第123話 大晦日、餅が二枚とも裂けた
ざるのみかんが、八つになっていた。
昨日は十個あった。減った二つのうち、俺が食ったのは一つである。もう一つがどこへ行ったのかは、ざるを見ても分からない。
台所の隅の空き箱は、まだ潰していない。潰していないので、二箱目がその隣に置いてあって、通るときに横向きになる。父さんが潰すと言ってから、二日たっている。
妹の部屋は、ドアが閉まっていた。中で、何かを引き出す音が二回した。
俺は一つ取って、二階へ上がった。
◇
台の下の、板が明るくなっているところは、靴下二つぶんのままだった。
その上に立って、言った。
「おかえりなさい」
声は、突き当たりの壁のところで落ちた。壁の手前でいったん膨らんで、そこから下へ落ちる。
もう一度言った。二度目は、最後の「い」で下がらなかった。下がらなかったが、今度は途中で息が余った。余ったぶんが、語尾のうしろに残った。
残ったぶんを消そうとして、三度目は息を吸わずに言った。息を吸わずに言うと、声が出ない。
出ないので、吸ってから言った。吸ってから言うと、今度は最初のところが強くなった。強くなったところを弱くすると、後ろが聞こえなくなった。
どこかを直すと、別のどこかが動く。それだけは、はっきりしていた。
◇
雨が降っていた。
窓の下のほうが濡れていて、上のほうは乾いている。風の向きで、当たる高さが決まるらしい。廊下の窓は、下から三分の一のところに線が引いてあるみたいになっていた。
台所へ下りたら、母さんが鍋を出していた。
「あんた、今日は何もないの」
「無い」
「一日?」
「一日だ」
「じゃあ、これ、あとで火を止めて。三十分たったら止めて、蓋は開けないでおいてちょうだい。開けると味が入らないから」
「わかった」
「三十分よ。二十分でも四十分でもないからね」
「わかった」
「あんた、こういうときにテレビを見はじめると、絶対に忘れるでしょう。この前もそうだったのよ。お母さん、帰ってきたら鍋が真っ黒だったんだから」
「あれは五分だ」
「五分でも真っ黒になるの」
◇
三十分は、思ったより長かった。
台所の時計を見て、それから茶の間へ行って、また台所へ戻った。戻ったときに、まだ半分も過ぎていなかった。
俺は台所の椅子に座って、鍋を見ていた。
蓋のふちから、湯気が細く出ている。出ている場所は一箇所だけで、そこだけ蓋が浮いているらしい。浮いているところに指を近づけると、熱い。
鍋の中は見ていない。開けるなと言われたので、開けていない。開けたらどうなるかは、聞いていない。味が入らないと言われたが、入らないというのが、どのくらい入らないのかは分からない。
どちらにしても、開けなければ起きない。起きないことは、確かめようがない。確かめようとした時点で、確かめる前の状態が無くなる。
時計の秒針は、上の半分を回るときのほうが速く見える。速く見えるだけで、たぶん同じ速さである。
残りが五分になったところで、台所の窓の外で、隣の家の人が傘を畳んだ。畳んでから、玄関の前で二回振って、それから中へ入っていった。振ったぶんの水が、コンクリートの同じところに落ちた。
火を止めた。止めてから、二階へ上がった。
◇
大晦日は、朝から台所が使われていた。
流しの横に、ざるが三つ並んでいる。どれも中身が違っていて、いちばん手前のは水が張ってあった。母さんは朝から一度も座っていない。
棚の下の段から、餅の袋が出してあった。洗濯ばさみは外れていて、袋の口が開いている。開いた口が、内側へ丸まっていた。
「あんた、網」
「どこだ」
「引き出し」
「どの引き出し」
「鍋つかみのとこ」
俺は引き出しを開けた。
鍋つかみは手前にある。その下に、菜箸と、輪ゴムの束と、開けたことのない小さい箱があった。網は無かった。
母さんが横から手を伸ばして、引き出しの奥から網を出した。出すときに、俺の腕の下を通った。
「毎年ここよ」
「毎年探してる」
「探す前に一回下まで見なさいよ」
◇
「あんた、焼いて」
「焼くのか」
「焼いて」
「来年はやらせないと言ってた」
「言ったわよ。でも今日は手が空いてないの。あんたも空いてるでしょう」
「空いてる」
「じゃあ焼いて」
母さんは網をコンロに乗せて、火をつけた。
つけてから、俺の横をすり抜けて、流しのほうへ戻った。戻る途中で、こっちを見ないまま言った。
「膨らみ始めたら、一回ひっくり返すの。膨らみきってからじゃ遅いから」
「わかった」
「去年もそう言ったんだけどね」
◇
餅は二枚乗せた。
最初は何も起きない。表面が乾いてきて、色が少し変わって、そこから急に変わる。急に変わるところを見ていないといけない。
俺は見ていた。
左のほうが先に膨らみはじめた。膨らみはじめたので、菜箸を入れた。入れたところで、右のほうも膨らみはじめた。
左を返して、右へ持ち替えた。持ち替えているあいだに、左の真ん中が割れた。
割れたところから中身が出て、網に垂れた。垂れたぶんが、網の下の火に当たって、白い煙が上がった。
右を返そうとしたら、右も割れていた。
割れ方は、左と違った。左は真ん中に横へ一本入っただけだが、右は真ん中から二方向に分かれていて、上から見ると、川が枝分かれしているみたいになっていた。
「裂けたでしょう」
「裂けた」
「二枚とも?」
「二枚ともだ」
◇
母さんは金串の先で、網に垂れたところをこそげ取った。
取りながら、こっちを見なかった。取り終わってから、網を持ち上げて、下の受け皿を確かめた。受け皿のほうにも落ちていた。
「来年はやらせない」
「前もそれを聞いた」
「今年も言うわよ」
「来年も言うのか」
「あんたが焼くかぎり言うわよ」
裂けたやつを皿に移した。移すと、裂けた口がこっちを向く。向きを変えると、下に垂れていたほうが上に来る。上に来ると、そっちのほうが裂けて見える。
俺は元の向きに戻した。
◇
父さんは茶の間の隅にいた。
いつもの場所に座って、新聞を膝に置いている。大晦日の新聞は、普通の日より厚い。厚いので、真ん中で二つに折ると、折ったところが自分で開いてくる。開いてくるのを、父さんは手のひらで押さえていた。
「餅」
「焼いた」
「裂けたか」
「裂けた」
「そうか」
父さんはそれ以上は言わなかった。言わないで、押さえていた手を新聞から離した。離したら、折り目のところがまた開いた。開いたのを、もう一度押さえた。
◇
茶の間のテレビが点いていた。
画面の中で、人が横に一列に並んでいる。並んだ人の後ろに、数字の大きい看板が立っていた。看板の数字は、時間がたつと減るやつだ。
「あんた、これ、出るはずだったんじゃないの」
「出るはずだった」
「じゃあ、見ないの」
「餅が裂けてる」
「餅は逃げないでしょうが」
「冷める」
母さんは何か言いかけて、やめた。
やめて、皿を持って、ちゃぶ台のほうへ運んだ。運ぶときに、上の一枚が少し滑って、皿の縁で止まった。
「今年は餅が二枚多いのよ」
「そうか」
「あんたが家にいるからよ」
◇
妹が下りてきて、テレビの前でリモコンを持った。
「兄ちゃん、これ消してないよね」
「消してない」
「ほんとに?」
「押すのはそっちだ」
「消したら、あたし、正月ずっと怒ってるからね」
妹は画面の右上を見て、それから何も言わずに戻していった。戻すときに、リモコンをちゃぶ台の上に置いた。置いた場所は、俺の手が届くほうだった。
俺は餅を食った。裂けたところは、食うぶんには関係ない。裂けた口から食うと、そこから先が全部ちぎれる。
◇
夜になって、そばが出た。
そばの汁は、別の鍋で作ってあった。あとからかけると、丼の中でそばが一度浮く。浮いたところへ上から具を乗せる。乗せるのは、かまぼこと、ねぎと、天かすだ。天かすは、時間がたつと汁を吸って色が変わる。
俺は色が変わる前に食った。
妹は、色が変わるまで待っていた。待っているあいだに、母さんが、じゃあ最初から汁に入れておけばいいじゃないの、と言った。妹は、それは違う、と答えた。違う理由は言わなかった。
◇
十二時が近くなった。
画面の右上に、小さい数字が出ている。看板の数字とは別のやつで、そっちのほうが速く減る。妹がちゃぶ台の横に座って、リモコンを取った。
「録れてる」
「そうか」
「兄ちゃん、起きてる?」
「起きてる」
「目、半分閉じてるよ」
「開いてる」
数字が変わった。
外の遠くのほうで、鐘が鳴りはじめた。鳴りはじめたところで、母さんが台所から出てきて、ちゃぶ台の前で一度だけ手を合わせた。合わせて、すぐ下ろした。下ろしてから、皿を三枚まとめて持って、また台所へ戻った。
俺は残っていた餅を食った。
冷めた餅は、裂けたところが硬くなる。硬くなったところは、噛むと最初に音が出る。
◇
正月の二日は、家に誰もいない時間があった。
母さんと父さんは出かけていて、妹は自分の部屋にいる。下のテレビは点いていない。点いていないと、階段の音がよく聞こえる。
廊下から部屋へ入って、ドアを閉めたところだった。
床に座ったら、目線の高さが合っていた。
「あんた、廊下で何してるの」
「別に」
「別にって、聞こえてるわよ」
「聞こえてたか」
「聞こえてるわよ。ここ、ドアが薄いんだから。あんた、自分の家のドアの厚さぐらい知っておきなさいよ」
人形は机の上に立っていた。
台座の向きは、窓のほうを向いている。向いたまま、首だけこちらへ動かした。動かしたところで止めて、そのままの角度で喋りはじめた。
この角度で喋るときは、たいてい長い。
◇
「何か言ってたでしょう」
「言ってた」
「何を」
「台詞だ」
「どこの」
「前にやったドラマのだ」
「あんた、あれ覚えてたの」
「全部じゃない」
人形は台座の上を半分だけ回った。
回って、また戻ってきた。戻ってきたところで、こっちを見上げた。
「……そう」
「そうだ」
「それで?」
「言ってるだけだ」
「……そうでしょうね」
「そうだ」
「聞いてるほうは、たまったもんじゃないけどね」
「そうか」
「そうよ」
人形は台座の上で足を踏み替えた。
踏み替えて、また窓のほうを向いた。向いたまま、しばらくそのままでいた。窓の外は明るくて、向かいの家の屋根が見える。二日から洗濯物が干してあるのは、あの屋根だけだった。
「あんた、正月くらい下にいたらどうなの」
「下は人がいる」
「人がいるところに行くのが正月でしょう」
「みかんは上にもある」
「そういう話じゃないの」
「じゃあ、どういう話だ」
「……いいわ。あんたに聞いたわたしが悪かったの」
人形は、そこから何も言わなかった。
言わないあいだ、俺は床に座ったまま、机の脚のところを見ていた。机の脚には、下から三センチのところに傷が一本ある。前からある傷で、いつ付いたかは覚えていない。
◇
立って、廊下へ出た。
廊下の電気は点けていなかった。昼でも、二階の廊下は明るくない。窓が一つしかなくて、その窓が北を向いている。北を向いた窓なので、昼のうちは明るさがあまり変わらない。変わるのは、雲が動いたときだけだ。
鏡の中は、廊下より少し暗く見えた。
暗いところで言ってみたら、前に言われたことが出てきた。
お前、芝居の理屈がない。
言ったのは室井さんだ。前にドラマで一度ついた監督で、同じ場面を何度も撮り直す人だった。撮り終わったあとで、一度だけそう言われた。
◇
理屈というのは、何なのか。
無いと言われたということは、有る人がいるということだ。有る人は、たぶん、これをこうするからこうなる、というのを持っている。
俺は順番を変えてみた。後ろから読むと、意味が分からなくなった。次に速さを変えた。速いと聞き取れないし、遅いと自分が飽きる。
どれも、理屈ではない気がした。
三分くらいで、やめた。やめたのは、下から匂いがしてきたからだ。
◇
五日の夕方に、ざるのみかんは一つになった。
最後の一つは、いちばん下にあったやつで、底が平らになっている。取り出したら、ざるの底に丸い跡が残っていた。跡は、しばらく見ていても消えなかった。
台所の段ボールは、二箱目の上の段が半分空いている。空いたところに、新聞紙が丸めて詰めてあった。詰めておかないと、下の段のみかんが上がってきて、つぶれるらしい。
一箱目の空き箱は、まだ潰していない。
流しの中の皿は、水に浸かったままだった。浸かっているほうが、こびりつきは取れるらしい。取れるのだとしても、取ったあとに洗う人は、まだ現れていない。
録画の一覧には、名前が二つ並んでいた。二つとも、左端に丸が付いている。右上の棒の色は、左の端のところで止まったままだった。
◇
俺は一つ持って、二階へ上がった。
持って上がると、片手がふさがる。ふさがれば、台の上に置く。置く場所は、枠の右下の角のところだ。
台の下の、板が明るくなっているところは、横に広がっていた。
範囲の縁は、まっすぐではない。片側だけ外へ出ている。出ているほうが、窓に近いほうだった。
俺はその上に立って、言った。それから、下りた。
◇
台所の電気を点けて、炊飯器の蓋を開けた。
中は半分くらい残っていて、表面が少し乾いていた。乾いたところは、しゃもじで裏返すと、下から白いのが出てくる。出てきたほうを上にして、よそう。上下を逆にするだけで、見た目が変わる。
鍋はコンロの上にそのまま置いてある。蓋を開けたら、色が濃くなっていた。三十日のやつに、母さんが正月のあいだに一度足してある。
足したほうの鍋は、蓋を開けるたびに一度、湯気がまとめて出る。出たあとは、しばらく出ない。出ないあいだに蓋を戻すと、次に開けたときにまた出る。
あれは日がたつほど味が入る。入るというより、しみる。しみたやつを飯にかけて食うのがいちばんいい。汁を多めにかけると、飯の下のほうまで届く。
俺は茶碗に飯をよそった。よそってから、台所の壁の時計を見た。針が数字の上を通っていくのを、しばらく見ていた。時計の下に、電池を替えた日付を書いた紙が貼ってある。書いたのは母さんで、字が小さい。
鍋の汁を、多めにかけた。かけたぶんだけ、茶碗が重くなった。
俺はそれを温めた。
◇
温まる前に、妹が下りてきた。
「兄ちゃん、それ何」
「飯だ」
「見りゃわかるって。上に何かけたの」
「鍋のやつだ」
「ずるい」
「まだある」
「あるなら先に言ってよ」
妹は棚から茶碗を出した。
出してから、よそわないで、俺の横に立った。立ったまま、俺のほうの茶碗を見ていた。
「兄ちゃん、それ、汁が多くない?」
「多い」
「あたしのも、それくらいにして」
「自分でやれ」
「兄ちゃんがやったほうが多くなるじゃん」




