第115話 大晦日は家にいられるらしい
四階の廊下は、月曜は床が濡れている。
掃除の人が土曜の夜に拭いて、日曜のあいだ乾かないのだと、前に受付の人が言っていた。この廊下には日が入らないので、月曜は一日そのままなのだ、とも言っていた。濡れているのは、エレベーターの扉から三歩ぶんのところまでだ。
俺はその三歩を、短い歩幅で渡った。渡りきったところで、靴の裏がまだ鳴った。
鳴っているうちは、床がまだ乾いていない。三歩ぶん先まで行くと、鳴らなくなった。
◇
「高町さん」
有本さんが、その三歩の先に立っていた。
タブレットを持っている。持ち方が、今日は片手だった。
「電話、今日は十二本です」
「十二本ですか」
「はい」
「多いんですか」
「わたしは、数えて言うだけなので」
有本さんはそれ以上、数のことを言わなかった。
言わないで、廊下の先のほうを見た。
◇
有本さんの靴は、片方だけ踵の内側が汚れていた。
汚れているほうが右で、右足だけブレーキを踏む人の汚れ方だ、と前に誰かが言っていた。誰が言ったかは覚えていない。
「昨日、車に乗ってましたか」
「乗ってました」
「日曜ですよ」
「そうですね」
有本さんはそれだけ言うと、廊下の壁のほうへ半歩寄って、俺に道を空けた。
空けたわりに、自分は動かなかった。壁に寄ったまま、タブレットの角を親指で撫でている。撫でているうちに、画面が点いた。点いた画面には、表が出ていた。
表は縦に線が引いてあって、線と線のあいだが、下のほうへ行くほど白い。
有本さんは画面を伏せた。
◇
四階の廊下の途中で、犬飼さんが立っていた。
背中がこっちを向いている。壁のほうを向いて、携帯を耳に当てていた。
「はい。はい。わかりました」
犬飼さんは携帯を下ろした。
下ろしてから、こっちを向いた。向いたときには、もう歩きだしていた。
◇
「高町」
「はい」
「土曜の朝な」
「はい」
「向きが変わってた」
俺は意味がわからなかった。
「金曜の夜まで、半分は冷たいと言ってた。それが土曜の朝には、誠実だのほうが勝ってた。一晩で入れ替わったんだ」
「そうですか」
「そうですか、で片づけるな。普通は勝てない」
「何かしたんですか」
「うちは何もしてない。夜中に、あの四十分を頭から終わりまで通しで出したところがあった。切らずに全部だ」
「はい」
「切ると、答えだけが並ぶ。通しだと、質問のほうが先に居座る。何を聞かれて何を答えたかを、見た人間が自分で並べ直した」
「はい」
「うちが説明して勝った話じゃない。勝手に確かめられて、勝手にひっくり返っただけだ」
犬飼さんは廊下の窓のほうを見た。窓の外は隣のビルの壁で、見るものは何も無い。
「それから、木曜の駅前な」
「はい」
「撮られてる。金曜の朝までに、動画が四本上がってた」
「出たんですか」
「出た。戸倉が金曜の六時に君へ電話したのは、半分はそれが理由だ。あの時点じゃ、あっちのほうが厄介だった」
「はい」
「一本は元が消えた。撮った本人が自分で消した。残りは法務が窓口へ入れて、二本下りた」
「下りたんですか」
「下りた。最後の一本は残ってる。残ってるが、伸びてない。翌日の会見が全部持っていったからだ」
「はい」
「一日ずれてたら、下ろしきれてない。運が良かったのか悪かったのか、俺にはわからん」
犬飼さんは、そこから先は言わなかった。
「で、そこまでは良かった」
◇
「『ひな壇ジャック』が飛んだ」
犬飼さんはそう言った。
「収録は明後日だった。今朝、制作から連絡が来た。今回は見送りたい、と言ってる」
「見送るんですか」
「見送るというのは、来ないという意味だ」
「はい」
「次があるとは言ってない」
あの番組は、ひな壇の三段目の端が俺の席だった。上がるときに、二段目の人の膝の前を通る。
俺は自分の鞄の持ち手を握り直した。
通らなくていいらしい。
◇
「代わりは誰か決まってるんですか」
「聞いてない」
「聞かないんですか」
「聞いても、うちの得にならない」
犬飼さんは携帯を上着の中に戻した。戻すときに、内ポケットの布が引っかかって、二回目で入った。
「向こうは向こうで、明後日の朝までに椅子を一つ埋めなきゃならん。埋めるほうも大変なんだ」
「大変ですか」
「大変だ。俺が向こうなら、今ごろ電話を八本かけてる」
◇
「顔に出ないな、君は」
「出ません」
「知ってる」
犬飼さんは廊下の窓の桟を、指の関節で一度叩いた。叩いてから、その手をポケットに入れた。
犬飼さんは廊下を先に歩いた。
歩きながら、上着のポケットに手を入れて、また出した。出した手には何も無かった。
◇
会議室2のドアは、押すと少し引っかかる。
六人で埋まる部屋である。今日は俺と犬飼さんの二人だけで、椅子が四つ余った。
机の上には、犬飼さんの箱が置いてあった。ここへ来る前から置いてあったらしく、蓋が開いている。
◇
「二つ目だ」
犬飼さんは椅子を引かずに立ったまま言った。
「CMが差し替えになる。素材の撮り直しじゃない。人が替わる」
「はい」
「飲料じゃないほうだ」
「そっちですか」
「そっちだ」
犬飼さんはそこで椅子を引いて、座った。
「あれは十二月いっぱい流す予定だった。年明けからは別の人が同じ枠に入る。もう撮ってる」
「早いですね」
「向こうも仕事だ」
◇
俺はそのCMの撮影の日のことを思い出した。
朝が早くて、現場に着いたら床が全部ビニールで覆われていた。ビニールの上を歩くと音が出る。音が出るので、本番のあいだ、スタッフの人は全員その場から動かなかった。
昼に出た弁当が、うまかった。
白い飯の上に、黒い胡麻が二列に振ってあった。二列とも、まっすぐだった。振った人が、そこだけ丁寧だったのだと思う。
俺は端から食べた。二列は、食い終わりまで残った。
◇
「差し替えというのは、俺の映ってるやつを消すんですか」
「消すというか、流さない」
「流さないだけですか」
「流さないだけだ。撮ったものは向こうの持ち物だから、こっちがどうこう言う筋合いはない」
「はい」
「君の出たやつを見たかったら、年内にテレビを点けておけ。年が明けるまでは流れる」
犬飼さんは椅子の背に体重を戻した。
戻したところで、椅子の脚が一度だけ鳴った。
◇
「三つ目がある」
犬飼さんは机の上で両手を組んだ。
組んでから、すぐにほどいた。ほどいた手は、どこにも置かなかった。
「大晦日の生放送だ」
「ミュージックゲートのですか」
「そうだ。降りる」
「降りるんですか」
「降りる」
犬飼さんは、そこで一度、言葉の速さを落とした。
「五時間四十五分の生放送で、会場はドームだ。うちが出せるのは君だけだった。あの枠の紙に君の名前が載ったのは、今年が最初だ」
「はい」
「その名前が、夏に候補へ入った。それを、いま消してきた」
部屋の中の空気の音が、急に聞こえるようになった。入口の上の暖房が回っている音である。
風の向きは変えられない。出ている風は、犬飼さんの側ではなく俺の側へ落ちてきていた。
俺は膝の上で、指を組んだ。手の置き場が他に無かったので、そうした。
鞄は膝の横の床に置いてある。床は冷たい。冷たい床に鞄を置くと、あとで背中に当たったときに冷たい。
俺は鞄を膝の上に上げ直した。
◇
「七月に決まった話だ。あれは、うちがずっと取りに行ってた枠だ」
犬飼さんの声は、そこだけ低くならなかった。
「七月のあの日、俺は君に何て言った」
「覚えてないです」
「そうだろうな」
犬飼さんは、そこで初めて背中を椅子につけた。
「よかったな、と言った。俺は、あの言葉をあまり使わない」
「使わないんですか」
「使うと、次に使えなくなる」
「局の判断だ。生放送で、五時間以上ある。何かあったときに切れない。だから外す。理屈としては、わかる」
「はい」
「理屈がわかるからといって、腹が立たないわけじゃない」
「はい」
「立ってるのは俺だ。君じゃない」
犬飼さんは机の木目を指でなぞった。なぞって、途中でやめた。
「うちは、この件で何も間違ってない。会見も出した。事実も出した。それでも枠は消える。消える理由はこっちの中には無いんだ」
「はい」
「わかるか」
「わからないです」
「わからんでいい。わかるようになると、しんどいだけだ」
◇
俺は膝の上の鞄を、少し手前へ引いた。
大晦日は、十二月三十一日である。
「じゃあ、大晦日は家にいられるんですね」
◇
犬飼さんは、俺の顔を見た。
見て、それから机のほうを見た。机の上には箱と、犬飼さんの手と、俺の鞄がある。
「高町」
「今、なんて言った」
「家にいられます」
「それだけか」
「あと、紅白の裏をやってる番組を見たことがないです」
犬飼さんは机の上で手を開いて、閉じた。
開いて閉じただけで、何も掴まなかった。
「君は、あれがどれくらいの仕事か、わかってないな」
「わかってないです」
「わかってなくていい。わかってたら、さっきの返事は出てこない」
「すみません」
「謝るな。今日はそれで助かってる」
◇
「一つ、勘違いするな」
犬飼さんはそう言った。
言ってから、机の上の俺の鞄のほうへ顎を向けた。顎を向けただけで、鞄には触らなかった。
「特番は降りてない」
「特番」
「君と鴻上のやつだ。あれは降板じゃない。収録が後ろへずれるだけだ」
「ずれるだけですか」
「ずれるだけだ。局はまだ何も切ってない」
「ケイは知ってますか」
「今朝、俺が言った」
「なんて言ってましたか」
「うるさかった」
犬飼さんは眉のあたりを親指で押した。押した指を離したところに、赤い跡が残った。
「電話口で二十分喋って、最後に、構成の打ち合わせだけ先にやろうと言ってきた。台本が無いのにやる打ち合わせを、あいつは知らんらしい」
「やるんですか」
「やらん」
犬飼さんは箱を持ち上げて、振った。
振ったら、音がしなかった。
◇
「空か」
犬飼さんは箱を机に置いた。
置いて、上着の内ポケットに手を入れた。入れて、指で探して、一つ出した。
出したのは袋一つで、箱ではなかった。
◇
ドアが開いて、有本さんが入ってきた。
入ってきて、タブレットを机に置いた。置いたときに、画面が一度点いて、すぐ暗くなった。
「犬飼さん、予定表を作り直しました」
「見せろ」
有本さんはタブレットを犬飼さんのほうへ回した。
回してから、机の縁に指を掛けた。掛けた指の先が白くなっていた。
◇
「これは、今週のか」
「今週と、来週です」
「来週も出したのか」
「出しました」
「早いな」
「早く出さないと、書くことがなくなるので」
「有本」
「すみません」
「謝るな。今日、何時に来た」
「七時です」
「帰れ」
「帰りません」
「帰れと言ってるんだ」
「高町さんを送ってから帰ります」
「送るのは駅までだぞ」
「家まで行きます」
「遠回りだろう」
「遠回りですけど、そのほうが早く終わります」
犬飼さんは、その理屈について何も言わなかった。
犬飼さんはタブレットの画面を消した。消して、有本さんのほうへ滑らせた。
有本さんはそこで一度、口を閉じた。
閉じてから、続きを言った。
「今のは、言わなくていいことでした」
◇
犬飼さんはタブレットを俺のほうへは回さなかった。
回さないで、自分で二回、画面を上から下へ送った。送ってから、机の上で伏せた。
「有本、これ以上は作らなくていい」
「はい」
「作ると、余計に見えるものがある」
◇
俺は鞄の持ち手を膝の上に載せていた。
載せているだけで、何も出していない。今日はこの部屋に来る用事しかないので、鞄の中身は朝から動いていない。
中には、教科書が四冊と、人形が一つと、四つに畳んだ紙が一枚入っている。
紙は金曜のやつだ。上着の内ポケットに入れて帰って、土曜の朝に鞄へ移した。移したのは、制服を洗濯に出すからで、それ以上の理由は無い。
母さんは、洗濯機に入れる前にポケットを全部裏返す。裏返して、何か入っていると、洗濯機の前で名前を呼ぶ。土曜の朝に呼ばれるのは、たいてい俺だ。
部屋の壁は、二枚のままである。土曜に配られたほうの紙は、戸倉さんが会議室の机から三枚まとめて持って出た。貼るなと言われた紙は、そもそも俺のところに残らなかった。
◇
椅子が四つ余っている部屋というのは、思ったより広く感じる。
犬飼さんの声は、喋り終わったあとで壁から一度返ってきた。返ってきたぶんだけ、部屋が長く感じる。
俺は椅子の背に手をかけて、少しだけ引いた。引いた音も、返ってきた。
余った四つの椅子は、全部同じ向きに入れてある。前に使った人が揃えて出ていったのだと思う。揃っているぶん、四つが四つに見えた。
◇
「高町」
「はい」
「一つ聞く」
「はい」
「君、今、困ってることはあるか」
俺は考えた。
考えて、あった。
「今日、電車がどっちで帰るかです」
「どっちというのは」
「四時台は、桜坂で降りると駅の前を通ります。五時台は、一つ先まで行って歩いて戻ると、通らないで済みます」
「歩くと何分だ」
「十四分です」
犬飼さんは椅子の背にもたれた。
「十四分歩くほうを選ぶのか」
「まだ決めてないです」
「決めろ」
「はい」
犬飼さんは天井のほうを見た。見てから、また俺を見た。
「高町、いいか。今週から先、しばらくは駅の前を通らないで済む日が増える」
「そうですか」
「そうだ」
「じゃあ、歩かなくていいですね」
「そうだな」
犬飼さんは、そこで自分の言い方を止めた。止めて、机の上の袋を持ち直した。
◇
有本さんが横で、机の縁から指を離した。
離した指の跡が、机の縁に少しだけ残っていた。残ったのは汗で、すぐに消えた。
「高町さん、車で送ります」
「いいんですか」
「そのほうが、わたしの仕事が減ります」
◇
犬飼さんは、俺のほうを見た。
「高町。大晦日は何をするんだ」
「まだ考えてないです」
「そうか」
「たぶん、飯を食ってます」
犬飼さんは何も言わなかった。
言わないで、袋の端を歯ではなく指でつまんだ。
◇
俺は鞄を持ち上げた。
天井の蛍光灯は二列あって、片方の端が切れかかっている。切れかかっているほうの下で、机の上の物の影が薄く二重に出ていた。影の線は、犬飼さんの手の上で一度折れている。
空いた箱は、影の外にあった。
◇
有本さんが、ドアのところで待っていた。
待っているあいだ、廊下側の壁の掲示板を見ていた。掲示板には、避難経路の図と、健康診断の日程と、忘れ物の紙が貼ってある。忘れ物の紙は、九月から同じものが貼ったままだ。
俺は鞄を持って立った。
◇
部屋を出るときに、後ろで音がした。
振り返ったら、犬飼さんはまだ座っていた。座ったまま、袋を目の高さまで持ち上げていた。
持ち上げて、そこで止まった。
止まったまま、袋の表の字を読んでいるように見えた。袋の表に読むところは無い。字は薬の名前と、量だけだ。
つまんで、ちぎった。




