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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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133/236

第133話 言葉が通じない現場

 長机の真ん中に、黒い電話機が置いてあった。


 コードが机の下へ垂れて、床のコンセントの手前で一度たわんでいる。たわんだところに、椅子の脚が乗っていた。


「そこ、踏むな」


 九条さんが言った。


「切れると、かけ直すのに七分かかる。先週は十二分かかった。向こうの回線が悪いのか、こっちの機械が古いのか、どっちなのかは誰も調べていない」

「七分ですか」

「今の話の要点は、そこじゃない」


 俺は椅子の脚をよけて座った。


   ◇


 二月二十日、金曜日。


 月曜の夜に家へかかってきた電話は、九条さんからだった。


 四階の会議室1である。長机は四本あって、今日は手前の二本だけを向かい合わせにしてあった。


 椅子は八脚出ている。座っているのは三人だった。九条さんと、犬飼さんと、俺だ。


 残りの五脚には紙が置いてある。置き方はばらばらで、一脚だけ、紙が椅子の背にもたれかかっていた。


 天井の蛍光灯は、今日は入口側も奥側も点いている。奥のホワイトボードは片付いていて、字はもう残っていない。


 学校は五時間で終わった。下駄箱で靴に履き替えるときに、右のかかとが引っかかった。上履きのかかとを踏んだ跡が、そのまま形になって残っている。


 制服のまま電車に乗って、渋谷で降りて、坂を上がってビルに入った。


   ◇


「先に、動かない日から言う」


 九条さんは紙の束を机に置いて、上から三枚だけ抜いた。


「三月二十六日。出発だ。この日は動かない」

「はい」

「向こうに着くのが二十七日。日本を出てから、着くまでで十七時間ある」

「十七時間ですか」

「乗り継ぎが一回入る。待ち時間はそこに全部乗っている」

「はい」

「撮影が始まるのが三十日。終わるのが六月の二十六日だ」


 九条さんはそこまで言って、三枚を横に並べ直した。


 並べ直したあとで、いちばん左の紙の角を指で押さえた。


「三ヶ月と、少しだ」

「はい」

「三ヶ月、帰ってこない」

「はい」

「返事が速いな」


   ◇


 犬飼さんが横から紙を一枚滑らせてきた。


 滑らせた紙には、細かい字が二列に並んでいた。左の列が日本語で、右の列は日本語ではなかった。


「読めるか」

「左は読めます」

「右は」

「読めません」

「そうだろうな」


 犬飼さんは紙を戻さないで、そのまま俺の前に置いておいた。


「保険と、滞在の許可と、それから労働の許可だ。三つとも別の紙で、別のところに出す。出す順番も決まっている」

「はい」

「君がやることは何もない。全部こっちで出す」

「はい」

「ただ、名前の綴りだけは君に確認させる。間違えると、全部やり直しになる」


   ◇


 俺は右の列を見た。


 アルファベットが並んでいて、途中に点が一つ入っている。どこが名字でどこが名前なのかは、字の形からは分からなかった。


「これ、どっちが上ですか」

「上」

「名字のほうです」

「前だ。前が名字で、後ろが名前だ」

「向こうでも前ですか」

「向こうは逆にする。逆にした紙も、あとで作る」


 犬飼さんは指で紙の上を二回叩いた。


「同じ人間の名前を、二通り作る。これが一番よく揉める」

「はい」


   ◇


 犬飼さんは机の下から茶封筒を出した。


 出して、中身を二つに分けて置いた。どちらも綴じていない紙の束で、厚さは同じくらいだが、片方のほうが紙が白い。


「書けているぶんが届いた。二つに分けてある」

「二つですか」

「白いほうが向こうの言葉のやつだ。もう一束が、それを日本語にしたやつになる」

「両方ですか」

「両方だ。覚えるのは白いほうで、意味がわかるのは黄色いほうだ。二束とも持っていく」

「これで全部ですか」

「全部じゃない。入っているのは場面が三つだけだ。続きは向こうで、書けたぶんから渡される」


 俺は白いほうの一枚目を取った。


 左の端に人の名前らしいものが並んでいて、その右に文が続いている。名前らしいもののうち、一つだけ何度も出てくる並びがあった。並びの形は覚えられたが、音は分からない。


「これ、俺のですか」

「その並びが君だ」

「読めません」

「読める必要はない。音は向こうで教わる」


 犬飼さんは黄色いほうを上から一枚どけて、次の紙の途中で手を止めた。


 止めたところを、指で押さえたまま、しばらく見ていた。


「犬飼さん」

「なんだ」

「そこ、何が書いてありますか」

「海の話だ」

「海ですか」

「今のは俺の勘だ。ここは日本語のほうも、何を言ってるのか俺にはわからん」


   ◇


「『灯台守の子』の日本側の窓口は、シネマ・トライブが持つ」


 九条さんは眼鏡の位置を直した。


「うちが直接向こうとやり取りするわけじゃない。間に一社入る。書類はそこを通る」

「はい」

「向こうの製作は、うちに日本語で連絡してこない」

「はい」

「わかっているのか」

「わかりません」

「そうだろうな」


   ◇


 机の上の電話が鳴った。


 鳴ったのは一回だけで、二回目の前に九条さんが手を伸ばした。


「出るぞ」

「はい」


 九条さんはボタンを押した。押したら、部屋の中に別の部屋の音が入ってきた。


 風の音だった。近くではなく、壁の向こうを通っているような音である。


「もしもし」


 女の人の声だった。日本語だった。


   ◇


「聞こえますか。三隅です」

「九条です。聞こえています」

「よかった。こっち、朝の十時です。そちら、夕方ですよね」

「夕方だ」

「八時間ずれてます。ずっとそれです。夏も冬も変わりません」


 九条さんは電話のほうへ体を寄せないで、椅子の背に寄りかかったまま話していた。


「本人がいる。高町だ」

「あ、はい」


 風の音が一度大きくなって、また下がった。


「高町さん、聞こえますか」

「聞こえます」

「三隅リナと言います。向こうで通訳とコーディネーターをやります。生活のほうも見ます」

「三隅さんですか」

「三隅です。よろしくお願いします」


   ◇


「先に場所の話をします」


 三隅さんは紙をめくる音を立てた。


「空港はヘルマルという街にあります。そこから船に乗ります。船で七十分です」

「船ですか」

「フェリーです。島には空港がありません」

「はい」

「島の名前はソルヴィクです。人が九百人います」

「九百人」

「灯台が一つあります。それが島でいちばん有名なものです」


 俺は九百という数を、机の上の紙の余白のところで一度なぞった。指でなぞっただけで、書いてはいない。


   ◇


「三月の末はまだ雪です」


 三隅さんは続けた。


「日本の三月末を考えて荷物を作ると、確実に足りません。上着は一番厚いのを持ってきてください。手袋も要ります。宿は暖かいですけど、外は暖かくないです」

「はい」

「あと、宿は島に一軒しかありません。撮影隊が全部そこに入ります」

「一軒ですか」

「部屋は一人一部屋です。そこは大丈夫です」


 犬飼さんが横で紙にペンを走らせた。書いたのは短い一行で、書いたあとで丸を付けた。


   ◇


「言葉の話をします」


 三隅さんは、そこで少し声の高さを変えた。


「現場は英語でやります。ただ、地元のスタッフは英語が母語じゃない人のほうが多いので、たぶん、全員がちょっとずつ通じません」

「はい」

「高町さん、英語は」

「できません」

「どれくらいできませんか」

「全部できません」


 電話の向こうで、紙をめくる音が止まった。


「わかりました」

「はい」

「わかりましたと言いましたけど、私はそんなに困っていません。困るのは向こうの人です」


   ◇


「名前の話もしておきます」


 三隅さんの声は、風の音の合間から来た。


「高町という名字は、向こうの人には読めません。たぶん誰も読みません」

「読めませんか」

「読みません。下の名前を使います。トーマになります」

「トーマですか」

「トーマです。現場で呼ばれるのは、それだけになると思ってください」

「はい」

「役の名前はソウです。監督はそっちで呼ぶことのほうが多いです」


 俺は自分の名前を二つ聞いた。どっちも自分の名前だが、どっちも今日まで一度も呼ばれたことがない。


   ◇


 九条さんが電話のほうを見ないで言った。


「三隅さん、こっちから一つ。宿の食事は誰が作る」

「宿の一階に食堂があります。そこで全員が食べます」

「何が出る」

「パンとスープと魚です」

「それだけか」

「それだけです」


 俺は、椅子の上で背中を一度動かした。


 動かしただけで、何も言わなかった。


   ◇


「切ります」


 三隅さんは言った。


「船の時間はまた送ります。あと、高町さん」

「はい」

「向こうの人は、初めて会う人の顔をずっと見ます。じろじろ見ますけど、悪い意味じゃないです。先に言っておきます」

「はい」

「じゃあ、三月に」


 電話が切れた。


 切れたあと、部屋から風の音が消えた。消えると、暖房の音のほうが急に大きく聞こえた。


   ◇


「高町」

「はい」

「今の話で、いくつわかった」

「船が七十分です」

「他は」

「宿が一軒です」

「他は」

「島に九百人います」

「全部、数だな」


 犬飼さんは湯呑みを持ち上げて、飲まずに置いた。


   ◇


「もう一つ、言っておくことがある」


 犬飼さんは椅子を少し引いて、体をこっちへ向けた。


「行きは俺が付く。帰りも俺が付く。間は付かない」

「間」

「三ヶ月だ。うちの人間を三ヶ月向こうに置いておくことはできない。俺は日本で他の仕事がある」

「はい」

「三隅さんが現地の窓口になる。困ったら三隅さんに言え」

「はい」

「わかったか」

「犬飼さんは帰るんですね」

「帰る」

「じゃあ、誰が俺を起こすんですか」


   ◇


 犬飼さんは湯呑みに伸ばしかけた手を、途中で止めた。


 止めて、九条さんのほうを見た。九条さんは紙を見ていて、顔を上げなかった。


「宿の人だ」

「宿の人ですか」

「たぶん宿の人だ。そこは三隅さんに聞いておく」

「はい」

「他に聞くことはあるか」

「船は毎日出ますか」

「聞いておく」

「はい」


 犬飼さんは、さっき書いた一行の下に、もう一行書いた。


 書いてから、二行とも丸で囲んだ。


   ◇


 話が二枚目に入った。二枚目は、向こうに着いてから最初の三日ぶんの予定で、時刻が縦に並んでいて、場所の欄は半分が空白だった。


 九条さんが空白の理由を話しているあいだに、俺は鞄の持ち手に指をかけた。かけただけで、動かさなかった。今から立てば六時前の電車に乗れる。乗れば、家に着いて、飯を食って、七時半には寝られる。


 暖房の風は入口の上から出て、天井を伝って、こっちの席のあたりで下りてくる。下りてくるところに座っていると、まぶたが重くなる。


   ◇


「四月からのことを決めておく」


 九条さんは紙を一枚こちらへ回した。


「三月で学校が終わる。四月からは、うちの仕事だけになる。進学の予定があるなら、今日この場で言ってくれ。あるなら六月までの組み方を全部変える」

「ありません」

「無いというのは、行かないということか」

「行きません」

「そうか」


 九条さんは紙を戻した。戻して、束の下から二枚目に挟んだ。


 犬飼さんは黙っていた。黙ったまま、湯呑みの位置を一センチだけ動かした。


   ◇


「じゃあ最後だ」


 九条さんは眼鏡を外して、机に置いた。


「向こうに行ったら、うちの人間は誰もいない。言葉も通じない。それでも撮影は毎日ある。撮影というのは、こっちの都合で止まらない」

「はい」

「怖いかと聞いているんじゃない。段取りの話をしている」

「はい」

「聞いておくのは一つだけだ。君は、通じないところで三ヶ月やれるか」


   ◇


 俺は紙を見た。


 左の列は日本語で、右の列は日本語ではない。右の列の途中の点は、印刷のかすれで少し細くなっている。


 俺は言った。


「やれるかどうかは、行ってみないとわかりません」

「そうか」

「ただ、飯は食えると思います」


 九条さんは眼鏡をかけ直した。


 かけ直して、犬飼さんのほうを見た。犬飼さんは天井を見ていた。


   ◇


 ビルを出たのは六時半だった。


 外はもう暗い。花屋の前の桶は、今日は水が入っていなかった。


 犬飼さんは俺の横を歩いていた。歩きながら、上着のポケットに手を入れて、何も出さずに抜いた。


「そこ、入るぞ」


 犬飼さんは坂の途中の店を指した。ガラスの向こうに椅子が四つ見えて、そのうち三つが空いている。


   ◇


 店の中は暖かかった。


 入口に近い席にした。犬飼さんが奥で、俺が手前だ。


 俺は椅子を引いた。引いたら、床に引っかかって音が鳴った。鳴ったので、少し持ち上げて置き直した。


 犬飼さんはコーヒーを二つ頼んで、頼んだあとで携帯を出した。


「一本かける」

「はい」


   ◇


 犬飼さんの電話は短かった。


 三回、はい、と言って、一回、それは無理です、と言って、切った。


 切ってから、携帯を裏返して机に置いた。


「船は、冬のあいだは一日二本だそうだ」

「三月の末は冬ですか」

「知らん」

「はい」

「そこは明日聞く」


 運ばれてきたコーヒーは熱すぎて、俺は最初の一口で口の中をやった。


   ◇


 犬飼さんは携帯を裏返したまま、指で二回叩いた。


「向こうの製作から、こっちに直接来る連絡はほとんどない。全部、間の一社を通る。通ると一日ずれる」

「一日ですか」

「一日だ。それに時差が八時間乗る。こっちの夜に出した話の返事は、早くて次の日の夕方だ」

「はい」

「だから、向こうで何か起きても、俺がすぐ何かできるわけじゃない」

「はい」

「わかってないだろ」

「わかってません」

「そこだけは、いつも正直だな」


 犬飼さんはカップを持ち上げて、湯気の出方を見てから口をつけた。


「三隅さんは十年向こうにいる。生活のほうも見ると言っただろう」

「言ってました」

「あの人がいなかったら、この話は受けていない」


   ◇


 俺は白いほうの紙の束を鞄から出して、机の上に置いた。


 いちばん上の紙の、上から四行目に、さっきの並びがあった。並びの後ろに続く文は、字の数だけなら短い。


「犬飼さん、これ、何秒くらいですか」

「知らん」

「短いですか」

「字は短いが、短い台詞ほど長くかかる現場もある」

「そうですか」

「今のは、うちの現場の話だ。向こうがどうかは知らん」


 俺は紙の端をそろえた。


 そろえたら、下のほうの一枚だけが横に出た。出たところを押し込んで、鞄に戻した。


   ◇


「三月五日は空けてある」


 犬飼さんの声が、机の向こうから来た。


「五日ですか」

「その日は仕事を入れない。前の日も、後の日も、夕方までは入れない」

「何かありますか」

「卒業式だ」

「ああ」

「忘れてただろう」

「忘れてました」


 犬飼さんはコーヒーを一口飲んで、カップを受け皿に戻した。


 戻すときに、受け皿の縁で一度当てた。当たった音が、思ったより高かった。


「制服、まだあるか」

「あります」

「そうか」

「捨てるつもりもありません」

「捨てるなとは言ってない」


 犬飼さんは窓の外を見た。


 窓の外は坂で、坂を人が下りていく。下りていく人の足が、上るときより速い。


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