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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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121/235

第121話 腹は減ってる、とだけ答えた

 積んだ雑誌のいちばん上が、一冊ずれていた。


 俺は椅子ごと机のほうを向いて、それを見ていた。ずれているのは上の一冊だけで、二冊目から下は角が揃っている。揃っているところに一冊だけ乗っているので、上から見ると、屋根が一枚めくれた家みたいになっていた。


「あんた、さっきからそこ、動いてないわよ」

「動いてる」

「どこが」

「息をしてる」


 人形は雑誌の上に立っていた。


 台座の縁が、表紙の字の上に半分だけ乗っている。字は大きい四文字で、真ん中の三文字目だけが台座の下に隠れて読めない。


   ◇


 机の上には、何も出ていなかった。


 教科書は左に積んである。冬休みの課題は封筒に入ったまま、その下に敷いてある。封筒の口は開いていない。


 壁には紙が二枚貼ってある。左が九月の一枚で、右がもう一枚のほうだ。画鋲は右に四つ、左に二つ。貼った日から、どちらも動かしていない。


 下でテレビが鳴っていた。音楽番組らしくて、音は階段を上がってくるのに、言葉のところだけ途中で崩れる。歌のところだけが、まとまってここまで届く。


 妹の部屋のドアは閉まっている。ドアの下の隙間から、明かりが細く出ていた。


   ◇


「あんた、ちゃんと座りなさい」

「座ってる」

「背もたれに寄りかかってるのは、座ってるって言わないの」


 俺は背中を起こした。


 起こしたら、椅子の板が一度鳴った。この椅子は中学のときから使っていて、後ろへ体重をかけると鳴る。前へ戻すときには鳴らない。


「そうよ。それでいいの」

「これで何が変わるんだ」

「話を聞く姿勢の問題よ」

「聞いてる」

「耳の話をしてるんじゃないの」


 人形は雑誌の上で、こちらへ半歩ぶん前に出た。


 台座ごと出たので、いちばん上の一冊が、また少しずれた。


   ◇


「あんた、今日が何日か分かってる?」

「二十六日だ」

「言えるじゃないの。じゃあ聞くけど、あんた、いま自分がどういう状況か、わかってる?」

「休みだ」

「休みじゃないわよ」

「学校は休みだ」

「そっちの話をしてるんじゃないの」


 人形の声が、少し大きくなった。


 大きくなったが、下のテレビの音のほうが大きい。歌の途中で拍手が入って、拍手のあいだだけ、部屋の中が静かになった。


 俺は雑誌のずれたぶんを、指で押して直した。押したら、今度は上から二冊目のほうがずれた。


「直さなくていいわよ、そこは」

「気になる」

「そっちが気になるの」


   ◇


「仕事が全部飛んだの。わかってる?」

「聞いた」

「聞いた、で終わる話じゃないの。あんた、年末の大きいのに出るはずだったのよ。あれ、家で見るの?」

「見ない」

「見ないの?」

「うちのテレビは、下に一台しかない」


 下にはテレビがあって、母さんがいる。母さんはテレビを見ているときに、横を通る人間へ必ず何か聞く。


 聞かれれば、答える。答えれば、座る。座ったら、そこで一時間くらい終わる。


 一時間で終わるならまだいい。母さんは一時間たったところで、洗濯物を持ってくる。


   ◇


「テレビの話をしてるんじゃないの」

「テレビの話はしてない。下へ行くかどうかの話だ」

「同じでしょう」

「違う」

「どう違うのよ」

「テレビの話は、何をやってるかの話だ。下の話は、あとで上がってこられるかの話だ」


 人形は台座の上で足を止めた。


 止めて、こっちを見上げた。人形は十五センチしかないので、机の上に置くと、いつもこの角度になる。下から見上げてくる顔は、塗装のせいで、いつも少しだけ怒っているように見える。


   ◇


「あんた、外で何て言われてるか知ってる?」

「知らん」

「調べないの?」

「調べたら出てくるのか」

「出てくるわよ」

「じゃあ、調べない」


 言ってから、少し考えた。


 調べると出てくるものは、調べなければ出てこない。当たり前のことだが、当たり前のことを口に出すと、たいてい怒られる。


 妹に一度これをやって、三十分怒られたことがある。


   ◇


 部屋は寒かった。


 暖房は点けていない。点けると、しばらくして眠くなる。眠くなると、椅子の上で寝る。椅子の上で寝ると、首が痛くなって起きる。首が痛くなって起きたあと、布団で寝ればよかったと思うところまでが毎回同じだ。


 だから点けない。点けないと、今度は足の先から冷えてくる。


 俺は足の裏を、椅子の下の横木に乗せた。乗せると床から離れるので、少しましになる。


「あんた、いま何を考えてたの」

「足だ」

「足?」

「冷える」


   ◇


「あんたねえ」

「怒るのか」

「怒ってるわよ、さっきから」

「気づかなかった」

「気づきなさいよ」


 人形は雑誌の上で足を踏んだ。


 踏んだが、下が紙なので音は出ない。音が出ないことに気づいたらしくて、もう一度踏んだ。二度目も出なかった。


 三度目は、踏まなかった。


   ◇


 廊下で、妹の部屋のドアが開いた。


 開いて、二歩ぶんの足音がして、俺の部屋のドアが十センチだけ開いた。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「台所の棚の、最後の一個のやつ、食べていい?」

「どれだ」

「カップのやつ」

「あれは俺のだ」

「知ってる。だから聞いてる」


 妹はドアの隙間から顔の右半分だけ出していた。左のほうは廊下側にある。


「食べていいかって聞くのは、食う気があるやつの聞き方だ」

「そうだよ」

「じゃあ、聞くだけ無駄だろ」

「無駄だけど、聞いたら、もう食べていいってことじゃん」


 ドアが閉まった。


 閉まってから、階段を下りていく音がした。下から四段目のところで一度止まって、それからまた続いた。


 階段は、下から四段目だけ音が違う。板の継ぎ目がそこで一度切れているらしい。


「あんた、いいの。取られたわよ」

「取られた」

「止めなさいよ」

「止めると、代わりに何か作らされる」


   ◇


「あんた、学校はどうするの」

「三学期がある」

「そういう話をしてるんじゃないの」

「じゃあ、どういう話だ」

「あんたの、この先の話よ」

「三学期のあとは、春休みだ」


 人形が、机の上で足を止めた。


 止めたまま、こっちを見上げていた。怒っているのに、喋る速さは落ちていた。速さが落ちると、一つ一つの言葉のあいだが空く。空いたところに、下のテレビの音が入ってくる。


「あんたね、わたしはそういう意味で言ってるんじゃないの」

「わからん」

「わかろうとしなさいよ」

「してる」

「してないでしょう」

「今、してた」


   ◇


「じゃあ聞くけど、あんた、明日は何をするの」

「起きる」

「そのあと」

「飯を食う」

「そのあと」

「わからん」

「わからないって、あんた、明日でしょう」

「明日のことは明日にならないとわからん」

「それは、そういう意味の言葉じゃないの」


 俺は椅子の上で足を組み替えた。


 組み替えたら、机の脚に膝が当たった。当たったところで、机の上の消しゴムが一センチだけ動いた。


   ◇


「あんた、悔しくないの?」


 人形が言った。


 声が、それまでと違っていた。大きくもないし、高くもない。ただ、下から真っすぐ来た。


「腹は減ってる」


 俺は言った。


   ◇


 人形は口を開けた。


 開けたまま、何も出てこなかった。


 開けた口はそのままで、片方の手だけが少し上がって、上がったところで止まった。止まったまま、下りてきた。下りるときのほうが、上がるときより遅かった。


 窓の外を、車が一台通った。通ったあと、しばらく何も通らなかった。


   ◇


「……あんた、さっきのあれ、最後の一個だったんでしょう」

「最後だ」

「じゃあ、なんで渡したのよ」

「聞かれたからだ」

「聞かれたら渡すの」

「聞かれなかったら、無くなってるのに気づくのが明日になる」


 人形は何も言わなかった。


 下のテレビの音が、そのあいだも続いていた。曲が終わって、誰かが喋って、また曲が始まった。喋っているところは、ここまで上がってくると言葉にならない。


   ◇


 俺は机の引き出しを開けた。


 引き出しの奥に、微糖の缶が一本入っている。先週、事務所の帰りに自分で買った二本の、片方だ。冬なので、缶は冷たかった。


 もう一本は、机の上に立ったままになっている。教科書の横に置いた日から、動かしていない。


 開けるかどうかを少し考えて、閉めた。ここで開けると、下へ行く理由が半分無くなる。


 缶コーヒーは、飲むと腹が膨れるわけではない。ただ、口の中が甘くなるので、そのあとしばらく何も食いたくなくなる。これは前に一度、試して分かったことだ。


 缶は、引き出しの奥で一度転がって、鉛筆に当たって止まった。


   ◇


 窓の下のほうが曇っていた。


 部屋の中と外で温度が違うと、ガラスの下から曇る。上のほうは曇らない。境目は真っすぐではなくて、真ん中が少し上がっている。


 俺は指で、曇ったところを横に一本こすった。こすったところだけ、外の街灯が見えた。しばらく見ていたら、線の端からまた白くなっていった。


「あんた、何してるの」

「ガラスだ」

「ガラスが、どうしたの」

「曇る」

「そりゃ曇るでしょうよ、この季節は」


 人形はそう言って、こちらへ半歩ぶん前に出た。出たところで、机の板の継ぎ目に台座が引っかかった。


   ◇


 下で、母さんが妹の名前を呼んだ。


 呼ばれたほうの返事は、テレビの音に混ざって聞こえなかった。そのあとで、笑い声が一度だけ上がった。上がって、すぐ止まった。


「賑やかね、下は」

「賑やかだ」

「行かないの」

「行くと座る」


   ◇


「あんた、このままだと忘れられるわよ」

「忘れられると、どうなるんだ」

「……仕事が来なくなるの」

「来てない」

「今は止まってるだけよ。止まってるのと、忘れられるのは違うの」

「どう違うんだ」


 人形は口を開けて、また閉じた。


 閉じたあとで、台座の上を半分だけ回った。回った先に何かがあったわけではなくて、そのまままた戻ってきた。


   ◇


「あんた、今日、何してたの」

「起きた」

「何時に」

「知らん。明るかった」

「それから?」

「飯を食った。テレビを見た。妹が階段で何か落とした」

「それから?」

「拾ってた」

「あんたが?」

「妹が」


 妹が落としたのは、たぶん充電の線だ。階段の途中で音がして、そのあと、下から上へ一段ずつ何かを拾う音がした。


 俺は自分の部屋から出なかった。出ていくと、拾うのを手伝わされる。手伝うと、線がどこの線かという話になる。


   ◇


「一日、それでおしまいなの」

「風呂に入った」

「それは毎日入るでしょう」


 毎日入るものは、一日の中身に数えないらしい。


 だとすると、飯も毎日食っている。歯も毎日磨いている。そのうち俺の一日は、中身が何も無くなる。


   ◇


「あんた、こういう時期をなんて言うか知ってる?」

「知らん」

「わたしはね」


 人形はそこで言葉を切って、切ったまま続けなかった。


 台座の上で、少しよろけた。よろけて、雑誌の角のところで踏みとどまった。踏みとどまったあと、姿勢を直すのに、肩を二回動かした。


   ◇


「あんた、腹が立たないの」

「立たない」

「一つも?」

「階段の四段目には立つ」

「またその話」

「本当だ」


 人形は片手を上げて、下ろした。


 上げるときに肩が動いて、下ろすときには動かなかった。塗装のせいで、肩のところだけ光り方が違う。右のまつ毛がにじんでいるのは前から知っているが、それを言うと三時間くらい口をきかなくなる。


   ◇


「あんた、わたしが何を心配してると思ってるの」

「わからん」

「わからないの?」

「わからん」

「……そう」


 俺は椅子の脚を、爪先で少し引いた。


 引いたら、床の板が一枚だけ鳴った。この部屋で鳴るのは、机の前のここだけである。小学生の頃から鳴っていて、一度も直していない。踏む場所を半歩ずらせば鳴らないので、直す話にならなかった。


   ◇


「あんた、はっきり言うわよ」

「言え」


 人形は、そこで止まった。


「言わないのか」

「今、探してるの」

「何をだ」

「言うことをよ」

「探してるあいだ、俺は何をしてればいい」

「黙ってなさい!」


 人形の声が、部屋の中で一度跳ねた。


 跳ねたが、下のテレビはそのまま続いていた。母さんの笑う声も、そのままだった。届いていない。


   ◇


 俺は立ち上がった。


 立ち上がって、ドアのほうへ二歩だけ歩いた。歩いたところで止まった。


 下へ行けば、棚に何か残っているかもしれない。ただし、さっき一個減っている。減ったぶんが何だったかは、下りてみないと分からない。


 俺は椅子に戻った。


「戻ってきたわね」

「戻った」

「行かないの」

「あとにする」


   ◇


「あんた、下手に平気だから、こっちが言うことが無くなるのよ」

「言わなくていい」

「言わなくていいって、あんたね」

「さっき、一つ答えた」

「それは聞いた」

「聞いたなら、足りてる」


 人形は雑誌の上から、机の板へ下りた。


 下りるときに、いちばん上の一冊がまたずれた。今度は、さっきより大きくずれて、角が机の縁から少し出た。


   ◇


「あんた、一つだけ答えなさい」

「一つならいい」

「あんた、いま、困ってる?」


 俺は椅子の背に手を掛けたまま、考えた。


 困っていることを、順番に思い出そうとした。足が冷える。さっき最後の一個が階段を下りていった。この二つが出てきたところで、それ以上は出てこなかった。


「二つあった」

「二つ?」

「足と、腹だ」

「……そう」

「腹のほうが大きい」


 人形は机の板の上で、俺のほうを見上げたままだった。


 見上げたまま、両手を体の横に下ろした。下ろしたところで止めて、そのあと動かさなかった。


   ◇


 俺は椅子を回した。


 回して、机のほうを向いた。向いたところで一度止めて、そのままもう半分回した。窓が正面に来た。


 窓の外に、街灯が一つ立っている。家の前の道には街灯が二本あって、部屋から見えるのは手前の一本だけだ。もう一本は、隣の家の屋根で隠れている。


   ◇


「下、まだ点いてるか」

「テレビでしょう。点いてるわよ」

「まだ座ってるな」

「座ってるでしょうね」

「じゃあ、まだ行かない」


 人形は机の板の上に立っていた。


 立ったまま、窓のほうを見ていた。街灯の光は白くて、部屋の中までは届かない。届かないところで止まっているのが、窓ガラスの下のほうに線になって見える。


   ◇


「あんた」

「聞いてる」


 人形は、しばらく何も言わなかった。


 言わないあいだ、下のテレビの音だけが続いていた。曲が変わって、拍手が入って、また曲が始まった。母さんが一度笑って、そのあと静かになった。


 台所の戸が開いて、閉まった。俺はそっちの音のほうを聞いていた。


「見られてない時のあんたは、ただの高校生だよ。それの何が悪いの」

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