第120話 冬休みが二ヶ月ある
二階の廊下の、真ん中の板が鳴った。
鳴ったのは俺が踏んだからで、踏んだのは避けなかったからだ。避けると右の壁に寄る。右の壁には、去年の夏に妹が貼ったシールの跡が四つ残っている。剥がしたあとだけ白い。
上がりきったところに、妹が座っていた。
◇
自分の部屋のドアの前である。
ドアは閉まっていて、背中をそこにつけている。膝を立てて、その上に腕を乗せて、腕の上に顎を乗せていた。
床に座っている。廊下の床に、直接だ。
◇
「終わったのか」
俺は聞いた。
妹の学校も、今日が終業式のはずだった。
返事は無かった。
◇
俺は鞄を持ち替えた。
持ち替えて、廊下の突き当たりのほうを見た。突き当たりの窓の下に籠が置いてある。中は空だった。
その横に、母さんの姿見が立ててある。前は寝室にあったやつで、今年の夏にここへ出てきた。出てきた理由は聞いていない。
鏡の中に、廊下の床と、妹の足の先が入っていた。
妹の足は、廊下の真ん中まで出ている。俺の部屋は妹の部屋の隣で、通るには足の前を通る。
通れないほどではない。
◇
「足」
俺は言った。
妹は足を五センチだけ引いた。引いたが、顔は上げなかった。
俺はそこで止まった。
止まったのは、通るのに足りない気がしたからだ。幅は足りていた。
足りているのに止まったのは、たぶん足の引き方が五センチだったからである。十センチ引かれていたら、俺は通っていた。
◇
「兄ちゃん」
「なんだ」
「今日、学校で何か言われた?」
「言われてない」
「本当に?」
「本当だ」
妹は顎を腕から離した。
離して、また乗せた。
「終業式、長かった」
俺はそう言った。
「校長の話が十五分あって、そのあと生活指導の先生が七分喋った。七分のうち、五分は自転車の話だった」
「自転車」
「二人乗りをするなという話だ。うちの学校は坂の下に自転車置き場があるから、下りで二人乗りをするやつがいるらしい」
「ふうん」
「らしい、というのは、俺は見たことがないからだ」
◇
妹は何も言わなかった。
ふうん、で止まった。止まって、そこから先が来なかった。
俺は次を待った。待っているあいだに、下で冷蔵庫の音が始まって、止まった。止まってからも、まだ来なかった。
「腹減ってないか」
俺は聞いた。
「減ってない」
「下に何かあった」
「見てない」
「見てないのか」
妹は膝の上で指を組んだ。組んで、すぐ外した。
外した指を、床のほうへ下ろした。下ろした先の床に、糸くずが一本落ちている。妹はそれを拾って、また床に置いた。
◇
「学校、どうだった」
俺は聞いた。
「普通」
「普通か」
「普通」
妹は膝を少し閉じた。
「……三組の子が、朝、あたしのとこ来た」
「なんて」
「大丈夫?って」
「そうか」
「大丈夫?って聞かれると、大丈夫じゃない前提で来てるってことじゃん。あたし、その前提のほうが嫌だった」
「そうか」
「兄ちゃん、そこは何か言ってよ」
「言うことが無い」
◇
「兄ちゃん、事務所、行かないんでしょ」
妹はそう言った。
「行かない」
「いつまで」
「決まってない」
「決まってないの?」
「犬飼さんが、決めると期限になるって言ってた」
◇
「レッスンも?」
「止まった」
「特番は」
「あれは延びただけだ。年明けにやる」
「延びただけ?」
「そう言ってた」
妹は顔を上げた。
上げて、俺の顔ではなく、俺の鞄のほうを見ていた。
「あたし、知ってる」
「何をだ」
「番組、無くなったんでしょ」
妹は膝の上の手を、いったん床に下ろした。
「知ってる」
「知ってるって、兄ちゃんが?」
「聞いた」
「聞いて、それだけ?」
「それだけだ」
「それだけって何。普通さ、無くなったら何か言うでしょ。嫌だとか、ふざけんなとか、なんでだとか、そういうのが一個くらい出るでしょ」
「出なかった」
「出なかったって言われても困るんだけど」
◇
妹の声が、途中で高くなった。
高くなって、すぐ戻った。戻ったあとの声は、さっきより小さい。
「あたしが動画を上げたせいだ」
◇
俺は鞄を床に置いた。置いた場所は、俺の部屋のドアの前だ。置いたあと、まっすぐ立った。
妹は膝に顔を伏せた。
伏せたところが、パーカーの袖のあたりだった。
「あたし、あの動画まだ消してないんだよ。消したほうがいいのかなって思って、四回くらい画面出したけど、消したら消したで、消したことが何かになる気がして」
「消さなくていい」
「そういう話じゃないの」
妹は膝に額をつけたまま喋っていた。
「あたしね、切り取りは嘘じゃないと思ってるの。良いとこを見せてるだけで、悪くしてないから。それはずっと思ってるし、これからも思う」
「そうだな」
「でも、今回書かれたやつも、切り取りなんだよね」
◇
「兄ちゃん、怒ってよ」
妹は言った。
「怒らない」
「怒ってよ。あたしのせいだって言ってよ。そしたら、あたし言い返すから。言い返せば終わるから」
「終わらないだろ」
「終わるの。うちはいつもそうやって終わってたの」
◇
「兄ちゃん、去年の夏、あたしが兄ちゃんの充電器壊したときさ」
「壊れたな」
「あのとき兄ちゃん、二日くらい機嫌悪かったじゃん」
「悪くない」
「悪かったよ。ごはんのとき、あたしの皿のほうにおかず寄せなかったもん」
「寄せた」
「寄せてない」
妹は顔を上げないで言っていた。
「あれくらいでいいの。あれくらいのが、今欲しいの」
◇
俺は充電器のことを思い出そうとした。
思い出したのは、壊れたほうではなく、そのあと母さんが買ってきたやつのことだった。あれは線が短くて、コンセントから布団まで届かない。
届かないので、俺は床にコードを這わせている。這わせたところを、妹はよく踏む。
◇
肩が動いた。
一回動いて、止まって、また動いた。二回目のほうが大きかった。
息の音が、袖の中でこもった。
パーカーの袖の、膝に当たっているところだけ、色が変わっていた。
◇
顔は、動かなかった。
俺は考えた。
言えることは四つある。
一つ目は「泣くな」で、これは泣いている人間に言うと、たいてい増える。前に一度、母さんが父さんに言われて増えたのを見た。
二つ目は「そっちのせいじゃない」で、これは事実として正しいかどうかを俺が確かめていない。確かめていないことを断定すると、あとで違ったときに二回目が言えなくなる。
◇
三つ目は「気にするな」だ。
これは一つ目と二つ目を足して二で割ったやつで、割ったぶん、両方の悪いところが残る。
四つ目は「下に何かあるか見てくる」で、これは話をやめて階段を下りるという意味になる。今それをやると、下りたきり戻れない。
◇
五つ目を探した。
五つ目は、四つのどれとも違う方向から入るやつになる。泣いている理由に触らないで、なおかつ話をやめない言い方だ。
俺はそれを探した。探しているあいだに、下でまた冷蔵庫が鳴った。
◇
四つとも駄目だった。
駄目なので、俺は四つを順番に並べ直した。並べ直して、二つ目と三つ目を入れ替えた。入れ替えても、駄目な順番が変わっただけだった。
並べ直しているあいだも、妹は泣いていた。
◇
妹の肩がもう一度動いた。
「そっちのおかげで冬休みが二ヶ月ある」
俺はそう言った。
◇
妹の肩が止まった。
止まって、顔が上がった。
目のところが濡れていて、鼻の頭が赤くなっていた。頬にも、細い線が二本ついている。
「は?」
「冬休みが二ヶ月ある」
「二ヶ月ないよ」
「ある」
「無いよ! 冬休み二週間だし!」
妹は膝を下ろした。
下ろして、床に手をついた。
「二十四日から七日まででしょ! それ、二週間!」
「学校はそうだな」
「学校の話でしょ、冬休みって!」
「事務所のぶんが乗ってる」
「乗せんな!」
「じゃあ何、兄ちゃん、事務所の休みと学校の休みを足して数えてたわけ?」
「足してない」
「足してるじゃん、今」
「くっついてただけだ」
「くっついてる?」
「途中で切れ目が無い」
妹は口を半分開けたまま、俺を見た。
「……それ、二週間のあとも休みが続くってことでしょ」
「続く」
「それ、笑うとこじゃないから」
「笑ってない」
◇
妹は立ち上がった。
立ち上がって、俺の顔を見た。目のところはまだ濡れているのに、声はもう戻っていた。
「兄ちゃん、あたし今、謝ってたんだけど」
「聞いてた」
「聞いてて、それ?」
「それだ」
◇
「意味わかんない」
「わからんでいい」
「よくない! こっちは真面目に言ってんの!」
「真面目に返した」
「どこが!」
「二ヶ月あるのは本当だ」
「本当じゃない」
「本当だ」
「本当じゃないって言ってるでしょ! 兄ちゃん、あたしが泣いてるときに数字の話するの、それ人としてどうなの!」
「先に数字を出したのはそっちだ」
「出してない!」
「二週間って言った」
「それは兄ちゃんが二ヶ月って言ったからでしょうが!」
「だいたい兄ちゃん、金曜、十一時間寝たでしょ」
「寝た」
「十一時間だよ。あたし、二回起こしに行ったからね」
「起こされてない」
「起きなかったからでしょ!」
妹は袖で目を一回こすった。
こすったので、こすったほうの前髪が乱れた。乱れたのを、直さなかった。
「あたしね」
妹は言った。
「あの動画上げたときからずっと、兄ちゃんのことは全部あたしが最初だと思ってたの。最初に見つけたのはあたしで、最初に出したのもあたしで、だから兄ちゃんに起きることは全部あたしが始めたやつだって、そういうことになってたの、あたしの中で」
「そうだな」
「だから今回のも、あたしからだと思った」
「思ったのか」
「思った」
「そうか」
「そこで『そうか』って言われると、合ってるって言われた気になるからやめて」
◇
「兄ちゃん、それ違うって言わないの」
「違うのか」
「違うでしょ!」
「じゃあ違う」
「今決めたでしょ、今!」
妹は俺の胸のあたりを一回叩いた。
叩き方が弱かった。弱いので、音がしなかった。
妹は、泣いている途中で人の間違いを直した。廊下の板の鳴るところを避けて立ちながら、それをやった。
「兄ちゃんさ」
「なんだ」
「怒らないの」
「誰にだ」
「あたしとか、書いた人とか」
「怒ってない」
「なんで」
「怒る理由が思いつかない」
◇
妹は口を開けた。開けて、閉じた。閉じてから、もう一度開けた。
「思いつかないって、そんなことある?」
「ある」
「無いよ」
「あるから、無い」
「日本語おかしい」
「おかしいか」
「おかしい。あのさ、兄ちゃんって昔からそうなんだけどさ、こっちが百くらいの重さで持ってきた話を、いつも三くらいで受け取るじゃん。三で受け取られると、こっちの九十七がどこ行くのか分かんなくなるの」
「どこ行くんだ」
「あたしの中に残るの」
◇
妹は壁に背中をつけた。
つけたところが、シールの跡の白いところだった。白いところは四つ並んでいて、いちばん左のが大きい。
妹は下を向いた。
「あたし、明日から暇なんだけど」
「そうか」
「兄ちゃんも暇でしょ」
「暇だ」
「二ヶ月?」
「二ヶ月だ」
「二週間!」
◇
妹は壁から背中を離した。
離して、また戻した。戻したときに、後ろのシールの跡の位置が少しずれた。ずれたのは妹のほうだ。
「兄ちゃんさ、暇で何すんの」
「決めてない」
「決めなよ」
「犬飼さんが、決めると休みじゃなくなるって言ってた」
「それ、犬飼さんが言ったやつ全部そのまま持ってきてるだけじゃん」
「持ってきてる」
◇
妹は自分の部屋のドアのノブに手を掛けた。
掛けて、回さなかった。回さないまま、こっちを見ないで言った。ノブは古くて、掛けただけでも少し下がる。下がったところで止まっていた。
「兄ちゃん、下、ごはんあるよ」
「見てないって言ってただろ」
「見た」
「見たのか」
「帰ってきたとき見た」
◇
「何があった」
「カレー」
「一日目か」
「一日目」
「そうか」
妹はノブから手を離した。
離して、廊下の床のほうを見た。床の板は、真ん中の一枚だけ色が薄い。踏まれている枚数が多いからだ。
薄い板の上に、妹の右足が乗っている。乗せているだけで、体重は左に掛かっていた。
◇
「兄ちゃん、先食べていいよ」
「いいのか」
「いい」
「三杯食うぞ」
「そこは一杯にしなよ。一日目のカレーを三杯やられると、二日目が無くなるの。うちで二日目が無くなると誰が困るかっていうと、あたしなの」
「二日目のほうが強い」
「知ってる。知ってるから言ってんの」
妹はドアに寄りかかった。
寄りかかったまま、目のところをもう一度こすった。今度は袖ではなく、指の腹だった。
こすったあとで、指を見た。指には何もついていなかった。
妹は指をパーカーの裾でぬぐった。ぬぐう必要は無かったはずだが、ぬぐった。
◇
「あのさ」
妹は言った。
「二ヶ月じゃないからね」
「学校は二週間だ」
「学校の話しかしてないんだけど」
「こっちは両方の話をしてる」
「勝手に足さないでよ」
「足してない。くっついてるだけだ」
「そこ、まだ言うんだ」
「切れ目が無いからな」
「切れ目、あたしが今から入れるから」
「入らない」
「そういうとこだから」
◇
妹は俺の顔を見ていた。
見て、それから鞄のほうを見て、また顔に戻した。戻したときに、口の端が一度動いた。
笑ったのか、そうじゃないのかは分からない。
「兄ちゃん、カレー、二杯までね」
「三杯食う」
「二杯」
「二杯半」
「そういうのが一番ずるいんだって」
◇
妹は下唇を噛んだ。
噛んで、噛んだまま、ドアを開けないでそこに立っていた。
俺は鞄を拾って、自分の部屋のほうへ一歩動いた。動いたが、それ以上は行かなかった。
一歩ぶんだけ、妹との距離が増えた。増えたことに、妹は何も言わなかった。
廊下の突き当たりの窓が、少し明るくなった。雲が動いたらしい。
妹は、まだ唇を噛んでいた。




