第130話 二ヶ月ぶんの俺
台本は三十四ページあって、俺の読むところは四ページ目から始まっていた。
綴じてあるのは左の端で、金具ではなく糸だった。糸で綴じた本は、押さえないと閉じる。俺は左の親指を糸のところに置いた。
人物の名前は書いていない。書いてあるのは「弟」と「兄」だけである。ページの数字は下ではなく、上の隅に小さく刷ってあった。四ページ目の隅だけ、刷りが少し右に寄っている。
◇
「五分です」
係の人はそう言って、ドアの内側に立った。
俺は入口に近い席に座って、膝の上で台本を開いた。座席は前へ行くほど下がっていて、俺のところは列のいちばん後ろだった。
部屋は暗い。明かりは、いちばん前に出した長机の上の電気スタンドが二つと、天井の隅の小さいのが一つだけだった。
スクリーンには何も映っていない。白いまま、下のほうに縦の折れ目が一本入っている。
空気は乾いていた。上のほうで送風の音がしていて、その音は部屋の後ろのほうが大きい。俺の座っているところがいちばん後ろなので、音の中に座っている。
座席は跳ね上がる形だった。座るときに一度、下ろすときに一度、金具が鳴る。俺は下ろすときに手を添えて、音を半分にした。
背もたれの裏に番号の板が付いている。俺の席は八番だった。その列は八席あって、八席とも空いている。板はねじで二箇所留めてあって、下のねじだけ頭が潰れていた。
◇
中身は海の話だった。
弟と兄がいて、朝に船が出て、その船が戻ってこない。弟はその朝、浜に立っていた。立っていたことを、兄は知っている。
四ページから九ページまでのあいだに、兄は三度、同じことを言う。弟はそのたびに違うことを言う。
三度目に弟が言うところが、行数が短い。三行しかない。
六ページ目の下のほうに、印刷のかすれているところがあった。一行まるごとではなく、行の右の端だけが薄い。薄いところは、上から下まで同じ幅で続いている。刷ったときに紙が寄ったらしい。
読めない字は二つあった。どちらも前後から見当がつく。
俺は三分で読み終わった。
◇
残った二分は、やることが無かった。
もう一度、頭から読んだ。二度目は二分では終わらなかったので、七ページ目の途中で止まった。
止まったところで、送風の音が切れた。切れると、部屋がひとまわり狭くなったように聞こえる。
「時間です」
係の人が言った。
俺は台本を閉じて、立った。
◇
長机の向こうに六人いた。
左から、眼鏡の人。紙を三枚重ねて持っている女の人。まん中に、髭の白い、小さい人。その右にもう一人。いちばん端に二人。
まん中の人だけが、机に肘をついていない。背もたれから背中を離して、手を膝の上に置いて座っていた。
その人の前にだけ、紙が一枚も出ていない。ペンも出ていない。机の板がそこだけ空いているので、暗いところで見ると、そこだけ穴が開いているように見えた。
部屋の隅に、もう一人立っている人がいる。その人は紙も持っていなかった。
◇
床にテープが貼ってあった。
黒い床に白いテープで、×の形になっている。テープは新しくない。踏まれたところが灰色になっている。
「そこの印のところに立ってください」
左の眼鏡の人の声だった。
俺は×の上に立った。左足が半分はみ出したので、半歩ずらした。
「名前を」
「高町灯真です」
「所属は」
「ソレイユです」
「相手の台詞は、こちらの者が読みます」
「はい」
◇
右の壁のほうから、若い男の人が出てきた。
その人は台本を持っていて、俺の斜め前に立った。立ってから、台本の角を一度めくって、四ページ目を出した。
出すときに、指が少し湿っているのが見えた。紙が指に貼りついて、二枚いっしょにめくれた。その人はそれを分けて、もう一度出し直した。
「いつでもどうぞ」
と、机の向こうから声がかかった。
◇
俺は台本を胸の高さで持った。
持って、開いた。開いたところが四ページ目だった。
相手の人が先に読んだ。
「あんたが見たと言えば、この話は今日で終わる。終わったあとのことは、こっちで全部引き受ける」
その人の声は、思ったより大きかった。部屋が狭いので、壁のほうまで届いて戻ってきた。
俺は、その人の言い終わりを待った。
「船は出た。おれは見ていない」
◇
「見ていなかったことにしてくれと、あんたはそう言うんだな」
「そうは言っていない」
「言っている」
「言っていない。おれは、この話をここで終わらせようとしているだけだ」
「終わるのか」
「終わる。おれが終わらせる。そのために朝からここに立っている」
相手の人の台詞のほうが長い。長いので、読んでいるあいだに息を継ぐところが二回ある。
継いだところで返事をすると早い。俺は二回目の継ぎ目を過ぎるまで待った。
「音がしなかった」
と読んだ。
「あの朝だけ、波の音がしなかった。おれは、そこに立っていた。立っていて、何もしなかった」
◇
「立っていただけなら、罪にはならない」
「罪の話はしていない」
「じゃあ何の話をしている」
「音の話をしている」
相手の人は、そこで一度、台本の位置を直した。
直したときに紙が鳴った。鳴った音のあいだ、俺は次の行を出さなかった。
「おれには聞こえなかった」
「あんたは家にいた」
「家にいても、いつもは聞こえる」
◇
兄がもう一度、同じことを言った。
「見たと言え」
「言わない」
「言えば終わる」
「終わらない」
「どうして終わらないと分かる」
「分からない。分からないから、言わない」
九ページ目は、ほかのページより行のあいだが広い。広いぶん、一枚に入っている行の数が少ない。
台詞は紙の下まで届かないで、途中から白いところになっていた。
◇
九ページの終わりまで読んだ。
読み終わって、台本を胸の高さに置いたままにした。相手の人は台本を下ろして、脇に挟んだ。
長机の向こうで、紙をめくる音がした。
二枚めくれて、一枚戻った。
紙の音は、机の向こうからだと小さい。小さいが、部屋がそれだけ静かなので、どの席で鳴ったかまで分かった。
女の人が、三枚のうちの一枚を裏返した。裏返した紙を、いちばん下に入れた。
◇
「もう一度、頭から」
眼鏡の人が言った。
「はい」
「今度は、同じテンションで最後まで」
「テンション」
「同じ強さで、ということです」
「はい」
「上げないでください。上げると、こちらは中を見られなくなる」
「はい」
中というのが何のことかは分からない。分からないが、上げないというのは分かる。
俺は台本を持ち直した。持ち直したついでに、親指を糸のところへ戻した。
「一度、深く息を入れてから始めてください」
「はい」
「入れましたか」
「入れました」
「では、どうぞ」
◇
二度目を読んだ。
相手の人の声は、一度目より小さかった。小さくなったので、こっちも合わせて小さくするか、そのままにするか、どちらかである。
俺はそのままにした。上げるなとは言われたが、下げろとは言われていない。
九ページの終わりまで、同じ大きさで読んだ。
途中で、相手の人が半歩こっちへ寄った。寄られたぶん、俺は動かなかった。テープの上から足を外していない。
◇
読み終わったところで、まん中の髭の白い人が、初めて椅子を動かした。
動かしたのは前へ半分だけで、それから机の上に両手を置いた。
置いただけで、何も言わなかった。
左の眼鏡の人が、その手を一度見た。見てから、また俺のほうを向いた。
◇
「高町くん、去年の暮れから、現場は」
「入っていません」
「今月は」
「収録が二日ありました」
「そのほかは」
「学校です」
「そうですか」
「はい」
眼鏡の人は、俺の言ったことを紙に書かなかった。
書かないで、隣の女の人のほうへ体を傾けた。女の人は三枚のうちの一枚を見せた。見せられた眼鏡の人は、それを二秒くらい見て、体をもとに戻した。
◇
「台本は持ったままで結構です」
「はい」
「ただ、目は紙から離してください」
「離すと読めません」
「読める行だけで構いません。読めないところは黙っていてください」
「はい」
「黙っている時間が長くなってもいいです」
「はい」
◇
三度目を読んだ。
目を紙から離すと、正面に相手の人の顎のあたりが来る。その人はこっちを見ていた。
読める行だけ言って、読めないところは黙った。黙っている時間が三度あって、そのうち一度は長かった。
長いあいだ、相手の人も黙っていた。黙って、次の台詞を出さなかった。
台本を持った手は、胸の高さから動かさなかった。動かすと行が見えなくなる。
◇
女の人の手が、途中で止まった。
三枚のうちの一枚を裏返しかけて、そのままにしている。紙の端が斜めに立って、電気スタンドの光を一本だけ返していた。
眼鏡の人は机の上のペンを一度だけ回した。回して、置いた。置いた場所が、さっきと少しずれた。
いちばん端の二人は、二人とも同じほうを見ていた。見ているのは俺ではなく、まん中の人のほうだった。
まん中の人は、机に置いた両手をそのままにしていた。
◇
送風がまた始まった。
始まると、部屋の後ろのほうから音が来る。俺は前を向いていたので、音は背中から来た。
相手の人が、台本を持ち替えた。持ち替えて、こっちを見て、それから机の向こうを見た。
誰も次の指示を出さないので、その人は立ったままでいた。
◇
「立つ位置を、半歩下げてください」
「はい」
「テープから外れて構いません」
「はい」
「そこから、七ページの頭だけ」
「はい」
俺は半歩下がった。下がると、電気スタンドの光が顔に当たらなくなる。当たらなくなると、机の向こうの六人の顔が見えるようになった。
六人のうち四人が、こっちを見ていた。
半歩下がったぶん、相手の人との距離が開いた。開いたので、その人の声が前より遠い。遠いが、聞こえないほどではない。
俺は台本の持ち方を変えなかった。変えると、指の位置をもう一度探す手間が要る。相手の人は、そのあいだ黙って待つ。
◇
腹は減っていた。
朝に食ったのが最後で、そのあと八時間ちかく何も食っていない。控室に飲み物はあったが、飲むと腹が減るのが早くなる。
七ページの頭を読んでいるあいだに、腹が一度鳴った。
部屋が狭いので、鳴った音は、たぶん机の向こうまで届いた。
誰も何も言わなかった。相手の人は続きを読んだ。読み方は変わらなかった。
七ページの頭は四行しかない。四行のうち三行は「弟」で、一行だけ「兄」である。
三行を言い終わって、一行を待って、そこで止まった。止まるところは台本に書いてある。書いてあるとおりに止まった。
◇
机の向こうから見れば、台本を胸の高さで持って一度も下げなかった男だが、実際に考えていたのは、この音がどこまで届いたのかということだけだった。
◇
「そこまでで結構です」
眼鏡の人の声が、少し遅れて来た。
俺は台本を閉じた。閉じたら、糸のところが少し浮いた。
「その台本、置いていってください」
「はい」
「机の端に」
俺は机の端まで行って、台本を置いた。置いたところが、女の人の紙の束のすぐ横だった。女の人は紙を少し寄せて、場所を空けた。
空けたときに、いちばん上の紙の端が見えた。縦に線が何本も引いてあって、線と線のあいだに字が入っている。字までは見えなかった。
◇
相手の人が壁のほうへ戻っていった。
戻る途中で、台本を脇から手に持ち替えた。持ち替えて、俺のほうを一度見た。見て、何も言わないで戻った。
部屋の隅に立っていた人が、その人に何か短く言った。言われた人はうなずいて、そのまま壁の向こうへ消えた。
◇
まん中の人が、そのとき何か言った。
声が小さくて、聞こえなかった。
言われたほうの人は、眼鏡の人ではなく、右のもう一人だった。その人は立ち上がって、部屋の後ろのほうへ歩いていった。
歩いていく音が、床のテープのところで一度だけ変わった。
テープの上は、床より柔らかい音がする。
◇
部屋の後ろでドアが開いた。
開いて、廊下の明かりが縦に一本、床まで伸びた。伸びた明かりの中を、いま出ていった人が通って、外へ出た。
ドアは閉まらなかった。手で押さえた誰かが、そのまま何か話している。話し声は聞こえるが、言葉までは届かない。
やがてドアが閉まって、明かりの帯が消えた。
消えたあとで、まん中の人が机の上の両手を離した。離して、片方を椅子の肘に置いた。
◇
「もういいです」
眼鏡の人はそう言って、抱えていた紙を机に置いた。
「はい」
「高町くん、そこの椅子に座っていてください」
「はい」
「壁際の、いちばん端です」
「はい」
「まだ帰らないでください」
◇
俺はうなずいた。
うなずいて、言われた椅子に座った。壁際のいちばん端は、机の向こうの六人が横から見える位置だった。六人のうち三人は紙を見ていて、二人はこっちを見ていて、まん中の人だけがスクリーンのほうを見ていた。
スクリーンには、まだ何も映っていない。
ドアが開いて、五番の人が入ってきた。さっきまで控室に残っていた人だった。その人は入口のところで一度止まって、部屋の中を見て、それから俺のいる壁際に気づいた。
気づいてから、係の人に何か聞いた。係の人は首を横に振った。
その人は入口に近い席に座った。座るときに、跳ね上がった座面を勢いよく下ろしたので、金具が大きく鳴った。
鳴った音で、まん中の人が振り向いた。振り向いて、俺のほうではなく、その人のほうを見た。
係の人が台本を渡している。表紙は俺が渡されたのと同じだった。渡すときに、係の人は表紙の角のほうを持った。持った手をすぐ引いて、腕を体の横へ戻した。
壁際は寒かった。背中のところに配管が通っているらしく、そこだけ冷たい。俺は背中を壁から離して座り直した。
壁と椅子のあいだに、たたんだ布が一枚はさんである。前に誰かがはさんだものらしく、上の端だけ黒くなっていた。
部屋の中に時計は無い。俺の腕にも無い。あと何分ここに座っているのかは、聞かないと分からない。
聞ける人が、いまは近くにいなかった。




