第132話 撮影中、米は出ますか
会議室2に、電話が三つあった。
九条さんの携帯と、戸倉さんの携帯と、机の上に置いた事務所の子機である。俺が入ったとき、三つとも鳴っていた。
九条さんは立ったまま出た。戸倉さんは座ったまま出た。子機は誰も出なかったので、しばらく鳴って、途中で止まった。
止まって、五秒くらいでまた鳴った。
◇
二月十六日、月曜日。
学校が終わってから来た。制服のまま座っている。
部屋には窓が無い。暖房は入口の上の一箇所だけで、風の向きは変えられない。俺の座っているところにだけ、まっすぐ当たる。
六人入れば満員の部屋に、いま六人いる。九条さんと、戸倉さんと、犬飼さんと、有本さんと、俺と、あとで入ってきた社長である。
◇
電話の中身は、こっちには半分しか聞こえない。
「ええ。……いえ、うちも今朝、書面を見たところです」
九条さんが受話器に向かって言った。
「はい。……いまの段階で動かせるものは、一つもありません」
「……」
「動かせないというのは、決まっていないという意味です。決まっていないものは動かせない」
九条さんは受話器を持ち替えた。持ち替えて、机の端まで歩いて、そこで止まった。部屋が狭いので、三歩で端に着く。
「……いえ、まだ発表の段階ではありません」
「……」
「どこでお聞きになりましたか」
「……」
「そうですか。こちらからは、まだ一行も出していません」
九条さんは電話を切った。
切ってから、犬飼さんのほうを向いた。
「もう外に出ている」
「早いですね」
「早い」
「何が出てるんですか」
「監督の名前と、うちの社名と、主演が一人決まったという一行だ。題も、誰かも書いていない」
「それだけですか」
「それだけで、朝から電話が止まらん」
◇
戸倉さんは座ったままだった。
「向こうの製作から直接ではなく、窓口を通してと伺っています」
「……」
「日本側の窓口です。はい」
「……」
「宣伝の段取りは、いったん全部止めます。組み直しになります」
戸倉さんは片手で紙をめくっていた。めくった紙を、めくったところで押さえて、そのまま次の電話に出た。
押さえた紙は、押さえたままになった。
「写真も、いまは出せません。使えるのは去年の宣材だけです」
「……」
「はい。増刷の相談も、いまはお受けできません」
戸倉さんは電話を切って、切った携帯を机に伏せて置いた。
伏せて置いた携帯が、置いた三秒後にまた光った。戸倉さんはそれを裏返して、番号を見て、出た。
◇
犬飼さんの電話は短かった。
「確認します」
「……」
「それはこちらでは分かりません」
「……」
「折り返します」
三つとも同じ長さだった。犬飼さんは電話を切って、切ったところでもう一度鳴った。
鳴った電話にも出た。出て、また同じことを言った。
◇
俺は入口に近い椅子に座っていた。
誰も俺に何も言わなかった。俺も何も聞かなかった。
机の上には紙が積んである。積んだ紙の上に、また紙が置かれる。置くのは有本さんで、有本さんは十分に一度くらい入ってきて、置いて、出ていく。
置くときに、いつも同じことを言う。
「これ、いまのぶんです」
◇
犬飼さんが上着の内ポケットから箱を出した。
出して、開けないまま机の上に置いた。
置いた箱の角が、机の縁と平行になっていない。犬飼さんはそれを直さなかった。
顔から色が抜けている。金曜の夕方に試写室で見たときと同じだった。
◇
ドアが開いて、社長が入ってきた。
手に皿を持っている。皿の上に、羊羹が切って並べてあった。切り方が厚い。
社長は皿を俺の前に置いた。
「食え」
「はい」
「ほかの連中は食うな。手が止まる」
九条さんが受話器を肩と耳ではさんだまま、社長のほうを見た。見て、また前を向いた。
◇
俺は羊羹を食った。
厚いので、一切れで口の中がいっぱいになる。飲み込むまでに時間がかかった。
餡は甘い。甘いが、朝から何も食っていない口には、甘いというより重い。
二切れ目を取ったところで、戸倉さんがこっちを見た。見て、何も言わないで前へ戻した。
三切れ目のとき、九条さんも見た。九条さんは受話器を耳に当てたまま、皿のほうを二秒だけ見て、それから相手に「はい」と言った。
社長は皿の上の残りを数えた。
「四つ残ってるぞ」
「はい」
「持って帰るか」
「持って帰ります」
「包むものがない」
「はい」
社長は皿ごと俺の鞄の横へ置いた。置いてから、置いた場所をしばらく見て、また机の上へ戻した。
社長は俺の隣に座った。座って、しばらく何も言わなかった。
「うちの会社は三十一年やっている」
「はい」
「三十一年やって、こういう月曜は無かった」
「はい」
「だから、誰も飯を食っていない」
「はい」
「食え」
◇
羊羹は、六人のうち俺だけが食っていた。椅子に深く座っているのも、俺だけだった。
◇
電話が二つ、同時に鳴った。
九条さんと戸倉さんが同時に出て、同時に「はい」と言った。二人とも、そのあとで相手の言うことを聞いていた。
子機だけが鳴らないでいる。
鳴らないでいるあいだに、有本さんがまた入ってきて、紙を置いた。
「これ、いまのぶんです」
有本さんは置いてすぐ出ていった。出ていく前に、机の上の羊羹の皿を一度見た。
見ただけで、何も言わなかった。皿の上の羊羹は、まだ半分ある。
◇
五時四十分だった。
六時にここを出れば、七時前に家に着く。六時半なら七時半になる。七時なら八時だ。
八時に着いた日は、去年に一度あった。あの日は鍋がもう空だった。
俺は椅子から動かなかった。
動かないうちに、五時五十分になった。
五時五十分になっても、誰も俺に帰れと言わなかった。俺は座っていた。
子機がまた鳴った。今度は九条さんが出た。出て、二言だけ言って、切った。
◇
「犬飼さん」
「なんだ」
「撮影中、米は出ますか」
電話は三つとも鳴っていた。鳴っている中で、犬飼さんは受話器を耳から離した。
「なんの話だ」
「向こうで撮るんですよね」
「そうだ」
「長いんですか」
「知らん」
「米は」
「知らん」
「聞いてもらえますか」
「あとでな」
◇
九条さんが受話器を置いた。
置いて、俺のほうを見た。
「高町くん、いま何を聞いた」
「米の話をしました」
「米」
「はい」
九条さんは眼鏡を指で押し上げた。押し上げて、そのまま指を離さないでいた。
「戸倉さん、いまのを聞いたか」
「聞きました」
「どう思う」
「向こうの食事の情報は、まだ一枚も来ていません」
「そうか」
「取り寄せます」
「頼む」
◇
九条さんは椅子に座った。
座ってから、机の上の紙の山を手前へ引き寄せた。引き寄せて、上から三枚だけ抜いて、あとは押し戻した。
「犬飼。うちの体制で受けられる話じゃない」
「はい」
「受けられないとは言っていない。いまの体制では、と言っている」
「はい」
「人を足す。今週のうちに社長と決める」
「はい」
「それまで、この部屋の外に紙を出すな」
「出しません」
九条さんは抜いた三枚を裏返して、机の端に置いた。置いた三枚の上に、有本さんがまた紙を置いた。
◇
戸倉さんは紙に何か書いた。
書いてから、書いたところに丸をつけた。丸をつけたぶんだけ、その紙が下のほうへ滑って、机の端で止まった。
犬飼さんは机の上の箱を見ていた。見ていたが、開けなかった。
開けないまま、また電話に出た。
◇
俺は廊下に出た。
会議室2の前の廊下には、パイプ椅子が二脚出してある。誰かが会議のときに出して、そのままにしたやつだ。
俺は手前に座った。
座ると、廊下の突き当たりの窓が正面に来る。窓の外はもう暗くて、向かいのビルの窓が三つ点いていた。三つのうち二つは同じ階にある。
◇
椅子の脚が、俺が動く前に鳴った。
鞄は膝の上にある。口は開いている。
「まだ終わらないの」
(終わらない)
「あの人たち、朝からずっと電話してるじゃないの」
(してる)
「あんた、何が起きたか分かってるの」
(分からん)
「分からないのに、米の話をしたのね」
(した)
「聞く順番があるでしょう。どこへ行くのか、いつからいつまでか、それを先に聞くのよ」
(聞いた。知らんと言われた)
「あんたが聞いたのは米でしょう」
(米も聞いた)
「……いいわ、もう」
◇
「あんた、わたしを鞄に入れっぱなしよ」
(そうだな)
「金曜からずっとよ。土曜も日曜も入れっぱなし」
(入れると言った)
「入れる話は金曜までよ」
(そうか)
「さっきから返事が同じよ。日曜の昼なんて、あんた、鞄ごと玄関に置いたわね」
(置いた)
「玄関は寒いのよ」
(この廊下も寒い)
「ここもってこと」
(そうだ)
「わたし、鞄の中よ」
(鞄の中だな)
「鞄の中でも寒いのよ」
◇
廊下の突き当たりで、戸倉さんが電話をしていた。
窓のほうを向いて、片手で耳を押さえている。押さえていないほうの耳に受話器を当てているので、体が斜めになっていた。
その横を有本さんが通った。通るときに、戸倉さんの背中に紙を一枚見せて、戸倉さんはうなずいた。うなずいただけで、電話は切らなかった。
有本さんは俺の前を戻ってきて、パイプ椅子の横で立ち止まった。
「高町さん、まだ帰れないですか」
「まだです」
「わたし、四階の給湯室にいますので、寒かったら言ってください」
「はい」
「ここ、暖房が入ってないんです。廊下だけ入ってないんですよ」
有本さんはそう言って、会議室2のほうへ戻っていった。戻る途中で、抱えた紙の上から一枚が落ちて、拾って、いちばん下に入れた。
◇
会議室2のドアが開いて、戸倉さんが出てきた。
出てきて、廊下の突き当たりまで歩いて、戻ってきた。戻る途中で、俺の座っているパイプ椅子の前で止まった。
「高町さん、宣伝の段取りは、いったん全部こちらで止めます。あなたが取材で何か言う予定は、当分ありません」
「はい」
「取材が来ても、答えないでください」
「答えません」
「答えないというのは、黙るという意味ではなく、うちに回すという意味です」
「回します」
戸倉さんは会議室2へ戻っていった。ドアを閉める前に、もう一度こっちを見た。
◇
会議室2のドアが開いて、犬飼さんが出てきた。
「今日は帰れ」
「はい」
「明日も学校だ」
「はい」
「明日、学校で誰かに何か言われても、何も知らないと言え」
「言います」
「知らないんだから、言えるだろう」
「言えます」
犬飼さんはそこで一度、鼻から息を出した。
「弁当の話も、まだ答えが出ていない」
「覚えてたんですか」
「忘れられるか」
◇
ビルを出たら、外は暗かった。
向かいの花屋はまだ開いていて、店の前の桶の水が動いていた。今日は凍っていない。
駅までのあいだに、電話をしている人が三人いた。三人とも事務所とは関係のない人である。
乗った車両は、端の席まで空いていた。座って、鞄を膝に置いて、その上に両手を置いた。
二つ目の駅で、隣に人が座った。座った人は、座ってすぐ立って、一つ向こうの席へ移った。移った理由は分からない。
乗り換えの駅で、階段を上がって、下りた。上がるほうは長い。下りるほうは短い。
桜坂の階段は二十七段ある。上から九段目が少し欠けていて、今日は乾いていた。
◇
家に着いたのは七時半だった。
台所に母さんがいた。鍋はもう火から下りていて、蓋の上に布巾がかけてある。
父さんは茶の間にいて、テレビの前で座っていた。テレビはついているが、音は小さい。
「遅かったね」
「遅くなりました」
「何かあったの」
「ありません」
母さんはそれ以上聞かなかった。聞かないで、皿を出した。
父さんはテレビのほうを向いたままだった。向いたまま、俺が台所に入ったところで一度だけ「おう」と言った。
テレビの音は小さい。小さいので、台所からは何を言っているのか分からない。
鍋の蓋を取ったら、まだ湯気が出た。布巾をかけてあったぶん、下りてからの時間のわりに温かい。
中身は肉と大根だった。大根のほうが多い。
「大根、安かったの」
「そうですか」
「一本まるごと買ったから、明日も出るわよ」
「はい」
「文句言わないでよ」
「言いません」
母さんは布巾をたたんで、流しの縁にかけた。かけてから、こっちを見ないで言った。
「今日、電話が二回あったよ」
「うちにですか」
「ケイくん。二回とも、あんたいるかって」
「いませんでした」
「いないって言ったよ」
「はい」
「二回目のときに、じゃあ晩飯だけ食べに来ますって言われた」
「来たんですか」
「来てないよ」
◇
妹が二階から下りてきた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「風呂、先入っていい」
「入れ」
妹は行った。行ってから、階段の途中で止まって、また下りてきた。
「金曜、化学だったんだけど」
「聞いた」
「先生が、休んだ人は来週やるって」
「そうか」
「兄ちゃんの話じゃないから。うちのクラスの話」
「そうか」
妹は今度こそ行った。
父さんが茶の間から台所を覗いた。
覗いて、俺の茶碗を見て、何も言わないで戻った。戻ってから、テレビの音を少しだけ大きくした。
母さんは向かいの椅子に座った。座って、自分のぶんの茶は入れなかった。
「風呂は」
「あとで入ります」
「妹が入ってるよ」
「知ってます」
「長いよ」
「知ってます」
「知ってて後にしたの」
「後にしました」
母さんは立って、鍋の下の火を一度つけて、すぐ消した。つけたのは一秒くらいだった。
◇
俺は飯をよそった。
茶碗は自分のを出した。しゃもじは母さんが鍋の縁に立てたままにしてあって、立てたところが少し焦げている。
一杯目を食って、二杯目をよそったところで、台所の電話が鳴った。
母さんが出た。
「はい。……はい、おります」
母さんは受話器を持ったまま、俺のほうを見た。
俺は箸を置かなかった。




