第134話 卒業式でも顔は動かない
教室に入ったら、椅子が一脚も無かった。
机だけが残っていて、机の脚のところに、椅子の脚があった位置の跡が四つずつ付いている。跡は床の色が薄くなっているところで、拭いても取れないやつだ。
俺は自分の机の横に立った。立ったまま、鞄を机の上に置いた。
「体育館」
後ろから熊沢が言った。
「朝のうちに全部運んだんだよ。三年ぶんだから、九十いくつある。俺、二回往復した。二回目のほうが重かった。同じ椅子なのに重いんだよ、二回目は。あれ、なんでだと思う」
「わからん」
「わかんねえのかよ」
◇
三月五日、木曜日。
黒板の右端に、日付と、その下に式の順番が書いてあった。
書いたのは美咲の字だ。一、開式。二、国歌。三、卒業証書授与。四、送辞。五、答辞。六、校歌。七、閉式。
七のところだけ、下に線が引いてある。線は定規で引いてあって、端が黒板の枠に届く手前で止まっていた。
窓は開いていない。教室の後ろの掲示板には、去年の秋の遠足の写真がまだ貼ってあった。画鋲は四つのうち一つが無くなっていて、右上の角が垂れている。
◇
上履きは、三年になってから、えんじ色になった。
えんじは汚れが目立たない。目立たないが、かかとを踏んだ跡だけは形で残る。俺のは右のほうが深い。
教室にいる連中の上履きは、だいたい同じところが同じようにへこんでいた。へこんでいないやつが二人だけいて、二人とも女子だった。
◇
早坂が前の戸から入ってきて、紙を配り始めた。
配る順番は席の列ごとで、俺の列は三番目だった。早坂は一列ぶん配るごとに、手の中の束を数え直している。
「高町くん、これ」
「はい」
「答辞の紙じゃなくて、歌詞の紙です」
「歌詞ですか」
「校歌の。三番まであるので」
「三番までありますか」
「誰も覚えてないので、毎年配るそうです」
早坂は俺の机の上に紙を置いて、置いたあとで一度だけ手を離すのが遅れた。
遅れたが、何も言わないで次の列へ行った。
◇
紙を見た。
一番は知っている。二番は聞いたことがある。三番は、今日初めて字で見た。
三番の三行目に、山の名前が入っていた。学校の窓から見える山ではない。ここからは山は見えない。
俺は紙を二つに折って、制服の内ポケットに入れた。入れたら、ポケットの中で少し折れ目が付いた。
◇
「高町くん」
美咲が横に来た。
来て、俺の胸のところを見た。見て、鞄を開けて、中から白い花のついたリボンを出した。
「付いてない」
「何が」
「これ。朝、後ろの戸のところで配ってたでしょう。あなた、取らずに入ったの」
「取らなかった」
「取って」
美咲はリボンを俺の手に置いた。置いてから、自分は一歩下がった。
俺は左の胸に付けた。付けたら曲がった。曲がったので、外して、もう一度付けた。
◇
「まだ曲がってる」
「曲がってるか」
「でも、いい」
美咲は名簿を開いた。開いて、上から指でなぞって、途中で止めた。
「順番は、どうなってる」
「五十音。あなたは十七番目」
「十七か」
「十六番目の人の名前が呼ばれたら立つのよ。呼ばれてから立つと、遅れて見える。毎年、必ず何人か遅れるって、去年の記録に書いてあったの」
「わかった」
「わかったと言うときが、いつも一番わかってない」
美咲は名簿を閉じて、脇に挟んだ。
挟んだまま、俺の机の上を一度見た。机の上には鞄しか置いていない。
◇
教室の窓の外は曇っていた。
空は白くて、高さが分からない。校庭のトラックの線は、先週引き直したばかりで白い。白い線の外側に、去年の線がまだ薄く残っている。
校庭の隅に、椅子を積んだ台車が一台置いてあった。積んだままで、誰も戻しに行っていない。
三年の教室は三階にある。三階の窓から見ると、校庭の向こうの家の屋根まで見える。二年のときは二階だったので、見えていたのは塀までである。
◇
黒板の日付の下に、もう一行あった。
式の順番の七の下に、小さい字で「教室 十一時五十分」と書いてある。
書いた字は美咲のだ。日付と同じ太さで書いてあって、行の頭の位置もそろっている。
誰かが消しかけたらしく、「十一」の上のあたりだけチョークが薄くなっていた。薄くなったところは、下の字がまだ読める。
◇
教室を出るときに、後ろのほうで熊沢が机の位置を直していた。
直していたのは自分の机ではなかった。窓際の後ろから二番目の机だ。
前に出しすぎていたのを、線のところまで戻している。戻して、脚の位置を屈んで見て、もう一度動かした。
俺は戸のところで止まった。
止まったが、熊沢はこっちを見なかった。見ないで、次の机に行った。
◇
体育館は寒かった。
床は磨いてある。磨いてあるところに、朝の光が窓の形のまま四つ落ちていた。四つのうち二つは椅子の脚で切れている。
舞台の下の縁に、養生テープが二重に貼ってある。去年の秋に貼ったやつの上から、今年また貼ってあった。上のほうが新しいので白い。
二階のギャラリーに、在校生が並んでいた。手すりから半分だけ顔が出ている。
俺の席は、前から四列目の右から三番目だった。座ったら、前のやつの後頭部で舞台の右半分が見えなくなった。
◇
保護者席は後ろの三列だった。
三列のうち、埋まっていたのは二列半である。俺の家からは誰も来ていない。来ないと言ったのは俺ではなく、来られないと言ったのは母さんのほうで、その理由は妹の学校の日程だった。
二階のギャラリーの手すりは、去年の秋に塗り直してある。塗り直したところと、そうでないところで、光り方が違う。違うのは端から三分の一までで、そこから先は元の色だ。
開式の五分前に、後ろの戸が一度開いて、すぐ閉まった。開いたときに入ってきた風が、前まで届いた。
◇
式は順番どおりに進んだ。
開式の言葉は短かった。国歌のあいだ、俺の右隣のやつは口を動かしていなかった。左隣のやつは動かしていた。
証書授与が始まった。
名前が呼ばれて、返事をして、立って、通路へ出て、舞台の階段を上がる。階段は三段ある。
最初の十人は、全員が同じ速さで上がった。十一人目が二段目で一度つまずいて、そのあとの人は少しゆっくり上がるようになった。
◇
十六番目の名前が呼ばれた。
俺は立った。
十七番目に自分の名前が呼ばれた。読み上げた先生の声は、マイクを通ると少し低くなる。
「はい」
通路へ出て、舞台の下まで歩いた。階段を三段上がった。
校長先生は紙を両手で持っていて、俺のほうへ角を先に向けた。
受け取った。受け取ったら、思っていたより軽かった。
◇
壇の上から、体育館の後ろまで見えた。
二階のギャラリーの在校生は、半分くらいが下を向いている。下を向いているやつの手元には、白い紙があった。歌詞の紙だ。
保護者席は後ろの三列で、そのうち二列目のあたりで誰かが立ち上がって、また座った。
俺は階段を三段下りた。下りるときのほうが、上がるときより一段が高く感じた。
◇
俺が数えていたのは、階段が三段しかないのに手すりが両側に付いていることだけだった。
◇
送辞と答辞は、合わせて十二分かかった。
答辞を読んだのは、隣のクラスのやつだった。途中で一度、紙の順番が入れ替わったらしく、二枚目を戻して一枚目を読み直した。読み直したところは、さっきと同じ文だった。
体育館の後ろで、誰かが咳をした。咳のあと、しばらく誰も咳をしなかった。
校歌は三番まで歌った。三番になったら、声の数が半分になった。
閉式の言葉は、開式より短かった。
◇
廊下は人でいっぱいだった。
三年の教室は三階なので、階段が詰まる。詰まったところで止まって、動いて、また止まる。
窓は開けてあった。開けてあるところだけ、外の音が入ってくる。外は工事をしていて、遠くで一定の間隔で音が鳴っていた。
俺は証書の筒を右手に持っていた。持ち替えなかったので、右手だけ冷たくなった。
◇
「高町」
熊沢が横に並んだ。
並んで、そのまま同じ速さで歩いた。
「俺、来週から働くんだよ」
「来週か」
「叔父のとこ。倉庫。朝が早い。四時半に起きるんだって。四時半だぞ。俺、四時半って、寝る側で見たことしかない」
「早いな」
「早いよ。でも決めたのは俺だから、文句は言わない。言わないけど、四時半だけは今でも信じてない」
熊沢は筒を肩に担いだ。担いだら、前のやつの頭に当たりそうになって、下ろした。
◇
「なあ、高町」
「聞いてる」
「お前の隣、楽だったわ」
「楽か」
「楽だった。喋っても、喋らなくても、どっちでもよかったんだよ。ああいうの、俺、他のやつのときはできない」
「そうか」
「そうかって言うだろうと思った」
熊沢は笑って、それから階段のほうへ行った。
行く途中で一度振り返って、手を上げた。上げたのは肩の高さまでで、振らなかった。
◇
教室に戻ったら、椅子が戻っていた。
誰が運んだのかは分からない。並べ方は朝と同じで、俺の机のところの椅子だけ、脚が線から少しずれていた。
担任が最後の連絡をした。連絡は三つあって、二つは書類の話で、一つは体育館の椅子を戻した礼だった。
連絡のあとで、担任は名簿を開いて、俺の名前のところを指で押さえた。押さえたまま、「高町は進学の欄が空のままだな」と言った。俺は「はい」と言った。担任はそれ以上聞かないで、名簿を閉じて脇に挟んだ。
終わったら、みんな一斉に立った。立ったので、机が一度ずつ鳴った。
◇
腹が減っていた。
式は九時半に始まって、終わったのは十一時四十分だった。朝は六時に食っている。
鞄の中には何も入っていない。歌詞の紙は内ポケットで、証書の筒は右手だ。
教室の後ろで、誰かが菓子の袋を開けた。開けた音がしたほうを見たが、そこまでは行かなかった。
◇
写真を撮る集まりが、教室の中にも三つできた。
一つは黒板の前、一つは窓際、一つは後ろの掲示板の前だ。掲示板の前のは、去年の遠足の写真を背にして並んでいる。
撮る役は毎回替わっていて、替わるたびに「もう一枚」と言う声がした。言う人は毎回違うのに、言い方は同じだった。
俺は自分の席のところに立っていた。立っているところの後ろが通路なので、通る人が肩に当たる。当たるたびに一歩ずれて、五回目でもとの位置に戻っていた。
「高町、こっち入れよ」
誰かが黒板の前から言った。名前は覚えている。呼んだことはない。
黒板の前は、横に並ぶと六人で端まで届く。七人目から先は、前で膝をつく。膝をついている側は、そのとき二人だった。八人で、枠は埋まっていた。
「いい」
「いいのか」
「そこ、もう入ってる人数で足りてる」
「足りてるって、そういう問題じゃねえだろ」
その集まりは、俺を入れないまま二枚撮って、三枚目で先生を呼びに行った。
◇
窓際の集まりのほうから、早坂が抜けてきた。
抜けて、俺の机の横を通って、そのまま前の戸へ行こうとして、途中で止まった。
「高町くん」
「歌詞の紙」
「え」
「まだ持ってます」
俺は内ポケットから紙を出して見せた。折り目のところが白くなっている。
早坂はそれを見て、二回うなずいた。うなずいて、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
閉じたあとで、前の戸から出ていった。
◇
校門は坂の上にある。
坂の下から見ると、門の柱が二本立っていて、その向こうに校舎の壁が見える。今日は柱のあいだに、紙で作った看板が渡してあった。
門の内側に、写真を撮っている集まりが三つあった。三つとも、真ん中に先生がいる。
俺は端を歩いた。端を歩いたら、門の柱のところで美咲が立っていた。
立っていて、こっちを見ていた。見ていたので、たぶん待っていた。
◇
「高町くん、これ」
美咲は薄い箱を差し出した。箱の角にビニールが掛かっていて、掛かったところが少し曇っている。
「アルバム」
「もらってない」
「もらってない人が三人いたの。あなたと、あと二人」
「はい」
「二人はもう渡した」
俺は箱を受け取った。受け取ったら、証書の筒を持っている右手が塞がっていたので、筒を脇に挟んだ。
◇
「開けなくていい」
美咲は言った。
「あとで見て。今ここで見ると、あなた、絶対に何も言わないから」
「言わないか」
「言わない。それはもういい」
美咲は自分のぶんの箱を胸の前で持ち直した。持ち直して、下の角を手のひらで支えた。
「クラスの写真、二十九ページ」
「二十九」
「十一月の二十九日に撮ったの。土曜日」
「土曜か」
「土曜。あなた、いなかった」
◇
俺は箱を見た。
ビニールの曇っているところは、指で押さえると少し伸びる。伸びたところは、離すと元に戻った。
「覚えてない」
「知ってる」
「言われても覚えてない」
「言われても覚えてないだろうと思ったから、言わなかったの。十一月に」
「そうか」
美咲は、そこで一度だけ、坂の下のほうを見た。
坂の下では、さっきの三つの集まりのうち一つが移動していた。移動して、門の外で並び直している。
◇
「あなた、写真、いないままよ」
「いないままか」
「ページの端に、名前だけ入ってる。名前だけ入ってる人が二人いて、もう一人は転校した人」
「二人か」
「二人。だから並んで載ってる」
美咲は箱の角を、また持ち直した。
持ち直したあとで、少し笑った。笑ったのは口の左のほうだけだった。
「変な並びよ。転校した人と、来なかった人」
「変だな」
「変でしょう」
◇
「次に会うのはいつ」
美咲が聞いた。
「わからん」
「わからないの」
「わからん」
「そう」
美咲は一歩下がった。下がって、門の柱のところまで行った。
行ってから、こっちを向いて、手を上げた。
上げた手を、肩の高さで二回振った。
◇
俺は坂を下りた。
下りる途中で一度振り返った。
美咲はまだ門のところにいた。手はもう下ろしていて、鞄から小さい手帳を出していた。
立ったまま、表紙を開いて、何かを一つ書いた。書いたのは短い。指が一度動いただけだった。
書いて、手帳を閉じて、鞄に戻した。
◇
坂を下りきったところに、パンを売っている店がある。
三年間で四回入った。四回とも同じものを買っている。
俺は箱と筒を左に持ち替えて、右手で戸を開けた。
開けたら、中の棚は昼の時間で半分空いていた。
空いていたが、いつものやつは一つだけ残っていた。
レジの人は、俺の胸の花を一度見た。
見て、袋を二重にした。二重にした理由は言わなかった。
店を出たら、坂の上のほうで、まだ誰かが名前を呼び合っていた。呼んでいる声は二つで、返している声は一つだけだった。




