第122話 妹に録画を全部消された
録画の一覧が、上から下まで、全部丸になった。
丸は、一度見たものに付く。番組の名前が縦に並んでいて、その全部の左端に、同じ大きさの丸が並んでいる。
いちばん下まで送ると、カチッと止まる。止まったところにも丸が付いていた。上まで戻して、もう一度下まで送った。丸の数は変わらなかった。
上から三本目のやつは、途中まで二度見ている。二度目は、一度目にどこまで見たか分からなくなったからだ。分からなくなった原因は、一度目の途中で寝たことにある。寝たところから先を見ようとして、頭から見直した。
それでも丸は一つだった。何度見ても、丸は一つしか付かない。
◇
残りの容量が、画面の右上に出ている。
棒が横に一本あって、その棒が、いまはほとんど色で埋まっている。空きは右の端に少しだけ残っていた。
俺は棒を見た。
見ても、増えなかった。
増やす方法は知っている。消せばいい。消すには、どれを消すかを決めないといけない。決めるには、もう一度見るかどうかを一本ずつ考えることになって、それをやると午後が終わる。
俺はリモコンを座布団の上に置いた。置いたところが沈んで、リモコンが少し傾いた。
◇
妹が茶の間に入ってきた。
入ってきて、ちゃぶ台の向こうに立って、画面を見た。見てから、座布団の上のリモコンを見た。
「兄ちゃん、それ、まだ空いてる?」
「何が」
「容量。録るとこ」
「無い」
「無いって、どのくらい」
「棒の右の端くらいだ」
妹はちゃぶ台を回ってきて、リモコンを取った。
取って、一覧を上から下まで送った。送りきってから、また上まで戻した。戻す速さが、俺の三倍くらいあった。
「これ、全部見たの」
「見た」
「全部?」
「全部だ」
「じゃあ要らないじゃん」
「要らないとは言ってない」
「見たのに要るの?」
「見たやつは、要るか要らないかを決めてない」
「決めてよ」
「決めると、あとから要ると言えなくなる」
「言わないよ、兄ちゃんは。要るって言ったの、いま初めて聞いたもん」
◇
妹は画面の下のほうを見ていた。
下に小さい字が出ている。字が小さいので、俺のところからは読めない。妹は読めているらしくて、そこを見たままボタンを二回押した。
「三十一日の夜と、一日の朝。二本録りたいの」
「録れ」
「だから、空いてないんだって」
「一本ずつ消していい?」
「いい」
「じゃあ、どれから」
「そこは決めてない」
「兄ちゃん、さっきから同じこと言ってるよ。決めてないって言ってるだけじゃん」
妹はリモコンを持ち直した。
持ち直して、指の位置を変えた。変えた先は、いちばん下のボタンだった。
「これ、押していい?」
「なんのボタンだ」
「全部消えるやつ」
「押すな」
「押していいって言ったじゃん」
「一本ずつ、と言った」
◇
押した。
画面が一度切り替わって、確認の字が出て、その下に二つ並んだ。妹は右のほうへ動かして、また押した。
消えるのに、十秒かからなかった。
一覧の画面に戻ったら、番組の名前が一つも無くなっていた。縦に並んでいたものが全部消えて、真ん中に一行だけ字が出ている。
〈録画された番組はありません〉
右上の棒は、端から端まで空いていた。
◇
「空いた」
「空いた」
「怒った?」
「怒ってない」
「ほんとに?」
「見たやつだ」
「それ、二回言った」
妹はリモコンをちゃぶ台の端に置いた。
置いた場所は、俺の手が届かないほうだった。置いてから、指二本でこっちへ十センチだけ滑らせた。滑らせて、そこで手を離した。
「三十一日、家にいる?」
「いる」
「ふうん」
妹は茶の間を出ていった。出ていくときに、鴨居のところで一度、手をぶら下げるみたいに上へ伸ばした。届いていなかった。
◇
ちゃぶ台の上に、ざるが置いてある。
みかんが十個ほど入っていた。段ボールから移してあるやつで、箱のほうは台所にある。ざるの底のみかんは、上に乗っているぶんの重みで、下の面が少し平らになっている。
俺は上から一つ取った。
取ったところが空いたので、下から一つ上がってきた。上がってきたやつの底は平らだった。
平らなほうが、置いたときに転がらない。転がらないほうが良いのかというと、そういう話でもない。ざるは丸いので、どのみち真ん中へ寄る。
◇
皮は、いちばん上から剥くとうまく剥ける。
へたのところに親指を入れて、そこから四方へ広げる。広げると、皮が四つに割れる。四つのうち一つが途中で切れると、残りの三つも切れる。切れると、あとが面倒になる。
今日のは、四つとも切れなかった。
白い筋は、取る人と取らない人がいる。母さんは取る。妹は取らない。俺は、取りかけて途中でやめる。途中でやめると、半分だけ筋の付いたみかんになる。今日もそうなった。
剥いた皮は、ちゃぶ台の端に置いた。置いた皮は、しばらくすると自分で少し丸まる。丸まると、置いたときより小さく見える。小さく見えるだけで、大きさは変わっていない。
◇
俺はテレビを消した。
消すと、画面が黒くなる。黒くなった画面には、この部屋が映る。ちゃぶ台と、ざると、座布団が四枚。座布団は、一枚だけ向きが違っていた。
俺は座布団の向きを直した。
直してから、黒い画面をもう一度見た。直ったのが、そこにも映っていた。
黒い画面は、明るいところだけを映す。窓と、電気の傘と、みかんの色が映って、それ以外は暗いままだった。ざるの縁のところだけ、細い線になって光っている。
俺は少し首を動かした。動かすと、線の位置が変わった。
◇
台所の床に、みかんの段ボールが置いてある。
二箱目である。一箱目の空き箱は、まだ潰していない。潰していないので、二箱目は一箱目の隣に置いてあって、二つ並ぶと、通り道が狭くなる。
俺は横向きになって通った。
母さんが流しの前にいた。
「あんた、そこ通るなら、上の箱だけ持っていって」
「どこへ」
「勝手口。潰すのはお父さんがやるから」
「持ってく」
「あんたが潰すって言い出さないでよ。前にあんたが潰したやつ、テープごと折ってあったから、あとで勝手に開いたんだから」
俺は上の箱を持って、勝手口の内側に置いた。
置いたら、下の箱の側面が見えた。側面に、みかんの絵が刷ってある。刷ってある絵のみかんには、葉が二枚付いている。ざるのほうのみかんに、葉は一枚も付いていない。
◇
冷蔵庫を開けた。
中の段は、上から順に、卵と、牛乳と、昨日の煮物と、名前の分からない容器が二つ。容器は二つとも蓋が半分だけ透明で、片方の中は白く、もう片方は何も見えない。
開けて、何も取らずに閉めた。
閉めてから、もう一度開けた。中身は同じだった。
「あんた、さっきから開けたり閉めたりしてるでしょう」
「してる」
「何を探してるの」
「探してない」
「探してないのに開けるの?」
「開けると明かりが点く」
「電気を点けなさいよ」
母さんが台所の電気を点けた。
点けたら、冷蔵庫を開けても床が明るくならなくなった。俺は三度目を開けなかった。
◇
やかんに水を入れて、火にかけた。
火をつけたあと、湯が沸くまでは何もすることが無い。やかんの底で、細かい音が先に鳴りはじめる。音が大きくなって、それから急に静かになって、そのあとで沸く。
沸くまでのあいだ、俺は棚の下の段を見ていた。
餅の袋が二つ、置いたままになっている。袋の口は、外側へ二回折って、洗濯ばさみで留めてある。洗濯ばさみは青いやつで、洗濯用のを一つ持ってきたものである。
「それ、まだ出さないでよ」
「出さない」
「二十八日に出したら、三十一日には端が硬くなってるんだから」
「今日は二十八日か」
「二十八日よ。あんた、それも分かってなかったの」
「日曜だとは思ってた」
「日曜と二十八日は、同じ日のことなの」
やかんの音が、いちばん大きくなったところで急に静かになった。静かになってから沸くまでが、毎回長い。
◇
湯が沸いた。
茶を淹れて、台所の椅子に座って、飲んだ。飲み終わって、湯呑みを流しに置いた。
置いたところで、やることが無くなった。
流しの中には、朝の皿が二枚ある。洗うと、やることが一つ減る。減らすと、そのあとがもっと無くなる。
俺は皿を洗わなかった。洗わずに、水だけ張った。水を張ると、洗うのは明日でよくなる。
「あんた、水だけ張ったでしょう」
「張った」
「あれ、明日のあたしが洗うのよ」
「明日の俺が洗う」
「その人、あたし、まだ一度も会ったことがないわ」
◇
時計を見た。
まだ昼を少し過ぎたところだった。夕飯まで、だいぶある。だいぶあるのだが、そのあいだに何をするかは決まっていない。
俺は二階へ上がった。
上がる理由は特に無かった。下にいると、洗濯物を畳む列に入れられる。入れられると、振る回数のことで必ず一度言われる。
階段は、下から四段目だけ音が違う。四段目を踏むときだけ、少し高い音がする。踏まずに上がろうとすると、歩幅がおかしくなって、五段目でつまずく。
今日は普通に踏んだ。
◇
二階の廊下に、姿見が立っている。
母さんのもので、夏に寝室から出てきた。なぜ出てきたのかは、聞いていない。
枠は木で、下に低い台が付いている。台のぶんだけ鏡が持ち上がっているので、俺が前に立つと、頭のてっぺんが少し切れる。切れるのは、髪の上のほうだけだ。
母さんが立つと、頭の上に壁が映る。妹が立つと、もっと映る。切れるのは俺だけだ。
台の下に、埃が細く溜まっている。廊下の板の色が明るいので、そこだけ線になって見える。線は、端から端まで切れていない。
◇
俺は廊下の端まで歩いた。
端には物入れの扉がある。開けたことは何度もあるが、中に何が入っているかは覚えていない。今日は開けなかった。
扉の取っ手は下向きに付いていて、引くときに指が一本しか入らない。指を入れて引くと、扉が枠に当たって、一度止まる。止まったところからもう一度引くと開く。
端で向きを変えて、戻ってきた。
戻ってくる途中に、姿見がある。
◇
鏡には、廊下が映っていた。
廊下と、その奥の窓と、窓の下の壁が映っている。俺が正面に立つと、廊下は見えなくなる。
少し横へどくと、また廊下が見えた。
鏡の中の廊下は、こっちの廊下と左右が逆になっている。逆になっているのだが、廊下には目印になるものが無いので、逆かどうかは見ても分からない。分かるのは、窓の桟の位置だけだ。
◇
台詞なら、覚えているものがある。
去年の秋にやったやつだ。隣の部屋の高校生の役で、台詞は七行あった。七行のうち、いま出てくるのは四つだ。
「隣、うるさかったですか」
これが一つ目。
「その人、たぶんもう帰ってこないです」
これが二つ目。
「知らないです」
これが三つ目。
三つとも、隣の部屋の人について聞かれて答えるやつだった。答える役なので、聞くほうがいないと始まらない。
◇
どれを言うかを考えた。
一つ目は、短い。短いと、言い終わるのが早い。早く終わると、そのあとに何もすることが無くなる。
二つ目は、長い。長いぶん、途中で分からなくなる。途中で分からなくなると、頭からやり直すことになって、それはそれで面倒だ。
三つ目は、いちばん短い。短いが、これは相手がいないと成立しない。ここには相手がいない。
残るのは四つ目である。
四つ目は、玄関で言う台詞だった。撮ったときは、ドアの内側に立って、外から入ってくる人に向かって言った。入ってくる人のほうは、こっちを見ていなかった。
見ていなくても成立する。だから、一人でも言える。
◇
俺は姿見の前に立った。
鏡の中の男は、廊下に立っている。手は体の横に下りている。頭のてっぺんは、鏡の上の枠のところで切れていた。
肩の線は、鏡の枠の横棒とほぼ平行だった。平行かどうかは、枠があるから分かる。
「おかえりなさい」
言った。
◇
声が、廊下で止まった。
二階の廊下は短い。短いので、声が伸びない。伸びないまま、突き当たりの壁のところで落ちる。
落ちた。落ちたところに、何も残らなかった。
◇
下手だった。
言い方が遅い。頭の「お」のところで一度たまって、そこから先が全部その速さになる。最後の「い」で声が下がって、下がったところで息が足りなくなる。腕は体の横に下りたまま、指の先まで一つも動いていない。
どのくらい下手かというと、聞いていて途中で止めたくなる程度に下手だった。止めたくなったが、言っているのは自分なので、止めるのも自分だ。
◇
俺は笑った。
息だけが二回、短く出た。肩が一度上がって、下りた。
鏡の中の男は、笑っていなかった。肩だけが動いて、そこから上では何も起きていない。
◇
「おかえりなさい」
もう一度、言った。
二度目は、最初のところで声が引っかかった。引っかかったので、途中で止めた。止めて、また言った。
三度目は、引っかからなかった。引っかからなかったが、今度は速すぎた。速すぎたので、玄関で言う言葉に聞こえなくなった。何に聞こえたかというと、番号を読み上げているのに近い。
四度目は、言い終わる前に自分で吹き出した。息だけが出て、音にならなかった。出た息のぶんだけ、最後の音が抜けた。
鏡の中の男は、真顔のままそこにいた。真顔のまま、肩だけが二回動いた。肩が動いているのに顔が動いていないので、鏡の中は、しゃっくりをしている人みたいになっていた。
◇
下から、洗濯機の音がした。
脱水のところで、床ごと少し揺れる。揺れると、姿見の下の台が、廊下の板の上でわずかに鳴る。
鳴ったので、俺は少し横へどいた。どいたら、鏡にまた廊下が映った。
脱水は、途中で一度止まって、また回りはじめる。止まっているあいだは、家の中がいちばん静かになる。
静かなときのほうが、下手なのがよく分かった。
◇
夕飯まではまだある。まだあるのだが、そのあいだにやることは、さっきから一つも増えていない。
増えていないので、ここにいる。
◇
階段を上がってくる音がした。
妹が廊下の途中まで来て、止まった。
「兄ちゃん、そこで何してんの」
「立ってる」
「立ってるのは見えてる」
「じゃあ聞くな」
「聞いたのは、何のために立ってるかのほう」
「決めてない」
妹は、鏡と、俺と、台の下を順に見た。
見てから、何か言いかけて、やめた。やめたときに、口の形だけが残った。
「洗濯機、止まったら教えて」
「わかった」
「兄ちゃん、それまでずっとそこにいるの」
「たぶん」
妹は下りていった。四段目が鳴って、そのあと、下で洗濯機がもう一度回りはじめた。
◇
台の下の埃の線が、切れていた。
切れているのは、鏡の正面のところだけだ。切れた幅は、靴下二つぶんくらいだった。板の色が、そこだけ周りより明るい。
俺は、その明るいところの上に立った。




