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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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119/235

第119話 十一時間寝た

 玄関の傘立てから、骨の折れているほうを取った。


 黒いのが二本ある。折れていないほうは、もう無かった。父さんが先に出たからだ。


 折れているのは、開くと右の端が下がる。下がった端から水が落ちて、その水が右の靴に当たる。右の靴は甲のところが擦れていて、そこだけ先に濡れる。


 俺はそのまま歩いた。


   ◇


 教室に入ったのは、八時二十分だった。


 窓が全部閉まっている。閉まっているのに、いちばん前の窓だけ、下のほうが曇っていなかった。


 俺の席は窓際の後ろから二番目だ。椅子を引いて、鞄を横の掛けるところに掛けた。


 机の上に、細い線が一本残っていた。


 水の線である。まだ乾いていない。


 俺は袖で一度こすった。こすったら消えた。


 袖のほうに、水が残った。残ったのは指一本ぶんの長さで、乾くまでに一時間目が終わった。


   ◇


「高町、傘」


 熊沢が後ろから言った。


「持ってる」

「開くのかそれ」

「開く」

「骨、出てんだけど」

「出てても開く」


 熊沢は自分の傘を教室の後ろの壁に立てかけていた。立てかけたやつが、一度倒れた。


 倒れたのを起こして、また同じところに立てかけた。


「なあ高町、お前、冬休み何すんの」

「知らん」

「知らんことある?」

「ある」

「うちの姉ちゃんがさ、二十九日から三日まで店の手伝いに来いって言ってて、断る理由を考えてんだけど、断ると正月に飯が出ないんだよ。飯が出ないってのは物理的に出ないってことな」

「出ないのか」

「出ない。姉ちゃん、そういうとこ本気だから」


   ◇


 熊沢は自分の机の上に肘を置いた。


「お前んち、正月なんかやんの」

「食う」

「何を」

「その日にあるやつを」

「それ、正月じゃなくても言えるだろ」


 熊沢は肘を置いたまま、窓のほうを見た。


 見て、すぐに戻した。


   ◇


 黒板の右端に、何も書いていなかった。


 昨日の日付だけが左に残っていて、それも半分消えている。日直が消し忘れたところだ。


 俺は自分の席から、黒板の右端を見た。


 白いままだった。


 一時間目は現代文だった。


 宮坂先生は教科書を持たないで教室に入ってきた。入ってきて、教卓の上で開いた。開いたページは、一発で合っていた。


「じゃあ、九十四ページの三行目から。……高町くん」

「はい」


 俺は立った。


   ◇


 三十人が、こっちを向いた。


 向いた人と、向かないで教科書を見ている人がいる。宮坂先生は黒板のほうを向いていた。


 音は遠のかなかった。


 俺は九十四ページの三行目から読んだ。八行読んで、宮坂先生が「そこまで」と言ったので、座った。


 座るときに、椅子が一度鳴った。鳴ったので、前の席のやつが半分だけ振り返った。


   ◇


「高町くん、そこ、句点で切らないで読んで」

「はい」

「切ると、次の文の主語が変わったように聞こえるの。この人の書き方は、切れ目が息のところと合ってないから、読むと必ずそこでつまずくのよ」

「はい」

「わかった?」

「わかりました」


 わかっていない。


 宮坂先生は教科書のページを指で押さえたまま、次の人を当てた。


 押さえた指は、当て終わるまで動かなかった。


   ◇


 二時間目は数学だった。


 当てられなかった。三時間目も当てられなかった。三時間目は世界史で、宮坂先生の授業より黒板の字が小さい。


 小さい字を写していると、途中で行が一つ飛ぶ。飛んだところは、あとから熊沢のを見せてもらう。熊沢のも一つ飛んでいる。


 飛んでいる場所は、毎回違う。


   ◇


 四時間目は体育だった。


 雨なので、体育館だった。体育館は三年が二クラス入っていて、半分がバレーで、半分が卓球だ。俺はバレーのほうにいた。


 サーブが二回回ってきて、二回とも入った。入ったが、そのあと誰も俺のところへ返してこなかった。


 返ってこないのは、前にいる人の背が高いからだ。高いところで全部止まる。


   ◇


「高町、動いてないだろ」


 熊沢が同じコートにいた。


「動いてる」

「一歩も動いてないって。俺、ずっと見てたぞ」

「返ってこない」

「返ってこないところに立ってるからだろ」

「そこに立てって言われた」

「誰に」

「最初に並んだとき、前の人が指さした」


   ◇


 昼になった。


 金曜は六時間ある。行けるのは、この一回だけだ。


 俺は四時間目が終わってすぐ体育館を出た。教室で体操着を鞄に押し込んで、そのまま廊下へ出た。出たところで、ドアの前に人が二人立ち話をしていて、抜けるのに数秒かかった。


 数秒が、こういうときは効く。


   ◇


 ――購買の列の最後尾で、順番だけを待っている背中に見えたはずだが、そのとき頭にあったのは、棚に何が残っているかということだけだった。


 列は角を曲がっていた。曲がった先が見えないので、あと何人いるかは分からない。分からないまま、俺は前の人の背中を見ていた。


 前の人は一年で、上履きが緑だった。


 棚に残っていたのは、上の段の惣菜パンが一つと、袋に入った蒸しパンが四つだった。


 惣菜パンを取ろうとしたら、横から手が伸びてきて、先に取っていった。


 俺は蒸しパンを二つ取った。


 蒸しパンは、食べると口の中の水が全部なくなる。なくなるのを知っていて、俺は二つ取った。


   ◇


 教室で食った。


 一つ目で口の中の水が無くなって、二つ目に入る前に水道へ行った。廊下の水道は三つ並んでいて、真ん中のだけ勢いが強い。強いのは知っているので、真ん中を使った。


 使ったら、袖が濡れた。


 濡れた袖のまま戻ったら、熊沢が俺の机の横に立っていた。立って、蒸しパンの袋を見ていた。


「それ、二個いくの」

「いく」

「それ、俺は一個で足りるんだよな。腹の話じゃなくて、口の中の話な」

「わかる」

「わかんのかよ」


   ◇


 教室に戻る途中の廊下で、美咲とすれ違った。


「高町くん、掃除の時間だけ北校舎の側を通って。渡り廊下の屋根、業者が入ってるから」

「わかった」

「わかったって言った?」

「言った」

「あなた、わかったって言うときと、聞いてないときの顔が同じなの。だから二回聞くの」

「聞いてた」


 美咲は上履きの向きを変えて、階段のほうへ行った。


 行く途中で、廊下の掲示物の端を指で押さえて直していた。直したのは一枚だけで、その隣の曲がっているのは触らなかった。


   ◇


 廊下の突き当たりの窓から、外が見えた。


 雨は朝より細くなっている。細くなったが、止んではいない。校庭の白い線が、真ん中のところだけ消えていた。


 消えているところは、たぶん水が溜まっている。


 溜まっているところに、鳥が二羽下りていた。下りて、片方がすぐ飛んだ。残ったほうは、しばらくそこにいた。


   ◇


 掃除の時間に、北校舎の側を通った。


 北校舎の廊下は、南校舎より二度くらい寒い。壁に化学室の札が出ていて、札の下に〈使用中〉の札を掛けるところがある。掛かっていなかった。


 工事は、渡り廊下の屋根のところだった。


 人が二人、脚立に乗っている。乗っているだけで、何もしていなかった。


 下に一人いて、その人は上の二人に何か言っていた。言っているあいだ、上の二人は下を見なかった。


 俺は箒を持ったまま、二回だけ同じところを掃いた。掃いても、そこには何も無かった。


 北校舎の掃除に来ていたのは四人だった。四人で廊下を端から端まで受け持って、俺の持ち場は柱二本ぶんあった。それだけあっても、掃くものが出てこなかった。


   ◇


 六時間目が終わった。


 鞄を持って、傘を持って、廊下へ出た。廊下の窓が一つ開いていて、そこだけ床が濡れている。


 濡れているところを、誰かがモップで拭いていた。


 拭いている人の背中は見えたが、俺は左から出たので、そのまま階段へ行った。


   ◇


 校門を出た。


 雨は上がりかけていた。傘を差したまま歩くか、畳んで持つかで、右の靴の濡れ方が変わる。


 俺は差したまま歩いた。差したまま歩くと、骨の折れているほうから水が落ちる。畳んで持つと、袋がないので鞄が濡れる。


 どっちにしても濡れる。


 校門の外の電柱に、貼り紙がしてあった。前からある猫のやつだ。写真のところが色あせていて、白い猫が灰色になっている。


 その下に、新しい紙が一枚足されていた。〈見つかりました〉と書いてある。


   ◇


 駅までの道は、途中でパン屋の前を通る。


 パン屋の前は歩道が狭い。狭いところに、店の看板が出ている。看板は毎日出ていて、雨の日はビニールが掛かる。


 今日は掛かっていた。ビニールの上に水が溜まっていて、溜まったところが真ん中で少しへこんでいる。


   ◇


 その先の角に、自転車が三台停めてある。


 三台とも同じ向きで、いちばん手前のだけ鍵が掛かっていない。掛かっていないのは、鍵の輪が下りていないので外から分かる。


 俺は通り過ぎた。


 通り過ぎて、十メートルくらい行ったところで、後ろから誰かが自転車に乗って追い越していった。さっきの手前のやつだったかどうかは、振り返らなかったので分からない。


   ◇


 電車は、この時間にしては空いていた。


 座って、鞄を膝の上に置いた。置いたら、中で缶が動く音がした。


 昨日の缶である。一本はポケットに入れて、一本は鞄に入れた。両方とも、まだ飲んでいない。


 俺は鞄の中に手を入れて、缶の向きを直した。


   ◇


 桜坂の駅で降りた。


 改札を出たところで、雨が止んだ。止んだので、傘を畳んだ。畳んだら、骨の折れているところが引っかかって、一度で閉まらなかった。


 二回目で閉まった。


   ◇


 家に着いたのは、四時二十分だった。


 台所に誰もいなかった。冷蔵庫に紙が貼ってあって、〈遅くなる ごはん炊いてある〉と書いてある。母さんの字だ。


 紙は磁石で留めてある。磁石は野菜の形をしていて、全部で五つあった。今日は四つしか見当たらない。


 炊飯器の蓋を開けた。炊いてあった。


 保温のランプが点いている。点いているので、何時から炊いてあるかは分からない。


 俺は閉めた。


   ◇


 二階へ上がった。


 階段の途中の一段は、踏むと鳴り方が短い。今日は踏んだ。踏んで、そのまま上がった。


 廊下の突き当たりの籠に、洗濯物が入っていた。上の二枚が俺のやつだ。一昨日、俺が階段の下に置いたままにしたやつで、誰かが上げたらしい。


 俺は二枚とも持って、自分の部屋のドアを開けた。


   ◇


 布団の端が、めくれていた。


 朝、畳んだ覚えはない。畳んでいないので、めくれているのが端だけというのがおかしい。


「あんた、濡れてるわよ」


 人形は机の右奥にいた。


「知ってる」

「靴下」

「濡れてる」

「脱ぎなさい」


   ◇


 俺は靴下を脱いだ。


 脱いだやつを、丸めないで床に置いた。丸めると乾かない。


「その置き方、あとで踏むわよ」

「踏まない」

「踏むわ。あんた、部屋の中で足元を見ないもの」

「見てる」

「見てる人は、鞄を毎回同じところに置くのよ。置く場所が決まってる人は、床の空いてるところの形も決まってるの。あんたのは毎日違うわ」

「違わない」

「じゃあ今、鞄はどこ」


 鞄は、ドアの前に置いてあった。


 俺は鞄を横へ寄せた。


 寄せて、中から缶を出した。缶は冷たくなくなっていた。


 上着の左のポケットにも、もう一本入っている。俺はそっちも出した。出したほうは、まだ少し冷たかった。


「それ、飲まないの」

「飲まない」

「二本あるわね」

「ある」

「一本は誰かにあげるの」

「決めてない」

「二本とも同じ味なのね」

「同じだ」

「違うのを買えばいいじゃないの。二本目に違うのを買う人は、一本目を飲む前から二本目のことを考えてるのよ」

「考えてない」

「知ってるわ。だから同じなんでしょう」


   ◇


 人形は台座の上で足を組んだ。


「今日、何かあったの」

「なかった」

「学校は」

「あった」

「そういうことを聞いてるんじゃないのよ。わたしが聞いてるのは、あんたが今日どこかで足を止めたかどうかの話」

「止めてない」

「そう」

「傘のところで一回止まった」

「それは足じゃなくて手でしょう」


 俺は缶を机の上に置いた。


 置いた場所は、教科書の横だ。教科書は四冊積んである。積んだいちばん上のが、今日使わなかったやつだった。


   ◇


 窓の外が暗くなり始めていた。


 この時期は、五時前に暗くなる。暗くなり方が早いので、電気を点ける前に部屋の色が一段落ちる。


 落ちたところで、机の上の缶の字が読めなくなった。読めなくなったが、どっちが微糖かは分かっている。二本とも微糖だからだ。


   ◇


 壁に紙が二枚貼ってある。


 左が九月の一枚で、右が十一月の一枚だ。画鋲は右に四つ、左に二つ入っている。


 右の紙のいちばん下の行は、字が太い。


 俺は下から見ないで、立ったまま見た。立って見ると、太い行が上の行と同じ濃さに見える。


   ◇


「あんた、飯は」

「あとで食う」

「炊いてあるって書いてあったでしょう」

「炊いてあった」

「じゃあ食べなさいよ。ごはんだけ炊いてある家の子は、上に乗せるものを自分で決められる。あれは贅沢よ」

「乗せるものが無い」

「無いなら、卵でも割りなさい」

「卵は昨日で終わった」


   ◇


 俺は制服のまま布団に横になった。


 着替えるつもりはあった。あったが、靴下を脱いだところで一回止まって、そこから先の順番を組み直していなかった。


 天井に、四角い染みが一つある。


 染みの端は、右下だけ色が濃い。


   ◇


 布団は冷たかった。


 冷たいのは最初だけで、そのうち温くなる。温くなるまでのあいだ、俺は染みの端の濃いところを見ていた。


 濃いところは、輪郭がぼやけている。見ているとぼやけたまま広がって、どこまでが染みでどこからが天井かが分からなくなる。


「あんた、電気」


(点いてる)


「点いてるのを言ってるのよ」


   ◇


 俺は起きなかった。


 起きるには、まず腕を布団の外へ出す。外は寒い。


   ◇


 下に、飯は炊いてある。上に乗せるものが無い。


 正確には、煮物が皿の底に少し残っている。あれは温め直すと味が濃くなる。濃いのを飯にかけると、二杯になる。二杯にすると、明日の朝のぶんが無くなる。


 明日の朝のぶんが無くなると、明日の朝に何かを決めないといけない。


 決めるのは、明日でいい。


   ◇


 人形が何か言った。


 言ったが、途中から聞こえなくなった。


 下で、玄関の戸が開く音がした。母さんが帰ってきた音である。母さんは戸を開けたあと、必ずもう一度閉め直す。


 二回目の音は、聞こえなかった。


 染みの端が、視界の中で少しだけ動いた。動いたように見えただけかもしれない。


 布団は、もう冷たくなかった。

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