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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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118/235

第118話 人生最大の休暇

 机の上に、湯呑みが二つ置いてあった。


 両方とも湯気が出ていない。俺のぶんは、たぶん俺が入ってくる前から置いてある。


 犬飼さんは向かいに座っていた。背中は椅子から離れている。座ったまま、両足の裏が床についていた。


 机の上に、薬の箱は出ていなかった。出ていないので、ポケットに入っている。


 窓は無い。四階の会議室2に窓は無くて、明るさは天井の蛍光灯だけである。


 蛍光灯は二本並んでいて、右のほうが少し暗い。暗いほうの下に俺が座っている。


   ◇


 この部屋は六人で埋まる。


 この前は八人入った。八人入ると、二人が壁際に立つことになって、立った人が座っている人の後ろで書類をめくる音がずっとしていた。


 今日は二人だ。


 二人だと、椅子が四つ余る。余った椅子は机の下に入ったままで、誰も引いていない。


 湯呑みが空になったら、たぶん帰れる。


 俺はそう思って、犬飼さんの湯呑みを見た。


 中身は減っていなかった。


   ◇


「高町」

「はい」

「しばらく休め」


 犬飼さんは、それだけ先に言った。


 言って、机の上で手を組んだ。組んでから、また離した。


「返事は」

「はい」

「早い」

「はい」


   ◇


「順番に言う」


 犬飼さんは指を一本立てた。


「一つ、記事の件で、まだ外に人がいる。うちのビルの下と、局の裏と、たぶん君の学校の前だ。学校の前は、こっちが先に頼んで下がってもらった」

「はい」

「学校は行け。そこは変わらない」

「はい」

「行かないと、行かないことが記事になる。高校生が学校に行っているというのは、いちばん強い」


 俺は湯呑みを持った。


 中身は熱くなかった。


 持ったが、飲まないで置いた。置いたら、犬飼さんが自分の湯呑みを一センチだけ動かした。動かした先は、さっきと同じ場所に見えた。


   ◇


「二つ」


 指が二本になった。


「今週飛んだぶんの穴埋めが要る。穴埋めは、飛んだ本人がやると、埋まらないで広がる」

「はい」

「広がるっていうのは、話が続くってことだ。君が出るたびに、記事の話が一緒に出る」

「出ますか」

「出る。番組は君を呼びたいんじゃない。あの話をしたいんだ。今のところはな」

「今のところですか」

「そうだ」


   ◇


「三つ」


 指が三本になった。


「年末は編成が動かない。動かない時期に無理に押し込むと、押し込んだこと自体が次の記事になる」

「はい」

「年明けまで、うちは何もしない。何もしないというのは、方針だ。手が無いんじゃない」


 犬飼さんはそこで、机の木目のほうを見た。


 見て、また顔を上げた。


「一年前なら、俺は逆をやった。出せるだけ出して、上から潰す。それでうまくいった子も見てるし、それで消えた子も見てる」

「はい」

「今回は、こっちだ」


   ◇


 犬飼さんは指を戻した。


 戻して、湯呑みに手を伸ばして、持ち上げないで置いたままにした。


「四つ目は、うちの都合だ」

「はい」

「決めたのは社長だ。俺が上げた案は、これじゃなかった」

「違ったんですか」

「違った」

「どう違ったんですか」

「言わない。通らなかった案の話をすると、通った案が軽くなる」


   ◇


「社長は何て言ったんですか」

「休ませろ、と言った」

「他には」

「正月は家にいさせろ、と」


 俺は湯呑みを置いた。


 置いた場所が、さっきより机の縁に寄った。


   ◇


「聞くことはあるか」

「あります」

「言え」

「特番は」

「あれは飛んでない。収録が後ろにずれただけだ。日はまだ決まってない」


   ◇


「ケイには言ってあるんですか」

「今朝、言った」

「なんて言ってましたか」

「うるさかった」


 犬飼さんはそこで一度、目を閉じた。閉じて、すぐ開けた。


「あいつは大丈夫だ。あいつのぶんは減ってない」

「そうですか」

「あいつのぶんが減ってないことを、あいつが気にしてる。そっちのほうが面倒だ」


   ◇


「妹さんは」

「妹ですか」

「家で何か言ってるか」

「言ってません」


 犬飼さんは椅子の背に手を掛けた。掛けて、そのまま何も言わなかった。


「言ってないのか」

「言ってません」

「そうか」


   ◇


「レッスンは」

「止める。年明けに組み直す」

「事務所は」

「来なくていい」


   ◇


 来なくていい、と言われた。


 俺は椅子の背に背中をつけた。つけたら、椅子が少し後ろへ動いた。動いた先で止まった。


 止まったところで、天井の蛍光灯が視界の真ん中に入った。暗いほうの一本だ。


「いま、どこを見てた」


 犬飼さんは、机の上で指を止めた。


「蛍光灯です」

「聞いてるのはそこじゃない。嫌なのか、そうでもないのか、どっちだ」

「そうでもないです」

「そうか」


 犬飼さんは机の上で指を一度そろえた。


 そろえて、崩した。


「そうでもない、で済む人間が、この仕事に向いてるのか向いてないのか、俺には分からん」


   ◇


「飯は」

「なんだ」

「休みのあいだ、飯はどうなりますか」

「家で食え」

「わかりました」


 犬飼さんは口を開けて、閉じた。


 閉じてから、もう一度開けた。


「今の質問は、いつからのぶんの話だ」

「今日の夜からです」

「今日の夜は、もともと家だ」

「そうでした」


 犬飼さんは天井のほうを見た。


 見て、下ろした。下ろしたときに、椅子が一度鳴った。


   ◇


「休みっていうのは、どのくらいですか」

「しばらくだ」

「しばらくは、どのくらいですか」

「決めてない」

「決めてないんですか」

「決めると、そこが期限になる。期限を作ると、期限のほうが仕事をする」


   ◇


 犬飼さんは机の縁に指を掛けた。


 掛けて、そのまま一度だけ引いた。机は動かなかった。動かなかったので、指を離した。


「高町」

「はい」

「困ることは」

「ありません」

「本当か」

「はい」


   ◇


「学校の課題は、期限内に出せ」

「出します」

「宮坂先生に、こっちから話は通した」

「はい」

「先生は、芸能の話を一秒も聞かないで、出席日数と課題の期限だけ確認して切った」


 あの人はそうだ。


「休みのあいだ、何をする」

「わかりません」

「何もしないのか」

「たぶん、何かはします」

「何を」

「まだ決めてないです」


 犬飼さんは、そこで少し黙った。


「決めなくていい」

「はい」

「決めると、それが予定になる。予定になると、休みじゃなくなる」

「わかりました」

「何か言うことはあるか」

「人生最大の休暇です」

「そうか」

「今までいちばん長かったのは、小六の夏です」

「それより長いかどうかは、俺にも分からん」


   ◇


「あと、電話には出ろ。俺からのだけでいい」

「はい」

「知らない番号は出るな。出ると、出たことが答えになる」

「わかりました」

「その返事、いつも同じ速さで来るな」


   ◇


「あと、外は普通に歩いていい」

「歩いていいんですか」

「歩くなとは言ってない。人の多いところで立ち止まるな、とだけ言っておく」

「立ち止まらなければいいんですか」

「立ち止まると、そこが現場になる」

「わかりました」

「コンビニは行っていい。駅も通っていい。人が丸くなったら、そこから出ろ」

「丸くなったら」

「囲まれるってことだ。囲まれる前は、丸くなりかけてる」


   ◇


 俺はそれを聞きながら、冷蔵庫の煮物のことを考えていた。


 一昨日から少しずつ減っていて、いまは皿の底に四切れ残っている。四切れを今夜で全部にするか、二切れ残すかは、まだ決めていない。


 考えている途中で、犬飼さんがこっちを見ていた。


「聞いてるか」

「聞いてます」

「何の話をしてた」

「囲まれる話です」

「合ってる」


   ◇


 犬飼さんは椅子を引いた。


 引いて、立たなかった。引いたまま、机の上の湯呑みを二つとも自分のほうへ寄せた。


 寄せてから、片方を俺のほうへ戻した。


「飲め」

「はい」


   ◇


 俺は飲んだ。


 ぬるい茶だった。ぬるいので、一気に飲めた。


 飲み終わったら、犬飼さんは自分のには手を付けないで立ち上がった。


 立ち上がるときに、椅子を音の出ない引き方で引いた。


 犬飼さんは、ドアの手前で止まった。


「一つ、こっちの言い方を足しておく」


「休めというのは、うちが君に出した仕事だ。休むのが今日からの仕事で、それ以外は何もしなくていい」

「はい」

「今のところ、うちでいちばん楽な仕事を、君に出した」


   ◇


「もう一つある」


 犬飼さんはドアのノブに手を掛けたまま、回さないでいた。


「今日のこれを、俺が言うのがいちばん楽な形だ。社長が言えば会社の話になるし、九条さんが言えば契約の話になる。俺が言えば、担当が担当に言っただけで済む」

「はい」

「楽なほうを選んだのは俺だ。そこは、覚えておかなくていい」

「はい」

「覚えておかなくていいというのは、忘れろという意味じゃない」


   ◇


 ドアが開いた。


 廊下は会議室より少し寒い。犬飼さんは先に出て、俺が出るのを待ってから、ドアを閉めた。


 閉めるとき、ノブを回したまま戻していた。音を出さない閉め方だった。


   ◇


「エレベーターは使え。階段は上りにくいだろ」

「下りです」

「そうだったな」


 犬飼さんは廊下の壁のほうへ一歩寄った。


 寄って、また戻った。廊下の幅は変わっていない。


「一階の自販機、動いてるか」

「たぶん」

「二段目の右のほうだ」

「知ってます」


 犬飼さんはボタンを押した。


 押してから、押したことを確かめるみたいに、もう一度同じところを見た。ランプは点いていた。


「高町、鞄」

「あります」

「肩から落ちてる」


 俺は鞄を掛け直した。


 掛け直したら、犬飼さんはもう自分の部屋のほうを向いていた。向いてから、一度こっちへ戻した。


「年末年始、家にいろ。それだけだ」

「はい」

「それだけって言ったのは、それだけしか言うことが無いからじゃない」


 エレベーターの扉が開いた。


 開いたので、俺は乗った。乗ってから閉まるまでのあいだ、犬飼さんは廊下に立ったままだった。


   ◇


 エレベーターは一階で開いた。


 受付の前を通った。受付の人は電話をしていて、こっちを見ないで、片手だけ挙げた。挙げた手は、そのまま下ろされた。


 奥に自販機がある。並びは三台で、いちばん右が缶で、真ん中がペットボトルで、左は紙コップだ。紙コップのやつには、取り出し口に埃が溜まっていた。


 缶のほうの、上から二段目に微糖がある。


 二段目の右から三つ目だ。左の二つはブラックで、その右が無糖で、そこから先が微糖になる。


   ◇


 有本さんが通った。


 封筒を三通持っていて、持ち方が指のあいだに一通ずつだった。


「高町さん、四階は終わりました?」

「終わりました」

「そうですか」


 有本さんは封筒を持ち直した。


   ◇


「犬飼さん、昨日も遅くまでいましたよ」


 有本さんはそう言った。


「何時ごろですか」

「わたしが帰るときにいて、朝来たら、同じ椅子にいました」

「そうですか」

「上着が、椅子の背にかかってなかったので」

「かかってないと、どうなんですか」

「着たままだったってことです」


 有本さんは封筒の順番を入れ替えた。


 入れ替えて、こっちを見た。


「わたしが言ったって、言わないでください」

「言いません」

「そうしてください」


 有本さんはエレベーターのほうへ歩いていった。歩きながら、封筒の一通を脇へ持ち替えた。


   ◇


 俺は自販機の前に立った。


 微糖のボタンの下に、〈つめたい〉の赤い字が点いている。隣のブラックにも同じ字が点いていて、その隣の無糖のは、字が消えていた。


 消えているやつは売り切れである。


 補充の人は水曜の朝に来る。今日は木曜だから、一日ぶんしか減っていない。それでも一つ売り切れている。


 売り切れているのが無糖なのは、無糖を飲む人がここにいるということだ。誰かは知らない。


 一段目はお茶で、三段目はしること、コーンスープと、あと一つは字が擦れて読めない。読めないやつの下に〈あたたかい〉が点いている。


   ◇


 小銭を入れて、微糖のボタンを押した。


 落ちてきた。取り出し口に手を入れて、取った。缶は冷たかった。


 もう一度、小銭を入れた。同じボタンを押した。


 二本目が落ちた。


 二本とも鞄に入れた。


 入れたら、鞄の中で缶と缶が一度ぶつかった。ぶつかった音がしたので、あいだに教科書を一冊はさんだ。


 はさんだら、鞄の口が閉まらなくなった。


 俺は缶を一本だけ出して、上着のポケットに入れた。


 ポケットに入れたほうは、右側だ。右のポケットには財布も入っていて、缶を入れると財布が斜めになる。


 斜めになったので、財布を左へ移した。移したら、左のポケットが厚くなった。厚いほうを下にして歩くと、歩き方が変わる。


 俺は缶のほうを左に移した。


 移してから、右の缶と左の缶で重さが違うことに気がついた。同じ大きさで、同じ中身で、片方に財布が乗っているだけだ。


 乗っているだけである。


   ◇


 ロビーのガラスの外に、車が一台停まっていた。


 白いバンで、後ろのドアが開いている。中から段ボールを出している人がいて、台車の上に三つ積んであった。


 宅配の人だった。今日は本当に宅配の人だ。


 台車の車輪が、歩道の継ぎ目で一度引っかかった。引っかかったところで、人が台車を少し持ち上げた。持ち上げた高さは、指二本ぶんくらいだった。


 持ち上げたあと、そのまま押していった。


   ◇


 自動ドアの前で、受付の人が電話を切った。


「高町くん、お疲れさま」

「お疲れさまです」

「今日、早いのね」

「はい」

「よかった。早い日は早く帰りなさいよ」

「帰ります」

「傘、持ってる?」

「持ってません」

「今日は降らないわよ。明日は降るけど」

「明日ですか」

「わたし、洗濯物で分かるの」


 受付の人は、また電話を取った。取りながら、こっちに一度だけ手を挙げた。


 挙げた手は、さっきと同じ高さだった。


   ◇


 エレベーターのランプを見た。


 四のところで止まっていた。止まったまま、下りてこなかった。


 俺はビルを出た。


 外はまだ明るかった。向かいの車道を、白い車が二台続けて走っていった。二台目は、一台目より少し遅い。


 歩道の縁に、落ち葉が寄せて集めてある。集めた山は三つあって、いちばん手前のが崩れかけていた。


 ポケットの缶は、まだ冷たかった。

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