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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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125/236

第125話 暇なので行きますと打った

 携帯が鳴ったのは、六時二十分だった。


 目覚ましは六時半にしてある。俺は布団から手だけ出して、机の下のあたりを二回探ってから、画面を見た。


 登録していない番号だった。


 〈桐生です〉

 〈二月の最終審査、来るよね〉


 二行で終わっていた。


   ◇


 時計の秒針の音が、途中で一度だけ止まった。


 止まって、また動いた。机の右奥で、人形が立ち上がるところだった。


「誰から」

「桐生さんだ」

「あの子、あんたの番号を持ってるのね」

「持ってるらしい」

「教えたの」

「覚えがない」


 人形は台座の上で腕を組んだ。


「なんて書いてあるの」

「二月の最終審査、来るよね、だ」

「そのあとは」

「無い」


 人形は少しのあいだ動かなかった。動かないで、机の木目のほうを見ていた。


「あんた、行くの」

「行く」

「早いわね」

「暇だ」


   ◇


 人形は腕を組んだまま、こっちを見上げた。


「他には」

「他に、何がだ」

「他の人から、何か来てるの」

「来てない」

「そう」


 人形はそれ以上言わなかった。


 言わないで、台座の上に座り直した。座り直すときに、赤い裾が机の縁から少しだけ外へ出た。出た端が、電気スタンドの光の当たっているところに入って、そこだけ色が濃く見えた。


   ◇


「あの子、いつ返事を待つのをやめるかしらね」

「待ってるのか」

「送ったんだから待ってるでしょう」

「そうか」

「待たせてるのよ、あんたが」


 人形は片手を膝に置いた。


「あんた、あの子とは秋から一度も会ってないでしょう」

「会ってない」

「向こうもそうよ」

「そうだな」

「それで、来るよね、なのよ」


 俺は携帯を裏返して、机の上に置いた。


 置いたところが、教科書の角から二センチのところだった。俺は携帯をもう二センチ、手前へ寄せた。


   ◇


「二月の、いつなの」

「中旬だ」

「中旬っていうのは何日なんだ」

「知らん」

「知らないで行くの」

「向こうが決める」


 人形は机の上を歩いて、教科書の山の手前で止まった。


「あんた、その日が何曜日かも知らないのね」

「知らん」

「平日だったらどうするの」

「早退する」

「土曜だったら」

「行く」

「日曜だったら」

「行く」


 人形は山の上に片手を置いて、そのままこっちを見上げていた。


「全部同じじゃないの」

「同じだ」


   ◇


 人形は教科書の山から下りた。


 下りるときに、いちばん上の一冊の角を踏んだ。踏んだところが少しへこんで、すぐ戻った。


「あんた、なんで行くの」

「暇だから」

「そうじゃなくて」

「他に理由があるのか」

「あるでしょう、普通は」


 人形は机の上で腰に手を当てた。当てて、そのまま何も言わなかった。


 窓の外はまだ暗い。向かいの家の二階に、一つだけ明かりがついていた。


「あんた、あの子に、なんで来るのって聞かれたらどうするの」

「聞かれてない」

「聞かれたら」

「そのとき考える」


   ◇


 布団を出て、壁の前に立った。


 紙は二枚貼ってある。左が九月ので、右が十一月のだ。右の紙のいちばん下の行だけ、字が太い。


 〈十一月二十八日(金)必着〉


 その日はもう過ぎている。過ぎた紙が、まだ壁に貼ってある。剥がす理由が思いつかなかったので、そのままにしてある。


 俺は右の紙の下の角を、指で一度押さえた。画鋲は四つとも入ったままだった。押さえたところの紙が、指の下でわずかに反った。


 壁は冷たい。紙の下の壁も冷たくて、紙の上から押さえても冷たさが指に来る。


 左の紙は、折り目のところが浮いている。九月に四つに畳んで持って帰ったやつで、貼るときにその折り目を伸ばそうとして、うまくいかなかった。


   ◇


 部屋の窓は、下のほうが白く曇っていた。


 曇っているのは内側で、指で触ると跡が残る。俺は触らないで、カーテンの端を直した。


 制服のズボンは椅子の背にかけたままだった。しわは寄っていない。かけたところの布が、背もたれの角で少し折れている。


   ◇


 廊下の姿見は母さんのやつで、俺が前に立つと頭の上が少し切れる。


 切れたところは鏡の縁になっていて、そこだけ木が見えている。


 俺はその前を通って、階段を下りた。


   ◇


「あんた、昨日の夜、廊下でしゃべってたでしょう」


 母さんは流しの前で、こっちを見ないでそう言った。


「しゃべってない」

「しゃべってたわよ。声は小さかったけど、あれは独り言じゃない言い方だったわよ。独り言っていうのはね、途中で切れるの。あんたのは切れてなかった」

「切れてたと思う」

「切れてなかったの」


 俺は椅子を引いて座った。


 テーブルの上に皿が二枚出ている。片方に卵焼きが乗っていて、もう片方は空だった。空のほうが俺のらしい。


「妹は」

「もう出たわよ。あの子、この頃は朝が早いんだから」


 母さんは冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けた。


「あんた、今日は学校だけ?」

「学校だけだ」

「じゃあ夕方には帰ってくるのね」

「六時間ある」

「六時間あって夕方に帰ってくるんだったら、それは普通のことよ。あんた、この頃それをわざわざ言うわね」


 俺は卵焼きを箸で半分に切った。


 切ったら、中から大根おろしが出てきた。母さんはこれを卵焼きと呼んでいる。


   ◇


 父さんが台所に入ってきた。


 鞄を椅子の背に引っかけて、立ったまま茶碗を持って、汁を飲んだ。座らなかった。


「行ってくる」


 父さんはそう言って、出ていった。玄関の戸が閉まる音がして、そのあと自転車を出す音がした。


 自転車の音は、門の柱のところで一度止まって、それから遠くなった。


 母さんは玄関のほうへ行って、戻ってきた。


「あの人、傘持たなかったわ」

「降るのか」

「降らないわよ。持たないのが気になっただけ」


   ◇


 食いながら、返事のことを考えた。


 行きます、と書けば済む。済むが、それだけだと短すぎる気がする。


 一つ目は、行きます、だけを書く形だ。これは短い。二つ目は、はい、行きます、と書く形で、この場合は「はい」を上に置くか下に置くかで、そこからさらに二つに分かれる。三つ目は、ありがとうございます、を先に置く形である。ただし桐生さんは俺に何もくれていないので、何に対する礼なのかが自分でも分からない。


 四つ目は、桐生さんも行くんですか、と聞き返す形だ。これは相手に返事の手間をかけさせる。


 五つ目は、既読だけ付けて何も書かない形で、これは返事ではない。


 俺は卵焼きを全部食った。


「あんた、箸が止まってたわよ」

「止まってない」

「止まってたわよ。二回」


   ◇


「二月にね、なんかあるんでしょう」


 母さんは布巾でテーブルの端を拭きながらそう言った。


「ある」

「何があるの」

「面接みたいなやつだ」

「みたいなやつ、じゃわからないでしょうが。お母さん、近所の人に聞かれるのよ。この前も、坂の下の奥さんに、息子さんこの頃テレビで見ないわねって言われて、休ませてもらってますって答えたんだけど、あれで合ってた?」

「合ってる」

「合ってるならいいわ」


 母さんは布巾を流しに放って、蛇口をひねった。


「休ませてもらってます、って言うと、みんな黙るのよ」

「黙るのか」

「黙るわね。だからいちばん短くて済むの」


   ◇


 一月十六日、金曜日。三学期の二週目である。


 教室は寒い。窓側の列は朝のうちだけ日が当たって、三限が終わるころには日が前のほうへ移っている。俺の席は窓際の後ろから二番目で、当たっている時間がいちばん短い。


 鞄を机の横にかけたところで、熊沢が振り返った。


「高町、購買行く?」

「行く」

「じゃあ二限のあとな。昼だと人が多すぎて、俺、先週コロッケパンの前まで行ったのに手が届かなくて、後ろから来たやつに横から取られたんだよ」

「取られたのか」

「取られた。俺より背の低いやつに取られた」


 熊沢は自分の手のひらを見て、それから机に伏せた。


 伏せたまま、片手だけを上げて、俺の机の脚を軽く叩いた。


   ◇


 早坂が前の戸から入ってきて、自分の席に鞄を置いた。


 置いてから、窓のほうを見て、また鞄のほうを見た。窓は開いていない。


「寒いよね、今日」

「寒い」

「暖房、二限からなんだって」

「そうか」


 早坂は前を向いた。向いてから、椅子の位置を一度だけ前へ寄せた。


 教室の中の音は、いつもの朝と同じだった。前の列で、二人が昨日のテレビの話をしている。


 後ろの列で、誰かが消しゴムを落とした。落ちたのが二つ前まで転がって、拾った人がそのまま後ろへ投げて返した。投げたのが届かなくて、もう一度誰かが拾った。


 窓の外で、体育の先生がグラウンドにラインを引いていた。石灰の線が真ん中まで来て、そこから先が少し曲がっている。


   ◇


 一限は現代文だった。


 宮坂先生は教科書を読ませて、読ませたあとで「今の、意味わかった人」と聞いた。誰も手を挙げなかった。先生も挙げるとは思っていない顔で、次の段落へ行った。


 読まされたのは、山に登る話だった。登り始めるところで章が終わっていて、頂上は次の章にあるらしい。次の章は教科書に載っていない。


 窓側の日は、まだ俺の机の端に当たっていた。


   ◇


 二限は数学だった。


 俺はノートのいちばん端に、返事の候補を五つ並べた。並べたところで、隣の列から美咲がこっちを見た。


 俺は消しゴムで全部消した。


 消したあとに、消し跡が五本の線になって残った。線は等間隔ではなかった。


 黒板には、放物線が三つ描いてあった。三つとも同じ形で、置いてある場所だけが違う。先生は二つ目まで説明して、三つ目は「これは同じだ」と言って消した。


 俺は三つ目を写し終わっていた。写し終わってから、消されたところの白い跡を見ていた。


 美咲は前の列で、消される前にもう書き終わっている。書き終わったあとの背中は、動かない。


   ◇


 二限のあと、熊沢は職員室に呼ばれていた。戻ってきたのは三限が始まる直前で、購買の話はそれきりになった。


   ◇


「高町くん、プリント」


 三限が終わって、美咲が机の横に来た。


「今日は掃除が無いから、日誌だけ職員室に出しておいて。金曜は宮坂先生が四時に上がるの」

「わかった」

「あなた、去年これで一回怒られてるからね」

「怒られてない」

「怒られてたわよ。廊下で」


 美咲はプリントを机の上に置いて、自分の席へ戻っていった。


 置いたプリントは、角がきちんと机の角に合わせてあった。合わせてから離すまでに、指が一度、紙の上を滑った。


   ◇


 四限は体育だった。


 寒いので体育館だと思っていたら、グラウンドだった。サッカーである。


 俺は後ろのほうにいた。ボールは三回来た。三回とも、隣のやつが先に取った。


 四回目に、隣のやつが空振りをした。ボールはそのまま俺のところへ来た。来たので、蹴った。蹴ったら、線の外へ出た。


「高町、今の、狙った?」

「狙ってない」

「狙ってないのかよ」


 熊沢はそう言って、俺の前を走っていった。走って、他人の足に引っかかって、手をついて転んだ。転んだあとも、しばらく腕を押さえていた。


   ◇


 昼に購買へ行った。


 コロッケパンは二つ残っていた。


「残ってんじゃねえかよ」

「残ってた」

「先週のあれは何だったんだ」

「知らん」


 熊沢が一つ取って、俺がもう一つ取った。


 熊沢は袋を持ったまま、廊下の窓の外を見ていた。


「なあ高町」

「なんだ」

「お前、最近ひまそうだな」

「ひまだ」

「うらやましいわ」

「そうか」


 熊沢はコロッケパンの袋の端を歯で挟んで、途中でやめて、指で開けた。


「俺さ、来週から部活の当番が二回ある」

「二回か」

「二回だけど、朝なんだよ。朝の二回は、夜の四回より重い」


 熊沢はそう言って、パンの端から食い始めた。


 俺は真ん中から食った。真ん中から食うと、中身が最初に来る。


 熊沢は途中で袋を裏返して、底に落ちた衣を口に入れた。入れてから、袋を四つに畳んでポケットに突っ込んだ。


「高町、二月って何かあんの」

「ある」

「なんかの本番?」

「面接みたいなやつだ」

「面接って、就職の?」

「違う」

「違うのかよ」


 熊沢はそれで納得した顔をして、窓の外に戻った。


   ◇


 五限のあいだ、俺は五つの候補をもう一度並べた。


 並べたあとで、順番を入れ替えた。入れ替えると、二つ目が一つ目になり、一つ目が三つ目になる。三つ目は礼の理由が無いままだった。


 六限が終わるまでに俺が決めたのは、五つ目は無しだということだけである。


   ◇


 六限は日本史だった。


 先生は年号を三つ黒板に書いて、真ん中の一つを丸で囲んだ。囲んでから、囲んだ理由を言い忘れて次へ行った。囲みだけが残っている。


 俺はその丸を写した。写しながら、二月の中旬が何曜日なのかを考えた。


 紙には二月中旬としか書いていない。中旬が平日なら早退の届が要る。土曜なら要らない。日曜も要らないが、日曜は電車が遅い。


 窓の外は、もう暗くなりかけていた。校庭の端の照明が二本、先に点いている。


 考えているうちに、六限の終わりのチャイムが鳴った。


   ◇


 放課後、日誌を職員室に出した。


 宮坂先生は机の上を片付けている途中で、日誌を見ないで受け取って、脇に積んだ。積んだ山は五冊あって、俺のが六冊目になった。


「高町、来週の月曜は集会だから」

「はい」

「早く来いってことじゃない。遅く来るなってことだ」

「はい」

「返事だけは早いんだよな」


   ◇


 職員室を出たところに、二年の教室の掲示板がある。


 三学期の予定表が貼ってあって、二月のところは二枚目に回っていた。二枚目のほうは紙が短いので、二月の途中で切れている。切れているところに、次の紙を継ぎ足した跡があった。


 俺は継ぎ目のところを見た。継ぎ目は、上の紙のほうが少し前に出ている。


 廊下の端で、二年の誰かが走って、途中でやめて歩いた。宮坂先生が出てきたからだった。


   ◇


 昇降口の段のところに座った。


 靴に履き替えるとき、右の甲の擦れているところに指が当たった。九月に付いたやつで、それ以上は広がっていない。


 外は風が出ていた。開いている戸の下から、砂の粒みたいなものが何度か入ってくる。


 下駄箱の上の段に、去年の遠足のしおりが一枚だけ残っていた。誰のものかは書いていない。角が丸くなっていて、上の端が反っている。


 昇降口を出ていく生徒が三人、続けて俺の前を通った。三人とも、俺のほうを見なかった。


 携帯を出して、朝の二行をもう一度読んだ。


 〈桐生です〉

 〈二月の最終審査、来るよね〉


   ◇


 一つ目は短い。二つ目は位置が決まらない。三つ目は礼の理由が無い。四つ目は相手の手間になる。五つ目は返事ではない。


 考えているあいだに、昇降口の電気が点いた。


 俺は打った。


 〈行きます〉


 送ったあとで、画面の上のほうを見た。朝の二行が残っていて、その下に俺の一行が並んでいる。


 並ぶと、向こうのほうが長い。

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