第131話 監督が変なことを言い出した
五番の人は、テープの上に両足をそろえて立った。
そろえてから、片方を半歩だけ前へ出した。出した足の向きが、机のほうへまっすぐ向いている。
俺は壁際のいちばん端に座って、それを横から見ていた。横から見ると、立っている人の背中と、机の向こうの六人の顔が、同じ幅の中に入る。
この位置からは、床のテープの×が斜めに見える。斜めから見ると、×ではなく、細い四角が二つ重なった形に見えた。
係の人は、俺の座っている列の入口側に立っていた。立ったまま、腕を組まないで、手を体の前で合わせている。
◇
その人の声は大きくなかった。
大きくないのに、部屋の後ろまで届いていた。壁に当たって戻ってくる音が、俺の耳の高さで一度重なる。
その人は台本を左手だけで持っていた。右手は下ろしたままで、読んでいるあいだに二度だけ動いた。一度は指を開いて、一度は握った。
机の向こうの六人のうち、三人は紙を見ていた。二人はその人を見ていた。まん中の人だけ、床のテープのほうを見ていた。
九ページの終わりまで読んで、その人は台本を下ろした。下ろしてから、少しのあいだ、下ろした位置のまま止まっていた。
「もう一度、頭から」
眼鏡の人が言った。
その人は台本を開き直した。開き直す音が、俺のところまで聞こえた。
◇
二度目が終わった。
「そこまでで結構です」
「ありがとうございました」
「台本は机の端に」
「はい」
その人は台本を机の端に置いて、置いたあとで一度、頭を下げた。下げてから、部屋の後ろのドアのほうへ歩いていった。
歩いていく途中で、壁際に座っている俺の前を通った。通るときに、こっちを見なかった。
ドアが開いて、閉まった。
◇
壁の時計は四時三十五分だった。
時計は入口の上にあって、座っているところからは、首を回さないと見えない。
ここを四時四十五分に出れば、五時七分の電車に乗れる。乗り換えは一回で済む。四時四十五分を過ぎると、次は五時二十九分になる。乗り換えが二回に増える。
俺は立った。
立ったところで、係の人が手を出して、止めた。
◇
「高町さん、もう少しだけ」
「はい」
「座っていてください」
「はい」
係の人はそう言って、部屋の後ろのドアを開けた。開けて、廊下に向かって何か言った。
言われた相手は廊下にいる。俺の位置からは見えない。
ドアは開けたままになった。廊下の明かりが、床に縦の帯を作った。
◇
まん中の人が立ち上がった。
立ち上がると、思っていたより小さかった。座っているときは、机の向こうの六人の中でいちばん背があるように見えていた。
髭が白い。顎のところだけ短く刈ってある。
その人は机を回って、こっち側へ出てきた。歩き方はゆっくりで、床のテープのところで一度だけ足を止めた。止めて、テープを見て、また歩いた。
◇
「高町くん、少しだけ、いいですか」
「はい」
「僕は黒瀬といいます」
「はい」
「今日は、五人に来てもらいました」
「はい」
黒瀬さんは、俺の隣の椅子に座った。
壁際の椅子は硬い。座ると背もたれが少し後ろへ倒れる。黒瀬さんは倒れたぶんを直さないで、そのまま座っていた。
座ってから、上着の袖を左右とも一度ずつ引いた。袖口から、腕時計ではなく、細い糸のようなものが出ている。糸は途中で切れていた。
部屋の明かりは前の机の上にしかない。壁際は暗い。暗いので、隣に座った人の顔は、縁のところだけしか見えなかった。
◇
「そのうちの一人に、この作品を頼みます」
「はい」
「桐生くんです」
「はい」
「もう決めていました。今日で確かめました」
「はい」
俺は聞いていた。
聞きながら、廊下のことを考えた。犬飼さんは廊下にいる。終わったら出てこいと言われている。まだ出ていない。
◇
「君には、別の話をします」
黒瀬さんは言った。
言い方は、さっきまでと変わらなかった。声の大きさも変わらない。
「君は『無音の海』ではなく、別の作品の主演で会いたい」
「はい」
「返事は今でなくていいです。というより、今の返事には意味がない」
「はい」
「君はまだ、何の話か分かっていない」
「分かっていません」
「そうでしょう」
黒瀬さんは笑わなかった。笑わないで、膝の上で手を組んだ。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「さっきの台本は、机の端に置きました」
「はい」
「あれは、返さなくていいですか」
「返さなくていいです」
「はい」
「三度目に読んでもらったとき、黙っていた時間が三度ありました」
「三度でした」
「そのうちの一度が、あとの二度より長かった」
「長かったです」
「僕が次に撮りたいのは、あのくらいの長さです」
黒瀬さんは、そこで初めて少しだけ口の端を動かした。動かしただけで、声は出さなかった。
◇
部屋の後ろのドアから、犬飼さんが入ってきた。
社長がその後ろにいた。二人とも、入口のところで一度止まった。
止まったのは、部屋が暗いからだと思った。廊下から入ると、しばらく何も見えない。
廊下の側では、まだ人が動いていた。ドアの隙間から、誰かの上着の袖が二回通った。
社長は上着のボタンを留めていた。廊下では外していた。いつ留めたのかは見ていない。
犬飼さんは、俺と黒瀬さんが並んで座っているのを見つけて、そこで足を止めた。
◇
「ソレイユの犬飼と申します」
「黒瀬です」
「弊社の高町が、何か」
「話をしていました」
黒瀬さんは立ち上がった。立ち上がるときに、椅子の背に手をついた。ついた手が、白い。
「犬飼さん。今日は五人に来ていただきました」
「はい」
「『無音の海』は、桐生くんにお願いします」
「はい」
「そのうえで、高町くんに、別の作品をお願いしたい」
◇
犬飼さんは返事をしなかった。
しないまま、一度だけ社長のほうを見た。社長は壁の近くに立ったままで、犬飼さんのほうを見なかった。
眼鏡の人が机の上の紙を集めはじめた。集めて、端をそろえて、抱えた。
女の人が椅子から立って、部屋の後ろへ歩いていった。歩きながら、廊下のほうに向かって誰かの名前を呼んだ。
いちばん端に座っていた二人のうち一人が、携帯を出して、そのまま外へ出ていった。
出ていった人は、ドアの向こうで話しはじめた。話しはじめてすぐ、声が高くなった。高くなったところで、もう一人が廊下へ出て、その人を奥のほうへ連れていった。
残ったほうの一人は席から動かなかった。動かないで、机の下で靴の先を床に何度も当てていた。
部屋の隅に立っていた人が、いつのまにか机のところへ来ていて、眼鏡の人と小さい声で話していた。話しながら、二人とも一度だけ俺のほうを見た。
◇
「うちの高町に、ですか」
言ったのは犬飼さんだった。
「はい」
「今日の、これを見て」
「はい」
犬飼さんは、そこで言葉を切った。切って、それからもう一度言った。
「失礼ですが、うちの高町は、今日ここで何も特別なことをしていません」
「していません」
「では」
黒瀬さんはうなずいた。
うなずいて、少し間を置いた。
「うまい芝居は、もう見た。君のは、まだ見てない」
◇
俺は、いま誰の話をしているのかを探した。部屋にいるのは、犬飼さんと社長と、机の向こうの人たちと、俺である。
黒瀬さんはこっちを見ていた。見たまま、それ以上は説明しなかった。
犬飼さんは口を開けて、閉じた。
社長が壁から離れて、二歩だけ前へ出た。出て、いちばん近くの椅子の背に手を置いた。置いた手が、置いたところから動かない。
社長は何も言わなかった。言わないで、犬飼さんのほうを見た。
犬飼さんは黒瀬さんのほうを見ていた。見ていたが、目の高さが合っていない。黒瀬さんは小柄で、犬飼さんはその上のあたりを見ていた。
部屋の空気が乾いているので、誰かが息を吸うと音がする。いま吸ったのは犬飼さんだった。
◇
「題は『灯台守の子』といいます」
黒瀬さんが言った。
「灯台の話ですか」
「灯台の話です」
「はい」
「君の役は、ソウという名前です」
「ソウ」
「ソウです。台本はまだありません」
「無いんですか」
「無いです。これから書きます」
◇
台本は、これから書くらしい。
俺は、まだ書かれていない紙のことを考えた。考えても、何も出てこなかった。
黒瀬さんは、それについては何も言わなかった。
「灯台のある島の話です」
「はい」
「灯台を守っている男がいて、その男に子どもがいます」
「はい」
「君がやるのは、その子どもです」
「子どもですか」
「十九か、二十歳くらいの子どもです」
「はい」
「その子は、島から出たことがありません」
黒瀬さんは、そこで一度、膝の上の手を組み直した。
「本を書く人と、来月あたりに会ってもらいます」
「はい」
「そのころには、もう少し具体的な話ができます」
「はい」
「今日は、ここまでにします」
◇
犬飼さんが口をはさんだ。
「監督。話の順番として、まず弊社へ」
「通します」
「はい」
「今日ここで言ったのは、本人の顔を見てから言おうと決めていたからです。会社には、明日には行きます」
「明日ですか」
「行きます」
犬飼さんは、返事をするまでに少しかかった。
かかってから、「承知しました」と言った。言った声が、いつもより高い。
◇
部屋の外が騒がしくなった。
廊下で人が走った。走って、途中で止まって、また走った。誰かが誰かを呼んで、呼ばれたほうが返事をした。
開けたままのドアから、その音が全部入ってくる。
眼鏡の人は紙を抱えたまま、まだ机のところに立っていた。立ったまま、こっちを見ていた。
◇
やがて眼鏡の人は紙を机に置いて、犬飼さんのところまで来た。
「本日はありがとうございました。『無音の海』の日本側の窓口は、弊社で持たせていただきます」
「はい」
「書面は来週のうちにお出しします。それまでのあいだ、今日ここで出た話は、この場にいた人間の外へ出さないでいただきたいのです」
「承知しました」
「ご本人にも、そのようにお伝えください」
「本人はそこにいます」
眼鏡の人は俺のほうを向いた。
向いて、抱えていた腕を一度下ろした。
「高町くん、いまの話は、しばらくどこにも出さないでください」
「言いません」
「学校でも、ご家族にも」
「言いません」
「早いですね」
「前にも同じことを言われました」
◇
俺は時計を見た。
四時五十一分だった。
時計の秒針は、ここのは引っかからない。控室のとは別の時計である。
部屋の後ろのドアは開いたままで、廊下の音が入ってくる。廊下の音が入るぶん、部屋の中の静かさが分かりにくい。
五時二十九分のに乗ると、桜坂に着くのは六時四十分ごろになる。そこから家まで歩いて十二分。
母さんは、今日は遅くなると言ってある。何時とは言っていない。
五時七分のは、もう無理である。次は五時二十九分で、乗り換えが二回になる。二回目の乗り換えは階段が長い。
「高町」
「はい」
「今日は俺が送る」
「電車があります」
「乗るな」
「はい」
犬飼さんの声は短かった。短かったが、いつもより一拍遅れて出てきた。
「高町、いま言われたことが分かるか」
「分かりません」
「そうか」
「台本が無いそうです」
「そこじゃない」
「はい」
「いや、そこもだ」
犬飼さんは、そこで自分の顔を一度なでた。なでてから、なでた手を見た。
◇
黒瀬さんが手を出した。
握手だった。俺は右手を出した。出すのが半拍遅れた。出した手を、黒瀬さんは両手で持った。
手は小さい。小さいが、指が硬い。
「高町くん、今日は長かったでしょう」
「長かったです」
「昼が出ないのは、僕の落ち度です」
「はい」
「君、ここまでは何で来ましたか」
「電車です」
「乗り換えは」
「一回です」
「帰りも一回ですか」
「二回になりました」
黒瀬さんはうなずいた。うなずいて、手を離した。
離した手を、上着のポケットに入れた。入れたまま、犬飼さんのほうへ歩いていった。
歩いていく途中で、床のテープをまたいだ。またぐときに、足を高く上げた。
犬飼さんは、来た黒瀬さんに向かって頭を下げた。下げた角度が深い。深いので、戻ってくるまでに時間がかかった。
戻ってきたときには、黒瀬さんはもう机のほうへ向き直っていた。
社長は椅子の背から手を離して、その手を上着の前で合わせた。合わせた手のまま、こっちを一度見た。見て、何も言わなかった。
◇
開いたままのドアの向こうで、誰かが「監督」と呼んだ。
呼ばれた黒瀬さんは、返事をしないで、机の上の紙を一枚だけ裏返した。裏返してから、廊下のほうへ手を上げた。上げただけで、行かなかった。
女の人が戻ってきて、机の下から鞄を出した。出して、中から別の紙を出して、眼鏡の人に渡した。渡された眼鏡の人は、それを見ないで抱えた。
部屋の中の人は、みんな立っている。座っているのは俺だけだった。
俺は立たなかった。立てと言われていない。
◇
係の人が近づいてきた。
「高町さん、控室のお荷物は、こちらへお持ちします」
「自分で取りに行きます」
「いえ、こちらでお持ちします」
「はい」
「控室の椅子は、六脚のうち一脚だけ、どなたも使われませんでした」
「はい」
「コートが二着ありましたが、もう一着は先ほどご本人が取りに戻られました」
「そうですか」
「箱が大きくてね、とおっしゃっていました」
何の話かは分からなかった。分からなかったが、たぶん、俺の知っている話だった。
◇
俺は天井を見上げた。
試写室の天井は黒く塗ってある。塗った面に四角い穴が並んでいて、穴の数は左と右で違っていた。左が六つで、右が五つある。
五つのほうの列の端に、テープの切れ端が一つ貼りついたままになっていた。
犬飼さんはまだドアの近くに立っていて、片手をドアの枠に置いていた。置いた手は、俺が見ているあいだ一度も動かなかった。
社長が犬飼さんの名前を二度呼んだ。
二度目で、犬飼さんはこっちを向いた。




