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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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127/236

第127話 休みが終わってしまう

 四階の会議室2は、先に誰かが入っていた。


 ドアは閉まっていて、中から声が三つくらい聞こえる。うち一つは女の人の声で、二つは男の人の声だった。


 悪い話をするときにあの部屋を使う、と前に誰かが言っていた。今日は俺が入る前から埋まっている。


 廊下も人が多かった。ホワイトボードは突き当たりまで引き出したままで、その脇を二人が続けて通っていった。二人とも紙を持っていて、二人とも早足だった。


 犬飼さんはそのドアの前で一度止まって、それから廊下の反対の端へ歩いた。


「こっちだ」

「はい」


 会議室1のほうだった。


   ◇


 会議室1は広い。長机が四本あって、椅子は壁際にも並んでいる。


 俺たちは手前の一本に座った。犬飼さんが向かいで、俺がドア側だ。四本のうち三本は誰も使っていない。


 天井の蛍光灯は、入口に近い二本しか点いていなかった。犬飼さんはスイッチのところまで戻らなかった。


 奥のほうは暗い。暗いところに、去年の暮れに使ったらしいホワイトボードがもう一枚立ててあって、字が半分消してある。消し残りは数字だけだった。


 俺はこの部屋に一度だけ入ったことがある。大人が十六人いた日だ。今日は二人しかいない。


 窓は無い。四階のこっちの部屋にも窓は無くて、明るさは天井だけである。


   ◇


 一月二十六日、月曜日。


 学校は六時間あった。終わってから電車に乗って、渋谷で降りて、ここまで来た。来いと言われたのは今朝である。


 鞄は椅子の下に置いた。中に、日誌を出し忘れた分が一冊入っている。明日の朝に出せば間に合う。


 一階の受付は、いつもの人だった。名前を書く紙を出されて、書いて、返した。返したときに、受付の人が俺の顔を見た。見て、何も言わずに札を寄越した。


 首にかける札を受け取った。巻き方が逆になっていたが、直さないでかけた。


   ◇


 犬飼さんは紙の束を机の上に置いた。


 置いて、上から二枚目までめくって、また戻した。戻したときに、いちばん上の紙の角が少し折れた。折れたところを、指で押さえて伸ばした。


「先に結論を言う」

「はい」

「記事は取り下げになる」


   ◇


「取り下げ」

「載せた側が、間違いだったと認める。もう認めている。今週のうちに向こうから文章が出る」

「はい」

「わかってないだろ」

「はい」

「わかってないという返事だけは、いつも速いな」

「はい」


 犬飼さんは椅子の背にもたれた。


 もたれてから、また前に戻った。


「写真が二枚あった。並んで歩いているやつと、車に乗り込むやつだ。あの二枚は、同じ日に撮ったものとして並べてあった。並べてあったが、同じ日じゃなかった」

「違う日ですか」

「違う日だ」


   ◇


「どうしてわかったんですか」

「道だ」

「道」

「片方の写真の道に、白い線が引いてある。もう片方の道には無い」

「はい」


 犬飼さんは机の上で、指を横に一本すべらせた。


「あれは、片側を工事しているあいだだけ引く線だ。一度切れて、二メートルばかり先からまた始まる。工事が済んだら引き直すから、切れ目は消える」

「はい」

「同じ夜に同じ道を歩いた二人が、片方の写真でだけ線を跨ぐことはない。二枚のあいだに、日が入っている」

「はい」

「わかったか」

「わかりました」

「たぶんわかってない」

「線は、見ました」


 犬飼さんは、紙をそろえかけた手を止めた。


「見た?」

「雑誌の出た日に見ました。左のは白いのが切れてて、右のは無かったです」

「それで、何を思った」

「工事してるんだな、と思いました」


 犬飼さんは、そこで何も言わなかった。


 言わないで、止めた手をそのまま机の上に置いた。置いた手の指が、天板を一度だけ叩いた。


「一か月半、それを持ってたのか」

「持ってません」

「持ってただろう」

「見ただけです」


   ◇


「あれ、澪さんの写り、良かったです」

「そこじゃない」

「はい」

「そこじゃないんだが、まあ、いい」


 犬飼さんは机の上の紙を一枚、こっちへ滑らせた。


 滑らせて、途中で自分の手で止めた。止めて、また自分のほうへ戻した。


「これは君が読むものじゃない」

「はい」

「読んでも面白くないし、読むと、君は写真の話を先にする」

「しますか」

「した」


   ◇


「写真を売った人間がいる。うちの人間じゃない。君でもない。俺でもない。よその事務所の人間だ」

「どこのですか」

「言わない」

「はい」

「名前を知っても、君にできることが一つも増えない」

「はい」


 犬飼さんは一度、天井のほうを見た。


「どこから出たかは、別のところが書いた。この件と関係のない媒体だ」

「はい」

「十二月に、神楽坂さんが一人で会見をやった。うちは何も知らされていない」

「見ました。みかんを食いながら見ました」

「あれを見ていた記者が二人いる。一人は書かなかった。もう一人が、そこから一か月、写真の出どころのほうを当たった」

「はい」

「神楽坂さんは、自分が歩いたことしか言っていない。君のことは一言も言っていない。それでも、あれが無ければ誰も向こう側を掘っていない」


   ◇


「じゃあ、ひっくり返ったんですか」

「ひっくり返った。うちは何もしていない。君も何もしていない。動いたのは全部、うちの外にいる人間だ」

「俺が何かしたわけじゃないんですよね」

「君は何もしていない。何かしていたら、今ごろは君の言った言葉のほうが記事になっている」

「はい」

「言った言葉は、あとから切って使える。言わなかった言葉は切れない」

「はい」

「飯は食ったか」

「食ってません」

「帰りに何か買ってやる」


   ◇


 俺は机の木目を見ていた。


 長机の天板は、継ぎ目が真ん中にある。継ぎ目のところだけ、木の色が薄い。


 犬飼さんの話は続いていた。


 犬飼さんが紙をそろえ終わったら、帰れる。紙を見ていれば、あとどれくらいかが分かる。


 紙はまだ机の上に広がったままだった。広がっているのは五枚か六枚で、そのうち二枚は裏返してある。裏返してあるほうが上に来ている。


 犬飼さんの一文は長い。長いので、途中で息を継ぐところが分かる。継いだところで、こっちが返事をしていいのかどうかが分からない。


 俺は継ぎ目のところで「はい」と言った。早かったらしく、犬飼さんは同じ文をもう一度頭から言い直した。


   ◇


「順番に言う。まず、謝る人間が出た。次に、かばう人間が出た。この二つは同じ人間のこともある」

「同じ人ですか」

「同じ人だ。それから、去年の映像をもう一度流す人間が出た。バラエティの、君が何も言わないやつだ」

「あれですか」

「あれだ。あれが、今また回っている」

「同じやつがですか」

「同じやつだ。夏に一度回って、十二月にもう一度回って、今また回っている。中身は一秒も増えていない」

「増えてません」

「そうだ」


 俺は自分の膝を見た。


「回っても、俺は何もしていません」

「そうだ」

「はい」

「そこは変わらない。変わったのは向こう側だけだ」


   ◇


 俺は自分の手を見た。


 右手の甲に、赤い跡が残っている。今日の掃除で、道具入れの棚の角に当てたやつだ。


「切り抜きって、なんですか」

「番組の一部だけを取り出して、短くしたやつだ」

「短くすると、どうなるんですか」

「前と後ろが無くなる。無くなると、何を言われて君が黙ったのかが分からなくなる」

「分からないほうがいいんですか」

「向こうにとってはな」


 犬飼さんは机の上で指を組んだ。組んだまま、しばらく動かさなかった。


「今回は、それが君の側に転がった。次に転がる向きは、誰にも分からん」


   ◇


「うちに、話が戻ってきている」


 犬飼さんはそこで初めて紙の端をそろえた。


 そろえて、机の上で二回、下を打った。


「戻ってきているというのは、確定したという意味じゃない。順番を決めるのはこっちだ。それは前と同じだ」

「はい」

「ただ、量が違う」

「量」

「前に一度、うちは君の見せ方を変えた。変えた直後にこうなったから、こっちも今回は最初から数えている。数えているのは俺と有本で、君は数えなくていい」

「はい」

「君が数えると、たいてい別のものを数える」

「はい」


   ◇


 犬飼さんは紙の束を持ち上げて、机の縁で角をそろえた。


 そろえてから、束の上に手のひらを置いた。置いた手は動かなかった。


「一つだけ言っておく。今日から先、君に会う人間の態度が変わる。前の月と違うことを言う人間が出る。それを君は覚えなくていい」

「覚えないんですか」

「覚えると、次に変わったときに面倒だ」

「はい」

「うちが覚えておく。それがうちの仕事だ」


   ◇


「一つ聞いていいですか」

「言え」

「学校は、今までどおりでいいですか」

「そこか」

「そこです」

「今までどおりだ。授業を削る話は、当分こっちから出さない」

「はい」


 犬飼さんは俺の顔を見た。


 見て、机の上の紙を一度そろえ直した。二度目のそろえ直しだった。


「君は、年末から一度も俺に連絡してきていない」

「用が無かったので」

「そうだな」

「はい」

「用が無いというのは、たいてい、いいことだ」


   ◇


 ドアが開いて、有本さんが顔だけ入れた。


「犬飼さん、すみません。今日、十七本ありました」

「わかった」

「あと、四時からの分は明日に回してもらいました」

「そうしてくれ」

「それと、三階のスタジオ、来週から予約が入りはじめてます。まだ確定じゃないんですけど、押さえておいたほうがいいと思って、仮で二つ入れておきました」

「入れておけ」


 有本さんはドアを閉めた。


 閉めるときに、俺のほうを見て、少しだけ頭を下げた。下げてから閉めた。


   ◇


「本というのは、電話ですか」

「電話だ」

「多いんですか」

「多い」

「はい」


 犬飼さんは湯呑みを持ち上げて、中を見て、置いた。


 中身は入っていなかったらしい。


 部屋の外を誰かが走った。走って、途中で歩きに変わった。会議室2のドアが開く音がして、声が三つとも廊下に出てきた。


 出てきた声の一つが九条さんので、あとの二つは知らない人だった。三つは階段のほうへ遠ざかっていった。


 犬飼さんは、そっちを見なかった。


   ◇


「もう一つある」


 犬飼さんは椅子を少し引いた。


「年末に流れた話の周りから、二件来ている。同じ話が戻ってきたわけじゃない。流れたやつは、もう別の人間で埋まってるか、日が過ぎてる。来たのは別の口だ。それと、延ばしていた収録の日が、そろそろ決まる」

「延ばしていたやつ」

「特番だ。鴻上と二人でやるやつだ」

「はい」

「向こうは最初から降ろすつもりが無かった。日を後ろへ動かしただけだ」


   ◇


 俺は椅子の上で、鞄の位置を足で直した。


 直しながら、話の終わりを待っていた。紙はもうそろえてある。そろえてあるのに、犬飼さんはまだ喋っていた。


 紙はそろっている。それでも話は続いた。


 次の合図を探した。湯呑みを持ち上げたら終わりかもしれない。犬飼さんは湯呑みを二回持ち上げて、二回とも置いた。中身が入っていないので、これは合図にならない。


 椅子を引いたら終わりかもしれない。さっき引いていた。引いたあとで、話が二つ増えた。


「君に言っておきたいことがもう一つある。今回のことで、誰かが悪かったという話を、君はしなくていい。うちもしない。したところで一つも得がない」

「はい」

「腹が立たないか」

「立ちません」

「そうか」


 犬飼さんは湯呑みをもう一度持ち上げて、また置いた。


   ◇


「じゃあ、休みは」


 俺はそれを聞いた。


「終わりだ」


 犬飼さんは短く言った。


   ◇


 俺は少しのあいだ、何も言えなかった。


 休みが終わる。


 朝に起きる時間が戻る。電車に乗る日が戻る。夜に帰る日が戻る。


 惜しい。


 机の上の紙は、もうそろえてある。犬飼さんは湯呑みの縁を指で一度なぞって、そのまま手を膝に下ろした。今度は合図だった。


「そうですか」

「不満か」

「いえ」

「今、湯呑みを見たな」

「見ました」


   ◇


 帰りは犬飼さんの車だった。


 助手席に座って、シートベルトを引いた。引いたら、途中で一度引っかかって、戻して、もう一度引いた。


 ドアポケットに、給油の伝票が何枚か突っ込んである。いちばん上のは日付が今月だった。


 外は暗い。ビルを出るときに、向かいの花屋の明かりが消えるところだった。


 道は一方通行なので、車は右へ出るしかない。犬飼さんは一度大きく回って、大通りへ入った。


 入ったところで、後ろから来た車に先へ行かせた。行かせるときに、ハンドルの上で指を二本立てた。


 車の中は暖房が効きすぎている。俺は膝の上に鞄を置いて、その上に両手を置いた。


   ◇


 信号で止まった。


 前の車のブレーキランプが、フロントガラスの下のほうを赤くしている。犬飼さんはハンドルの上のほうを両手で持っていた。


「高町」

「はい」

「何か言いたいことがあるなら、今のうちに言え。会社に着いたら言えなくなる」

「会社は出ました」

「言葉のあやだ」


   ◇


 前の車のブレーキランプが、一度消えて、また点いた。信号はまだ赤だった。


 俺は前を見たまま言った。


「休み、あと三日くらいありませんか」


   ◇


 犬飼さんは笑った。


 声が先に出て、それから肩が動いた。ハンドルの上の手が一度離れて、また戻った。


 笑いながら、片手で自分の口をふさいだ。


   ◇


「三日」

「三日です」

「何に使うんだ」

「決めてません」

「決めてないのに要るのか」

「決めると、休みじゃなくなります」

「誰がそんなことを言った」

「犬飼さんです」


 犬飼さんはもう一度笑った。


 今度は前より短かった。短かったが、止まるまでに信号が青になっていた。


   ◇


 車が動き出した。


 俺は窓の外を見ていた。歩道の街灯が、一定の間隔で後ろへ流れていく。間隔は途中で一度だけ広くなって、そこは電球が切れているところだった。


「高町」

「はい」

「三日は無理だ」

「はい」

「二日にもならん」

「一日は」

「一日もない」

「そうですか」

「そうだ」


   ◇


「高町、一つ聞くぞ」

「はい」

「この休みのあいだ、何をしてた」

「寝てました」

「他には」

「食ってました」

「他には」

「……別に」


 犬飼さんは前を見たまま、少しのあいだ黙っていた。


 黙って、それから「そうか」と言った。


 言い方は短かった。短いが、いつもの「そうか」より少し長く伸びていた。


   ◇


「高町、飯はどうする」

「家で食います」

「さっき買ってやると言ったぞ」

「母さんが作ってます」

「そうか」

「食える量が決まってるので」

「そうか」


 犬飼さんはウインカーを出した。出して、車線を一つ左へ移した。


「今日は俺も早く上がる」

「はい」

「年末以来だ」

「そうですか」

「そうだ」


   ◇


 交差点を二つ越えた。


 二つ目で、前の車が急に止まった。犬飼さんはブレーキを踏んで、それから右手だけをハンドルから離して、俺のほうへ一度出した。出した手は、俺の胸の前で止まって、すぐ戻った。


 俺は前を見ていた。前の車のブレーキランプは、片方だけ切れていた。


「今の、危なかったですか」

「危なくない」

「はい」

「危ないときは、こうしない」


   ◇


 桜坂の駅前で降ろしてもらった。


 降りるときに、犬飼さんはハンドルから手を離さないままこっちを向いた。


「来週の頭に、九条さんから話がある。日は追って言う」

「はい」

「それまでは、まだ休みだ」

「はい」


   ◇


 ドアを閉めた。


 俺は歩道に立った。花屋はもう閉まっていて、クリーニング屋の看板だけが点いている。交番の前で、警官が一人、自転車を停め直していた。


 自販機の下の段は、缶コーヒーが二列とも埋まっていた。補充したばかりらしく、取り出し口の蓋がまだ少し浮いている。


   ◇


 車は交番の前で右へ曲がった。


 曲がる直前に、運転席の窓の中が見えた。


 犬飼さんは、まだ片手で口をふさいでいた。

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