第116話 委員長は正面から来る
教室に入ったら、熊沢が俺の机を拭いていた。
雑巾を四つに畳んで、天板の手前から向こうへ、一方向に動かしている。動かす途中で一度、雑巾の面を裏返した。
「掃除当番か」
「そうだよ」
「朝からやるのか」
「やるんだよ」
熊沢は拭き終わって、雑巾を持ったまま自分の席へ戻った。
自分の机は拭かなかった。
三班の掃除当番は、朝ではなく昼のあとである。その掃除で机を拭くのは、月に一度の大掃除の日だけだ。
俺は鞄を机の横に掛けた。掛けたところに、雑巾の水がまだ少し残っていて、天板の端が光っていた。
黒板の右の端に、先週の消し残りがあった。
〈12/12(金) 高町 公欠〉
日付の欄はもう書き替えてあるのに、そこだけ白く残っている。一度消したのを、拭き足りないまま置いたのだと思う。読める程度には残っている。
◇
教室の机は、朝のうちは全部同じ間隔で並んでいる。
並んでいるはずのものが、俺の机の右だけ、拳一つぶん離れていた。
右の席の奴は、まだ来ていない。机だけが先に離れている。
俺は自分の机を右へ寄せた。寄せたら、間隔が揃った。
揃えたところへ右の席の奴が来て、鞄を置いて、机をまた拳一つぶん右へ動かした。動かすあいだ、こっちは見なかった。
俺は寄せ直さなかった。二回目は面倒だ。
◇
窓側のいちばん前で、早坂が机の上に鞄を置いたまま立っていた。
立ったまま、鞄の口を開けたり閉めたりしている。中を探しているようには見えない。
俺が席に着いたら、早坂は鞄の口を閉めて、座った。
座ってから、こっちを一度見た。
◇
一限は移動教室だった。
北校舎の化学室まで、渡り廊下を通る。渡り廊下は屋根があるが横が開いていて、十二月の朝はここがいちばん寒い。
俺の前を歩いていた三人が、渡り廊下の途中で歩く速さを落とした。
落として、横に並んだ。並んだら、三人ぶんの幅で廊下が埋まった。
俺は後ろを歩いた。
化学室は北校舎の三階で、階段が二つある。手前の階段は狭くて、奥の階段は広い。三人は手前を上がった。
俺は奥から上がった。奥の階段は化学室の後ろのドアに出る。
後ろのドアから入ったら、先生がこっちを見た。見て、何も言わなかった。
前のドアから入った三人のほうが、俺より遅かった。
◇
二限は現代文だった。
宮坂先生は出席を取らない。取らないで、いきなり教科書のページを言う。
「百四十二ページ。上から六行目」
俺は開いた。開いたら、百四十二ページの上から六行目に、誰かが線を引いていた。
俺の教科書だから、引いたのは俺だ。引いた覚えはない。
線は定規で引いてある。定規を出したということは、その日は真面目にやっていたのだと思う。いつだったかは思い出せない。
◇
宮坂先生は黒板に三つ、四角を書いた。
書いてから、真ん中の四角の中にだけ字を入れた。左と右は空のまま置いた。
「ここに何が入るかは、今日はやりません」
誰かが小さく声を出した。
「来週やります。今日埋めてしまうと、来週やることが無くなるので、空けておいてください」
宮坂先生はチョークを置いて、手を叩いた。粉が出た。
「消さないでください、と書いておきます。日直の人、消さないように」
先生は四角の下に、小さく字を書いた。書いた字は、四角より薄かった。
◇
二限のあとの休み時間に、後ろのほうで声がした。
「あれ、結婚とかじゃないんでしょ」
「知らねえよ」
「でも写真あるじゃん」
「写真はあるけど」
声は大きくない。大きくないが、聞こえる大きさだった。
◇
「本人がいるところで話すことじゃないと思う」
早坂だった。
立ってはいない。座ったまま、後ろを向いて言った。
「別に悪口じゃないって」
「じゃあ、聞こえるように言えばいいのに」
「なんだよそれ」
「聞こえるように言えないんだったら、それは、言わないほうがいいやつだと思う」
早坂はそれきり前を向いた。
前を向いてから、机の上の筆箱の位置を直した。直した位置は、直す前とほとんど同じだった。
◇
後ろの声は、そこで止まった。
止まったあと、椅子を引く音が二つした。二つとも、教室の外へ出ていく方向の音だった。
早坂はこっちを見なかった。
◇
三限と四限は座っていた。
三限は英語で、当てられなかった。四限は数学で、当てられて、答えられなかった。宮坂先生ではない先生が「次」と言って、隣の奴に行った。
隣の奴は答えた。
俺は座り直した。
三限の英語の先生は、当てる順番を出席番号でやる。四限の数学の先生は、目が合った奴を当てる。目を合わせなければいいという話ではなく、下を向いている奴を先に当てる。
今日は下を向いていた。
机の木目に、前に誰かが彫った字がある。字は三文字で、二文字目までしか読めない。
俺はそれを見ていた。
彫ったのは、たぶん去年この席にいた奴だ。彫るには先の硬いものが要る。授業中に彫るには、それを机の上に出しておかないといけない。
出しておいて、先生に見つからないでいるほうが、答えるより難しい気がした。
◇
昼は購買へ行った。
四限が終わってから購買までは、南校舎の二階から一階へ下りて、渡り廊下を渡る。渡らないで行く道もあるが、そっちは職員室の前を通る。
俺は渡り廊下のほうを通った。
購買の棚は、行った時点で下の段が空だった。上の段に、焼きそばパンが三つ残っていた。
三つのうち、いちばん手前のを取った。取ったら、後ろの二つが前へ倒れた。倒れたのを直すのは、たぶん購買の人の仕事だが、俺は直した。
「ありがとう」
購買の人はそう言って、レジの引き出しを閉めた。閉める音が、後ろに並んでいた奴の話し声より大きかった。
◇
教室に戻ったら、黒板の真ん中あたりに字が書いてあった。宮坂先生が書いた四角の、すぐ横だった。
字は白いチョークで、大きくはない。書いた人は、書くときに背を伸ばしていない。文字の下の線が、右へ行くほど下がっている。
書いてあるのは、俺の名前と、その横に一言だった。
〈高丁 しらばっくれんな〉
俺は読んだ。読んで、そのまま自分の席に着いた。
町が丁になっている。丁は二画で、町は七画だ。書いた奴は、俺の名字を五画ぶん省いた。
席から黒板の真ん中までは、机の列を三つ挟んで、斜めに見える位置にある。座ると、前の奴の頭で下半分が隠れた。隠れたのは名前のほうで、一言のほうは見えたままだった。
隠れているのは下半分だから、丁の縦の線は途中で切れて見える。上の横棒だけが、前の奴の頭の上に残っていた。
俺は焼きそばパンを出した。
袋の端は、切れ目のところから開く。開くはずのところが今日は開かなくて、反対の端から開けた。反対から開けると、中身が半分出てくる。
出てきたぶんから食べた。
焼きそばパンは、麺のところが端まで入っていない。端の三センチはパンだけになる。パンだけの三センチを先に食うか、後に残すかで、食い終わりの味が変わる。
今日は先に食った。
◇
昼のあいだ、教室の中は普通だった。
弁当を開ける音がして、袋を破る音がして、誰かが牛乳のパックの角を切っていた。切った角から吸うと早く飲めるという話を、誰かが毎年している。
黒板の真ん中の字は、そのままだった。
誰も消さなかった。
丁の縦の線は、下の先が跳ねていない。跳ねる手前まで書いて、そこで止めてある。二画目を書き終える前に、書くのをやめたように見えた。
日直の奴が一度、黒板消しを持って前に出た。出て、宮坂先生が書いた四角の下の字を見て、消さないで戻った。
真ん中まで手が届く位置にいたのに、そっちは消さなかった。
◇
掃除の時間になった。
俺の班は三班で、担当は教室と、教室の前の廊下である。机を後ろへ下げて、前半分を掃く。
机を下げるとき、俺の机だけが後ろで引っかかった。引っかかったのは、後ろの机が斜めに入っていたからだ。俺はそれを直して、自分の机を入れた。
◇
美咲は、黒板の前に立っていた。
立ったまま、黒板消しを持っている。持っているが、消していない。
教室の中の全員が、机を下げ終わって、箒を持ったところだった。
「これ、誰が書いたの」
美咲はそう言った。
◇
誰も答えなかった。
箒を持った手が止まって、そのあと、床を掃く音が二つだけ続いて、それも止まった。
「今日の昼休みに書いてあったの、みんな見てるわよね」
美咲は黒板消しを持ったまま、教室のほうを向いていた。
黒板には背を向けている。字のほうは見ていない。
◇
「消してあげようと思ったんだけど」
美咲は黒板消しを、教卓の上に置いた。
置いてから、両手を空にした。
「書いた人が消すのが、順番だと思うの」
美咲は教卓の縁に指を掛けた。
「わたしは、書いた人を怒りたいわけじゃないのよ。これが残ってると、次に入ってくる先生が消すでしょう。それは違うと思う」
立つ者はいなかった。
窓の外の渡り廊下を、上履きが走っていく音がした。二人ぶんの音で、途中で止まって、また始まった。
◇
美咲は待った。
待っているあいだ、腕は組まなかった。組まないで、教卓の横に立っていた。
俺は丁の二画目のことを考えていた。町なら七画で、あと五画ぶん要る。五画ぶんで何秒浮くのかを、頭の中で数えていた。
数え終わる前に、窓側の後ろの席の奴が立った。
◇
その奴は黒板のところまで来て、教卓の上の黒板消しを取った。
取って、真ん中の字を消した。
一回で消えなかった。二回目で消えた。消したあと、黒板消しをはたきに行くのかどうかで迷って、教卓の上に戻した。
「ありがとう」
美咲はそう言った。
言ってから、教室のほうへ向き直った。
「掃除、続けて」
消した奴は、自分の席のほうへ戻っていった。
戻る途中で、床に落ちていた誰かの消しゴムを拾って、いちばん近い机の上に置いた。置いたあと、自分の箒を取りに行った。
◇
箒の音が戻ってきた。
終わったらしい。何が終わったのかは、よくわからない。
わからないまま、俺は箒を持ち直した。
俺は前半分を掃いた。掃きながら、さっき机を直した位置を、もう一度足で確かめた。
教室の前半分は、机を後ろへ寄せると床が広く見える。広く見えるが、掃く面積は変わらない。箒を横に振ると、埃は窓側の壁の下に集まる。
窓側の壁の下には、去年の文化祭で貼った紙の跡が、まだ四角く残っていた。
美咲は日誌を開いて、教卓の上で書いていた。
書いているあいだに、ページのあいだから小さい手帳が出てきて、床に落ちた。
◇
落ちた手帳は、開いて落ちた。
俺の足のところまでは来なかった。美咲がすぐにしゃがんで、拾って、閉じた。
閉じるときに、中のページが一瞬だけ見えた。日付が縦に並んでいて、その横に、丸と、丸じゃないものが並んでいた。
美咲は手帳を制服のポケットに入れた。
「見た?」
「落ちたのを見た」
「そう」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
日誌を閉じて、教卓の上で角を揃えて、脇に抱えた。抱えたまま、教室の後ろの掃除ロッカーのほうへ歩いていった。
歩いていく途中で、机の列を一つだけ直した。直したのは、俺の机ではない。
◇
五限は世界史で、地図が配られた。
地図は白黒で、川のところだけ線が太い。俺は川に沿って鉛筆を走らせて、走らせ終わったところで、先生が「そこは今日やりません」と言った。
◇
六限は古典だった。
俺は購買のことを考えていた。
明日も焼きそばパンだと、二日続けてになる。二日続けると、木曜に食えるものが一つ減る。ただし四限が数学だと、先生が終わりの時間を三分ほど延ばす。三分延びると、選ぶ側ではなく、残ったほうを取る側になる。
残ったほうを取る側になった木曜に何を食うかを決めるには、水曜の残りを見てからでないと決まらない。
水曜の残りは、水曜にならないとわからない。
そこまで考えたところで、チャイムが鳴った。
◇
放課後になった。
鞄に教科書を入れて、机の中に何も残っていないのを確かめた。確かめたら、プリントが一枚出てきた。三限のやつだった。
熊沢が、俺の机の横に立っていた。
「お前、今日ずっといたな」
「いた」
「六時間目までいたのは久しぶりじゃねえの」
「久しぶりだ」
「お前さ、さっきの掃除んとき、藤堂が何も言わないで立ってたじゃん。あれ、こえーんだよな。怒鳴られるほうがまだ楽だわ」
「そうか」
「他人事かよ。お前も立ってただろ」
「立ってた」
◇
俺は鞄を持った。
今日は六時間、座っていた。座っていただけで、何もしていない。
学校、座ってるだけでいいから楽だな。
◇
「なあ、高町」
「なんだ」
「明日も来んの」
「来る」
「そうか」
熊沢は自分の机の中から雑巾を出して、また四つに畳んだ。
畳んで、そのまま持っていった。
◇
廊下で早坂とすれ違った。
早坂は友達と歩いていて、俺のほうは見なかった。すれ違ったあとで、後ろから声が聞こえた。
「え、なんで」
「なんでもない」
早坂の声だった。
友達のほうが、階段の手前でもう一度何か言った。今度は聞こえなかった。
早坂は答えないで、先に階段を下りた。上履きの音が、二段ぶん早くなった。
◇
昇降口で、上履きから靴に履き替えた。
三年の上履きは、えんじである。えんじは汚れが目立たない。かかとを踏んだ跡だけは、色が変わらなくても形で残る。
俺のは、右のかかとの内側が潰れていた。
靴に履き替えて、上履きを袋に入れた。袋の口を結ぶとき、左右の長さが違っていたので、二回結び直した。
二回目も揃わなかった。揃わないまま、鞄の持ち手に掛けた。
掛けたら、袋が膝の横で揺れた。歩くたびに当たる。当たる場所は、歩き方を変えると変わる。
◇
昇降口を出たところに、自転車置き場の屋根がある。
屋根の端から水が落ちていた。朝は降っていない。降っていないのに落ちているのは、屋根の上に溜まったのが遅れて落ちてきているからだ。
落ちる場所は決まっていて、そこだけ地面の色が濃い。濃いところの縁は白い。白いのは、乾いたときに残るやつだ。
◇
美咲が、自転車を出しているところだった。
鍵を外して、ハンドルを引いて、前輪を通路のほうへ向けた。向けてから、こっちに気づいた。
「三限のプリント、出してないでしょう」
「出してない」
「机の中から出てきたのを、さっき見たわ」
「出てきた」
美咲はサドルに手を置いた。置いただけで、乗らなかった。
「明日でいいわ。まとめて出すから、朝のうちに机の上に置いといて」
「わかった」
美咲は自転車を押して、門のほうへ歩いていった。
黒板のことは、一言も言わなかった。
◇
外へ出たところで、下校のチャイムが鳴った。




