第117話 澪さんが会見した日、みかんを四つ食べた
ちゃぶ台の上のざるに、みかんが十個あった。
数えたのは、他にすることが無かったからだ。
学校は午前で終わった。今週は水曜だけ午後が空く。時間割の紙にそう書いてあって、空いたぶんは、そのまま俺の時間になった。
飯は家で食った。台所の皿に、昨日の煮物が半分残っていた。そのまた半分を食って、残りは冷蔵庫に戻した。戻すときに、ラップを新しいのに替えた。替えなくてもよかったが、元のが破れていた。
ちゃぶ台の向こうにテレビがある。その前に座布団が四枚積んであって、俺は一枚だけ引き抜いた。
抜いたのは上から二枚目である。いちばん上のは日に焼けていて、色が違う。
残りの三枚は積んだままにした。崩すと、あとで母さんが積み直す。
ちゃぶ台は角が一か所欠けていた。欠けたのは俺が小学生のときで、何をして欠けたのかについて、母さんの説と俺の説がある。去年、妹の前で両方を並べたら、妹はどちらも採らなかった。
みかんを一つ取って、皮に爪を入れた。
◇
テレビは母さんが点けた。
母さんは台所と茶の間を行ったり来たりしている。濡れた布巾を持ったまま、テレビの前で二回止まった。
「これ、今からやるやつ?」
「知らん」
「二時からって書いてある」
画面の下に、白い帯が出ていた。字は太くて、右から左へ流れていく。一周して、また同じ字が来た。
〈このあと2時 神楽坂澪さん 会見〉
◇
一つ目のみかんは甘かった。
筋を取るのが面倒なので、俺は取らないで食った。取らないほうが早い。取った日と取らなかった日で、味の違いを感じたことはなかった。
膝の上に皮が一つ乗った。乗せたところで、母さんが後ろを通った。
「あんた、その皮、ざるに入れなさいよ」
「入れると混ざる」
「混ざったって食べるでしょ」
「食う」
「じゃあ同じじゃないの」
俺は皮を膝の上に置いたままにした。
母さんは布巾で、テレビの上の埃を一度だけ拭いた。拭いたのは右半分で、左半分はそのままだった。
◇
時計は台所の柱に掛かっている。
柱の時計は二分進んでいる。テレビの右上の数字と二分ずれていた。母さんは柱のほうを見て時間を言い、妹はテレビのほうを見て言う。今朝も、二人が別々の時刻を言っていた。
柱のほうが二時になった。
テレビのほうは、まだ一時五十八分だった。
二分待った。
待っているあいだ、母さんは洗濯物を持ってきて、ちゃぶ台の横で畳み始めた。タオルが六枚あった。
六枚のうち、四枚は同じ色で、二枚だけ濃い。濃いほうが父さんのやつだ。母さんは濃いのを下にして、その上に薄いのを積んだ。
積み終わる前に、画面が切り替わった。
白い壁の部屋が映った。
長机が一つあって、机の上にマイクが二本立っている。壁には何も貼っていない。紙も、社名も、花も無い。机には布も掛かっていなくて、脚のパイプがそのまま見えていた。
部屋の後ろのほうで、シャッターの音が始まった。始まってから、止まらなかった。
◇
先に入ってきたのは、澪さんではなかった。
黒いスーツの人が一人、机の横まで来て、そこで頭を下げた。下げてから、まっすぐ立った。
真壁さんだった。
真壁さんは澪さんの担当で、同じ事務所の四階にいる。話したことはない。廊下ですれ違うのを何度か見ただけだ。すれ違うときは、いつも書類を脇に挟んでいた。
真壁さんは、澪さんより先に頭を下げていた。
◇
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
真壁さんはそう言った。
「はじめに本人から話をします。そのあと、質問をお受けします」
言い終わって、机の横へ二歩下がった。
下がった位置は、カメラの端にぎりぎり入るところだった。
◇
澪さんが入ってきた。
白いシャツで、髪は下ろしていない。机の前まで来て、椅子を引いて、座った。
座ってから、マイクの首を自分で下げた。
下げるときに、右手の親指の付け根が白くなった。二本目のマイクの角度も、同じ手で直した。
誰も手伝わなかった。手を出そうとした人もいなかった。
◇
「神楽坂澪です」
澪さんはそう言った。
「先日出た記事について、話します」
俺はみかんの二つ目を取った。
二つ目は、一つ目より皮が厚かった。厚いほうが剥きやすい。
◇
「写真の一枚目は、私です」
澪さんは前を見ている。
「一緒に歩きました。それだけです」
シャッターの音が一段大きくなった。大きくなって、また戻った。
「二枚目も、私です。同じ車に乗りました。運転していたのは、うちの社の人間です」
◇
あの部屋は寒そうだった。
白い壁の部屋で、澪さんは上着を着ていない。シャツの袖は肘まで下りていて、めくってはいない。後ろの窓には、何も掛かっていなかった。
昼を食っているのかどうかは、画面ではわからない。
◇
「深夜という表現がありましたが」
前の列の人が言った。
「時間は何時ごろでしたか」
「覚えている範囲では、九時前です」
あれは九時前だ。
◇
「では、記事の内容は事実だと」
「歩いたのも、乗ったのも事実です」
「交際については」
「していません」
「否定される、ということでよろしいですか」
「はい」
澪さんは、そのあと何も足さなかった。
足さないので、質問した人が次の紙をめくる音が入った。めくる音のあとで、また別の人が手を挙げた。
◇
母さんが茶の間の入口で止まった。
「この子、痩せたわねえ」
「そうか」
「顔ちっちゃい。あんた、こういう子と並んでたの」
「並んでない」
「並んでるって書いてあったわよ、駅の広告に」
「歩いてただけだ」
「歩いたら並ぶでしょうが」
母さんはタオルを一枚持ったまま喋っていて、喋り終わってから畳んだ。
◇
「相手の男性については、いかがですか」
誰かが言った。
「相手の方のことは、私が話すことじゃありません」
「事実関係だけでも」
「私が歩いたことは、さっき言いました。それ以上は、私の話じゃないので」
「一言もいただけないと」
「はい」
◇
同じ質問が、言い方を変えてもう一度来た。
澪さんは、前と同じ長さで同じことを言った。長さも、間も、ほとんど変わらなかった。
三度目は来なかった。
代わりに、部屋の後ろで椅子の脚が鳴った。誰かが座り直した音だった。
◇
みかんの皮が、剥いた覚えのない形で置いてあった。
ちゃぶ台の端である。俺の皮は膝の上に二つあって、そのどちらとも形が違う。五枚に分かれていて、五枚とも先が細い。
「あの子、瞬きが増えてるわよ」
人形は皿の横に座っていた。
(いつからいた)
「最初から」
(俺は座布団を一枚しか出してない)
「わたし、座布団はいらないの」
◇
「あんたのところは、あの部屋を借りてないのね」
(借りてない)
「借りてたら、あの子の後ろに人が立つのよ。壁の前に、横に並んで立つの。誰も立ってないわ」
画面の中で、澪さんの後ろには白い壁しか無かった。
真壁さんは机の横に立っている。立ったまま、動かない。
◇
「事務所を通した会見でしょうか」
後ろのほうの人が言った。
「今日は、私が決めました」
「事務所の了解は」
「取っていません」
部屋の音が、一拍だけ止まった。
止まって、そのあとシャッターだけがまた鳴った。鳴り方が、さっきまでと変わっていた。速くなって、間が無くなった。
◇
真壁さんは、腹のあたりに手を当てた。
当てて、すぐ下ろした。下ろしてから、机の上の紙を一枚ずらした。ずらした紙は、もともと真っ直ぐだった。
ずらしたあとで、指を紙の縁に置いたままにしていた。置いたままの指が、二回だけ動いた。
「あの人、痛いわね」
(どこがだ)
「見てればわかるわよ。あの立ち方は、あとで自分が喋る番だと思ってる人の立ち方だわ」
◇
「押さえてるところが低いわね」
(低いとどうなる)
「知らないわよ。わたしは胃を悪くしたことがないの」
人形は皿の横で足を組み替えた。
組み替えて、そのまま画面のほうを向いた。
「さっきの、同じ質問に同じ答えをしたでしょう」
(した)
「あれ、疲れるのよ。同じことを二回言うのは、違うことを二回言うより力がいるの。省くところが無いから」
(省かないとどうなる)
「声が下がるわ。あの子、二回目のほうが低かった」
◇
膝の上の皮は、二つになっていた。二つとも、白いほうを上にして重ねてある。
「あんた、三つ目食べる気?」
(食う)
「二つでやめておきなさい。夕飯が入らないわよ」
俺は三つ目を取った。
◇
台所へ麦茶を取りに立った。
冷蔵庫の扉には紙が三枚貼ってある。回覧板の当番と、ガスの点検の日と、いちばん下に妹が描いた俺の似顔絵。似顔絵の口は線が一本で、目が点二つだ。
麦茶のポットは扉の内側にある。注いだら、三分の一しか残らなかった。俺は水道の水を足して、扉に戻した。
戻すときに、いちばん下の紙の端がまた挟まった。
◇
茶の間に戻ったら、画面はまだ同じ部屋を映していた。
シャッターの音は続いている。続いているが、さっきより間があいていた。
「あんた、麦茶うすいでしょう、それ」
母さんはこっちを見ないで言った。
「うすい」
「足したのね」
「足した」
「足すなら粉から作りなさいよ。うすいの飲んで、うすいって言ってるだけじゃないの」
◇
「では、これ以上の取材はどうされますか」
また別の人が言った。
「受けます」
「事務所を通さずに、ですか」
「今日のことは、私が事務所に言います。その先は、私が決めることじゃありません」
真壁さんが机の横で、一度だけこちらを向いた。
向いたのはカメラのほうで、目は下がっていた。
◇
「あと二問でお願いします」
真壁さんが言った。
言ったあとで、手のひらを下に向けて、部屋の後ろのほうへ二度動かした。動かし方が、静かにしてくださいの形ではなかった。順番に、という形だった。
◇
「最後に、一つだけ言います」
澪さんは机の上で両手を組んだ。組んでから、また離した。
「私は、自分がやったことを言いに来ました。誰かのために来たんじゃありません。ここに書いてあることのうち、本当のことは本当だと、私が言わないといけないと思ったので、来ました」
◇
澪さんは立ち上がった。
立ち上がって、頭を下げた。下げている時間が、真壁さんより長かった。
顔を上げて、椅子を机の下に入れてから、出ていった。
椅子は、入れた位置がまっすぐだった。
真壁さんは、そのあとも机の横に立っていた。立って、もう一度深く頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。
◇
画面がスタジオに戻った。
机の前に人が四人並んでいて、一人ずつ喋り始めた。喋っている人の後ろで、さっきの会見の映像がもう一度流れている。
流れているのは、マイクを下げるところだった。
同じところが、三回流れた。
四人の一人が、事務所を通していない、と二回言った。二回目のときは、言い方をゆっくりにしていた。
その横の人は、机の上の紙をずっと見ていた。見ながら頷いていて、頷く前に紙を見る順番になっていた。
母さんはテレビのほうを見ないで、タオルの端をそろえていた。
「この人たち、さっきの見てないの?」
「見てただろ」
「見てたのに、また同じの見せてるじゃない」
◇
「二本とも、自分で直したわね」
(直してた)
「あれ、普通は誰かがやるのよ。やる人がいなかったのか、やらせなかったのか、どっちかだわ」
(どっちだ)
「知らないわよ。わたし、あの部屋にいないもの」
人形は皿の横で膝を抱えた。
抱えて、それきり画面のほうを見なかった。
◇
俺は膝の上の皮を集めた。
三つぶんある。三つとも形が違って、最初のが大きい。大きいのは、途中で切れなかったからだ。
集めて、ちゃぶ台の端に置いた。置いたら、さっきからそこにあったやつと並んだ。
並んだ四つのうち、五枚に分かれているのは一つだけだった。
白いところを上にすると、どれも同じ色に見える。裏返すと、四つとも違う色になる。俺は全部を白いほうにそろえてから、また元に戻した。
◇
母さんは洗濯物を持って立ち上がった。
「あんた、これ二階に置いてきて」
「どっちの」
「上の二枚があんたの」
「下は」
「下はお父さんの。触らないで」
俺は上の二枚だけ取って、廊下の柱のところに置いた。二階には上がらなかった。
置いたところは、階段の上がり口の右側だ。そこに置くと、次に二階へ行くやつが持って上がる。持って上がるのは妹だ。
「あんた、それ置いただけでしょう」
「あとで持っていく」
「その『あとで』、去年から三回聞いてるわよ」
「今年は違う」
「今年も三回目よ」
◇
台所で、母さんが段ボールを開ける音がした。
みかんの箱は台所の隅にある。上の段を取ると、下の段が見える。下の段のほうが小さい。
「あんた、こっちの小さいの、甘いわよ」
「そっちを先に出せ」
「先に出すと、大きいのが残るじゃない」
「残っても食う」
「残ったら、あんた最後に嫌な顔するでしょうが」
「しない」
「顔に出ないだけでしょ」
◇
母さんは箱の蓋を閉めた。
閉めてから、蓋の上に手を置いて、少しのあいだそのままにしていた。
「あ、そうだ。犬飼さんから電話あったわよ」
「いつ」
「お昼前。あんたが帰る前」
「なんて」
「明日、事務所に来てくれって。二時だって」
「わかった」
「怒ってなかったわよ、声は」
「そうか」
「あの人、うちに電話するとき、必ず名乗ってから咳払いするの。今日は咳払いのほうが先だった」
「順番が違うのか」
「違うわよ。十回聞いてるんだから、あたし」
母さんは蓋の上の手を下ろした。
下ろして、箱を壁のほうへ十センチ押した。押したぶん、通り道が広くなった。
◇
俺はざるから、もう一つ取った。
爪を入れて、上から下へむいた。皮は四枚に分かれた。四枚とも、膝の上に置いた。
ざるに残ったのは五つだった。
テレビは、もう別の話をしていた。




