第121話 腹は減ってる、とだけ答えた
積んだ雑誌のいちばん上が、一冊ずれていた。
俺は椅子ごと机のほうを向いて、それを見ていた。ずれているのは上の一冊だけで、二冊目から下は角が揃っている。揃っているところに一冊だけ乗っているので、上から見ると、屋根が一枚めくれた家みたいになっていた。
「あんた、さっきからそこ、動いてないわよ」
「動いてる」
「どこが」
「息をしてる」
人形は雑誌の上に立っていた。
台座の縁が、表紙の字の上に半分だけ乗っている。字は大きい四文字で、真ん中の三文字目だけが台座の下に隠れて読めない。
◇
机の上には、何も出ていなかった。
教科書は左に積んである。冬休みの課題は封筒に入ったまま、その下に敷いてある。封筒の口は開いていない。
壁には紙が二枚貼ってある。左が九月の一枚で、右がもう一枚のほうだ。画鋲は右に四つ、左に二つ。貼った日から、どちらも動かしていない。
下でテレビが鳴っていた。音楽番組らしくて、音は階段を上がってくるのに、言葉のところだけ途中で崩れる。歌のところだけが、まとまってここまで届く。
妹の部屋のドアは閉まっている。ドアの下の隙間から、明かりが細く出ていた。
◇
「あんた、ちゃんと座りなさい」
「座ってる」
「背もたれに寄りかかってるのは、座ってるって言わないの」
俺は背中を起こした。
起こしたら、椅子の板が一度鳴った。この椅子は中学のときから使っていて、後ろへ体重をかけると鳴る。前へ戻すときには鳴らない。
「そうよ。それでいいの」
「これで何が変わるんだ」
「話を聞く姿勢の問題よ」
「聞いてる」
「耳の話をしてるんじゃないの」
人形は雑誌の上で、こちらへ半歩ぶん前に出た。
台座ごと出たので、いちばん上の一冊が、また少しずれた。
◇
「あんた、今日が何日か分かってる?」
「二十六日だ」
「言えるじゃないの。じゃあ聞くけど、あんた、いま自分がどういう状況か、わかってる?」
「休みだ」
「休みじゃないわよ」
「学校は休みだ」
「そっちの話をしてるんじゃないの」
人形の声が、少し大きくなった。
大きくなったが、下のテレビの音のほうが大きい。歌の途中で拍手が入って、拍手のあいだだけ、部屋の中が静かになった。
俺は雑誌のずれたぶんを、指で押して直した。押したら、今度は上から二冊目のほうがずれた。
「直さなくていいわよ、そこは」
「気になる」
「そっちが気になるの」
◇
「仕事が全部飛んだの。わかってる?」
「聞いた」
「聞いた、で終わる話じゃないの。あんた、年末の大きいのに出るはずだったのよ。あれ、家で見るの?」
「見ない」
「見ないの?」
「うちのテレビは、下に一台しかない」
下にはテレビがあって、母さんがいる。母さんはテレビを見ているときに、横を通る人間へ必ず何か聞く。
聞かれれば、答える。答えれば、座る。座ったら、そこで一時間くらい終わる。
一時間で終わるならまだいい。母さんは一時間たったところで、洗濯物を持ってくる。
◇
「テレビの話をしてるんじゃないの」
「テレビの話はしてない。下へ行くかどうかの話だ」
「同じでしょう」
「違う」
「どう違うのよ」
「テレビの話は、何をやってるかの話だ。下の話は、あとで上がってこられるかの話だ」
人形は台座の上で足を止めた。
止めて、こっちを見上げた。人形は十五センチしかないので、机の上に置くと、いつもこの角度になる。下から見上げてくる顔は、塗装のせいで、いつも少しだけ怒っているように見える。
◇
「あんた、外で何て言われてるか知ってる?」
「知らん」
「調べないの?」
「調べたら出てくるのか」
「出てくるわよ」
「じゃあ、調べない」
言ってから、少し考えた。
調べると出てくるものは、調べなければ出てこない。当たり前のことだが、当たり前のことを口に出すと、たいてい怒られる。
妹に一度これをやって、三十分怒られたことがある。
◇
部屋は寒かった。
暖房は点けていない。点けると、しばらくして眠くなる。眠くなると、椅子の上で寝る。椅子の上で寝ると、首が痛くなって起きる。首が痛くなって起きたあと、布団で寝ればよかったと思うところまでが毎回同じだ。
だから点けない。点けないと、今度は足の先から冷えてくる。
俺は足の裏を、椅子の下の横木に乗せた。乗せると床から離れるので、少しましになる。
「あんた、いま何を考えてたの」
「足だ」
「足?」
「冷える」
◇
「あんたねえ」
「怒るのか」
「怒ってるわよ、さっきから」
「気づかなかった」
「気づきなさいよ」
人形は雑誌の上で足を踏んだ。
踏んだが、下が紙なので音は出ない。音が出ないことに気づいたらしくて、もう一度踏んだ。二度目も出なかった。
三度目は、踏まなかった。
◇
廊下で、妹の部屋のドアが開いた。
開いて、二歩ぶんの足音がして、俺の部屋のドアが十センチだけ開いた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「台所の棚の、最後の一個のやつ、食べていい?」
「どれだ」
「カップのやつ」
「あれは俺のだ」
「知ってる。だから聞いてる」
妹はドアの隙間から顔の右半分だけ出していた。左のほうは廊下側にある。
「食べていいかって聞くのは、食う気があるやつの聞き方だ」
「そうだよ」
「じゃあ、聞くだけ無駄だろ」
「無駄だけど、聞いたら、もう食べていいってことじゃん」
ドアが閉まった。
閉まってから、階段を下りていく音がした。下から四段目のところで一度止まって、それからまた続いた。
階段は、下から四段目だけ音が違う。板の継ぎ目がそこで一度切れているらしい。
「あんた、いいの。取られたわよ」
「取られた」
「止めなさいよ」
「止めると、代わりに何か作らされる」
◇
「あんた、学校はどうするの」
「三学期がある」
「そういう話をしてるんじゃないの」
「じゃあ、どういう話だ」
「あんたの、この先の話よ」
「三学期のあとは、春休みだ」
人形が、机の上で足を止めた。
止めたまま、こっちを見上げていた。怒っているのに、喋る速さは落ちていた。速さが落ちると、一つ一つの言葉のあいだが空く。空いたところに、下のテレビの音が入ってくる。
「あんたね、わたしはそういう意味で言ってるんじゃないの」
「わからん」
「わかろうとしなさいよ」
「してる」
「してないでしょう」
「今、してた」
◇
「じゃあ聞くけど、あんた、明日は何をするの」
「起きる」
「そのあと」
「飯を食う」
「そのあと」
「わからん」
「わからないって、あんた、明日でしょう」
「明日のことは明日にならないとわからん」
「それは、そういう意味の言葉じゃないの」
俺は椅子の上で足を組み替えた。
組み替えたら、机の脚に膝が当たった。当たったところで、机の上の消しゴムが一センチだけ動いた。
◇
「あんた、悔しくないの?」
人形が言った。
声が、それまでと違っていた。大きくもないし、高くもない。ただ、下から真っすぐ来た。
「腹は減ってる」
俺は言った。
◇
人形は口を開けた。
開けたまま、何も出てこなかった。
開けた口はそのままで、片方の手だけが少し上がって、上がったところで止まった。止まったまま、下りてきた。下りるときのほうが、上がるときより遅かった。
窓の外を、車が一台通った。通ったあと、しばらく何も通らなかった。
◇
「……あんた、さっきのあれ、最後の一個だったんでしょう」
「最後だ」
「じゃあ、なんで渡したのよ」
「聞かれたからだ」
「聞かれたら渡すの」
「聞かれなかったら、無くなってるのに気づくのが明日になる」
人形は何も言わなかった。
下のテレビの音が、そのあいだも続いていた。曲が終わって、誰かが喋って、また曲が始まった。喋っているところは、ここまで上がってくると言葉にならない。
◇
俺は机の引き出しを開けた。
引き出しの奥に、微糖の缶が一本入っている。先週、事務所の帰りに自分で買った二本の、片方だ。冬なので、缶は冷たかった。
もう一本は、机の上に立ったままになっている。教科書の横に置いた日から、動かしていない。
開けるかどうかを少し考えて、閉めた。ここで開けると、下へ行く理由が半分無くなる。
缶コーヒーは、飲むと腹が膨れるわけではない。ただ、口の中が甘くなるので、そのあとしばらく何も食いたくなくなる。これは前に一度、試して分かったことだ。
缶は、引き出しの奥で一度転がって、鉛筆に当たって止まった。
◇
窓の下のほうが曇っていた。
部屋の中と外で温度が違うと、ガラスの下から曇る。上のほうは曇らない。境目は真っすぐではなくて、真ん中が少し上がっている。
俺は指で、曇ったところを横に一本こすった。こすったところだけ、外の街灯が見えた。しばらく見ていたら、線の端からまた白くなっていった。
「あんた、何してるの」
「ガラスだ」
「ガラスが、どうしたの」
「曇る」
「そりゃ曇るでしょうよ、この季節は」
人形はそう言って、こちらへ半歩ぶん前に出た。出たところで、机の板の継ぎ目に台座が引っかかった。
◇
下で、母さんが妹の名前を呼んだ。
呼ばれたほうの返事は、テレビの音に混ざって聞こえなかった。そのあとで、笑い声が一度だけ上がった。上がって、すぐ止まった。
「賑やかね、下は」
「賑やかだ」
「行かないの」
「行くと座る」
◇
「あんた、このままだと忘れられるわよ」
「忘れられると、どうなるんだ」
「……仕事が来なくなるの」
「来てない」
「今は止まってるだけよ。止まってるのと、忘れられるのは違うの」
「どう違うんだ」
人形は口を開けて、また閉じた。
閉じたあとで、台座の上を半分だけ回った。回った先に何かがあったわけではなくて、そのまままた戻ってきた。
◇
「あんた、今日、何してたの」
「起きた」
「何時に」
「知らん。明るかった」
「それから?」
「飯を食った。テレビを見た。妹が階段で何か落とした」
「それから?」
「拾ってた」
「あんたが?」
「妹が」
妹が落としたのは、たぶん充電の線だ。階段の途中で音がして、そのあと、下から上へ一段ずつ何かを拾う音がした。
俺は自分の部屋から出なかった。出ていくと、拾うのを手伝わされる。手伝うと、線がどこの線かという話になる。
◇
「一日、それでおしまいなの」
「風呂に入った」
「それは毎日入るでしょう」
毎日入るものは、一日の中身に数えないらしい。
だとすると、飯も毎日食っている。歯も毎日磨いている。そのうち俺の一日は、中身が何も無くなる。
◇
「あんた、こういう時期をなんて言うか知ってる?」
「知らん」
「わたしはね」
人形はそこで言葉を切って、切ったまま続けなかった。
台座の上で、少しよろけた。よろけて、雑誌の角のところで踏みとどまった。踏みとどまったあと、姿勢を直すのに、肩を二回動かした。
◇
「あんた、腹が立たないの」
「立たない」
「一つも?」
「階段の四段目には立つ」
「またその話」
「本当だ」
人形は片手を上げて、下ろした。
上げるときに肩が動いて、下ろすときには動かなかった。塗装のせいで、肩のところだけ光り方が違う。右のまつ毛がにじんでいるのは前から知っているが、それを言うと三時間くらい口をきかなくなる。
◇
「あんた、わたしが何を心配してると思ってるの」
「わからん」
「わからないの?」
「わからん」
「……そう」
俺は椅子の脚を、爪先で少し引いた。
引いたら、床の板が一枚だけ鳴った。この部屋で鳴るのは、机の前のここだけである。小学生の頃から鳴っていて、一度も直していない。踏む場所を半歩ずらせば鳴らないので、直す話にならなかった。
◇
「あんた、はっきり言うわよ」
「言え」
人形は、そこで止まった。
「言わないのか」
「今、探してるの」
「何をだ」
「言うことをよ」
「探してるあいだ、俺は何をしてればいい」
「黙ってなさい!」
人形の声が、部屋の中で一度跳ねた。
跳ねたが、下のテレビはそのまま続いていた。母さんの笑う声も、そのままだった。届いていない。
◇
俺は立ち上がった。
立ち上がって、ドアのほうへ二歩だけ歩いた。歩いたところで止まった。
下へ行けば、棚に何か残っているかもしれない。ただし、さっき一個減っている。減ったぶんが何だったかは、下りてみないと分からない。
俺は椅子に戻った。
「戻ってきたわね」
「戻った」
「行かないの」
「あとにする」
◇
「あんた、下手に平気だから、こっちが言うことが無くなるのよ」
「言わなくていい」
「言わなくていいって、あんたね」
「さっき、一つ答えた」
「それは聞いた」
「聞いたなら、足りてる」
人形は雑誌の上から、机の板へ下りた。
下りるときに、いちばん上の一冊がまたずれた。今度は、さっきより大きくずれて、角が机の縁から少し出た。
◇
「あんた、一つだけ答えなさい」
「一つならいい」
「あんた、いま、困ってる?」
俺は椅子の背に手を掛けたまま、考えた。
困っていることを、順番に思い出そうとした。足が冷える。さっき最後の一個が階段を下りていった。この二つが出てきたところで、それ以上は出てこなかった。
「二つあった」
「二つ?」
「足と、腹だ」
「……そう」
「腹のほうが大きい」
人形は机の板の上で、俺のほうを見上げたままだった。
見上げたまま、両手を体の横に下ろした。下ろしたところで止めて、そのあと動かさなかった。
◇
俺は椅子を回した。
回して、机のほうを向いた。向いたところで一度止めて、そのままもう半分回した。窓が正面に来た。
窓の外に、街灯が一つ立っている。家の前の道には街灯が二本あって、部屋から見えるのは手前の一本だけだ。もう一本は、隣の家の屋根で隠れている。
◇
「下、まだ点いてるか」
「テレビでしょう。点いてるわよ」
「まだ座ってるな」
「座ってるでしょうね」
「じゃあ、まだ行かない」
人形は机の板の上に立っていた。
立ったまま、窓のほうを見ていた。街灯の光は白くて、部屋の中までは届かない。届かないところで止まっているのが、窓ガラスの下のほうに線になって見える。
◇
「あんた」
「聞いてる」
人形は、しばらく何も言わなかった。
言わないあいだ、下のテレビの音だけが続いていた。曲が変わって、拍手が入って、また曲が始まった。母さんが一度笑って、そのあと静かになった。
台所の戸が開いて、閉まった。俺はそっちの音のほうを聞いていた。
「見られてない時のあんたは、ただの高校生だよ。それの何が悪いの」




