第128話 聞きたいことが一つだけあった
九条さんは、俺が座る前から喋り始めていた。
「先に日付から言う。今週の木曜と、来週の火曜。この二つは動かない」
俺は椅子を引いて座った。座ったところで、机の上に紙が三枚並べられた。
並べたのは犬飼さんだった。左から右へ、間隔を空けて置いた。置いてから、いちばん右の一枚だけ、伏せた。
◇
四階の会議室2は狭い。今日は三人しかいない。
九条さんと、犬飼さんと、俺である。
部屋に窓は無い。天井の蛍光灯は四本とも点いていて、机の上の紙が白く見えた。
暖房は入口の上にあって、風の向きが変えられない。俺の座っているところにだけ、まっすぐ当たる。
◇
二月二日、月曜日。
学校は六時間あった。終わってから来た。制服のまま座っている。
教室から出るときに、美咲が「今日は事務所?」と聞いてきた。「事務所だ」と答えたら、「じゃあ日誌は私が出しておく」と言って、俺の机の上の日誌を持っていった。
電車は空いていた。渋谷で降りて、坂を上がって、花屋の前を通ってビルに入った。
入る前に、下から四階の窓を見た。四階の窓は三つあって、三つとも明るかった。三階の窓は暗い。二階は、いちばん端の一つだけ点いていた。
鞄は椅子の脇に立てた。立てたら倒れたので、寝かせた。
◇
「一枚目が特番だ」
九条さんは左の紙を指した。
「延ばしていた収録の日が決まった。二日ぶん取ってある。段取りは前に組んだものをそのまま使う。構成の打ち合わせは、鴻上くんのほうが先に入っている」
「はい」
「二枚目は、年末に流れた話の周りから来た二件だ。同じ話ではない」
「はい」
「三枚目は、今日までに来た新しいぶんだ」
九条さんは三枚目には触らなかった。触らないで、机の上に伏せたままにした。
◇
俺は左の紙を見た。
日付が二つ並んでいて、その下に時刻が入っている。時刻のところだけ、印刷ではなく手で書き足してあった。書いた字は九条さんのではない。
「これ、手で書いてあります」
「今朝、決まった」
「今朝ですか」
「先方が今朝出してきた。印刷が間に合わない」
九条さんは指で紙の端をそろえた。そろえた指の爪は短く切ってある。
「一つだけ言っておく。二日ぶんというのは、二日ぶん拘束されるという意味だ。休みの日を二日使う。君は今、休みの日しか持っていない」
「はい」
「それでいいかとは聞かない。うちが決めることだ」
◇
「順番はうちが決める」
九条さんは眼鏡を外して、机の上に置いた。
「戻ってきたものを全部受けると、去年と同じ形に戻る。うちは去年の形に戻すつもりが無い。前に一度変えたものを、外の都合で戻すのは、いちばん筋が悪い」
「はい」
「今の話は、君が納得する必要が無い」
「はい」
九条さんは眼鏡を持ち上げて、レンズを息で曇らせて、袖で拭いた。
拭いて、かけ直した。
◇
犬飼さんは横で黙っていた。
机の下で足を組み替える音が一度した。それから、湯呑みを一度回した。回して、飲まなかった。
回したあとで、湯呑みの縁を指で一度なぞった。なぞって、手を膝に下ろした。
九条さんのほうの湯呑みは、まだ湯気が出ている。犬飼さんのほうは出ていない。
◇
「学校のことも言っておく」
九条さんは俺のほうを見た。
「三月に卒業がある。うちは、そこまでの予定に授業の時間を入れない。これは会社の方針で、君の希望とは関係が無い」
「はい」
「二月と三月は、この二日と、前に話した紙の日のほかは、平日の昼を使わない。使うのは土日と、夕方から先だ」
「はい」
「例外はその三日だけだ。それ以外は学校に置く」
◇
犬飼さんが横から一度だけ口を挟んだ。
「学校の届は、こっちで出す。担任にはうちから電話を入れる。君がやることは何もない」
「はい」
「去年の秋にも何度か出している。同じ書式だ」
「はい」
九条さんはそれを聞いて、うなずいた。うなずくと、机の上の三枚をもう一度並べ直した。
並べ直した順番は、さっきと同じだった。
◇
俺は三枚の紙を見ていた。
左の紙には日付が二つ入っていて、真ん中の紙には社名らしいものが並んでいる。右の紙は伏せてある。
伏せた紙の裏から、印刷の線がうっすら透けていた。透けているのは表の枠だけで、中の字までは出ていない。
俺は指を伸ばさなかった。伸ばしても、九条さんが先に手を置く。今日は最初から、その手が机の上に出ている。
◇
「一次は十二月に通っている。最終は二月の中旬だ」
九条さんは言った。
「日と場所は、向こうがまだ言ってこない。決まったら、こっちから伝える」
「はい」
「うちが出させてもらった紙だ。行くところまでは、うちが持つ」
九条さんはそこで話を切って、机の上の三枚を一枚ずつ重ねた。
重ねる順番は、左、真ん中、伏せてあるやつ、だった。
◇
部屋が静かになった。
暖房の音だけが上のほうで鳴っている。犬飼さんは椅子の背から背中を離して、そのままの姿勢で止まっていた。
九条さんは重ねた紙の上に手を置いていた。置いた手は動かない。
机の上に、他には何も出ていない。湯呑みが二つ置いてあるだけだった。
俺は言った。
「最終審査、行っていいですか」
◇
九条さんは、重ねた紙の上に置いた手を止めた。
止めて、俺の顔を見た。
犬飼さんのほうを一度見て、また俺のほうへ戻した。
◇
「行け」
犬飼さんが言った。
九条さんより先だった。
九条さんは何も言わないで、犬飼さんのほうを見ていた。見て、それから机の上に置いた手をどけた。
どけたところに、紙の角が三枚ぶん重なっていた。
◇
「はい」
「それだけか」
「それだけです」
「他に聞きたいことは」
「弁当は要りますか」
「知らん」
「はい」
「うちが持つのは、行くところまでだ。飯の話は聞いていない」
「はい」
「聞いておく」
犬飼さんは湯呑みをもう一度回した。
◇
大人二人の話を黙って聞いて、最後に一つだけ確認した男に見えたはずだが、そのとき頭にあったのは、その日の昼をどこで食うのかということだけだった。
◇
「九条さん」
犬飼さんが横から呼んだ。
「こいつが自分から何かを頼んだのは、これが初めてです」
「そうか」
「うちに来てから、これが初めてです」
九条さんは重ねた紙を胸のところで揃えた。
揃えてから、俺のほうは見ないで言った。
「高町くん、今の話は、うちの中でだけしておいてくれ」
「はい」
「外で言うと、記事になる」
「言いません」
「学校でもだ」
「言いません」
「君は、聞かれないと言わない人間だから、たぶん大丈夫だ」
九条さんは立ち上がった。
立ち上がるときに、椅子を後ろへ引いて、引いた分だけ壁に当てた。当たった音で、暖房の風の向きが変わったように聞こえた。風の向きは変わらなかった。
◇
部屋を出た。
廊下は会議室より寒い。犬飼さんは先に出て、俺が出るのを待って、ドアを閉めた。
「高町」
「はい」
「木曜は九時に迎えに行く。学校は休みだ」
「休みですか」
「その日は公欠になる。紙はこっちで書く」
「はい」
「それと、木曜は昼をこっちで用意する。弁当だ」
「弁当ですか」
「さっき聞いてただろう。あれの答えだ」
「はい」
犬飼さんは廊下の先を見ていた。見ながら、上着のポケットに手を入れて、何も出さずに抜いた。
◇
廊下の突き当たりに、ホワイトボードが出したままになっていた。
十二月に、俺はこのボードの前に立った。あのときは廊下に人が多かった。紙のいちばん下の行だけ字が小さくて、離れたところからでは読めなかった。腕を伸ばしたが、そこまでだった。
今日は誰も立っていない。
俺はボードの前まで行った。紙は貼ったままで、上の端が少し反っている。
〈最終審査 二月中旬〉。そこまでは十二月にも読めていた。
その先に、括弧でくくった短い一行がある。
◇
〈(交通費・昼食は各自負担)〉
十二月から、そこに何が書いてあるのかが分からなかった。
書いてあったのは、それだった。
◇
「高町」
犬飼さんが後ろから来た。
「はい」
「何を読んでる」
「括弧のところです」
「なんて書いてある」
「交通費と昼は、各自負担だそうです」
「交通費はうちが出す。さっき九条さんが言っただろう」
「言いました」
「昼は聞いておく」
「はい」
「さっきも同じことを言ったぞ」
犬飼さんはボードの端を持って、壁のほうへ押し込んだ。
押し込んだら、紙の下の端が一度めくれて、また戻った。
◇
階段を下りた。
階段は狭い。二人がすれ違うときは、片方が壁側に寄る。
二階と三階のあいだの踊り場で、上がってくるやつとすれ違った。
ケイだった。
「灯真」
「ケイ」
「なんや、えらい早う下りてくるやんけ」
「終わった」
「早いな」
ケイは階段の途中で止まって、手すりに肘を乗せた。
◇
「収録、決まったらしいな」
「決まったらしい」
「二日ぶんやて。二日もなにやんねん」
「知らん」
「知らんて。お前、この休みのあいだ、なにしてたんや」
「寝てた」
「寝てただけか」
「食ってた」
ケイは笑って、手すりから肘を外した。
「俺、この休みに三回来たで、お前んち」
「二回だ」
「三回や」
「一回は玄関で帰った」
「玄関も家や」
ケイは指を三本立てて、そのうち一本を自分で折った。折って、また立てた。
立てたまま、二段上がって、そこで止まった。
「なあ、灯真」
「聞いてる」
「あれ、まだやってんの」
「あれ」
「廊下の、鏡の前」
◇
俺は下から見上げた。
手すりは冷たい。二階から三階へ上がる途中の一段だけ、踏むと音が高い。ケイはその段を踏まないで上がる癖がある。
ケイは踊り場の上の段に立っていて、蛍光灯が真後ろにある。顔は影になっていた。
「やってる」
「そうか」
「あれ、下手やったな」
「下手だった」
「俺もや」
「知ってる」
「知ってるて」
ケイはそれ以上聞かなかった。
三段上がって、そこでもう一度止まった。
「木曜、九時やろ」
「九時だ」
「俺、八時半に入ってるわ」
「早いな」
「打ち合わせが先やねん。お前が来る前に半分終わってる」
「そうか」
「そうかて」
ケイは上がっていった。上がる途中で、一度だけ手を上げた。振らないで、上げただけだった。
◇
一階まで下りた。
受付の人が札を受け取って、名前の横に線を引いた。線を引く定規は使わない。
机の端に、土曜の連絡先を書いた札が立ててある。今日は月曜なので、札は裏返しになっていた。
自動ドアは、出るときだけ二回に分けて開く。一度目で半分、少し止まって、残りが開く。
外に出たら、風が正面から来た。
ビルの下に、車は停まっていなかった。十二月に停まっていた場所には、今は白い線だけが引いてある。線の中には何も入っていない。
向かいの花屋は開いていて、店の前に置いた桶の水が半分凍っていた。凍っているのは縁のところだけで、真ん中は動いている。
道は一方通行なので、車は一台も来ない方向がある。俺はそっちの端を歩いて、大通りまで出た。
駅までのあいだに、鞄の中で何かが二回鳴った。開けて見たら、筆箱の中でシャーペンが転がっていただけだった。
◇
家に着いたのは七時前だった。
台所には、母さんが皿を出したままにしていた。俺のぶんの飯は、いつもより多かった。多い理由は言わなかったが、母さんは俺が食い終わるまで台所にいた。
父さんは風呂から先に上がっていて、茶の間で新聞を持っていた。持っているだけで、ページはずっと同じところだった。
風呂に入って、湯呑みに茶を入れて、二階へ上がった。
妹の部屋の前を通った。ドアの向こうで、鉛筆を削る音がしていた。削って、止まって、また削った。
◇
二階の廊下は、真ん中の板が鳴る。鳴るところを踏まないで歩くと、体が右の壁に寄る。
廊下の姿見の前で、一度立った。
立って、一行だけ言った。声は出したが、部屋の中よりは小さくした。
言ってから、自分の部屋のドアを開けた。
◇
湯気が、俺の顔より先に動いた。
机の上に湯呑みを置く前だった。置く場所を空けようとして教科書を寄せたら、寄せたほうへ湯気が流れた。
人形は机の右奥にいて、湯気の向こうに立っていた。
「あんた、何か言ったの」
「言った」
「聞いてないわよ」
「今から言う」
「誰に」
「九条さんと犬飼さんに」
「なんて」
「最終審査、行っていいですか、と言った」
◇
人形は台座の上で腕を組んだ。
組んで、しばらく何も言わなかった。湯気は細くなって、途中で横へ流れている。流れる先に、人形の肩がある。
「聞かなくても行けたでしょう」
「聞かないと行けない」
「なんで」
「向こうが出した紙だ」
人形は組んだ腕をほどいた。ほどいた手の片方を、台座の縁について、体を前に出した。
出してから、湯呑みのほうへ一歩寄った。寄って、湯気の立つところで止まった。
◇
「あんた、断られたらどうするつもりだったの」
「考えてない」
「考えなさいよ」
「わかった」
「わかってないでしょう」
人形は湯気の中で顔をしかめた。しかめたまま、机の縁のほうへ戻っていった。
戻る途中で、一度こっちを振り返った。振り返って、何も言わないで、また戻った。
◇
壁の紙は二枚のままだ。
左が九月ので、右が十一月のである。右の紙のいちばん下の行だけ、字が太い。
このあいだ、下の端が浮いているところに画鋲を一つ刺し直した。刺し直したので、今は四つ入っている。
戻したのは、あの晩に床から拾って机の端に置いておいたやつだ。刺した位置が前より一センチ内側で、そこだけ紙が余っている。
◇
俺は鞄を机の上で開けた。
中には、朝入れたものがそのまま入っている。日誌だけが無い。美咲が持っていったやつだ。
教科書は四冊あって、そのうち一冊は今日使っていない。入れっぱなしになっている。時間割の紙は、机の横に貼ったままだ。
中の教科書を全部出して、明日のぶんを入れ直した。木曜のことは、木曜になってから入れればいい。
筆箱を入れて、体操着の袋を入れた。袋は口のところが少し破れていて、閉めても中の紐が出る。
出た紐を押し込んで、鞄の口を閉めた。
閉めてから、一度背負った。
◇
「重いの」
「重くない」
「じゃあなんで背負ったの」
「明日、これで出る」
人形は机の縁に座った。
「二月の中旬ね」
「そうだ」
「どこへ行くのかも、まだ知らないのね」
「知らん」
「知らないところへ、一人で行くのよ」
「そうだな」
「怖くないの」
「わからん」
「わからないの」
「行ってないからな」
人形は湯呑みの横に座り直した。座り直して、湯気の流れる向きを目で追っていた。
追ってから、こっちを見た。
「わたし、その日は鞄に入れなさいよ」
「入れる」
「返事が早いわね」
「入れると言った」
◇
俺は鞄を背負った。
肩のところが、右だけ少し短い。直さないで、そのままにした。
「あんた、その鞄で行くの」
「行く」
「二月の中旬に」
「二月の中旬に」
◇
机の上で、携帯が光った。
登録していない番号のままだった。名前を入れていないので、数字がそのまま出る。
〈桐生です〉
〈番号、去年の現場の連絡網に載ってた〉
〈会場、駅から歩くらしいよ〉
〈あと、昼は出ないって〉
〈じゃあ、二月に〉
◇
「なんて書いてあるの」
「二月に、だ」
「他には」
「昼が出ないと書いてある」
「昼?」
「事務所のボードの紙にも、同じことが書いてあった」
「じゃあ二回目じゃないの」
「二回目だ」
「あの子、それを最後に書いたの」
「最後にあった」
人形は台座の上で、しばらく何も言わなかった。
「あの子、あんたのことがわかってきたわね」
「そうか」
「そうかじゃないわよ」
◇
俺は鞄を背負ったまま、椅子に座った。
背負ったままだと、背もたれに背中がつかない。つかないので、少し前のめりになる。
窓の外で、車が一台通っていった。ヘッドライトが、天井の隅を左から右へ動いて、消えた。




