第129話 五人しかいない部屋
控室には椅子が六脚あって、座っているのは五人だった。
六脚目はドアからいちばん遠いところにある。誰もそこに鞄を置かなかった。俺も置かなかった。
置いたら、六人目が来たときに邪魔になる。六人目は来ないと言われているが、言われているだけである。
◇
二月十三日、金曜日。集合は十三時だった。
目が覚めたのは六時十分だった。時計を見て、もう一度寝た。次に目が覚めたのは六時四十分で、そこから十三時までのあいだ、やることが一つも無かった。
学校には行っていない。届は犬飼さんが書いた。
二階の廊下の姿見の前で、一度だけ立った。
◇
母さんは飯を早く出した。
いつもより一時間早い時間に、皿が二枚と茶碗が一つ、台所の机に並んでいた。
「昼、どうするの」
「済ませてこいと言われました」
「誰に」
「犬飼さんに」
「じゃあ済ませていきなさい」
「これからですか」
「今でしょう」
母さんは俺の茶碗を見た。見て、しゃもじをもう一度持った。
「まだ入るでしょう」
「入ります」
◇
妹は制服のまま、台所の入口で止まって、俺の格好を上から下まで見た。俺は制服ではない。上は襟のあるやつで、下は紺のズボンだった。
「なんで学校行かないの」
「用がある」
「ずるい」
「ずるくない」
「金曜の五時間目は化学なんだけど」
「そうか」
「化学なんだけど」
妹は同じことを二回言って、玄関の扉を勢いよく閉めた。閉めた音で、吊り棚の中の皿が一度鳴った。
◇
犬飼さんとは駅で会った。改札の外に立っていて、足元にコーヒーの紙コップが一つ置いてあった。中身は無かった。
電車は二本乗り継いだ。二本目は空いていて、俺たちは並んで座った。犬飼さんは座っているあいだ、一度も紙を出さなかった。
◇
会場は駅から歩いた。地図の紙は犬飼さんが持っていて、俺は後ろを歩いた。通りを一本入って、看板の出ていないビルの前で犬飼さんが止まった。
入口の階段は下りだった。試写室は地下にある。下りきったところに長机が出してあって、係の人が二人座っていた。
名前を言うと、札を寄越された。厚い紙で、片面に数字が刷ってある。
俺のは四だった。
「一人ずつお呼びします。順番は札の番号です」
「はい」
「お呼びしたら、その札を持ってきてください」
「はい」
「控室は突き当たりの右です。暖房が弱いので、上着はそのままで結構です」
◇
控室の暖房は、たしかに弱かった。
壁の上のほうに窓が一つある。高いところにあるので、外は見えない。見えるのは、外の地面の高さを歩いていく靴の底だけである。
部屋の隅に給湯器があって、その横に紙コップが伏せて積んであった。積んであるだけで、机の上には何も出ていない。
昼は出ない。それは前に二回、別々のところで読んだ。
ドアの内側に紙が一枚貼ってある。〈13:00 集合〉〈16:30 終了予定〉。それだけだった。
俺はコートを脱がずに、畳んで膝の上に乗せた。
◇
六脚目の一つ手前の椅子に、足を組んだ人が座っていた。
組んだまま、一度も組み替えない。膝の上に何も乗せていない。鞄も足元に置いていない。手ぶらで来たのか、どこかに置いてきたのかは分からない。
ドアのいちばん近くの椅子は、座ったり立ったりしていた。立つたびに椅子が半歩ずつ後ろへずれる。四度目で、その人はずれた椅子を両手で持ち上げて、もとの位置に戻した。戻してから、また座った。
窓の下の椅子の人は、紙コップを両手で持っている。給湯器から入れたのは、俺が入ってくる前だった。中身は減っていない。
四人のうち三人が、机の上に何も出していない。出しているのは窓の下の人だけで、それも紙コップが一つだけだった。机は長机で、真ん中に継ぎ目が一本あって、継ぎ目のところだけ天板が少し盛り上がっている。
あと一人が桐生さんだった。
◇
桐生さんはコートを畳んで椅子の背に掛けて、そのまま座った。
座ってから、こっちを見た。
「高町くん、駅から歩いた?」
「歩きました」
「僕は一本前の駅で降りたんだ。地図で見ると、そっちのほうが近く見えたから。近くなかったよ」
「そうですか」
「地図は上から見た形しか書いてない。坂があるかどうかまでは書いてない」
「はい」
桐生さんは膝の上で手を組んだ。組んで、すぐほどいた。
「昼、食べた?」
「食べてません」
「僕も食べてない」
「朝を多く食いました」
「それ、昼の代わりになる?」
「なりません」
「ここ、昼は出ないそうです」
「出ないって書いてあった。書いてあったのに、少し期待してた」
◇
俺は札を見た。
四という数字は、片面にだけ刷ってある。裏は白い。角のところが一箇所だけ丸くなっていて、そこだけ厚みが薄い。
分かっていることが二つあった。一つ、俺は四番目である。二つ、昼は出ない。
それ以外に分かっていることが無かった。台本もまだ渡されていない。渡されるのは中に入ってからだと、桐生さんが言った。
「読む時間は五分だって」
「五分ですか」
「五分。中で読んで、そのまま始めるらしい」
「はい」
「僕、それを聞いたとき、聞き間違えたと思って二度聞き返した」
「二度ですか」
「二度目も同じことを言われた」
◇
桐生さんは椅子の上で座り直した。
「監督、来てるらしいよ」
「はい」
「僕は写真でしか見たことがない。写真だと、もっと大きい人に見える」
「大きくないんですか」
「知らない。写真だと大きく見えるって話をしただけ」
桐生さんは、そこで少し笑った。笑い方が短い。
「高町くん、緊張してる?」
「してません」
「うん」
「してたほうがいいですか」
「いや。いいと思うよ、それで」
◇
十三時を五分過ぎた。
係の人が一度だけ顔を出して、「もう少しお待ちください」と言って引っ込んだ。
ドアが閉まってから、ドアのいちばん近くの人がまた立った。立って、壁の紙を読みに行った。紙には二行しか書いていない。その人は、二行を読むのに二十秒くらいかけていた。
読み終わって、椅子に戻った。戻ったときには、椅子はまた半歩ずれていた。
◇
足を組んだ人は、その二十秒のあいだ、一度も顔を上げなかった。
紙コップの人は顔を上げた。上げて、壁の紙のほうを見て、また下げた。
桐生さんは膝の上を見ていた。
俺は靴の底を数えた。窓の外を、この五分で四つ通っていった。四つのうち三つは同じ向きだった。
◇
一番が呼ばれた。
呼ばれたのは、足を組んでいた人だった。組んだ足をほどいて、立って、札を持って出ていった。
ドアが閉まって、部屋が静かになった。
残った四人のうち、誰も何も言わなかった。桐生さんも言わなかった。紙コップの人は、まだ紙コップを持っている。
壁の時計を見た。十三時十二分だった。
◇
膝の上のコートが、片方だけ温かかった。
鞄は足元に立ててある。口は閉めていない。
隙間から人形の顔が上を向いていた。頬のところに薄く赤が差してあって、唇は同じ赤で細く引いてある。目は青い。
「ずいぶん静かね」
(静かだ)
「あんた、眠いでしょう」
(眠い)
「顔に出ないから誰も言わないけど、あんた、さっきから瞬きが遅いのよ」
(そうか)
「寝ないでよ。四番なんて、いちばん中途半端なんだから」
(中途半端か)
「一番と二番は勢いで行くし、最後の子は最後だからってだけで覚えてもらえるの。四番はね、間にはさまって、いちばん忘れられるのよ」
(そうか)
「返事が薄いわね」
(薄いか)
「わたし、鞄の中から数えてたのよ。あんた、ここへ来てから三十四回しか動いてないの」
(そうか)
「三十四回のうち、二十回はコートを持ち直しただけよ」
◇
鞄の口を、少しだけ閉じた。
閉じても、隙間からは同じだけ見えている。
窓の下の人が、そのとき初めて紙コップを口へ運んだ。運んで、飲まないで、また下ろした。
下ろしたところで、給湯器が一度だけ低く鳴った。中の湯が沸き直したらしい。
その音で、ドアの近くの人が顔を上げた。上げて、ドアを見て、ドアが開かないのを確かめてから、また下を向いた。
◇
二番が呼ばれた。
立ったのは桐生さんだった。コートは椅子の背に掛けたまま出ていった。
出るときに、ドアのところで一度止まって、こっちを見た。
「高町くん、僕、帰りにコートを取りに戻るから」
「はい」
「取りに戻らないと、そのままになる。前に一度それをやって、二か月あとに宅配で届いた」
「はい」
「箱が大きくてね。中はコートだけだった」
桐生さんは出ていった。
椅子の背に、コートが一枚だけ残った。
◇
三番が呼ばれた。
紙コップの人だった。立つときに紙コップを机に置いて、置いてから少し考えて、また持って出ていった。
中身は、その人が出ていくまで減らなかった。
◇
部屋に残ったのは二人になった。
椅子は六脚のままで、座っているのは二人である。
残ったのは、さっき椅子を持ち上げて戻した人だった。その人はもう立たなかった。立たないで、両手を膝の上に置いて、そこから動かさない。
俺のほうを一度も見ない。見ないというより、部屋の中のどこも見ていなかった。
◇
一回だけ、呼ばれる前に廊下へ出ておきたかった。
用は無い。出て、戻ってくるだけでいい。
俺は立った。立ったところでドアが開いて、四番が呼ばれるのかと思ったら、係の人は部屋の中を見ただけで、何も言わずにドアを閉めた。
俺は座った。
残ったもう一人が、そのとき初めてこっちを見た。見て、すぐ前へ戻した。
立ってから座るまでのあいだに、廊下の側で人が二人通った。話し声は無くて、聞こえたのは靴の音だけだった。音は右から左へ行って、途中で止まらなかった。
◇
十四時を過ぎた。
暖房の音は聞こえない。弱いというより、動いているのかどうかが分からない。
俺は膝の上のコートを一度持ち上げて、袖のところを内側へ折り込んで、また膝に戻した。戻したら、さっきより軽く感じた。中身は同じだ。
給湯器の脇の紙コップは、伏せたまま一つも減っていない。積んである高さは、俺が入ってきたときと同じところで止まっている。
◇
残ったもう一人が、咳をした。
一度だけで、続かなかった。咳をしたあと、その人は自分の口のあたりを手のひらで押さえて、押さえたまましばらく動かなかった。部屋にはその音しか無かったので、音が止まったあとの静かさが、前より濃くなった。
壁の時計の秒針は、十二のところで一度だけ引っかかる。引っかかって、少し遅れて動き出す。
呼ばれた人は控室に戻ってこない。別の出口から帰ると、受付で言われた。だから椅子は六脚のままで、座っている人だけが減っていった。
◇
ドアが開いた。
「四番の方」
俺は立った。
残ったもう一人が、一瞬だけ顔を上げた。上げて、また下げた。
俺は鞄を椅子の下に押し込んで、コートを椅子の背に掛けた。桐生さんのコートの隣になった。
二枚並ぶと、桐生さんのほうが色が濃い。
◇
廊下に出たら、犬飼さんが立っていた。
隣にもう一人立っていて、社長だった。
「社長がいます」
「いる」
「なんでいるんですか」
「見に来た」
「中は見られないそうです」
「そうらしいな」
社長は壁にもたれていた。もたれたまま、上着の前のボタンを一つ外して、また留めた。
壁は腰の高さで色が変わっている。境目に細い木の桟が一本通っていて、桟の下だけ塗りが濃い。社長がもたれているのは、濃いほうの側だった。
◇
「高町」
「はい」
「番号は」
「四です」
「四番目だな」
「はい」
「終わったら、ここへ出てこい。俺はここにいる」
「はい」
犬飼さんは廊下の先を見ていた。廊下は狭くて、片側に消火器の箱があって、その前に椅子が二脚立ててある。使う人がいないので、二脚とも壁にくっついていた。
「聞かれたことに答えろ。それだけでいい」
「はい」
「余計なことを言う心配はしていない。君は言わない」
「はい」
◇
社長がこっちを向いた。
「腹は」
「減ってません」
「そうか」
「朝に食いました」
「朝か」
社長はそれ以上言わなかった。言わないで、腕時計を見た。文字盤は白くて、数字は三と九と十二にしか入っていない。見てから、袖を下ろして、また壁にもたれた。
もたれ方が、さっきより浅い。
◇
「犬飼」
社長が言った。
「なんでしょう」
「ここで待つのか」
「待ちます」
「さっきから立ちっぱなしだぞ」
「座るところがありません」
「椅子が二つある」
「あれは消火器の前です」
犬飼さんは動かなかった。社長も動かなかった。
二脚の椅子は、二人のあいだで壁にくっついたままだった。
◇
ドアの前まで行った。
ドアは鉄で、上のほうに小さい窓がついている。窓は内側から布で塞いであって、中は見えない。布の下の端が少しだけ折れていて、その折れ目のところにも光は無かった。
取っ手は横向きの棒で、真ん中だけ塗りが剥げている。剥げているところの幅は、手のひら一つぶんくらいだった。
ドアの手前の床に、養生テープが横一本、貼ってある。端が二箇所だけ浮いていて、浮いたところに埃が一列たまっていた。テープの向こうへ入るなという意味なのか、何かを固定した跡なのかは分からない。俺はテープを踏まないで手前に立った。
係の人が横に立っていて、手を出した。
俺は番号の札を差し出した。
係の人は札を受け取って、代わりに紙の束を寄越した。表紙に題が刷ってある。『無音の海』と読めた。
束は薄かった。綴じてあるのは左の上の一箇所だけで、角を持つと下のほうの紙が少しずれた。
「五分、中で読んでください」
「はい」
「読み終わったら、こちらから声をかけます。それまでは座っていて構いません」
「はい」
ドアが開いた。
中は暗くて、正面のいちばん奥だけが白かった。白いのはスクリーンで、何も映っていない。
椅子は列になって並んでいる。前のほうの列には誰も座っていない。後ろの列の右のほうに、電気スタンドの光が一つだけ低く点いていた。
俺は紙の束を持って、中に入った。




