第127話 休みが終わってしまう
四階の会議室2は、先に誰かが入っていた。
ドアは閉まっていて、中から声が三つくらい聞こえる。うち一つは女の人の声で、二つは男の人の声だった。
悪い話をするときにあの部屋を使う、と前に誰かが言っていた。今日は俺が入る前から埋まっている。
廊下も人が多かった。ホワイトボードは突き当たりまで引き出したままで、その脇を二人が続けて通っていった。二人とも紙を持っていて、二人とも早足だった。
犬飼さんはそのドアの前で一度止まって、それから廊下の反対の端へ歩いた。
「こっちだ」
「はい」
会議室1のほうだった。
◇
会議室1は広い。長机が四本あって、椅子は壁際にも並んでいる。
俺たちは手前の一本に座った。犬飼さんが向かいで、俺がドア側だ。四本のうち三本は誰も使っていない。
天井の蛍光灯は、入口に近い二本しか点いていなかった。犬飼さんはスイッチのところまで戻らなかった。
奥のほうは暗い。暗いところに、去年の暮れに使ったらしいホワイトボードがもう一枚立ててあって、字が半分消してある。消し残りは数字だけだった。
俺はこの部屋に一度だけ入ったことがある。大人が十六人いた日だ。今日は二人しかいない。
窓は無い。四階のこっちの部屋にも窓は無くて、明るさは天井だけである。
◇
一月二十六日、月曜日。
学校は六時間あった。終わってから電車に乗って、渋谷で降りて、ここまで来た。来いと言われたのは今朝である。
鞄は椅子の下に置いた。中に、日誌を出し忘れた分が一冊入っている。明日の朝に出せば間に合う。
一階の受付は、いつもの人だった。名前を書く紙を出されて、書いて、返した。返したときに、受付の人が俺の顔を見た。見て、何も言わずに札を寄越した。
首にかける札を受け取った。巻き方が逆になっていたが、直さないでかけた。
◇
犬飼さんは紙の束を机の上に置いた。
置いて、上から二枚目までめくって、また戻した。戻したときに、いちばん上の紙の角が少し折れた。折れたところを、指で押さえて伸ばした。
「先に結論を言う」
「はい」
「記事は取り下げになる」
◇
「取り下げ」
「載せた側が、間違いだったと認める。もう認めている。今週のうちに向こうから文章が出る」
「はい」
「わかってないだろ」
「はい」
「わかってないという返事だけは、いつも速いな」
「はい」
犬飼さんは椅子の背にもたれた。
もたれてから、また前に戻った。
「写真が二枚あった。並んで歩いているやつと、車に乗り込むやつだ。あの二枚は、同じ日に撮ったものとして並べてあった。並べてあったが、同じ日じゃなかった」
「違う日ですか」
「違う日だ」
◇
「どうしてわかったんですか」
「道だ」
「道」
「片方の写真の道に、白い線が引いてある。もう片方の道には無い」
「はい」
犬飼さんは机の上で、指を横に一本すべらせた。
「あれは、片側を工事しているあいだだけ引く線だ。一度切れて、二メートルばかり先からまた始まる。工事が済んだら引き直すから、切れ目は消える」
「はい」
「同じ夜に同じ道を歩いた二人が、片方の写真でだけ線を跨ぐことはない。二枚のあいだに、日が入っている」
「はい」
「わかったか」
「わかりました」
「たぶんわかってない」
「線は、見ました」
犬飼さんは、紙をそろえかけた手を止めた。
「見た?」
「雑誌の出た日に見ました。左のは白いのが切れてて、右のは無かったです」
「それで、何を思った」
「工事してるんだな、と思いました」
犬飼さんは、そこで何も言わなかった。
言わないで、止めた手をそのまま机の上に置いた。置いた手の指が、天板を一度だけ叩いた。
「一か月半、それを持ってたのか」
「持ってません」
「持ってただろう」
「見ただけです」
◇
「あれ、澪さんの写り、良かったです」
「そこじゃない」
「はい」
「そこじゃないんだが、まあ、いい」
犬飼さんは机の上の紙を一枚、こっちへ滑らせた。
滑らせて、途中で自分の手で止めた。止めて、また自分のほうへ戻した。
「これは君が読むものじゃない」
「はい」
「読んでも面白くないし、読むと、君は写真の話を先にする」
「しますか」
「した」
◇
「写真を売った人間がいる。うちの人間じゃない。君でもない。俺でもない。よその事務所の人間だ」
「どこのですか」
「言わない」
「はい」
「名前を知っても、君にできることが一つも増えない」
「はい」
犬飼さんは一度、天井のほうを見た。
「どこから出たかは、別のところが書いた。この件と関係のない媒体だ」
「はい」
「十二月に、神楽坂さんが一人で会見をやった。うちは何も知らされていない」
「見ました。みかんを食いながら見ました」
「あれを見ていた記者が二人いる。一人は書かなかった。もう一人が、そこから一か月、写真の出どころのほうを当たった」
「はい」
「神楽坂さんは、自分が歩いたことしか言っていない。君のことは一言も言っていない。それでも、あれが無ければ誰も向こう側を掘っていない」
◇
「じゃあ、ひっくり返ったんですか」
「ひっくり返った。うちは何もしていない。君も何もしていない。動いたのは全部、うちの外にいる人間だ」
「俺が何かしたわけじゃないんですよね」
「君は何もしていない。何かしていたら、今ごろは君の言った言葉のほうが記事になっている」
「はい」
「言った言葉は、あとから切って使える。言わなかった言葉は切れない」
「はい」
「飯は食ったか」
「食ってません」
「帰りに何か買ってやる」
◇
俺は机の木目を見ていた。
長机の天板は、継ぎ目が真ん中にある。継ぎ目のところだけ、木の色が薄い。
犬飼さんの話は続いていた。
犬飼さんが紙をそろえ終わったら、帰れる。紙を見ていれば、あとどれくらいかが分かる。
紙はまだ机の上に広がったままだった。広がっているのは五枚か六枚で、そのうち二枚は裏返してある。裏返してあるほうが上に来ている。
犬飼さんの一文は長い。長いので、途中で息を継ぐところが分かる。継いだところで、こっちが返事をしていいのかどうかが分からない。
俺は継ぎ目のところで「はい」と言った。早かったらしく、犬飼さんは同じ文をもう一度頭から言い直した。
◇
「順番に言う。まず、謝る人間が出た。次に、かばう人間が出た。この二つは同じ人間のこともある」
「同じ人ですか」
「同じ人だ。それから、去年の映像をもう一度流す人間が出た。バラエティの、君が何も言わないやつだ」
「あれですか」
「あれだ。あれが、今また回っている」
「同じやつがですか」
「同じやつだ。夏に一度回って、十二月にもう一度回って、今また回っている。中身は一秒も増えていない」
「増えてません」
「そうだ」
俺は自分の膝を見た。
「回っても、俺は何もしていません」
「そうだ」
「はい」
「そこは変わらない。変わったのは向こう側だけだ」
◇
俺は自分の手を見た。
右手の甲に、赤い跡が残っている。今日の掃除で、道具入れの棚の角に当てたやつだ。
「切り抜きって、なんですか」
「番組の一部だけを取り出して、短くしたやつだ」
「短くすると、どうなるんですか」
「前と後ろが無くなる。無くなると、何を言われて君が黙ったのかが分からなくなる」
「分からないほうがいいんですか」
「向こうにとってはな」
犬飼さんは机の上で指を組んだ。組んだまま、しばらく動かさなかった。
「今回は、それが君の側に転がった。次に転がる向きは、誰にも分からん」
◇
「うちに、話が戻ってきている」
犬飼さんはそこで初めて紙の端をそろえた。
そろえて、机の上で二回、下を打った。
「戻ってきているというのは、確定したという意味じゃない。順番を決めるのはこっちだ。それは前と同じだ」
「はい」
「ただ、量が違う」
「量」
「前に一度、うちは君の見せ方を変えた。変えた直後にこうなったから、こっちも今回は最初から数えている。数えているのは俺と有本で、君は数えなくていい」
「はい」
「君が数えると、たいてい別のものを数える」
「はい」
◇
犬飼さんは紙の束を持ち上げて、机の縁で角をそろえた。
そろえてから、束の上に手のひらを置いた。置いた手は動かなかった。
「一つだけ言っておく。今日から先、君に会う人間の態度が変わる。前の月と違うことを言う人間が出る。それを君は覚えなくていい」
「覚えないんですか」
「覚えると、次に変わったときに面倒だ」
「はい」
「うちが覚えておく。それがうちの仕事だ」
◇
「一つ聞いていいですか」
「言え」
「学校は、今までどおりでいいですか」
「そこか」
「そこです」
「今までどおりだ。授業を削る話は、当分こっちから出さない」
「はい」
犬飼さんは俺の顔を見た。
見て、机の上の紙を一度そろえ直した。二度目のそろえ直しだった。
「君は、年末から一度も俺に連絡してきていない」
「用が無かったので」
「そうだな」
「はい」
「用が無いというのは、たいてい、いいことだ」
◇
ドアが開いて、有本さんが顔だけ入れた。
「犬飼さん、すみません。今日、十七本ありました」
「わかった」
「あと、四時からの分は明日に回してもらいました」
「そうしてくれ」
「それと、三階のスタジオ、来週から予約が入りはじめてます。まだ確定じゃないんですけど、押さえておいたほうがいいと思って、仮で二つ入れておきました」
「入れておけ」
有本さんはドアを閉めた。
閉めるときに、俺のほうを見て、少しだけ頭を下げた。下げてから閉めた。
◇
「本というのは、電話ですか」
「電話だ」
「多いんですか」
「多い」
「はい」
犬飼さんは湯呑みを持ち上げて、中を見て、置いた。
中身は入っていなかったらしい。
部屋の外を誰かが走った。走って、途中で歩きに変わった。会議室2のドアが開く音がして、声が三つとも廊下に出てきた。
出てきた声の一つが九条さんので、あとの二つは知らない人だった。三つは階段のほうへ遠ざかっていった。
犬飼さんは、そっちを見なかった。
◇
「もう一つある」
犬飼さんは椅子を少し引いた。
「年末に流れた話の周りから、二件来ている。同じ話が戻ってきたわけじゃない。流れたやつは、もう別の人間で埋まってるか、日が過ぎてる。来たのは別の口だ。それと、延ばしていた収録の日が、そろそろ決まる」
「延ばしていたやつ」
「特番だ。鴻上と二人でやるやつだ」
「はい」
「向こうは最初から降ろすつもりが無かった。日を後ろへ動かしただけだ」
◇
俺は椅子の上で、鞄の位置を足で直した。
直しながら、話の終わりを待っていた。紙はもうそろえてある。そろえてあるのに、犬飼さんはまだ喋っていた。
紙はそろっている。それでも話は続いた。
次の合図を探した。湯呑みを持ち上げたら終わりかもしれない。犬飼さんは湯呑みを二回持ち上げて、二回とも置いた。中身が入っていないので、これは合図にならない。
椅子を引いたら終わりかもしれない。さっき引いていた。引いたあとで、話が二つ増えた。
「君に言っておきたいことがもう一つある。今回のことで、誰かが悪かったという話を、君はしなくていい。うちもしない。したところで一つも得がない」
「はい」
「腹が立たないか」
「立ちません」
「そうか」
犬飼さんは湯呑みをもう一度持ち上げて、また置いた。
◇
「じゃあ、休みは」
俺はそれを聞いた。
「終わりだ」
犬飼さんは短く言った。
◇
俺は少しのあいだ、何も言えなかった。
休みが終わる。
朝に起きる時間が戻る。電車に乗る日が戻る。夜に帰る日が戻る。
惜しい。
机の上の紙は、もうそろえてある。犬飼さんは湯呑みの縁を指で一度なぞって、そのまま手を膝に下ろした。今度は合図だった。
「そうですか」
「不満か」
「いえ」
「今、湯呑みを見たな」
「見ました」
◇
帰りは犬飼さんの車だった。
助手席に座って、シートベルトを引いた。引いたら、途中で一度引っかかって、戻して、もう一度引いた。
ドアポケットに、給油の伝票が何枚か突っ込んである。いちばん上のは日付が今月だった。
外は暗い。ビルを出るときに、向かいの花屋の明かりが消えるところだった。
道は一方通行なので、車は右へ出るしかない。犬飼さんは一度大きく回って、大通りへ入った。
入ったところで、後ろから来た車に先へ行かせた。行かせるときに、ハンドルの上で指を二本立てた。
車の中は暖房が効きすぎている。俺は膝の上に鞄を置いて、その上に両手を置いた。
◇
信号で止まった。
前の車のブレーキランプが、フロントガラスの下のほうを赤くしている。犬飼さんはハンドルの上のほうを両手で持っていた。
「高町」
「はい」
「何か言いたいことがあるなら、今のうちに言え。会社に着いたら言えなくなる」
「会社は出ました」
「言葉のあやだ」
◇
前の車のブレーキランプが、一度消えて、また点いた。信号はまだ赤だった。
俺は前を見たまま言った。
「休み、あと三日くらいありませんか」
◇
犬飼さんは笑った。
声が先に出て、それから肩が動いた。ハンドルの上の手が一度離れて、また戻った。
笑いながら、片手で自分の口をふさいだ。
◇
「三日」
「三日です」
「何に使うんだ」
「決めてません」
「決めてないのに要るのか」
「決めると、休みじゃなくなります」
「誰がそんなことを言った」
「犬飼さんです」
犬飼さんはもう一度笑った。
今度は前より短かった。短かったが、止まるまでに信号が青になっていた。
◇
車が動き出した。
俺は窓の外を見ていた。歩道の街灯が、一定の間隔で後ろへ流れていく。間隔は途中で一度だけ広くなって、そこは電球が切れているところだった。
「高町」
「はい」
「三日は無理だ」
「はい」
「二日にもならん」
「一日は」
「一日もない」
「そうですか」
「そうだ」
◇
「高町、一つ聞くぞ」
「はい」
「この休みのあいだ、何をしてた」
「寝てました」
「他には」
「食ってました」
「他には」
「……別に」
犬飼さんは前を見たまま、少しのあいだ黙っていた。
黙って、それから「そうか」と言った。
言い方は短かった。短いが、いつもの「そうか」より少し長く伸びていた。
◇
「高町、飯はどうする」
「家で食います」
「さっき買ってやると言ったぞ」
「母さんが作ってます」
「そうか」
「食える量が決まってるので」
「そうか」
犬飼さんはウインカーを出した。出して、車線を一つ左へ移した。
「今日は俺も早く上がる」
「はい」
「年末以来だ」
「そうですか」
「そうだ」
◇
交差点を二つ越えた。
二つ目で、前の車が急に止まった。犬飼さんはブレーキを踏んで、それから右手だけをハンドルから離して、俺のほうへ一度出した。出した手は、俺の胸の前で止まって、すぐ戻った。
俺は前を見ていた。前の車のブレーキランプは、片方だけ切れていた。
「今の、危なかったですか」
「危なくない」
「はい」
「危ないときは、こうしない」
◇
桜坂の駅前で降ろしてもらった。
降りるときに、犬飼さんはハンドルから手を離さないままこっちを向いた。
「来週の頭に、九条さんから話がある。日は追って言う」
「はい」
「それまでは、まだ休みだ」
「はい」
◇
ドアを閉めた。
俺は歩道に立った。花屋はもう閉まっていて、クリーニング屋の看板だけが点いている。交番の前で、警官が一人、自転車を停め直していた。
自販機の下の段は、缶コーヒーが二列とも埋まっていた。補充したばかりらしく、取り出し口の蓋がまだ少し浮いている。
◇
車は交番の前で右へ曲がった。
曲がる直前に、運転席の窓の中が見えた。
犬飼さんは、まだ片手で口をふさいでいた。




