第126話 机だけが毎日きれいになる
朝、教室の戸を開けたら、三人が一つの携帯を覗き込んでいた。
覗き込んでいた三人が、俺が入ったところで顔を上げた。上げると、誰も何も言わずに画面のほうへ戻った。戻ったが、さっきより顔が離れていた。
三人のうち、一人が画面を上に向けたまま一歩こっちへ来た。来て、途中で止まって、また戻った。
俺は自分の席まで歩いて、鞄を机の横にかけた。
かけたときに、鞄の底が机の脚に当たった。当たった音で、前の列の二人が振り向いた。振り向いて、すぐ戻った。
◇
一月二十一日、水曜日。
窓は二つ開いていて、開いているほうの列だけ寒い。俺の席は開いているほうである。
机の上に、うっすら跡が残っていた。四角い形の跡で、真ん中だけ乾き方が違う。
朝の教室は埃っぽい。前の席も、後ろの席も、天板が薄く白い。
俺の机だけ、白くない。
◇
美咲が前の戸から入ってきて、黒板の右端の日付を書き直した。
昨日の日付が消えていなかったらしい。消して、書いて、チョークを箱に戻した。戻すときに、白いのと黄色いのを分けて置いた。
「日直、二番と三番ね」
「二番だ」
「じゃあ今日の日誌はあなた」
「わかった」
美咲は名簿を閉じて、自分の席へ行った。行く途中で、俺の机の横を通った。通るときに、机の上を一度だけ見た。見て、何も言わなかった。
◇
熊沢が振り返った。
「高町、今日の五限、体育館だってさ」
「体育館か」
「バスケ。俺、この前の腕がまだ痛いんだよ。医者には行ってない。行くほどじゃないんだけど、行くほどじゃないやつがいちばん長く残るんだよな」
「残るのか」
「残る。去年の足首がまだ変だもん。雨の日にな、ここんとこが、押すと痛いっていうんじゃなくて、押さなくても薄く痛いんだよ。わかるか」
「わからん」
「わかんねえのかよ」
熊沢は自分の肘をひねって、その角度で止めた。
止めてから、こっちを見た。見て、何か言おうとした形のまま、口を閉じた。
閉じたあとで、前を向いた。
◇
一限は英語だった。
先生は単語を十個読み上げて、書き取らせて、そのあと隣どうしで交換させた。隣のやつは今日休みなので、俺は後ろの席と交換した。
後ろのやつは、俺の紙を受け取るときに、両手で受け取った。
いつもは片手だ。
俺は自分のほうも両手で出した。出したが、それが正しいのかどうかは分からなかった。
◇
二限のあいだに、廊下側の窓の外を人が三回通った。
三回とも、こっちを見て通った。見ていたのは俺のほうではなく、黒板の上の時計だったかもしれない。時計は俺の席の斜め上にある。
◇
昼に、去年同じ班だった女子が前の戸のところで止まった。
「高町くん、おはよう」
「おはよう」
それだけで、行った。
昼に言うことではない。
二学期に入って、その子とは席が離れた。班も違う。去年は同じ班で、掃除の当番も一緒だった。
名前は覚えている。呼んだことはない。
弁当は買ってきたパンで済ませた。菓子パンのほうを先に食って、惣菜のほうを後にした。
熊沢は自分の弁当箱の蓋を立てて、中を隠すようにして食っていた。隠すほどのものは入っていない。前に一度見た。
◇
午後は雨が降り出した。
五限の体育館は屋内なので関係が無かったが、熊沢は始まる前から窓の外を見て「これ、帰りやばいな」と言っていた。傘は俺も持っていない。
バスケは十分ずつの試合を三回やった。俺のところにボールは回ってこなかった。俺は端のほうに立って、床の線のところに靴の先をそろえていた。
熊沢は肘が痛いと言っていたわりに走っていた。走って、二回転んで、二回とも笑われていた。
体育館の床は冷たい。上履きの底が薄いので、立っているだけで足の裏から冷えてくる。
試合と試合のあいだに、誰かが体育館の裏の戸を開けた。開けたら雨の音が急に大きくなって、すぐ閉めた。
◇
掃除の時間になった。
三班は今週、教室と廊下の担当だ。俺は廊下の担当なので、後ろの戸から箒を取って出るところだった。
出るところで、教室の後ろのほうを見た。
熊沢が、机を拭いていた。
◇
雑巾を四つに畳んで、手前から向こうへ一方向に動かしている。往復させていない。一度向こうまで行ったら、雑巾を持ち上げて、また手前から始める。
拭いているのは、窓際の後ろから二番目の机だった。
俺の机である。
自分の机には手を付けていない。熊沢の席はその二つ前だ。
◇
今日は水曜で、大掃除の日ではない。
俺は箒を持ったまま、少しのあいだそこに立っていた。
立っていたが、当番は毎週変わる。今週は机が入っているのかもしれない。
俺は廊下へ出た。
◇
廊下は縦に長い。端から端まで箒でやると、途中で一度、掲示板の前を通る。
掲示板には三学期の予定表と、保健室からの紙と、去年の球技大会の写真が貼ってあった。写真の中の俺は、後ろの列の右端にいる。半分だけ、前のやつの肩に隠れている。
箒の毛は右のほうだけ短くなっている。短いほうを壁につけて引くと、埃が真ん中に集まる。
教室のほうから、椅子を机に上げる音がした。上げる音が一つずつで、まとめて上げる音ではなかった。
廊下の反対の端で、二年の当番が二人、話しながらモップを動かしていた。声は届いたが、何を言っているかは分からなかった。
俺は掲示板の前の埃を、二回に分けて集めた。一回でやると、掲示板の下の隙間に半分入る。
集めた埃は、ちりとりの縁のところで一度止まって、傾けたら全部落ちた。
◇
戻ったら、机は全部拭き終わっていた。
熊沢は雑巾をバケツで洗って、絞って、窓の桟に掛けていた。掛けたあと、桟に落ちた水を手のひらで拭いていた。
誰も熊沢に何も言わなかった。熊沢も何も言わなかった。
俺は箒を戻して、鞄を取った。
◇
電車で渋谷まで行った。
有本さんから、書類に判をもらいたいという連絡が昨日のうちに来ていた。判は父さんのやつを借りて、鞄に入れてある。
ソレイユビルの向かいの道は一方通行で、花屋の前だけ少し広い。車は停まっていなかった。
◇
一階の受付を通って、四階へ上がった。
エレベーターの中に、誰かが置いていった紙コップが一つあった。中は空で、縁に折り目が二か所付いている。
扉が開いたら、廊下を戸倉さんが早足で通っていった。
俺のほうは見なかった。見なかったが、通りすぎてから、一度だけ足の速さが変わった。
◇
四階は音が多かった。
電話が鳴って、途中で止まって、また別のところで鳴る。有本さんは受話器を耳に当てたまま、空いているほうの手で俺に椅子を指した。
俺は座った。
机の端に、雑誌が一冊、伏せて置いてあった。表紙は下を向いていて、裏の広告だけが見える。広告は車のやつだった。
その下に、印刷したばかりらしい紙が何枚か重ねてある。いちばん上の一枚には、蛍光ペンで線が二本引いてあった。
一本は週刊誌の名前のところに、もう一本はその下の日付のところに引いてある。日付は二つ並んでいて、二つとも線の中に入っていた。
椅子は有本さんの隣のやつで、座面が少し低い。この階の椅子は高さが揃っていない。前に一度、有本さんが「これ、四階だけ違うんですよ」と言っていた。
有本さんは電話を切って、すぐに次を取った。次を切って、また次を取った。三回目を切ったところで、こっちを向いた。
「高町さん、すみません。ここです」
付箋の貼ってある行を、指で押さえた。
「ここと、ここと、あと裏の下です」
「はい」
俺は三か所に判を押した。二か所目が少し薄かったので、もう一度重ねた。重ねたら、輪郭が二重になった。
◇
「これで大丈夫ですか」
「大丈夫です。二か所目、重ねてくださって助かりました。あれ、薄いままだと総務から戻ってくるので、わたし、いつも自分で押し直してるんです」
「二重になってますけど」
「二重は戻ってきません」
「薄いのは戻ってくるんですか」
「戻ってきます」
「二重のほうが強いんですか」
「強くはないです。でも、通ります」
「はい」
有本さんはそう言って、書類を胸の高さで揃えた。揃えるときに、机の端で二回、下を打った。
打っている途中で、また電話が鳴った。
鳴っている電話を見て、有本さんは俺のほうを見た。見てから、電話を取った。
取って、受話器を肩と耳で挟んだまま、手元のメモに俺の名前を書いた。書いて、下に線を引いた。線は二本引いた。
◇
ガラスの向こうの部屋に犬飼さんがいた。
立ったまま喋っている。片手で電話を持って、もう片方の手は椅子の背に置いていた。置いた手が、途中で背もたれを一度握った。
喋りながら、机の上の紙を裏返した。俺の位置からは、どっちにしても字は見えない。
部屋の外を九条さんが通って、ドアを一度叩いて、開けないで行った。
◇
九条さんは階段のほうへ歩いていった。
いつもより歩幅が広い。上着の前は開いていて、片手に紙の束を持っている。束の厚さは、四階の会議室で見たどの束より薄かった。
階段の手前で、戸倉さんとすれ違った。すれ違うときに、二人とも足を止めなかった。止めないで、片方が何かを言い、片方が短く返した。
言葉は聞こえなかった。聞こえたのは、二人の靴の音が同時に途切れて、また同時に始まったところだけである。
◇
みんなが走り回っている部屋の真ん中で、判だけ押して帰る所属タレントに見えたはずだが、そのとき気になっていたのは、二か所目の判が二重になったことのほうだった。
俺は鞄を持って立った。
立ったところで、有本さんが受話器を肩と耳で挟んだまま、片手を上げた。上げた手を、そのまま下ろした。
◇
エレベーターで一階へ下りた。
自販機の前で、微糖を一本買った。買ったところで、二段目の微糖が右のほうまで減っているのが見えた。
外はまだ降っていた。俺は缶を鞄に入れて、駅まで走らないで歩いた。
◇
席は空いていた。
座って、窓に映る自分の頭のところを見ていた。窓の外は暗いので、ガラスは鏡になっている。
二つ先の駅で、制服の集団が乗ってきた。四人いて、四人とも濡れていた。
四人のうち、一人が俺のほうを見た。見て、隣のやつの袖を引いた。引かれたほうも見た。
二人は何も言わないで、次の駅で降りていった。降りるときに、片方がこっちを向いて、小さく頭を下げた。下げてから、ドアの外へ出た。
◇
桜坂で降りた。
改札を出たところの売店は、もう閉まっていた。閉まった鉄の板の前に、傘立てだけが出しっぱなしになっている。中に一本も入っていない。
駅前の花屋の明かりは点いていた。クリーニング屋は消えていた。交番の前で、警官が自転車の空気を入れていた。
俺は横断歩道を渡って、坂を上がった。
坂の途中の自販機は、上の段の売り切れの赤い字が三つ並んだままだった。前からこうなっている。
パン屋はもう閉めていて、看板の電気だけが点いていた。ガラスの中の棚は空で、トレイが重ねて置いてある。
踏切は開いていた。開いているときに通ると、線路の敷石を踏む音が二回する。
◇
家に着いたのは七時前だった。
玄関に、妹の靴が脱ぎっぱなしになっていた。片方が裏返っている。妹は靴をそろえる日とそろえない日があって、そろえない日のほうが機嫌がいい。
台所に母さんがいた。
「ごはん、上で食べる?」
「下で食う」
「じゃあ待ってて。あの子、学校から帰ってきてから一回も下りてこないのよ。あの年頃っていうのは、部屋にこもるものなの?」
「知らん」
「知らんじゃないでしょう。あんたのときは下りてきてたわよ」
◇
二階へ上がった。
妹の部屋のドアが開いていた。開いているのは珍しい。
中で、机の上の画面が明るかった。妹は椅子に座って、画面のほうへ体を近づけていた。近づけたまま、指だけ動かしている。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「今日、なんかあった?」
「なにも」
「なんにも?」
「なにも」
「そっか」
妹は画面のほうへ戻った。戻るときに、画面をこっちから見えない角度へ少し倒した。
倒してから、それ以上は何も言わなかった。
机の上に、参考書が三冊積んであった。三冊とも閉じたままで、いちばん上の一冊には付箋が一枚も付いていない。
画面のほうは明るい。妹はそっちを見ていて、指はずっと動いていた。
「飯、下だってよ」
「あとで行く」
「母さんが呼んでた」
「あとで行くってば」
◇
俺は廊下の姿見の前を通った。
通って、そこで一度止まった。止まってから、また歩いた。
妹の部屋のドアは、俺が通りすぎたあとで閉まった。
◇
壁の紙が、風もないのに鳴った。
窓は閉まっている。カーテンも動いていない。鳴ったのは右の紙で、下の端が壁から少し浮いていた。
浮いた端が、もう一度鳴った。紙は薄いので、少し動いただけで音が出る。
人形は机の右奥に立って、壁のほうを見ていた。
「あんた、今日どうだった」
「普通だ」
「学校は」
「体育でバスケをやった」
「事務所は」
「判を押した」
「一日中?」
「三か所だ」
人形はこっちを向いた。向いて、片方の手を腰に当てた。
◇
「誰も、何も言わなかったの」
「言われてない」
「一言も?」
「一言も」
人形は当てていた手を下ろした。
「そう」
「なにかあるのか」
「知らないわよ。わたしはここにいたんだから」
人形は台座の上で座った。座って、膝の上で指を組んだ。
組んだ指を、しばらくそのままにしていた。
◇
「あんたの学校の、机を拭いてた子」
「熊沢だ」
「その子、なんて言ったの」
「なにも」
「なにも言わないで拭いてたの」
「そうだ」
「あんた、なんで拭いてると思ったの」
「当番だ」
人形は指をほどいた。
「そう」
「違うのか」
「知らないわよ」
人形は台座の上で足を組み替えた。組み替えて、壁のほうへ顔を向けた。
壁の紙は、まだ下の端が浮いている。浮いたところが、電気の光を裏から受けて、白く見えた。
◇
下から、母さんが俺を呼ぶ声がした。
呼んでから、すぐに妹の名前も呼んだ。妹のほうは返事をしなかった。
俺は鞄を椅子の横に置いた。
鞄の中で、缶が一度転がった。買った微糖は、まだ入れっぱなしになっている。冷たいまま入れておくと、鞄の底が湿る。
俺は缶を出して、机の上に立てた。
机の上には、前に買ったのがもう一本立っている。引き出しの奥にも一本ある。これで三本になった。
三本とも、まだ飲んでいない。
置いたところで、床の上に小さいものが落ちているのが見えた。
◇
画鋲だった。
壁の右の紙は、下の端が浮いている。四つのうち、右下の一つが抜けていた。
俺は机の横でしゃがんだ。
しゃがんで、床の画鋲を指でつまんだ。針の先は曲がっていない。埃が一つ付いていて、それだけ息で飛ばした。
紙は落ちていない。残りの三つで持っている。
しゃがんだ位置から、壁の紙は下から見える。下から見ると、右の紙のいちばん下の行だけが、字の太さで浮いて見えた。
俺は画鋲を机の端に置いた。缶の横に置いたら、転がらないで止まった。
下で、母さんがもう一度俺を呼んだ。




