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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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123/236

第123話 大晦日、餅が二枚とも裂けた

 ざるのみかんが、八つになっていた。


 昨日は十個あった。減った二つのうち、俺が食ったのは一つである。もう一つがどこへ行ったのかは、ざるを見ても分からない。


 台所の隅の空き箱は、まだ潰していない。潰していないので、二箱目がその隣に置いてあって、通るときに横向きになる。父さんが潰すと言ってから、二日たっている。


 妹の部屋は、ドアが閉まっていた。中で、何かを引き出す音が二回した。


 俺は一つ取って、二階へ上がった。


   ◇


 台の下の、板が明るくなっているところは、靴下二つぶんのままだった。


 その上に立って、言った。


「おかえりなさい」


 声は、突き当たりの壁のところで落ちた。壁の手前でいったん膨らんで、そこから下へ落ちる。


 もう一度言った。二度目は、最後の「い」で下がらなかった。下がらなかったが、今度は途中で息が余った。余ったぶんが、語尾のうしろに残った。


 残ったぶんを消そうとして、三度目は息を吸わずに言った。息を吸わずに言うと、声が出ない。


 出ないので、吸ってから言った。吸ってから言うと、今度は最初のところが強くなった。強くなったところを弱くすると、後ろが聞こえなくなった。


 どこかを直すと、別のどこかが動く。それだけは、はっきりしていた。


   ◇


 雨が降っていた。


 窓の下のほうが濡れていて、上のほうは乾いている。風の向きで、当たる高さが決まるらしい。廊下の窓は、下から三分の一のところに線が引いてあるみたいになっていた。


 台所へ下りたら、母さんが鍋を出していた。


「あんた、今日は何もないの」

「無い」

「一日?」

「一日だ」

「じゃあ、これ、あとで火を止めて。三十分たったら止めて、蓋は開けないでおいてちょうだい。開けると味が入らないから」

「わかった」

「三十分よ。二十分でも四十分でもないからね」

「わかった」

「あんた、こういうときにテレビを見はじめると、絶対に忘れるでしょう。この前もそうだったのよ。お母さん、帰ってきたら鍋が真っ黒だったんだから」

「あれは五分だ」

「五分でも真っ黒になるの」


   ◇


 三十分は、思ったより長かった。


 台所の時計を見て、それから茶の間へ行って、また台所へ戻った。戻ったときに、まだ半分も過ぎていなかった。


 俺は台所の椅子に座って、鍋を見ていた。


 蓋のふちから、湯気が細く出ている。出ている場所は一箇所だけで、そこだけ蓋が浮いているらしい。浮いているところに指を近づけると、熱い。


 鍋の中は見ていない。開けるなと言われたので、開けていない。開けたらどうなるかは、聞いていない。味が入らないと言われたが、入らないというのが、どのくらい入らないのかは分からない。


 どちらにしても、開けなければ起きない。起きないことは、確かめようがない。確かめようとした時点で、確かめる前の状態が無くなる。


 時計の秒針は、上の半分を回るときのほうが速く見える。速く見えるだけで、たぶん同じ速さである。


 残りが五分になったところで、台所の窓の外で、隣の家の人が傘を畳んだ。畳んでから、玄関の前で二回振って、それから中へ入っていった。振ったぶんの水が、コンクリートの同じところに落ちた。


 火を止めた。止めてから、二階へ上がった。


   ◇


 大晦日は、朝から台所が使われていた。


 流しの横に、ざるが三つ並んでいる。どれも中身が違っていて、いちばん手前のは水が張ってあった。母さんは朝から一度も座っていない。


 棚の下の段から、餅の袋が出してあった。洗濯ばさみは外れていて、袋の口が開いている。開いた口が、内側へ丸まっていた。


「あんた、網」

「どこだ」

「引き出し」

「どの引き出し」

「鍋つかみのとこ」


 俺は引き出しを開けた。


 鍋つかみは手前にある。その下に、菜箸と、輪ゴムの束と、開けたことのない小さい箱があった。網は無かった。


 母さんが横から手を伸ばして、引き出しの奥から網を出した。出すときに、俺の腕の下を通った。


「毎年ここよ」

「毎年探してる」

「探す前に一回下まで見なさいよ」


   ◇


「あんた、焼いて」

「焼くのか」

「焼いて」

「来年はやらせないと言ってた」

「言ったわよ。でも今日は手が空いてないの。あんたも空いてるでしょう」

「空いてる」

「じゃあ焼いて」


 母さんは網をコンロに乗せて、火をつけた。


 つけてから、俺の横をすり抜けて、流しのほうへ戻った。戻る途中で、こっちを見ないまま言った。


「膨らみ始めたら、一回ひっくり返すの。膨らみきってからじゃ遅いから」

「わかった」

「去年もそう言ったんだけどね」


   ◇


 餅は二枚乗せた。


 最初は何も起きない。表面が乾いてきて、色が少し変わって、そこから急に変わる。急に変わるところを見ていないといけない。


 俺は見ていた。


 左のほうが先に膨らみはじめた。膨らみはじめたので、菜箸を入れた。入れたところで、右のほうも膨らみはじめた。


 左を返して、右へ持ち替えた。持ち替えているあいだに、左の真ん中が割れた。


 割れたところから中身が出て、網に垂れた。垂れたぶんが、網の下の火に当たって、白い煙が上がった。


 右を返そうとしたら、右も割れていた。


 割れ方は、左と違った。左は真ん中に横へ一本入っただけだが、右は真ん中から二方向に分かれていて、上から見ると、川が枝分かれしているみたいになっていた。


「裂けたでしょう」

「裂けた」

「二枚とも?」

「二枚ともだ」


   ◇


 母さんは金串の先で、網に垂れたところをこそげ取った。


 取りながら、こっちを見なかった。取り終わってから、網を持ち上げて、下の受け皿を確かめた。受け皿のほうにも落ちていた。


「来年はやらせない」

「前もそれを聞いた」

「今年も言うわよ」

「来年も言うのか」

「あんたが焼くかぎり言うわよ」


 裂けたやつを皿に移した。移すと、裂けた口がこっちを向く。向きを変えると、下に垂れていたほうが上に来る。上に来ると、そっちのほうが裂けて見える。


 俺は元の向きに戻した。


   ◇


 父さんは茶の間の隅にいた。


 いつもの場所に座って、新聞を膝に置いている。大晦日の新聞は、普通の日より厚い。厚いので、真ん中で二つに折ると、折ったところが自分で開いてくる。開いてくるのを、父さんは手のひらで押さえていた。


「餅」

「焼いた」

「裂けたか」

「裂けた」

「そうか」


 父さんはそれ以上は言わなかった。言わないで、押さえていた手を新聞から離した。離したら、折り目のところがまた開いた。開いたのを、もう一度押さえた。


   ◇


 茶の間のテレビが点いていた。


 画面の中で、人が横に一列に並んでいる。並んだ人の後ろに、数字の大きい看板が立っていた。看板の数字は、時間がたつと減るやつだ。


「あんた、これ、出るはずだったんじゃないの」

「出るはずだった」

「じゃあ、見ないの」

「餅が裂けてる」

「餅は逃げないでしょうが」

「冷める」


 母さんは何か言いかけて、やめた。


 やめて、皿を持って、ちゃぶ台のほうへ運んだ。運ぶときに、上の一枚が少し滑って、皿の縁で止まった。


「今年は餅が二枚多いのよ」

「そうか」

「あんたが家にいるからよ」


   ◇


 妹が下りてきて、テレビの前でリモコンを持った。


「兄ちゃん、これ消してないよね」

「消してない」

「ほんとに?」

「押すのはそっちだ」

「消したら、あたし、正月ずっと怒ってるからね」


 妹は画面の右上を見て、それから何も言わずに戻していった。戻すときに、リモコンをちゃぶ台の上に置いた。置いた場所は、俺の手が届くほうだった。


 俺は餅を食った。裂けたところは、食うぶんには関係ない。裂けた口から食うと、そこから先が全部ちぎれる。


   ◇


 夜になって、そばが出た。


 そばの汁は、別の鍋で作ってあった。あとからかけると、丼の中でそばが一度浮く。浮いたところへ上から具を乗せる。乗せるのは、かまぼこと、ねぎと、天かすだ。天かすは、時間がたつと汁を吸って色が変わる。


 俺は色が変わる前に食った。


 妹は、色が変わるまで待っていた。待っているあいだに、母さんが、じゃあ最初から汁に入れておけばいいじゃないの、と言った。妹は、それは違う、と答えた。違う理由は言わなかった。


   ◇


 十二時が近くなった。


 画面の右上に、小さい数字が出ている。看板の数字とは別のやつで、そっちのほうが速く減る。妹がちゃぶ台の横に座って、リモコンを取った。


「録れてる」

「そうか」

「兄ちゃん、起きてる?」

「起きてる」

「目、半分閉じてるよ」

「開いてる」


 数字が変わった。


 外の遠くのほうで、鐘が鳴りはじめた。鳴りはじめたところで、母さんが台所から出てきて、ちゃぶ台の前で一度だけ手を合わせた。合わせて、すぐ下ろした。下ろしてから、皿を三枚まとめて持って、また台所へ戻った。


 俺は残っていた餅を食った。


 冷めた餅は、裂けたところが硬くなる。硬くなったところは、噛むと最初に音が出る。


   ◇


 正月の二日は、家に誰もいない時間があった。


 母さんと父さんは出かけていて、妹は自分の部屋にいる。下のテレビは点いていない。点いていないと、階段の音がよく聞こえる。


 廊下から部屋へ入って、ドアを閉めたところだった。


 床に座ったら、目線の高さが合っていた。


「あんた、廊下で何してるの」

「別に」

「別にって、聞こえてるわよ」

「聞こえてたか」

「聞こえてるわよ。ここ、ドアが薄いんだから。あんた、自分の家のドアの厚さぐらい知っておきなさいよ」


 人形は机の上に立っていた。


 台座の向きは、窓のほうを向いている。向いたまま、首だけこちらへ動かした。動かしたところで止めて、そのままの角度で喋りはじめた。


 この角度で喋るときは、たいてい長い。


   ◇


「何か言ってたでしょう」

「言ってた」

「何を」

「台詞だ」

「どこの」

「前にやったドラマのだ」

「あんた、あれ覚えてたの」

「全部じゃない」


 人形は台座の上を半分だけ回った。


 回って、また戻ってきた。戻ってきたところで、こっちを見上げた。


「……そう」

「そうだ」

「それで?」

「言ってるだけだ」

「……そうでしょうね」

「そうだ」

「聞いてるほうは、たまったもんじゃないけどね」

「そうか」

「そうよ」


 人形は台座の上で足を踏み替えた。


 踏み替えて、また窓のほうを向いた。向いたまま、しばらくそのままでいた。窓の外は明るくて、向かいの家の屋根が見える。二日から洗濯物が干してあるのは、あの屋根だけだった。


「あんた、正月くらい下にいたらどうなの」

「下は人がいる」

「人がいるところに行くのが正月でしょう」

「みかんは上にもある」

「そういう話じゃないの」

「じゃあ、どういう話だ」

「……いいわ。あんたに聞いたわたしが悪かったの」


 人形は、そこから何も言わなかった。


 言わないあいだ、俺は床に座ったまま、机の脚のところを見ていた。机の脚には、下から三センチのところに傷が一本ある。前からある傷で、いつ付いたかは覚えていない。


   ◇


 立って、廊下へ出た。


 廊下の電気は点けていなかった。昼でも、二階の廊下は明るくない。窓が一つしかなくて、その窓が北を向いている。北を向いた窓なので、昼のうちは明るさがあまり変わらない。変わるのは、雲が動いたときだけだ。


 鏡の中は、廊下より少し暗く見えた。


 暗いところで言ってみたら、前に言われたことが出てきた。


 お前、芝居の理屈がない。


 言ったのは室井さんだ。前にドラマで一度ついた監督で、同じ場面を何度も撮り直す人だった。撮り終わったあとで、一度だけそう言われた。


   ◇


 理屈というのは、何なのか。


 無いと言われたということは、有る人がいるということだ。有る人は、たぶん、これをこうするからこうなる、というのを持っている。


 俺は順番を変えてみた。後ろから読むと、意味が分からなくなった。次に速さを変えた。速いと聞き取れないし、遅いと自分が飽きる。


 どれも、理屈ではない気がした。


 三分くらいで、やめた。やめたのは、下から匂いがしてきたからだ。


   ◇


 五日の夕方に、ざるのみかんは一つになった。


 最後の一つは、いちばん下にあったやつで、底が平らになっている。取り出したら、ざるの底に丸い跡が残っていた。跡は、しばらく見ていても消えなかった。


 台所の段ボールは、二箱目の上の段が半分空いている。空いたところに、新聞紙が丸めて詰めてあった。詰めておかないと、下の段のみかんが上がってきて、つぶれるらしい。


 一箱目の空き箱は、まだ潰していない。


 流しの中の皿は、水に浸かったままだった。浸かっているほうが、こびりつきは取れるらしい。取れるのだとしても、取ったあとに洗う人は、まだ現れていない。


 録画の一覧には、名前が二つ並んでいた。二つとも、左端に丸が付いている。右上の棒の色は、左の端のところで止まったままだった。


   ◇


 俺は一つ持って、二階へ上がった。


 持って上がると、片手がふさがる。ふさがれば、台の上に置く。置く場所は、枠の右下の角のところだ。


 台の下の、板が明るくなっているところは、横に広がっていた。


 範囲の縁は、まっすぐではない。片側だけ外へ出ている。出ているほうが、窓に近いほうだった。


 俺はその上に立って、言った。それから、下りた。


   ◇


 台所の電気を点けて、炊飯器の蓋を開けた。


 中は半分くらい残っていて、表面が少し乾いていた。乾いたところは、しゃもじで裏返すと、下から白いのが出てくる。出てきたほうを上にして、よそう。上下を逆にするだけで、見た目が変わる。


 鍋はコンロの上にそのまま置いてある。蓋を開けたら、色が濃くなっていた。三十日のやつに、母さんが正月のあいだに一度足してある。


 足したほうの鍋は、蓋を開けるたびに一度、湯気がまとめて出る。出たあとは、しばらく出ない。出ないあいだに蓋を戻すと、次に開けたときにまた出る。


 あれは日がたつほど味が入る。入るというより、しみる。しみたやつを飯にかけて食うのがいちばんいい。汁を多めにかけると、飯の下のほうまで届く。


 俺は茶碗に飯をよそった。よそってから、台所の壁の時計を見た。針が数字の上を通っていくのを、しばらく見ていた。時計の下に、電池を替えた日付を書いた紙が貼ってある。書いたのは母さんで、字が小さい。


 鍋の汁を、多めにかけた。かけたぶんだけ、茶碗が重くなった。


 俺はそれを温めた。


   ◇


 温まる前に、妹が下りてきた。


「兄ちゃん、それ何」

「飯だ」

「見りゃわかるって。上に何かけたの」

「鍋のやつだ」

「ずるい」

「まだある」

「あるなら先に言ってよ」


 妹は棚から茶碗を出した。


 出してから、よそわないで、俺の横に立った。立ったまま、俺のほうの茶碗を見ていた。


「兄ちゃん、それ、汁が多くない?」

「多い」

「あたしのも、それくらいにして」

「自分でやれ」

「兄ちゃんがやったほうが多くなるじゃん」

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