第125話 暇なので行きますと打った
携帯が鳴ったのは、六時二十分だった。
目覚ましは六時半にしてある。俺は布団から手だけ出して、机の下のあたりを二回探ってから、画面を見た。
登録していない番号だった。
〈桐生です〉
〈二月の最終審査、来るよね〉
二行で終わっていた。
◇
時計の秒針の音が、途中で一度だけ止まった。
止まって、また動いた。机の右奥で、人形が立ち上がるところだった。
「誰から」
「桐生さんだ」
「あの子、あんたの番号を持ってるのね」
「持ってるらしい」
「教えたの」
「覚えがない」
人形は台座の上で腕を組んだ。
「なんて書いてあるの」
「二月の最終審査、来るよね、だ」
「そのあとは」
「無い」
人形は少しのあいだ動かなかった。動かないで、机の木目のほうを見ていた。
「あんた、行くの」
「行く」
「早いわね」
「暇だ」
◇
人形は腕を組んだまま、こっちを見上げた。
「他には」
「他に、何がだ」
「他の人から、何か来てるの」
「来てない」
「そう」
人形はそれ以上言わなかった。
言わないで、台座の上に座り直した。座り直すときに、赤い裾が机の縁から少しだけ外へ出た。出た端が、電気スタンドの光の当たっているところに入って、そこだけ色が濃く見えた。
◇
「あの子、いつ返事を待つのをやめるかしらね」
「待ってるのか」
「送ったんだから待ってるでしょう」
「そうか」
「待たせてるのよ、あんたが」
人形は片手を膝に置いた。
「あんた、あの子とは秋から一度も会ってないでしょう」
「会ってない」
「向こうもそうよ」
「そうだな」
「それで、来るよね、なのよ」
俺は携帯を裏返して、机の上に置いた。
置いたところが、教科書の角から二センチのところだった。俺は携帯をもう二センチ、手前へ寄せた。
◇
「二月の、いつなの」
「中旬だ」
「中旬っていうのは何日なんだ」
「知らん」
「知らないで行くの」
「向こうが決める」
人形は机の上を歩いて、教科書の山の手前で止まった。
「あんた、その日が何曜日かも知らないのね」
「知らん」
「平日だったらどうするの」
「早退する」
「土曜だったら」
「行く」
「日曜だったら」
「行く」
人形は山の上に片手を置いて、そのままこっちを見上げていた。
「全部同じじゃないの」
「同じだ」
◇
人形は教科書の山から下りた。
下りるときに、いちばん上の一冊の角を踏んだ。踏んだところが少しへこんで、すぐ戻った。
「あんた、なんで行くの」
「暇だから」
「そうじゃなくて」
「他に理由があるのか」
「あるでしょう、普通は」
人形は机の上で腰に手を当てた。当てて、そのまま何も言わなかった。
窓の外はまだ暗い。向かいの家の二階に、一つだけ明かりがついていた。
「あんた、あの子に、なんで来るのって聞かれたらどうするの」
「聞かれてない」
「聞かれたら」
「そのとき考える」
◇
布団を出て、壁の前に立った。
紙は二枚貼ってある。左が九月ので、右が十一月のだ。右の紙のいちばん下の行だけ、字が太い。
〈十一月二十八日(金)必着〉
その日はもう過ぎている。過ぎた紙が、まだ壁に貼ってある。剥がす理由が思いつかなかったので、そのままにしてある。
俺は右の紙の下の角を、指で一度押さえた。画鋲は四つとも入ったままだった。押さえたところの紙が、指の下でわずかに反った。
壁は冷たい。紙の下の壁も冷たくて、紙の上から押さえても冷たさが指に来る。
左の紙は、折り目のところが浮いている。九月に四つに畳んで持って帰ったやつで、貼るときにその折り目を伸ばそうとして、うまくいかなかった。
◇
部屋の窓は、下のほうが白く曇っていた。
曇っているのは内側で、指で触ると跡が残る。俺は触らないで、カーテンの端を直した。
制服のズボンは椅子の背にかけたままだった。しわは寄っていない。かけたところの布が、背もたれの角で少し折れている。
◇
廊下の姿見は母さんのやつで、俺が前に立つと頭の上が少し切れる。
切れたところは鏡の縁になっていて、そこだけ木が見えている。
俺はその前を通って、階段を下りた。
◇
「あんた、昨日の夜、廊下でしゃべってたでしょう」
母さんは流しの前で、こっちを見ないでそう言った。
「しゃべってない」
「しゃべってたわよ。声は小さかったけど、あれは独り言じゃない言い方だったわよ。独り言っていうのはね、途中で切れるの。あんたのは切れてなかった」
「切れてたと思う」
「切れてなかったの」
俺は椅子を引いて座った。
テーブルの上に皿が二枚出ている。片方に卵焼きが乗っていて、もう片方は空だった。空のほうが俺のらしい。
「妹は」
「もう出たわよ。あの子、この頃は朝が早いんだから」
母さんは冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けた。
「あんた、今日は学校だけ?」
「学校だけだ」
「じゃあ夕方には帰ってくるのね」
「六時間ある」
「六時間あって夕方に帰ってくるんだったら、それは普通のことよ。あんた、この頃それをわざわざ言うわね」
俺は卵焼きを箸で半分に切った。
切ったら、中から大根おろしが出てきた。母さんはこれを卵焼きと呼んでいる。
◇
父さんが台所に入ってきた。
鞄を椅子の背に引っかけて、立ったまま茶碗を持って、汁を飲んだ。座らなかった。
「行ってくる」
父さんはそう言って、出ていった。玄関の戸が閉まる音がして、そのあと自転車を出す音がした。
自転車の音は、門の柱のところで一度止まって、それから遠くなった。
母さんは玄関のほうへ行って、戻ってきた。
「あの人、傘持たなかったわ」
「降るのか」
「降らないわよ。持たないのが気になっただけ」
◇
食いながら、返事のことを考えた。
行きます、と書けば済む。済むが、それだけだと短すぎる気がする。
一つ目は、行きます、だけを書く形だ。これは短い。二つ目は、はい、行きます、と書く形で、この場合は「はい」を上に置くか下に置くかで、そこからさらに二つに分かれる。三つ目は、ありがとうございます、を先に置く形である。ただし桐生さんは俺に何もくれていないので、何に対する礼なのかが自分でも分からない。
四つ目は、桐生さんも行くんですか、と聞き返す形だ。これは相手に返事の手間をかけさせる。
五つ目は、既読だけ付けて何も書かない形で、これは返事ではない。
俺は卵焼きを全部食った。
「あんた、箸が止まってたわよ」
「止まってない」
「止まってたわよ。二回」
◇
「二月にね、なんかあるんでしょう」
母さんは布巾でテーブルの端を拭きながらそう言った。
「ある」
「何があるの」
「面接みたいなやつだ」
「みたいなやつ、じゃわからないでしょうが。お母さん、近所の人に聞かれるのよ。この前も、坂の下の奥さんに、息子さんこの頃テレビで見ないわねって言われて、休ませてもらってますって答えたんだけど、あれで合ってた?」
「合ってる」
「合ってるならいいわ」
母さんは布巾を流しに放って、蛇口をひねった。
「休ませてもらってます、って言うと、みんな黙るのよ」
「黙るのか」
「黙るわね。だからいちばん短くて済むの」
◇
一月十六日、金曜日。三学期の二週目である。
教室は寒い。窓側の列は朝のうちだけ日が当たって、三限が終わるころには日が前のほうへ移っている。俺の席は窓際の後ろから二番目で、当たっている時間がいちばん短い。
鞄を机の横にかけたところで、熊沢が振り返った。
「高町、購買行く?」
「行く」
「じゃあ二限のあとな。昼だと人が多すぎて、俺、先週コロッケパンの前まで行ったのに手が届かなくて、後ろから来たやつに横から取られたんだよ」
「取られたのか」
「取られた。俺より背の低いやつに取られた」
熊沢は自分の手のひらを見て、それから机に伏せた。
伏せたまま、片手だけを上げて、俺の机の脚を軽く叩いた。
◇
早坂が前の戸から入ってきて、自分の席に鞄を置いた。
置いてから、窓のほうを見て、また鞄のほうを見た。窓は開いていない。
「寒いよね、今日」
「寒い」
「暖房、二限からなんだって」
「そうか」
早坂は前を向いた。向いてから、椅子の位置を一度だけ前へ寄せた。
教室の中の音は、いつもの朝と同じだった。前の列で、二人が昨日のテレビの話をしている。
後ろの列で、誰かが消しゴムを落とした。落ちたのが二つ前まで転がって、拾った人がそのまま後ろへ投げて返した。投げたのが届かなくて、もう一度誰かが拾った。
窓の外で、体育の先生がグラウンドにラインを引いていた。石灰の線が真ん中まで来て、そこから先が少し曲がっている。
◇
一限は現代文だった。
宮坂先生は教科書を読ませて、読ませたあとで「今の、意味わかった人」と聞いた。誰も手を挙げなかった。先生も挙げるとは思っていない顔で、次の段落へ行った。
読まされたのは、山に登る話だった。登り始めるところで章が終わっていて、頂上は次の章にあるらしい。次の章は教科書に載っていない。
窓側の日は、まだ俺の机の端に当たっていた。
◇
二限は数学だった。
俺はノートのいちばん端に、返事の候補を五つ並べた。並べたところで、隣の列から美咲がこっちを見た。
俺は消しゴムで全部消した。
消したあとに、消し跡が五本の線になって残った。線は等間隔ではなかった。
黒板には、放物線が三つ描いてあった。三つとも同じ形で、置いてある場所だけが違う。先生は二つ目まで説明して、三つ目は「これは同じだ」と言って消した。
俺は三つ目を写し終わっていた。写し終わってから、消されたところの白い跡を見ていた。
美咲は前の列で、消される前にもう書き終わっている。書き終わったあとの背中は、動かない。
◇
二限のあと、熊沢は職員室に呼ばれていた。戻ってきたのは三限が始まる直前で、購買の話はそれきりになった。
◇
「高町くん、プリント」
三限が終わって、美咲が机の横に来た。
「今日は掃除が無いから、日誌だけ職員室に出しておいて。金曜は宮坂先生が四時に上がるの」
「わかった」
「あなた、去年これで一回怒られてるからね」
「怒られてない」
「怒られてたわよ。廊下で」
美咲はプリントを机の上に置いて、自分の席へ戻っていった。
置いたプリントは、角がきちんと机の角に合わせてあった。合わせてから離すまでに、指が一度、紙の上を滑った。
◇
四限は体育だった。
寒いので体育館だと思っていたら、グラウンドだった。サッカーである。
俺は後ろのほうにいた。ボールは三回来た。三回とも、隣のやつが先に取った。
四回目に、隣のやつが空振りをした。ボールはそのまま俺のところへ来た。来たので、蹴った。蹴ったら、線の外へ出た。
「高町、今の、狙った?」
「狙ってない」
「狙ってないのかよ」
熊沢はそう言って、俺の前を走っていった。走って、他人の足に引っかかって、手をついて転んだ。転んだあとも、しばらく腕を押さえていた。
◇
昼に購買へ行った。
コロッケパンは二つ残っていた。
「残ってんじゃねえかよ」
「残ってた」
「先週のあれは何だったんだ」
「知らん」
熊沢が一つ取って、俺がもう一つ取った。
熊沢は袋を持ったまま、廊下の窓の外を見ていた。
「なあ高町」
「なんだ」
「お前、最近ひまそうだな」
「ひまだ」
「うらやましいわ」
「そうか」
熊沢はコロッケパンの袋の端を歯で挟んで、途中でやめて、指で開けた。
「俺さ、来週から部活の当番が二回ある」
「二回か」
「二回だけど、朝なんだよ。朝の二回は、夜の四回より重い」
熊沢はそう言って、パンの端から食い始めた。
俺は真ん中から食った。真ん中から食うと、中身が最初に来る。
熊沢は途中で袋を裏返して、底に落ちた衣を口に入れた。入れてから、袋を四つに畳んでポケットに突っ込んだ。
「高町、二月って何かあんの」
「ある」
「なんかの本番?」
「面接みたいなやつだ」
「面接って、就職の?」
「違う」
「違うのかよ」
熊沢はそれで納得した顔をして、窓の外に戻った。
◇
五限のあいだ、俺は五つの候補をもう一度並べた。
並べたあとで、順番を入れ替えた。入れ替えると、二つ目が一つ目になり、一つ目が三つ目になる。三つ目は礼の理由が無いままだった。
六限が終わるまでに俺が決めたのは、五つ目は無しだということだけである。
◇
六限は日本史だった。
先生は年号を三つ黒板に書いて、真ん中の一つを丸で囲んだ。囲んでから、囲んだ理由を言い忘れて次へ行った。囲みだけが残っている。
俺はその丸を写した。写しながら、二月の中旬が何曜日なのかを考えた。
紙には二月中旬としか書いていない。中旬が平日なら早退の届が要る。土曜なら要らない。日曜も要らないが、日曜は電車が遅い。
窓の外は、もう暗くなりかけていた。校庭の端の照明が二本、先に点いている。
考えているうちに、六限の終わりのチャイムが鳴った。
◇
放課後、日誌を職員室に出した。
宮坂先生は机の上を片付けている途中で、日誌を見ないで受け取って、脇に積んだ。積んだ山は五冊あって、俺のが六冊目になった。
「高町、来週の月曜は集会だから」
「はい」
「早く来いってことじゃない。遅く来るなってことだ」
「はい」
「返事だけは早いんだよな」
◇
職員室を出たところに、二年の教室の掲示板がある。
三学期の予定表が貼ってあって、二月のところは二枚目に回っていた。二枚目のほうは紙が短いので、二月の途中で切れている。切れているところに、次の紙を継ぎ足した跡があった。
俺は継ぎ目のところを見た。継ぎ目は、上の紙のほうが少し前に出ている。
廊下の端で、二年の誰かが走って、途中でやめて歩いた。宮坂先生が出てきたからだった。
◇
昇降口の段のところに座った。
靴に履き替えるとき、右の甲の擦れているところに指が当たった。九月に付いたやつで、それ以上は広がっていない。
外は風が出ていた。開いている戸の下から、砂の粒みたいなものが何度か入ってくる。
下駄箱の上の段に、去年の遠足のしおりが一枚だけ残っていた。誰のものかは書いていない。角が丸くなっていて、上の端が反っている。
昇降口を出ていく生徒が三人、続けて俺の前を通った。三人とも、俺のほうを見なかった。
携帯を出して、朝の二行をもう一度読んだ。
〈桐生です〉
〈二月の最終審査、来るよね〉
◇
一つ目は短い。二つ目は位置が決まらない。三つ目は礼の理由が無い。四つ目は相手の手間になる。五つ目は返事ではない。
考えているあいだに、昇降口の電気が点いた。
俺は打った。
〈行きます〉
送ったあとで、画面の上のほうを見た。朝の二行が残っていて、その下に俺の一行が並んでいる。
並ぶと、向こうのほうが長い。




