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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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116/235

第116話 委員長は正面から来る

 教室に入ったら、熊沢が俺の机を拭いていた。


 雑巾を四つに畳んで、天板の手前から向こうへ、一方向に動かしている。動かす途中で一度、雑巾の面を裏返した。


「掃除当番か」

「そうだよ」

「朝からやるのか」

「やるんだよ」


 熊沢は拭き終わって、雑巾を持ったまま自分の席へ戻った。


 自分の机は拭かなかった。


 三班の掃除当番は、朝ではなく昼のあとである。その掃除で机を拭くのは、月に一度の大掃除の日だけだ。


 俺は鞄を机の横に掛けた。掛けたところに、雑巾の水がまだ少し残っていて、天板の端が光っていた。


 黒板の右の端に、先週の消し残りがあった。


 〈12/12(金) 高町 公欠〉


 日付の欄はもう書き替えてあるのに、そこだけ白く残っている。一度消したのを、拭き足りないまま置いたのだと思う。読める程度には残っている。


   ◇


 教室の机は、朝のうちは全部同じ間隔で並んでいる。


 並んでいるはずのものが、俺の机の右だけ、拳一つぶん離れていた。


 右の席の奴は、まだ来ていない。机だけが先に離れている。


 俺は自分の机を右へ寄せた。寄せたら、間隔が揃った。


 揃えたところへ右の席の奴が来て、鞄を置いて、机をまた拳一つぶん右へ動かした。動かすあいだ、こっちは見なかった。


 俺は寄せ直さなかった。二回目は面倒だ。


   ◇


 窓側のいちばん前で、早坂が机の上に鞄を置いたまま立っていた。


 立ったまま、鞄の口を開けたり閉めたりしている。中を探しているようには見えない。


 俺が席に着いたら、早坂は鞄の口を閉めて、座った。


 座ってから、こっちを一度見た。


   ◇


 一限は移動教室だった。


 北校舎の化学室まで、渡り廊下を通る。渡り廊下は屋根があるが横が開いていて、十二月の朝はここがいちばん寒い。


 俺の前を歩いていた三人が、渡り廊下の途中で歩く速さを落とした。


 落として、横に並んだ。並んだら、三人ぶんの幅で廊下が埋まった。


 俺は後ろを歩いた。


 化学室は北校舎の三階で、階段が二つある。手前の階段は狭くて、奥の階段は広い。三人は手前を上がった。


 俺は奥から上がった。奥の階段は化学室の後ろのドアに出る。


 後ろのドアから入ったら、先生がこっちを見た。見て、何も言わなかった。


 前のドアから入った三人のほうが、俺より遅かった。


   ◇


 二限は現代文だった。


 宮坂先生は出席を取らない。取らないで、いきなり教科書のページを言う。


「百四十二ページ。上から六行目」


 俺は開いた。開いたら、百四十二ページの上から六行目に、誰かが線を引いていた。


 俺の教科書だから、引いたのは俺だ。引いた覚えはない。


 線は定規で引いてある。定規を出したということは、その日は真面目にやっていたのだと思う。いつだったかは思い出せない。


   ◇


 宮坂先生は黒板に三つ、四角を書いた。


 書いてから、真ん中の四角の中にだけ字を入れた。左と右は空のまま置いた。


「ここに何が入るかは、今日はやりません」


 誰かが小さく声を出した。


「来週やります。今日埋めてしまうと、来週やることが無くなるので、空けておいてください」


 宮坂先生はチョークを置いて、手を叩いた。粉が出た。


「消さないでください、と書いておきます。日直の人、消さないように」


 先生は四角の下に、小さく字を書いた。書いた字は、四角より薄かった。


   ◇


 二限のあとの休み時間に、後ろのほうで声がした。


「あれ、結婚とかじゃないんでしょ」

「知らねえよ」

「でも写真あるじゃん」

「写真はあるけど」


 声は大きくない。大きくないが、聞こえる大きさだった。


   ◇


「本人がいるところで話すことじゃないと思う」


 早坂だった。


 立ってはいない。座ったまま、後ろを向いて言った。


「別に悪口じゃないって」

「じゃあ、聞こえるように言えばいいのに」

「なんだよそれ」

「聞こえるように言えないんだったら、それは、言わないほうがいいやつだと思う」


 早坂はそれきり前を向いた。


 前を向いてから、机の上の筆箱の位置を直した。直した位置は、直す前とほとんど同じだった。


   ◇


 後ろの声は、そこで止まった。


 止まったあと、椅子を引く音が二つした。二つとも、教室の外へ出ていく方向の音だった。


 早坂はこっちを見なかった。


   ◇


 三限と四限は座っていた。


 三限は英語で、当てられなかった。四限は数学で、当てられて、答えられなかった。宮坂先生ではない先生が「次」と言って、隣の奴に行った。


 隣の奴は答えた。


 俺は座り直した。


 三限の英語の先生は、当てる順番を出席番号でやる。四限の数学の先生は、目が合った奴を当てる。目を合わせなければいいという話ではなく、下を向いている奴を先に当てる。


 今日は下を向いていた。


 机の木目に、前に誰かが彫った字がある。字は三文字で、二文字目までしか読めない。


 俺はそれを見ていた。


 彫ったのは、たぶん去年この席にいた奴だ。彫るには先の硬いものが要る。授業中に彫るには、それを机の上に出しておかないといけない。


 出しておいて、先生に見つからないでいるほうが、答えるより難しい気がした。


   ◇


 昼は購買へ行った。


 四限が終わってから購買までは、南校舎の二階から一階へ下りて、渡り廊下を渡る。渡らないで行く道もあるが、そっちは職員室の前を通る。


 俺は渡り廊下のほうを通った。


 購買の棚は、行った時点で下の段が空だった。上の段に、焼きそばパンが三つ残っていた。


 三つのうち、いちばん手前のを取った。取ったら、後ろの二つが前へ倒れた。倒れたのを直すのは、たぶん購買の人の仕事だが、俺は直した。


「ありがとう」


 購買の人はそう言って、レジの引き出しを閉めた。閉める音が、後ろに並んでいた奴の話し声より大きかった。


   ◇


 教室に戻ったら、黒板の真ん中あたりに字が書いてあった。宮坂先生が書いた四角の、すぐ横だった。


 字は白いチョークで、大きくはない。書いた人は、書くときに背を伸ばしていない。文字の下の線が、右へ行くほど下がっている。


 書いてあるのは、俺の名前と、その横に一言だった。


 〈高丁 しらばっくれんな〉


 俺は読んだ。読んで、そのまま自分の席に着いた。


 町が丁になっている。丁は二画で、町は七画だ。書いた奴は、俺の名字を五画ぶん省いた。


 席から黒板の真ん中までは、机の列を三つ挟んで、斜めに見える位置にある。座ると、前の奴の頭で下半分が隠れた。隠れたのは名前のほうで、一言のほうは見えたままだった。


 隠れているのは下半分だから、丁の縦の線は途中で切れて見える。上の横棒だけが、前の奴の頭の上に残っていた。


 俺は焼きそばパンを出した。


 袋の端は、切れ目のところから開く。開くはずのところが今日は開かなくて、反対の端から開けた。反対から開けると、中身が半分出てくる。


 出てきたぶんから食べた。


 焼きそばパンは、麺のところが端まで入っていない。端の三センチはパンだけになる。パンだけの三センチを先に食うか、後に残すかで、食い終わりの味が変わる。


 今日は先に食った。


   ◇


 昼のあいだ、教室の中は普通だった。


 弁当を開ける音がして、袋を破る音がして、誰かが牛乳のパックの角を切っていた。切った角から吸うと早く飲めるという話を、誰かが毎年している。


 黒板の真ん中の字は、そのままだった。


 誰も消さなかった。


 丁の縦の線は、下の先が跳ねていない。跳ねる手前まで書いて、そこで止めてある。二画目を書き終える前に、書くのをやめたように見えた。


 日直の奴が一度、黒板消しを持って前に出た。出て、宮坂先生が書いた四角の下の字を見て、消さないで戻った。


 真ん中まで手が届く位置にいたのに、そっちは消さなかった。


   ◇


 掃除の時間になった。


 俺の班は三班で、担当は教室と、教室の前の廊下である。机を後ろへ下げて、前半分を掃く。


 机を下げるとき、俺の机だけが後ろで引っかかった。引っかかったのは、後ろの机が斜めに入っていたからだ。俺はそれを直して、自分の机を入れた。


   ◇


 美咲は、黒板の前に立っていた。


 立ったまま、黒板消しを持っている。持っているが、消していない。


 教室の中の全員が、机を下げ終わって、箒を持ったところだった。


「これ、誰が書いたの」


 美咲はそう言った。


   ◇


 誰も答えなかった。


 箒を持った手が止まって、そのあと、床を掃く音が二つだけ続いて、それも止まった。


「今日の昼休みに書いてあったの、みんな見てるわよね」


 美咲は黒板消しを持ったまま、教室のほうを向いていた。


 黒板には背を向けている。字のほうは見ていない。


   ◇


「消してあげようと思ったんだけど」


 美咲は黒板消しを、教卓の上に置いた。


 置いてから、両手を空にした。


「書いた人が消すのが、順番だと思うの」


 美咲は教卓の縁に指を掛けた。


「わたしは、書いた人を怒りたいわけじゃないのよ。これが残ってると、次に入ってくる先生が消すでしょう。それは違うと思う」


 立つ者はいなかった。


 窓の外の渡り廊下を、上履きが走っていく音がした。二人ぶんの音で、途中で止まって、また始まった。


   ◇


 美咲は待った。


 待っているあいだ、腕は組まなかった。組まないで、教卓の横に立っていた。


 俺は丁の二画目のことを考えていた。町なら七画で、あと五画ぶん要る。五画ぶんで何秒浮くのかを、頭の中で数えていた。


 数え終わる前に、窓側の後ろの席の奴が立った。


   ◇


 その奴は黒板のところまで来て、教卓の上の黒板消しを取った。


 取って、真ん中の字を消した。


 一回で消えなかった。二回目で消えた。消したあと、黒板消しをはたきに行くのかどうかで迷って、教卓の上に戻した。


「ありがとう」


 美咲はそう言った。


 言ってから、教室のほうへ向き直った。


「掃除、続けて」


 消した奴は、自分の席のほうへ戻っていった。


 戻る途中で、床に落ちていた誰かの消しゴムを拾って、いちばん近い机の上に置いた。置いたあと、自分の箒を取りに行った。


   ◇


 箒の音が戻ってきた。


 終わったらしい。何が終わったのかは、よくわからない。


 わからないまま、俺は箒を持ち直した。


 俺は前半分を掃いた。掃きながら、さっき机を直した位置を、もう一度足で確かめた。


 教室の前半分は、机を後ろへ寄せると床が広く見える。広く見えるが、掃く面積は変わらない。箒を横に振ると、埃は窓側の壁の下に集まる。


 窓側の壁の下には、去年の文化祭で貼った紙の跡が、まだ四角く残っていた。


 美咲は日誌を開いて、教卓の上で書いていた。


 書いているあいだに、ページのあいだから小さい手帳が出てきて、床に落ちた。


   ◇


 落ちた手帳は、開いて落ちた。


 俺の足のところまでは来なかった。美咲がすぐにしゃがんで、拾って、閉じた。


 閉じるときに、中のページが一瞬だけ見えた。日付が縦に並んでいて、その横に、丸と、丸じゃないものが並んでいた。


 美咲は手帳を制服のポケットに入れた。


「見た?」

「落ちたのを見た」

「そう」


 美咲はそれ以上、何も言わなかった。


 日誌を閉じて、教卓の上で角を揃えて、脇に抱えた。抱えたまま、教室の後ろの掃除ロッカーのほうへ歩いていった。


 歩いていく途中で、机の列を一つだけ直した。直したのは、俺の机ではない。


   ◇


 五限は世界史で、地図が配られた。


 地図は白黒で、川のところだけ線が太い。俺は川に沿って鉛筆を走らせて、走らせ終わったところで、先生が「そこは今日やりません」と言った。


   ◇


 六限は古典だった。


 俺は購買のことを考えていた。


 明日も焼きそばパンだと、二日続けてになる。二日続けると、木曜に食えるものが一つ減る。ただし四限が数学だと、先生が終わりの時間を三分ほど延ばす。三分延びると、選ぶ側ではなく、残ったほうを取る側になる。


 残ったほうを取る側になった木曜に何を食うかを決めるには、水曜の残りを見てからでないと決まらない。


 水曜の残りは、水曜にならないとわからない。


 そこまで考えたところで、チャイムが鳴った。


   ◇


 放課後になった。


 鞄に教科書を入れて、机の中に何も残っていないのを確かめた。確かめたら、プリントが一枚出てきた。三限のやつだった。


 熊沢が、俺の机の横に立っていた。


「お前、今日ずっといたな」

「いた」

「六時間目までいたのは久しぶりじゃねえの」

「久しぶりだ」

「お前さ、さっきの掃除んとき、藤堂が何も言わないで立ってたじゃん。あれ、こえーんだよな。怒鳴られるほうがまだ楽だわ」

「そうか」

「他人事かよ。お前も立ってただろ」

「立ってた」


   ◇


 俺は鞄を持った。


 今日は六時間、座っていた。座っていただけで、何もしていない。


 学校、座ってるだけでいいから楽だな。


   ◇


「なあ、高町」

「なんだ」

「明日も来んの」

「来る」

「そうか」


 熊沢は自分の机の中から雑巾を出して、また四つに畳んだ。


 畳んで、そのまま持っていった。


   ◇


 廊下で早坂とすれ違った。


 早坂は友達と歩いていて、俺のほうは見なかった。すれ違ったあとで、後ろから声が聞こえた。


「え、なんで」

「なんでもない」


 早坂の声だった。


 友達のほうが、階段の手前でもう一度何か言った。今度は聞こえなかった。


 早坂は答えないで、先に階段を下りた。上履きの音が、二段ぶん早くなった。


   ◇


 昇降口で、上履きから靴に履き替えた。


 三年の上履きは、えんじである。えんじは汚れが目立たない。かかとを踏んだ跡だけは、色が変わらなくても形で残る。


 俺のは、右のかかとの内側が潰れていた。


 靴に履き替えて、上履きを袋に入れた。袋の口を結ぶとき、左右の長さが違っていたので、二回結び直した。


 二回目も揃わなかった。揃わないまま、鞄の持ち手に掛けた。


 掛けたら、袋が膝の横で揺れた。歩くたびに当たる。当たる場所は、歩き方を変えると変わる。


   ◇


 昇降口を出たところに、自転車置き場の屋根がある。


 屋根の端から水が落ちていた。朝は降っていない。降っていないのに落ちているのは、屋根の上に溜まったのが遅れて落ちてきているからだ。


 落ちる場所は決まっていて、そこだけ地面の色が濃い。濃いところの縁は白い。白いのは、乾いたときに残るやつだ。


   ◇


 美咲が、自転車を出しているところだった。


 鍵を外して、ハンドルを引いて、前輪を通路のほうへ向けた。向けてから、こっちに気づいた。


「三限のプリント、出してないでしょう」

「出してない」

「机の中から出てきたのを、さっき見たわ」

「出てきた」


 美咲はサドルに手を置いた。置いただけで、乗らなかった。


「明日でいいわ。まとめて出すから、朝のうちに机の上に置いといて」

「わかった」


 美咲は自転車を押して、門のほうへ歩いていった。


 黒板のことは、一言も言わなかった。


   ◇


 外へ出たところで、下校のチャイムが鳴った。

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