第133話 言葉が通じない現場
長机の真ん中に、黒い電話機が置いてあった。
コードが机の下へ垂れて、床のコンセントの手前で一度たわんでいる。たわんだところに、椅子の脚が乗っていた。
「そこ、踏むな」
九条さんが言った。
「切れると、かけ直すのに七分かかる。先週は十二分かかった。向こうの回線が悪いのか、こっちの機械が古いのか、どっちなのかは誰も調べていない」
「七分ですか」
「今の話の要点は、そこじゃない」
俺は椅子の脚をよけて座った。
◇
二月二十日、金曜日。
月曜の夜に家へかかってきた電話は、九条さんからだった。
四階の会議室1である。長机は四本あって、今日は手前の二本だけを向かい合わせにしてあった。
椅子は八脚出ている。座っているのは三人だった。九条さんと、犬飼さんと、俺だ。
残りの五脚には紙が置いてある。置き方はばらばらで、一脚だけ、紙が椅子の背にもたれかかっていた。
天井の蛍光灯は、今日は入口側も奥側も点いている。奥のホワイトボードは片付いていて、字はもう残っていない。
学校は五時間で終わった。下駄箱で靴に履き替えるときに、右のかかとが引っかかった。上履きのかかとを踏んだ跡が、そのまま形になって残っている。
制服のまま電車に乗って、渋谷で降りて、坂を上がってビルに入った。
◇
「先に、動かない日から言う」
九条さんは紙の束を机に置いて、上から三枚だけ抜いた。
「三月二十六日。出発だ。この日は動かない」
「はい」
「向こうに着くのが二十七日。日本を出てから、着くまでで十七時間ある」
「十七時間ですか」
「乗り継ぎが一回入る。待ち時間はそこに全部乗っている」
「はい」
「撮影が始まるのが三十日。終わるのが六月の二十六日だ」
九条さんはそこまで言って、三枚を横に並べ直した。
並べ直したあとで、いちばん左の紙の角を指で押さえた。
「三ヶ月と、少しだ」
「はい」
「三ヶ月、帰ってこない」
「はい」
「返事が速いな」
◇
犬飼さんが横から紙を一枚滑らせてきた。
滑らせた紙には、細かい字が二列に並んでいた。左の列が日本語で、右の列は日本語ではなかった。
「読めるか」
「左は読めます」
「右は」
「読めません」
「そうだろうな」
犬飼さんは紙を戻さないで、そのまま俺の前に置いておいた。
「保険と、滞在の許可と、それから労働の許可だ。三つとも別の紙で、別のところに出す。出す順番も決まっている」
「はい」
「君がやることは何もない。全部こっちで出す」
「はい」
「ただ、名前の綴りだけは君に確認させる。間違えると、全部やり直しになる」
◇
俺は右の列を見た。
アルファベットが並んでいて、途中に点が一つ入っている。どこが名字でどこが名前なのかは、字の形からは分からなかった。
「これ、どっちが上ですか」
「上」
「名字のほうです」
「前だ。前が名字で、後ろが名前だ」
「向こうでも前ですか」
「向こうは逆にする。逆にした紙も、あとで作る」
犬飼さんは指で紙の上を二回叩いた。
「同じ人間の名前を、二通り作る。これが一番よく揉める」
「はい」
◇
犬飼さんは机の下から茶封筒を出した。
出して、中身を二つに分けて置いた。どちらも綴じていない紙の束で、厚さは同じくらいだが、片方のほうが紙が白い。
「書けているぶんが届いた。二つに分けてある」
「二つですか」
「白いほうが向こうの言葉のやつだ。もう一束が、それを日本語にしたやつになる」
「両方ですか」
「両方だ。覚えるのは白いほうで、意味がわかるのは黄色いほうだ。二束とも持っていく」
「これで全部ですか」
「全部じゃない。入っているのは場面が三つだけだ。続きは向こうで、書けたぶんから渡される」
俺は白いほうの一枚目を取った。
左の端に人の名前らしいものが並んでいて、その右に文が続いている。名前らしいもののうち、一つだけ何度も出てくる並びがあった。並びの形は覚えられたが、音は分からない。
「これ、俺のですか」
「その並びが君だ」
「読めません」
「読める必要はない。音は向こうで教わる」
犬飼さんは黄色いほうを上から一枚どけて、次の紙の途中で手を止めた。
止めたところを、指で押さえたまま、しばらく見ていた。
「犬飼さん」
「なんだ」
「そこ、何が書いてありますか」
「海の話だ」
「海ですか」
「今のは俺の勘だ。ここは日本語のほうも、何を言ってるのか俺にはわからん」
◇
「『灯台守の子』の日本側の窓口は、シネマ・トライブが持つ」
九条さんは眼鏡の位置を直した。
「うちが直接向こうとやり取りするわけじゃない。間に一社入る。書類はそこを通る」
「はい」
「向こうの製作は、うちに日本語で連絡してこない」
「はい」
「わかっているのか」
「わかりません」
「そうだろうな」
◇
机の上の電話が鳴った。
鳴ったのは一回だけで、二回目の前に九条さんが手を伸ばした。
「出るぞ」
「はい」
九条さんはボタンを押した。押したら、部屋の中に別の部屋の音が入ってきた。
風の音だった。近くではなく、壁の向こうを通っているような音である。
「もしもし」
女の人の声だった。日本語だった。
◇
「聞こえますか。三隅です」
「九条です。聞こえています」
「よかった。こっち、朝の十時です。そちら、夕方ですよね」
「夕方だ」
「八時間ずれてます。ずっとそれです。夏も冬も変わりません」
九条さんは電話のほうへ体を寄せないで、椅子の背に寄りかかったまま話していた。
「本人がいる。高町だ」
「あ、はい」
風の音が一度大きくなって、また下がった。
「高町さん、聞こえますか」
「聞こえます」
「三隅リナと言います。向こうで通訳とコーディネーターをやります。生活のほうも見ます」
「三隅さんですか」
「三隅です。よろしくお願いします」
◇
「先に場所の話をします」
三隅さんは紙をめくる音を立てた。
「空港はヘルマルという街にあります。そこから船に乗ります。船で七十分です」
「船ですか」
「フェリーです。島には空港がありません」
「はい」
「島の名前はソルヴィクです。人が九百人います」
「九百人」
「灯台が一つあります。それが島でいちばん有名なものです」
俺は九百という数を、机の上の紙の余白のところで一度なぞった。指でなぞっただけで、書いてはいない。
◇
「三月の末はまだ雪です」
三隅さんは続けた。
「日本の三月末を考えて荷物を作ると、確実に足りません。上着は一番厚いのを持ってきてください。手袋も要ります。宿は暖かいですけど、外は暖かくないです」
「はい」
「あと、宿は島に一軒しかありません。撮影隊が全部そこに入ります」
「一軒ですか」
「部屋は一人一部屋です。そこは大丈夫です」
犬飼さんが横で紙にペンを走らせた。書いたのは短い一行で、書いたあとで丸を付けた。
◇
「言葉の話をします」
三隅さんは、そこで少し声の高さを変えた。
「現場は英語でやります。ただ、地元のスタッフは英語が母語じゃない人のほうが多いので、たぶん、全員がちょっとずつ通じません」
「はい」
「高町さん、英語は」
「できません」
「どれくらいできませんか」
「全部できません」
電話の向こうで、紙をめくる音が止まった。
「わかりました」
「はい」
「わかりましたと言いましたけど、私はそんなに困っていません。困るのは向こうの人です」
◇
「名前の話もしておきます」
三隅さんの声は、風の音の合間から来た。
「高町という名字は、向こうの人には読めません。たぶん誰も読みません」
「読めませんか」
「読みません。下の名前を使います。トーマになります」
「トーマですか」
「トーマです。現場で呼ばれるのは、それだけになると思ってください」
「はい」
「役の名前はソウです。監督はそっちで呼ぶことのほうが多いです」
俺は自分の名前を二つ聞いた。どっちも自分の名前だが、どっちも今日まで一度も呼ばれたことがない。
◇
九条さんが電話のほうを見ないで言った。
「三隅さん、こっちから一つ。宿の食事は誰が作る」
「宿の一階に食堂があります。そこで全員が食べます」
「何が出る」
「パンとスープと魚です」
「それだけか」
「それだけです」
俺は、椅子の上で背中を一度動かした。
動かしただけで、何も言わなかった。
◇
「切ります」
三隅さんは言った。
「船の時間はまた送ります。あと、高町さん」
「はい」
「向こうの人は、初めて会う人の顔をずっと見ます。じろじろ見ますけど、悪い意味じゃないです。先に言っておきます」
「はい」
「じゃあ、三月に」
電話が切れた。
切れたあと、部屋から風の音が消えた。消えると、暖房の音のほうが急に大きく聞こえた。
◇
「高町」
「はい」
「今の話で、いくつわかった」
「船が七十分です」
「他は」
「宿が一軒です」
「他は」
「島に九百人います」
「全部、数だな」
犬飼さんは湯呑みを持ち上げて、飲まずに置いた。
◇
「もう一つ、言っておくことがある」
犬飼さんは椅子を少し引いて、体をこっちへ向けた。
「行きは俺が付く。帰りも俺が付く。間は付かない」
「間」
「三ヶ月だ。うちの人間を三ヶ月向こうに置いておくことはできない。俺は日本で他の仕事がある」
「はい」
「三隅さんが現地の窓口になる。困ったら三隅さんに言え」
「はい」
「わかったか」
「犬飼さんは帰るんですね」
「帰る」
「じゃあ、誰が俺を起こすんですか」
◇
犬飼さんは湯呑みに伸ばしかけた手を、途中で止めた。
止めて、九条さんのほうを見た。九条さんは紙を見ていて、顔を上げなかった。
「宿の人だ」
「宿の人ですか」
「たぶん宿の人だ。そこは三隅さんに聞いておく」
「はい」
「他に聞くことはあるか」
「船は毎日出ますか」
「聞いておく」
「はい」
犬飼さんは、さっき書いた一行の下に、もう一行書いた。
書いてから、二行とも丸で囲んだ。
◇
話が二枚目に入った。二枚目は、向こうに着いてから最初の三日ぶんの予定で、時刻が縦に並んでいて、場所の欄は半分が空白だった。
九条さんが空白の理由を話しているあいだに、俺は鞄の持ち手に指をかけた。かけただけで、動かさなかった。今から立てば六時前の電車に乗れる。乗れば、家に着いて、飯を食って、七時半には寝られる。
暖房の風は入口の上から出て、天井を伝って、こっちの席のあたりで下りてくる。下りてくるところに座っていると、まぶたが重くなる。
◇
「四月からのことを決めておく」
九条さんは紙を一枚こちらへ回した。
「三月で学校が終わる。四月からは、うちの仕事だけになる。進学の予定があるなら、今日この場で言ってくれ。あるなら六月までの組み方を全部変える」
「ありません」
「無いというのは、行かないということか」
「行きません」
「そうか」
九条さんは紙を戻した。戻して、束の下から二枚目に挟んだ。
犬飼さんは黙っていた。黙ったまま、湯呑みの位置を一センチだけ動かした。
◇
「じゃあ最後だ」
九条さんは眼鏡を外して、机に置いた。
「向こうに行ったら、うちの人間は誰もいない。言葉も通じない。それでも撮影は毎日ある。撮影というのは、こっちの都合で止まらない」
「はい」
「怖いかと聞いているんじゃない。段取りの話をしている」
「はい」
「聞いておくのは一つだけだ。君は、通じないところで三ヶ月やれるか」
◇
俺は紙を見た。
左の列は日本語で、右の列は日本語ではない。右の列の途中の点は、印刷のかすれで少し細くなっている。
俺は言った。
「やれるかどうかは、行ってみないとわかりません」
「そうか」
「ただ、飯は食えると思います」
九条さんは眼鏡をかけ直した。
かけ直して、犬飼さんのほうを見た。犬飼さんは天井を見ていた。
◇
ビルを出たのは六時半だった。
外はもう暗い。花屋の前の桶は、今日は水が入っていなかった。
犬飼さんは俺の横を歩いていた。歩きながら、上着のポケットに手を入れて、何も出さずに抜いた。
「そこ、入るぞ」
犬飼さんは坂の途中の店を指した。ガラスの向こうに椅子が四つ見えて、そのうち三つが空いている。
◇
店の中は暖かかった。
入口に近い席にした。犬飼さんが奥で、俺が手前だ。
俺は椅子を引いた。引いたら、床に引っかかって音が鳴った。鳴ったので、少し持ち上げて置き直した。
犬飼さんはコーヒーを二つ頼んで、頼んだあとで携帯を出した。
「一本かける」
「はい」
◇
犬飼さんの電話は短かった。
三回、はい、と言って、一回、それは無理です、と言って、切った。
切ってから、携帯を裏返して机に置いた。
「船は、冬のあいだは一日二本だそうだ」
「三月の末は冬ですか」
「知らん」
「はい」
「そこは明日聞く」
運ばれてきたコーヒーは熱すぎて、俺は最初の一口で口の中をやった。
◇
犬飼さんは携帯を裏返したまま、指で二回叩いた。
「向こうの製作から、こっちに直接来る連絡はほとんどない。全部、間の一社を通る。通ると一日ずれる」
「一日ですか」
「一日だ。それに時差が八時間乗る。こっちの夜に出した話の返事は、早くて次の日の夕方だ」
「はい」
「だから、向こうで何か起きても、俺がすぐ何かできるわけじゃない」
「はい」
「わかってないだろ」
「わかってません」
「そこだけは、いつも正直だな」
犬飼さんはカップを持ち上げて、湯気の出方を見てから口をつけた。
「三隅さんは十年向こうにいる。生活のほうも見ると言っただろう」
「言ってました」
「あの人がいなかったら、この話は受けていない」
◇
俺は白いほうの紙の束を鞄から出して、机の上に置いた。
いちばん上の紙の、上から四行目に、さっきの並びがあった。並びの後ろに続く文は、字の数だけなら短い。
「犬飼さん、これ、何秒くらいですか」
「知らん」
「短いですか」
「字は短いが、短い台詞ほど長くかかる現場もある」
「そうですか」
「今のは、うちの現場の話だ。向こうがどうかは知らん」
俺は紙の端をそろえた。
そろえたら、下のほうの一枚だけが横に出た。出たところを押し込んで、鞄に戻した。
◇
「三月五日は空けてある」
犬飼さんの声が、机の向こうから来た。
「五日ですか」
「その日は仕事を入れない。前の日も、後の日も、夕方までは入れない」
「何かありますか」
「卒業式だ」
「ああ」
「忘れてただろう」
「忘れてました」
犬飼さんはコーヒーを一口飲んで、カップを受け皿に戻した。
戻すときに、受け皿の縁で一度当てた。当たった音が、思ったより高かった。
「制服、まだあるか」
「あります」
「そうか」
「捨てるつもりもありません」
「捨てるなとは言ってない」
犬飼さんは窓の外を見た。
窓の外は坂で、坂を人が下りていく。下りていく人の足が、上るときより速い。




