第124話 肉まんを二つ持ってきた男
インターホンが二回鳴った。
二回目は、一回目が鳴り終わる前だった。
母さんが出て、俺を呼んだ。呼び方が、宅配便のときと違っていた。宅配便のときは、名前だけを一回言う。今日は二回言って、二回目のほうが高かった。
◇
玄関に、ケイが立っていた。
コートの前を開けたまま、片手にコンビニの袋を提げている。袋の中で、何かが二つぶつかっていた。
「よお」
「なんでいる」
「近いからや」
「近くない」
「電車で四十分は近いほうやろ」
ケイは袋を持ち替えた。持ち替えて、玄関の三和土に片足だけ入れた。
「収録は」
「飛んだ」
「降ろされたのか」
「ちゃう。延期。局の都合や。撮る日がずれただけで、番組は無くならへん。俺、犬飼さんに三回聞いたからな。三回とも同じこと言われた」
「そうか」
「今日から打ち合わせやったんやで。十二日から三日で組んでたやつが、まるごと後ろへ行った」
「そうか」
「三学期が始まったばっかりやのに、今日は学校も休みや。朝から何も無いわけや」
「そうか」
「そうかて。お前、いま自分ちの玄関に立ってる顔で言うことちゃうで」
「玄関に立ってる」
「そういうことちゃうねん」
「じゃあ、どういうことだ」
「……まあええわ。上がるで」
「上がっていいとは言ってない」
「言うまで待っとったら日が暮れるやろ」
ケイは靴を脱いだ。
脱ぎながら、右足の踵で床を二回叩いた。叩いたのは、たぶん本人も気づいていない。
◇
「ケイくん、寒かったでしょう」
「おばさん、めっちゃ寒いです。この家、玄関だけ暖かいですね」
「そう?」
「そうです。ここ、風の通り道になってへんのやと思います」
母さんが台所へ行った。
行ったあとで、ケイが袋を持ち上げて、中を見せた。中は肉まんが二つだった。
「一個やる」
「もらう」
「即答やんけ」
「肉まんだ」
「知っとるわ。俺が買うてきたんやから」
「二つ買ってきたのは、二人で食う前提だろう」
「せやけど、普通そこは一回遠慮するとこやろ。遠慮して、俺が押して、そこで受け取るやんか」
「時間がかかる」
「かかるけど、そこがええねん」
俺たちは玄関で肉まんを食った。
上がり框に二人で腰かけて食った。ケイは半分食ったところで、中の具のほうだけ先に食おうとして、皮の底が抜けた。抜けたぶんを、手のひらで受けていた。
「これ、たまになるねん」
「なるな」
「なるやろ。作ってる側も分かってると思うねん」
食い終わって、袋を丸めて、ケイがそれをコートのポケットに入れた。ポケットに入れてから、また出して、玄関の靴箱の上に置いた。
「上、行くか」
「行く」
階段を上がった。
ケイは四段目で足を止めて、もう一度踏んだ。
「この段、鳴るな」
「鳴る」
「うちは鳴らへんかった」
「そうか」
「言うほどの話ちゃうけどな」
◇
二階の廊下に上がったところで、ケイが止まった。
「なんやこれ」
「鏡だ」
「見たらわかるわ。なんでこんなとこにあんねん」
「母さんのだ」
「廊下に置く?」
「置いた」
ケイは姿見の前に立った。
立って、自分の前髪を横から見て、指で一度直した。直したあとで、もう一度横から見た。
それから、少し離れて、全身を見た。見て、片足を前に出して、また戻した。戻したところで、肩の位置を直した。
鏡の前に立ってから、ここまで一言も喋っていない。喋らないケイを、俺はあまり見ない。
◇
「ええな、これ。全身入るやん」
「頭が切れる」
「お前がでかいだけやろ」
ケイが横にどいた。
俺が前に立つと、鏡の上の枠のところで頭が切れる。ケイが立つと、頭の上に壁が入る。
「な。俺、入っとるやろ」
「入ってる」
「勝ったな」
「何にだ」
◇
ケイが台の下を見た。
「ここだけ埃ないで」
「そうか」
「そうかて。ここだけやで。ほれ、こっちは線みたいに溜まっとる」
「掃除した」
「お前が?」
「した」
「お前が掃除する家、俺、一回も見たことないねんけど」
◇
俺は自分の部屋からクッションを二つ持ってきた。
持ってきて、廊下に置いた。ケイは置いたほうに座らずに、もう一つのほうへ座った。同じものが二つあるだけなので、どちらでもいい。
座ってから、ケイは足を組んだ。組んだ足の先が、床のほうで小さく上下していた。
◇
「なあ、なんか言うてみ」
「何をだ」
「なんでもええ。台詞とか」
「無い」
「あるやろ。前に、ドラマ出とったやん」
「あった」
「役、なんやったん」
「隣の部屋の高校生だ」
「名前は」
「広瀬」
「下は」
「無い」
「無いんかい」
「台本に、下は書いてなかった」
「ほな、その広瀬の台詞や。言うてみ」
俺は少し考えた。
考えて、立った。
「おかえりなさい」
◇
ケイは三秒くらい黙った。
それから、床に手をついて、前のめりになって笑った。笑いながら、片手で床を叩いた。叩く音が、下まで聞こえた気がした。
「あかん。あかんて。なんやそれ」
「台詞だ」
「台詞やのは分かんねん。なんでそんな、荷物受け取るときの声やねん」
「そうか」
「宅配の人が言うほうやんけ、それ」
◇
「じゃあ、やってみろ」
「俺が?」
「やれ」
「ええで。見とけ」
ケイは立ち上がった。
立ち上がって、肩を二回回して、首を横に倒して、それから鏡のほうを向いた。準備が長い。
「おかえりなさい」
◇
ひどかった。
どうひどいかというと、まず、声が大きい。玄関で言う音量ではない。それから、最後のところで顎が上がる。顎が上がるので、言い終わりに上を向いている。
上を向いて挨拶をする人は、玄関にいない。いるとしたら、二階から降りてくる人に向かって言っている場合だが、それだと今度は立っている場所が違う。
「どや」
「玄関が広い」
「は?」
「たぶん、五十メートルくらいある」
◇
「お前な」
「本当だ」
「ええか。芝居っちゅうのは、気持ちや。気持ち入れたら伝わんねん。俺は今、帰ってきた家族に向かって、めっちゃあったかい気持ちを送ってん」
「送ってた」
「せやろ」
「送りすぎだ」
ケイは口を開けて、そのまま閉じた。
閉じてから、もう一度鏡を向いて、今度は小さい声で言った。小さくすると、今度は口が動いていなかった。
口が動いていないと、鏡の中では、何も言っていない人になる。何も言っていない人が、言い終わったあとの顔をしていた。
◇
「お前、次」
「おかえりなさい」
「遅い」
「そうか」
「遅いねん。もっと、こう、来た! って感じで」
「来た」
「ちゃうねん。言葉やなくて」
◇
俺たちは交互に言った。
ケイが言って、俺が言って、またケイが言った。ケイのは、言うたびに音量が変わった。俺のは、言うたびにどこかが変わったが、どこが変わったかは、そのつど違っていた。
途中で、ケイが数を数えはじめた。数えたのは自分のぶんだけで、俺のぶんは数えなかった。数えているうちに分からなくなって、やめた。
どちらも良くならなかった。
良くならないのに、やめる話にならなかった。やめる話が出ないと、次を言う。次を言うと、その次も言う。廊下は狭いので、二人で立つと、どちらかが半歩ずれる。ずれたほうが、鏡の端に寄る。
◇
「他のは」
「一つある」
「やれ」
「隣、うるさかったですか」
「待て待て。それ、相手おるやろ」
「いる」
「ほな俺が相手やるわ」
「できるのか」
「いけるいける」
◇
ケイは鏡の前から一歩どいて、廊下の壁に手をついた。
ついてから、少し腰を落とした。何の役をやるつもりなのか、俺には分からなかった。
「……いや、別に」
「今の、誰だ」
「隣の人や」
「隣の人は、腰を落とさない」
「雰囲気やん」
「雰囲気で腰は落ちない」
◇
「もういっぺんやるわ。今度は座る」
「隣の人は座らない」
「座ったらあかんのか」
「ドアの外だ」
「ドアの外で座っとる人、おるやろ」
「いない」
「おるって。俺、駅で見たことあるもん」
「それは隣の人じゃない」
ケイは廊下に座った。
座って、壁に背中をつけて、片膝を立てた。立てた膝の上に肘を乗せて、そこから上目でこっちを見た。見ている高さが、玄関のドアの取っ手より下にある。
「隣、うるさかったですか」
「……いや、別に」
「今の、誰だ」
「せやから隣の人やて」
「隣の人は、玄関の前で片膝を立てて座らない」
「立てとらん。ちょっと曲げただけや」
「曲げてもしない」
「お前、うるさいな。ほんなら立つわ」
ケイは立った。
立って、壁のほうを向いて、そこから半分だけこっちへ体を戻した。戻した位置で止まって、そのまま動かなくなった。
「今度はどうや」
「壁を見てる」
「隣の人は壁見るやろ」
「見るが、それは一人のときだ」
「じゃあ、そっちは何をするんだ」
「俺、審査員やるわ」
「審査するのか」
「する。十点満点な」
「基準は」
「俺が言われて嬉しいかどうかや」
「おかえりなさいを言われて、嬉しいのか」
「嬉しいで。いまのとこ二点やけどな」
「二点あるのか」
「声は出とるからな」
◇
「一緒に言うてみるか」
「なぜだ」
「なんとなく」
二人で並んで、鏡の前に立った。
並ぶと、鏡の中は肩から下が二人ぶんになって、上は俺の頭だけが切れていた。ケイのほうは、髪の先まで全部入っている。
入っているぶん、ケイのほうが小さく見えた。
「せーの」
「おかえりなさい」
◇
揃わなかった。
俺のほうが半分遅れて、ケイのほうが最後だけ伸びた。伸びたところに俺の語尾が乗って、全体としては、人が三人いるみたいな音になった。
「今の、なんか多かったな」
「多かった」
「もう一本」
「いい」
◇
廊下の外から聞けば、二階では二人の男が、同じ挨拶を何度も繰り返していた。
◇
「顔が動かんのやったら、声で行くしかないやろ」
「そうか」
「せや。低いのは武器やねん。低いまま、ちょっと上げる」
「上げた」
「上がってへん」
「上げてる」
「一ミリも動いてへんて」
俺は喉のあたりに手を当てた。
当てても、上げ方は分からなかった。喉のところは、声を出すと震える。震えているのは分かるが、震え方をどうするかは分からない。
「ええか。頭で入って、半拍待って、落とす。俺が横で数えたるから」
「数えるのか」
「数えたほうが分かりやすいやろ」
「わからん」
「わからんのかい」
「半拍が、どのくらいか分からん」
「半分や」
「何の半分だ」
ケイは口を開けて、閉じた。
閉じてから、床を手で二回叩いた。叩いた間隔が、たぶん一拍である。二回では、半分がどこかは分からない。三回叩けば分かるのかもしれないが、ケイは二回でやめた。
◇
下から母さんの声がした。
「ケイくん、ごはん食べていく?」
「食べます!」
「ケイ、早い」
「なんでや」
「聞かれたら答えるやろ、普通」
◇
時計を見たら、五時前だった。
夕飯は七時である。ケイが食っていくなら、七時まではこの廊下だ。二時間ある。
二時間は長い。長いが、下へ下りても、下りた先でケイが喋る。
◇
「なあ、もう一本」
「二時間ある」
「なんの話や」
「飯までだ」
「ほな、ちょうどええやんけ」
ケイはクッションに座り直した。
座り直して、また立った。座ったり立ったりするのは、たぶん考えている合図ではない。単に落ち着かないだけである。
◇
階段を上がってくる音がした。
妹が上がってきて、廊下の真ん中で止まった。止まって、鏡と、クッションと、俺たちを順に見た。
「兄ちゃん、うるさい」
「そうか」
「妹ちゃん、久しぶりやなあ」
「……こんばんは」
妹は自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
閉めたあとで、中からもう一度、うるさい、と聞こえた。
「妹ちゃん、怒っとったな」
「怒ってた」
「なんでや」
「うるさいからだ」
◇
「なあ、これ、いつまでやるん」
「お前が始めた」
「せやけど、こんなに続くと思わへんかったやん」
「やめるか」
「やめへん」
◇
その次は、途中で息が切れた。
切れたところで止めて、頭から言い直した。言い直したら、今度は最後に息が余った。どちらが正しいのかは分からない。
正しいほうを知っていそうな人間は、この廊下にいない。いるのはケイだけである。
ケイは芝居ができない。できないことは、本人が一年前から言っている。言っているのに、さっきから相手役までやっている。
「今の、どうだった」
「知らん」
「知らんのか」
「俺、芝居わからへんもん」
◇
窓の外が暗くなった。
廊下の電気を点けた。点けたら、鏡の中が明るくなって、俺たちが二人とも映った。
「暗なるの早いな」
「早い」
「冬やしな」
「冬だ」
「なあ、俺、今めっちゃいい顔してへん?」
「してる」
「ほんまか」
「鏡がある」
「自分で見るのと、人に言われるのは違うねん」
ケイは、それからしばらく何も言わなかった。
◇
気がつくと、ケイの足が止まっていた。
組んだ足の先も、床を叩く踵も、動いていない。ケイはクッションの上で膝を抱えて、鏡のほうを見ていた。
ケイは、信号待ちでも足が動く。座れば指が机を叩く。それが、両方とも止まっていた。
◇
「高町。ちょっと聞いてええか」
「聞け」
「お前さ」
ケイは言いかけて、そこで止めた。
止めて、鏡のほうを見たまま、片手で自分の膝を一度叩いた。叩いた音が、廊下でよく響いた。
響いたあと、ケイはもう一度口を開けて、また閉じた。閉じたところで、鏡の中の自分と目が合ったらしい。合ったので、目をそらした。
そらした先が、俺の側だった。俺は鏡のほうを見ていたので、鏡の中で目が合った。合ったところで、ケイがまた鏡を見た。
◇
「灯真」
俺は、口を開くのが遅れた。
「なんだ」
「俺、さっきから審査員やる言うてたやろ」
「言ってた」
「見ててやる、じゃなくてさ。……一緒にやろうや」
◇
ケイは立ち上がった。
立ち上がって、鏡の前に行った。行って、肩を回さなかった。首も倒さなかった。準備をしないで、そのまま言った。
今度も下手だった。下手だったが、言ったあとに、こっちを見なかった。
俺は返事をしなかった。
しなかったが、鏡の前から動かなかった。
◇
「おかえりなさい」
ケイが言った。
「おかえりなさい」
俺も言った。
どちらも、下手だった。
そのあと、二人で三回ずつ言った。ケイのは声が大きいままで、俺のは顎が下がったままだった。三回目も同じだった。
鏡の中には、廊下と、二人ぶんの肩が映っていた。俺の頭は切れていて、ケイの頭は入っている。
ケイは、切れているほうを指さして笑った。笑ったが、それだけだった。
◇
七時になった。
母さんが下から呼んだ。呼ばれる前から、下では皿を並べる音がしていた。
ケイが先に階段を下りていった。四段目のところで、また一度踏み直す音がした。
「これ、やっぱり鳴るな」
下から、そう聞こえた。
そのあとで、母さんが何か言って、ケイが笑った。笑い声のほうが、母さんの声より大きい。
◇
二人ぶんの足音がして、俺は一人だった。
「あの子、ずっと横にいたわね」
(いた)
「横にいただけよ。あの子が見てたのは、鏡の中の自分のほうだわ。あんたのことは、一度も見てないの」
(下手だった)
「そうね。二人ともね」
◇
俺はクッションを二つ拾って、部屋のほうへ放った。
一つはドアの内側に入って、もう一つは敷居のところで止まった。止まったほうを、足で押して入れた。押したら、ドアの縁に当たって、また戻ってきた。
拾って、今度は手で置いた。置いた場所は、机の横の、いつも積んである雑誌の隣にした。
廊下の板の、光っているところが、横に広がっていた。




