携帯を耳に当てていた。


「はい。はい。わかりました」


 犬飼さんは携帯を下ろした。


 下ろしてから、こっちを向いた。向いたときには、もう歩きだしていた。


   ◇


「高町」

「はい」

「土曜の朝な」

「はい」

「向きが変わってた」


 俺は意味がわからなかった。


「金曜の夜まで、半分は冷たいと言ってた。それが土曜の朝には、誠実だのほうが勝ってた。一晩で入れ替わったんだ」

「そうですか」

「そうですか、で片づけるな。普通は勝てない」

「何かしたんですか」

「うちは何もしてない。夜中に、あの四十分を頭から終わりまで通しで出したところがあった。切らずに全部だ」

「はい」

「切ると、答えだけが並ぶ。通しだと、質問のほうが先に居座る。何を聞かれて何を答えたかを、見た人間が自分で並べ直した」

「はい」

「うちが説明して勝った話じゃない。勝手に確かめられて、勝手にひっくり返っただけだ」


 犬飼さんは廊下の窓のほうを見た。窓の外は隣のビルの壁で、見るものは何も無い。


「それから、木曜の駅前な」

「はい」

「撮られてる。金曜の朝までに、動画が四本上がってた」

「出たんですか」

「出た。戸倉が金曜の六時に君へ電話したのは、半分はそれが理由だ。あの時点じゃ、あっちのほうが厄介だった」

「はい」

「一本は元が消えた。撮った本人が自分で消した。残りは法務が窓口へ入れて、二本下りた」

「下りたんですか」

「下りた。最後の一本は残ってる。残ってるが、伸びてない。翌日の会見が全部持っていったからだ」

「はい」

「一日ずれてたら、下ろしきれてない。運が良かったのか悪かったのか、俺にはわからん」


 犬飼さんは、そこから先は言わなかった。


「で、そこまでは良かった」


   ◇


「『ひな壇ジャック』が飛んだ」


 犬飼さんはそう言った。


「収録は明後日だった。今朝、制作から連絡が来た。今回は見送りたい、と言ってる」

「見送るんですか」

「見送るというのは、来ないという意味だ」

「はい」

「次があるとは言ってない」


 あの番組は、ひな壇の三段目の端が俺の席だった。上がるときに、二段目の人の膝の前を通る。


 俺は自分の鞄の持ち手を握り直した。


 通らなくていいらしい。


   ◇


「代わりは誰か決まってるんですか」

「聞いてない」

「聞かないんですか」

「聞いても、うちの得にならない」


 犬飼さんは携帯を上着の中に戻した。戻すときに、内ポケットの布が引っかかって、二回目で入った。


「向こうは向こうで、明後日の朝までに椅子を一つ埋めなきゃならん。埋めるほうも大変なんだ」

「大変ですか」

「大変だ。俺が向こうなら、今ごろ電話を八本かけてる」


   ◇


「顔に出ないな、君は」

「出ません」

「知ってる」


 犬飼さんは廊下の窓の桟を、指の関節で一度叩いた。叩いてから、その手をポケットに入れた。


 犬飼さんは廊下を先に歩いた。


 歩きながら、上着のポケットに手を入れて、また出した。出した手には何も無かった。


   ◇


 会議室2のドアは、押すと少し引っかかる。


 六人で埋まる部屋である。今日は俺と犬飼さんの二人だけで、椅子が四つ余った。


 机の上には、犬飼さんの箱が置いてあった。ここへ来る前から置いてあったらしく、蓋が開いている。


   ◇


「二つ目だ」


 犬飼さんは椅子を引かずに立ったまま言った。


「CMが差し替えになる。素材の撮り直しじゃない。人が替わる」

「はい」

「飲料じゃないほうだ」

「そっちですか」

「そっちだ」


 犬飼さんはそこで椅子を引いて、座った。


「あれは十二月いっぱい流す予定だった。年明けからは別の人が同じ枠に入る。もう撮ってる」

「早いですね」

「向こうも仕事だ」


   ◇


 俺はそのCMの撮影の日のことを思い出した。


 朝が早くて、現場に着いたら床が全部ビニールで覆われていた。ビニールの上を歩くと音が出る。音が出るので、本番のあいだ、スタッフの人は全員その場から動かなかった。


 昼に出た弁当が、うまかった。


 白い飯の上に、黒い胡麻が二列に振ってあった。二列とも、まっすぐだった。振った人が、そこだけ丁寧だったのだと思う。


 俺は端から食べた。二列は、食い終わりまで残った。


   ◇


「差し替えというのは、俺の映ってるやつを消すんですか」

「消すというか、流さない」

「流さないだけですか」

「流さないだけだ。撮ったものは向こうの持ち物だから、こっちがどうこう言う筋合いはない」

「はい」

「君の出たやつを見たかったら、年内にテレビを点けておけ。年が明けるまでは流れる」


 犬飼さんは椅子の背に体重を戻した。


 戻したところで、椅子の脚が一度だけ鳴った。


   ◇


「三つ目がある」


 犬飼さんは机の上で両手を組んだ。


 組んでから、すぐにほどいた。ほどいた手は、どこにも置かなかった。


「大晦日の生放送だ」

「ミュージックゲートのですか」

「そうだ。降りる」

「降りるんですか」

「降りる」


 犬飼さんは、そこで一度、言葉の速さを落とした。


「五時間四十五分の生放送で、会場はドームだ。うちが出せるのは君だけだった。あの枠の紙に君の名前が載ったのは、今年が最初だ」

「はい」

「その名前が、夏に候補へ入った。それを、いま消してきた」


 部屋の中の空気の音が、急に聞こえるようになった。入口の上の暖房が回っている音である。


 風の向きは変えられない。出ている風は、犬飼さんの側ではなく俺の側へ落ちてきていた。


 俺は膝の上で、指を組んだ。手の置き場が他に無かったので、そうした。


 鞄は膝の横の床に置いてある。床は冷たい。冷たい床に鞄を置くと、あとで背中に当たったときに冷たい。


 俺は鞄を膝の上に上げ直した。


   ◇


「七月に決まった話だ。あれは、うちがずっと取りに行ってた枠だ」


 犬飼さんの声は、そこだけ低くならなかった。


「七月のあの日、俺は君に何て言った」

「覚えてないです」

「そうだろうな」


 犬飼さんは、そこで初めて背中を椅子につけた。


「よかったな、と言った。俺は、あの言葉をあまり使わない」

「使わないんですか」

「使うと、次に使えなくなる」


「局の判断だ。生放送で、五時間以上ある。何かあったときに切れない。だから外す。理屈としては、わかる」

「はい」

「理屈がわかるからといって、腹が立たないわけじゃない」

「はい」

「立ってるのは俺だ。君じゃない」


 犬飼さんは机の木目を指でなぞった。なぞって、途中でやめた。


「うちは、この件で何も間違ってない。会見も出した。事実も出した。それでも枠は消える。消える理由はこっちの中には無いんだ」

「はい」

「わかるか」

「わからないです」

「わからんでいい。わかるようになると、しんどいだけだ」


   ◇


 俺は膝の上の鞄を、少し手前へ引いた。


 大晦日は、十二月三十一日である。


「じゃあ、大晦日は家にいられるんですね」


   ◇


 犬飼さんは、俺の顔を見た。


 見て、それから机のほうを見た。机の上には箱と、犬飼さんの手と、俺の鞄がある。


「高町」

「今、なんて言った」

「家にいられます」

「それだけか」

「あと、紅白の裏をやってる番組を見たことがないです」


 犬飼さんは机の上で手を開いて、閉じた。


 開いて閉じただけで、何も掴まなかった。


「君は、あれがどれくらいの仕事か、わかってないな」

「わかってないです」

「わかってなくていい。わかってたら、さっきの返事は出てこない」

「すみません」

「謝るな。今日はそれで助かってる」


   ◇


「一つ、勘違いするな」


 犬飼さんはそう言った。


 言ってから、机の上の俺の鞄のほうへ顎を向けた。顎を向けただけで、鞄には触らなかった。


「特番は降りてない」

「特番」

「君と鴻上のやつだ。あれは降板じゃない。収録が後ろへずれるだけだ」

「ずれるだけですか」

「ずれるだけだ。局はまだ何も切ってない」

「ケイは知ってますか」

「今朝、俺が言った」

「なんて言ってましたか」

「うるさかった」


 犬飼さんは眉のあたりを親指で押した。押した指を離したところに、赤い跡が残った。


「電話口で二十分喋って、最後に、構成の打ち合わせだけ先にやろうと言ってきた。台本が無いのにやる打ち合わせを、あいつは知らんらしい」

「やるんですか」

「やらん」


 犬飼さんは箱を持ち上げて、振った。


 振ったら、音がしなかった。


   ◇


「空か」


 犬飼さんは箱を机に置いた。


 置いて、上着の内ポケットに手を入れた。入れて、指で探して、一つ出した。


 出したのは袋一つで、箱ではなかった。


   ◇


 ドアが開いて、有本さんが入ってきた。


 入ってきて、タブレットを机に置いた。置いたときに、画面が一度点いて、すぐ暗くなった。


「犬飼さん、予定表を作り直しました」

「見せろ」


 有本さんはタブレットを犬飼さんのほうへ回した。


 回してから、机の縁に指を掛けた。掛けた指の先が白くなっていた。


   ◇


「これは、今週のか」

「今週と、来週です」

「来週も出したのか」

「出しました」

「早いな」

「早く出さないと、書くことがなくなるので」

「有本」

「すみません」

「謝るな。今日、何時に来た」

「七時です」

「帰れ」

「帰りません」

「帰れと言ってるんだ」

「高町さんを送ってから帰ります」

「送るのは駅までだぞ」

「家まで行きます」

「遠回りだろう」

「遠回りですけど、そのほうが早く終わります」


 犬飼さんは、その理屈について何も言わなかった。


 犬飼さんはタブレットの画面を消した。消して、有本さんのほうへ滑らせた。


 有本さんはそこで一度、口を閉じた。


 閉じてから、続きを言った。


「今のは、言わなくていいことでした」


   ◇


 犬飼さんはタブレットを俺のほうへは回さなかった。


 回さないで、自分で二回、画面を上から下へ送った。送ってから、机の上で伏せた。


「有本、これ以上は作らなくていい」

「はい」

「作ると、余計に見えるものがある」


   ◇


 俺は鞄の持ち手を膝の上に載せていた。


 載せているだけで、何も出していない。今日はこの部屋に来る用事しかないので、鞄の中身は朝から動いていない。


 中には、教科書が四冊と、人形が一つと、四つに畳んだ紙が一枚入っている。


 紙は金曜のやつだ。上着の内ポケットに入れて帰って、土曜の朝に鞄へ移した。移したのは、制服を洗濯に出すからで、それ以上の理由は無い。


 母さんは、洗濯機に入れる前にポケットを全部裏返す。裏返して、何か入っていると、洗濯機の前で名前を呼ぶ。土曜の朝に呼ばれるのは、たいてい俺だ。


 部屋の壁は、二枚のままである。土曜に配られたほうの紙は、戸倉さんが会議室の机から三枚まとめて持って出た。貼るなと言われた紙は、そもそも俺のところに残らなかった。


   ◇


 椅子が四つ余っている部屋というのは、思ったより広く感じる。


 犬飼さんの声は、喋り終わったあとで壁から一度返ってきた。返ってきたぶんだけ、部屋が長く感じる。


 俺は椅子の背に手をかけて、少しだけ引いた。引いた音も、返ってきた。


 余った四つの椅子は、全部同じ向きに入れてある。前に使った人が揃えて出ていったのだと思う。揃っているぶん、四つが四つに見えた。


   ◇


「高町」

「はい」

「一つ聞く」

「はい」

「君、今、困ってることはあるか」


 俺は考えた。


 考えて、あった。


「今日、電車がどっちで帰るかです」

「どっちというのは」

「四時台は、桜坂で降りると駅の前を通ります。五時台は、一つ先まで行って歩いて戻ると、通らないで済みます」

「歩くと何分だ」

「十四分です」


 犬飼さんは椅子の背にもたれた。


「十四分歩くほうを選ぶのか」

「まだ決めてないです」

「決めろ」

「はい」


 犬飼さんは天井のほうを見た。見てから、また俺を見た。


「高町、いいか。今週から先、しばらくは駅の前を通らないで済む日が増える」

「そうですか」

「そうだ」

「じゃあ、歩かなくていいですね」

「そうだな」


 犬飼さんは、そこで自分の言い方を止めた。止めて、机の上の袋を持ち直した。


   ◇


 有本さんが横で、机の縁から指を離した。


 離した指の跡が、机の縁に少しだけ残っていた。残ったのは汗で、すぐに消えた。


「高町さん、車で送ります」

「いいんですか」

「そのほうが、わたしの仕事が減ります」


   ◇


 犬飼さんは、俺のほうを見た。


「高町。大晦日は何をするんだ」

「まだ考えてないです」

「そうか」

「たぶん、飯を食ってます」


 犬飼さんは何も言わなかった。


 言わないで、袋の端を歯ではなく指でつまんだ。


   ◇


 俺は鞄を持ち上げた。


 天井の蛍光灯は二列あって、片方の端が切れかかっている。切れかかっているほうの下で、机の上の物の影が薄く二重に出ていた。影の線は、犬飼さんの手の上で一度折れている。


 空いた箱は、影の外にあった。


   ◇


 有本さんが、ドアのところで待っていた。


 待っているあいだ、廊下側の壁の掲示板を見ていた。掲示板には、避難経路の図と、健康診断の日程と、忘れ物の紙が貼ってある。忘れ物の紙は、九月から同じものが貼ったままだ。


 俺は鞄を持って立った。


   ◇


 部屋を出るときに、後ろで音がした。


 振り返ったら、犬飼さんはまだ座っていた。座ったまま、袋を目の高さまで持ち上げていた。


 持ち上げて、そこで止まった。


 止まったまま、袋の表の字を読んでいるように見えた。袋の表に読むところは無い。字は薬の名前と、量だけだ。


 つまんで、ちぎった。

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