↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/236

第135話 パスポートの写真も無表情

 玄関に、家じゅうの毛布が集まっていた。


 三枚あった。一枚は俺の部屋の、一枚は妹の部屋の、もう一枚は押し入れに入っていたやつだ。


 母さんはそれをスーツケースの横に立てて、上から手のひらで押していた。押すと空気が抜ける音がする。抜けたぶん薄くなるが、離すと戻る。


「入らない」

「入れる」

「三枚は入らない」

「一枚は入る」


 母さんは一枚だけ残して、二枚を廊下へ戻した。


   ◇


 三月二十六日、木曜日。


 スーツケースは大きいほうを借りた。犬飼さんが事務所から持ってきたやつで、車輪が四つとも回る。回るので、平らなところでは押さなくても動く。


 中身は、上着が三枚、下に着るのが十日ぶん、靴が二足、それから紙の束が二つだ。


 紙の束は白いほうを上に、黄色いほうを下にして入れた。入れたら、白いほうの角が少し曲がったので、いったん出して、向きを変えて入れ直した。


   ◇


 妹が階段の上から下りてきた。


 下りてきて、途中の段で止まった。止まったところから、玄関の荷物を見ている。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「それ、何キロ」

「はかってない」

「はかりなよ。空港ではかられるんだよ。超えたら金取られるんだよ。テレビでやってた」


 妹は下まで下りて、スーツケースの持ち手を持ち上げようとした。


 持ち上がらなかった。持ち上がらなかったので、両手で持ち直して、また持ち上げようとした。


「これ、無理」

「無理か」

「兄ちゃん、これ持てるの」

「持たない。転がす」


   ◇


 台所で、母さんが袋に何か入れていた。


 入れているのは飴だった。袋は透明で、中で飴が二十個くらい動いている。


「これ、機内で舐めなさい」

「はい」

「耳が痛くなるから」

「はい」

「向こうで舐めてもいいけど、向こうで舐めるぶんは向こうで買いなさい」


 母さんは袋の口を二回結んだ。二回結んだので、ほどくのが面倒になった。


 父さんは茶の間にいた。新聞は持っていない。テレビも点いていない。


 俺が玄関へ行くときに、父さんは立ち上がって、廊下まで出てきた。


 出てきて、そこで止まった。何も言わなかった。


   ◇


 スーツケースの持ち手が、下ろした位置より高かった。


 俺は玄関の三和土で、持ち手を一度下ろしている。下ろしたのは、靴を履くためだ。


 履いてから見たら、持ち手は伸びたままになっていた。


「あんた、それ忘れるところだったわよ」


 人形の声は、スーツケースの上の鞄の中からした。鞄の口は開いている。


「忘れてない」

「持ち手の話じゃないわよ。わたしの話よ」

「入れた」

「入れたのは自分でしょう。入れて、そのまま玄関に置いて、靴を履きに行ったじゃないの」

「戻ってきた」

「戻ってこなかったら、わたしは三ヶ月この家の玄関にいたのよ」


   ◇


 俺は鞄の口を閉めた。


 閉める前に、中を一度見た。人形は台座ごと横にして、タオルで巻いてある。巻いたのは俺だ。


「息はできるのか」

「できないわよ。もともとしてないもの」

「そうか」

「そうかじゃないわよ」


 外で車の音がした。


 犬飼さんの車だ。停まる位置は毎回同じで、玄関から三歩ぶん右にずれる。


   ◇


 空港には四時に着いた。


 建物の入口の上に、大きい字で行き先が並んでいた。字は二段になっていて、上が日本語で、下は日本語ではない。


 下の段のほうが字が細い。細いので、遠くからだと上の段だけが浮いて見えた。


 犬飼さんは俺の前を歩いて、カウンターの列の最後尾で止まった。


「パスポート」

「はい」


 俺は内ポケットから出した。


   ◇


 パスポートの写真は、二月の終わりに駅前の写真屋で撮った。


 撮る前に、店の人が「少し笑ってもいいですよ」と言った。


 俺は少し笑った。


 撮ったあと、店の人はしばらく画面を見ていた。見てから、もう一枚撮った。二枚目を撮る前には、何も言わなかった。


 できあがったのは、二枚目のほうだった。


   ◇


「これは」


 カウンターの人がパスポートを開いて、顔を上げた。


 上げて、俺を見た。それから、また写真を見た。見て、また俺を見た。


「ご本人ですね」

「本人です」

「はい。……はい」


 カウンターの人は打ち込みを始めた。打ち込みながら、もう一度だけ写真を見た。


 犬飼さんは横で黙っていた。黙って、荷物のタグの束を数えていた。


   ◇


 スーツケースの重さは、はかったら二十三キロだった。


「二十三です」

「上限は」

「二十三までです」

「ちょうどか」

「ちょうどです」


 カウンターの人はタグを巻いて、ベルトの上に流した。


 スーツケースはベルトの上でゆっくり右へ行って、途中で一度向きを変えて、ゴムの帯の向こうへ消えた。


 妹に言われたので、あのあと家ではかった。はかったら二十三だった。何も出していない。


   ◇


 保安検査の手前で、犬飼さんが止まった。


「ここから先は一人だ」

「はい」

「俺も乗るが、席は離れてる。安いほうを取った」

「はい」

「向こうで一泊して、そのあと船だ。船は三隅さんが押さえてる」

「はい」

「腹が減ったら機内食が出る。二回出る。二回目を寝て逃すと、次は空港だ」


 犬飼さんはそこまで言って、手に持っていたタグの束を上着の内側へしまい直した。しまってから、袖口を一度だけ引いた。


   ◇


 出国のところで、係の人が判子を押した。


 押すときに、ページを一度めくって、めくったところで止めた。止めて、また戻して、そこに押した。


 押した音は思ったより大きかった。


 俺は返してもらったパスポートを内ポケットに入れた。入れたら、内ポケットには歌詞の紙が入ったままだった。


 二つ重ねると、ポケットの外側が少し盛り上がる。


   ◇


 飛行機は九時に出た。


 窓は無い席だった。通路側で、右に人が二人いる。二人とも俺より先に乗っていて、二人とも眠っていた。


 離陸してから、飴を一つ舐めた。舐めたが、耳は痛くならなかった。


 母さんの結び目は、やっぱり二回目がほどけなかった。歯で切るのはやめて、爪で緩めた。


   ◇


 機内の読書灯が、俺の席だけ点いていた。


 右の二人のところは消えている。前の列も、後ろの列も消えている。


 俺は座席の上のボタンを見た。ボタンは押されていない。


(消し方がわからん)


「消さなくていいわよ。あんた、寝るんでしょう」

(寝る)

「じゃあ点いてても同じじゃない」

(明るい)

「文句が多いわね」


 俺は上着を頭からかぶった。かぶったら、そこだけ暗くなった。


   ◇


(十七時間だそうだ)

「十七時間」

(乗り継ぎを入れて十七時間だ)

「あんた、十七時間なにするの」

(寝る)

「十七時間寝るの」

(寝られるだけ寝る)

「わたし、海の上にいるっていうのに、連れが十七時間寝てるのよ」


 人形の声は鞄の中からした。鞄は前の席の下に押し込んである。


(起きたら教える)

「何を」

(外が明るいか、暗いか)

「それだけ?」

(それだけだ)


   ◇


 乗り継ぎの空港は広かった。


 通路が長い。長い通路の両側に店が並んでいて、店の看板の字は読めない。読めないが、飲み物の絵は分かる。


 放送が何度も流れた。流れる言葉のうち、聞き取れたのは番号と、地名らしいものだけだ。


 犬飼さんは搭乗口の番号だけを見ていた。番号は途中で二回変わった。二回とも、画面の数字が先に変わって、放送は少し遅れた。


 俺は椅子に座って、犬飼さんの背中を見ていた。犬飼さんは立ったまま画面を見ている。座らなかった。


   ◇


 二本目は短かった。


 短いと言っても四時間近くある。四時間のうち、俺は三時間半寝た。


 起きたら、窓の外が明るかった。窓は遠くて、隣の隣の人の肩越しに見えるだけだった。


 外は白い。雲なのか地面なのかは、その高さでは分からない。


 降りるときに、時計を八時間戻した。戻したら、朝の六時になった。


   ◇


 ヘルマルの空港は小さかった。


 建物は一つで、出口も一つである。荷物は流れてこないで、係の人が台車で運んできて、床に並べた。


 並べたところから自分のを取る。俺のは三番目にあった。


 外は寒い。寒いというより、鼻の中が痛い。息を吸うと、鼻の奥のほうで一度止まる感じがする。


 空はまだ暗いほうだった。朝の六時なのに、街灯が全部点いている。


   ◇


「高町さん」


 声がして、振り返った。


 厚い上着を着た人が立っていた。フードを下ろすと、日本人の顔だった。


「三隅です。電話の」

「三隅さんですか」

「三隅です。近くで見ると、ほんとに顔が動かないんですね」

「動きません」

「はい」


 三隅さんはうなずいて、それから犬飼さんのほうへ手を出した。


 握手をした。犬飼さんは握ってから、少し首を下げた。


   ◇


「船は十時です」


 三隅さんは歩きながら言った。


「それまで四時間あります。港のところに開いてる店が一軒あるので、そこで待ちます」

「はい」

「高町さん、寝てますか」

「寝ました」

「よかった。船で寝ると、たいてい酔います」


 港までは車で二十分だった。


 道の両側に低い建物が並んでいて、屋根が全部同じ角度で傾いている。傾きの向きも同じだ。雪は道の端に寄せてあって、寄せた山が黒くなっていた。


   ◇


 店には人が六人いた。


 六人のうち四人が、俺たちが入ってきたほうを見た。見て、そのまま外さなかった。


 俺は椅子に座った。座っても、二人はまだ見ていた。


 目が合った。合ったが、そのままだった。しばらくして、片方が飲み物を口へ運んだ。運んでいるあいだも、顔はこっちを向いていた。


 三隅さんは何も言わないで、上着を脱いで椅子の背に掛けた。


 犬飼さんは店の奥の時計を見ていた。時計は針が三本あって、いちばん細いのだけが動いている。


   ◇


 三隅さんはパンを三つ頼んだ。


 頼むときに使ったのは短い言葉で、三音か四音しかなかった。店の人は同じ長さで返した。


「今、なんて言ったんですか」

「三つ、って言いました」

「それだけですか」

「それだけです。ここ、余計なことを言わないんです」

「はい」


 パンは三つとも同じ形だった。中に入っているものだけが違う。俺のは魚だった。


   ◇


 窓の外を、荷物を積んだ台車が通っていった。


 押しているのは一人で、後ろから一人が付いている。付いているほうは手を出さないで、箱の高さを見ながら歩いていた。


「あれ、うちのです」


 三隅さんが言った。


「うちの、というのは」

「撮影の。あの箱、機材です。船に積むのに、朝から三往復してます」

「三往復ですか」

「島に橋が無いので、全部船なんです。撮影が終わるまで、あれをずっとやります」

「はい」

「高町さんも同じ船です。人も機材も、同じ船に乗ります」


   ◇


 犬飼さんが携帯を出して、画面を見て、また戻した。


「電波は」

「入ります。宿は入りにくいですけど、桟橋のところなら入ります」

「入りにくいというのは」

「二階が入りにくいです。一階の食堂は入ります」

「わかった」


 犬飼さんは、そこまで聞いて、何も書かなかった。


 書かないで、パンの袋を開けた。開けた袋の口を、指で三回折って押さえた。


   ◇


 船は十時に出た。


 乗ったのは十人くらいで、そのうち六人は撮影の関係の人だった。関係の人かどうかは、機材の箱の数で分かる。


 箱は甲板の後ろに固めて置いてあって、上からベルトが二本掛かっていた。


 船の中は暖かい。窓が曇るので、指で拭くと、拭いたところだけ外が見える。


 見えるのは海と、遠くの白いところだ。白いところが陸なのか、氷なのかは、そこからでは分からなかった。


   ◇


 七十分で島に着いた。


 港というより、桟橋が一本出ているだけだった。桟橋の先に建物が一つあって、屋根の上に旗が立っている。旗は横に伸びきったまま動かない。


 降りたところで、正面の丘の上に白い塔が見えた。


 灯台だ。上のほうが少し細くなっていて、そこから下は同じ太さで下りている。今は点いていない。


 三隅さんが荷物を持ったまま横に来た。


「あれが灯台です」

「はい」

「映画の題は、あの灯台から来てます」

「そうですか」

「知らずに来たんですね」

「知りませんでした」


   ◇


 宿は桟橋から歩いて五分だった。


 二階建てで、壁が濃い色に塗ってある。窓は小さくて、数が多い。


 入口の前に、荷物が集まっていた。船で来たぶんが全部そこに下ろされている。


 俺は自分のスーツケースを、その山の端に立てた。立てて、上に鞄を積んだ。


 積んだら少し傾いたので、鞄を下ろして、向きを変えて積み直した。


   ◇


 宿の一階に食堂があった。


 入口から中が見える。長い机が二本あって、椅子は端をそろえて入れてあった。奥に厨房があって、そこだけ湯気が出ている。


 机の上に、紙が一枚立ててあった。字は日本語ではない。数字だけが読める。数字は三つで、七と、十一と、十九だった。


「あれ、食事の時間です」


 うしろで三隅さんの声がした。


「朝と昼と夜です」

「七時と十一時と十九時ですか」

「そうです。撮影が延びたときは、遅いぶんを取っておいてくれます」

「はい」

「言っておきますけど、ここ、米は出ません」

「聞きました」

「誰にですか」

「電話で三隅さんに」

「私、言いましたか」

「パンとスープと魚だと言いました」

「じゃあ、もう一度言います。三ヶ月それです」


 俺は紙の数字をもう一度見た。


 見たが、数字は三つのままだった。


   ◇


 部屋は二階の、突き当たりの一つ手前だった。


 ベッドが一つ、机が一つ、椅子が一つ。壁に釘が二本打ってあって、そこに服を掛ける。


 鏡は無かった。洗面所にも無い。


 窓は西を向いていて、昼前の光は壁の高いところにだけ当たっていた。床までは届いていない。


 俺は鞄からタオルを解いて、人形を机の上に立てた。立てたら、机の脚が短いほうへ少し傾いた。


   ◇


 荷物を解いて、下で飯を食って、部屋へ戻った。戻ったときには、壁に当たっていた光はもう無かった。


「鏡が無いわね」

「無い」

「あんた、どうするの」

「わからん」


 窓ガラスに部屋の中が映っていた。机と、椅子と、その手前に立っている俺が映っている。


 俺は窓の前に立った。


 立って、一行だけ言った。


 声は出したが、廊下に聞こえない大きさにした。


   ◇


 言い終わったら、廊下で足音がした。


 足音は部屋の前を通り過ぎて、廊下の突き当たりで止まった。止まったところに、共用の湯沸かしがある。


 湯を注ぐ音がして、それから足音が戻っていった。


 窓ガラスの中の俺は、まだそこに立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。