第135話 パスポートの写真も無表情
玄関に、家じゅうの毛布が集まっていた。
三枚あった。一枚は俺の部屋の、一枚は妹の部屋の、もう一枚は押し入れに入っていたやつだ。
母さんはそれをスーツケースの横に立てて、上から手のひらで押していた。押すと空気が抜ける音がする。抜けたぶん薄くなるが、離すと戻る。
「入らない」
「入れる」
「三枚は入らない」
「一枚は入る」
母さんは一枚だけ残して、二枚を廊下へ戻した。
◇
三月二十六日、木曜日。
スーツケースは大きいほうを借りた。犬飼さんが事務所から持ってきたやつで、車輪が四つとも回る。回るので、平らなところでは押さなくても動く。
中身は、上着が三枚、下に着るのが十日ぶん、靴が二足、それから紙の束が二つだ。
紙の束は白いほうを上に、黄色いほうを下にして入れた。入れたら、白いほうの角が少し曲がったので、いったん出して、向きを変えて入れ直した。
◇
妹が階段の上から下りてきた。
下りてきて、途中の段で止まった。止まったところから、玄関の荷物を見ている。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「それ、何キロ」
「はかってない」
「はかりなよ。空港ではかられるんだよ。超えたら金取られるんだよ。テレビでやってた」
妹は下まで下りて、スーツケースの持ち手を持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。持ち上がらなかったので、両手で持ち直して、また持ち上げようとした。
「これ、無理」
「無理か」
「兄ちゃん、これ持てるの」
「持たない。転がす」
◇
台所で、母さんが袋に何か入れていた。
入れているのは飴だった。袋は透明で、中で飴が二十個くらい動いている。
「これ、機内で舐めなさい」
「はい」
「耳が痛くなるから」
「はい」
「向こうで舐めてもいいけど、向こうで舐めるぶんは向こうで買いなさい」
母さんは袋の口を二回結んだ。二回結んだので、ほどくのが面倒になった。
父さんは茶の間にいた。新聞は持っていない。テレビも点いていない。
俺が玄関へ行くときに、父さんは立ち上がって、廊下まで出てきた。
出てきて、そこで止まった。何も言わなかった。
◇
スーツケースの持ち手が、下ろした位置より高かった。
俺は玄関の三和土で、持ち手を一度下ろしている。下ろしたのは、靴を履くためだ。
履いてから見たら、持ち手は伸びたままになっていた。
「あんた、それ忘れるところだったわよ」
人形の声は、スーツケースの上の鞄の中からした。鞄の口は開いている。
「忘れてない」
「持ち手の話じゃないわよ。わたしの話よ」
「入れた」
「入れたのは自分でしょう。入れて、そのまま玄関に置いて、靴を履きに行ったじゃないの」
「戻ってきた」
「戻ってこなかったら、わたしは三ヶ月この家の玄関にいたのよ」
◇
俺は鞄の口を閉めた。
閉める前に、中を一度見た。人形は台座ごと横にして、タオルで巻いてある。巻いたのは俺だ。
「息はできるのか」
「できないわよ。もともとしてないもの」
「そうか」
「そうかじゃないわよ」
外で車の音がした。
犬飼さんの車だ。停まる位置は毎回同じで、玄関から三歩ぶん右にずれる。
◇
空港には四時に着いた。
建物の入口の上に、大きい字で行き先が並んでいた。字は二段になっていて、上が日本語で、下は日本語ではない。
下の段のほうが字が細い。細いので、遠くからだと上の段だけが浮いて見えた。
犬飼さんは俺の前を歩いて、カウンターの列の最後尾で止まった。
「パスポート」
「はい」
俺は内ポケットから出した。
◇
パスポートの写真は、二月の終わりに駅前の写真屋で撮った。
撮る前に、店の人が「少し笑ってもいいですよ」と言った。
俺は少し笑った。
撮ったあと、店の人はしばらく画面を見ていた。見てから、もう一枚撮った。二枚目を撮る前には、何も言わなかった。
できあがったのは、二枚目のほうだった。
◇
「これは」
カウンターの人がパスポートを開いて、顔を上げた。
上げて、俺を見た。それから、また写真を見た。見て、また俺を見た。
「ご本人ですね」
「本人です」
「はい。……はい」
カウンターの人は打ち込みを始めた。打ち込みながら、もう一度だけ写真を見た。
犬飼さんは横で黙っていた。黙って、荷物のタグの束を数えていた。
◇
スーツケースの重さは、はかったら二十三キロだった。
「二十三です」
「上限は」
「二十三までです」
「ちょうどか」
「ちょうどです」
カウンターの人はタグを巻いて、ベルトの上に流した。
スーツケースはベルトの上でゆっくり右へ行って、途中で一度向きを変えて、ゴムの帯の向こうへ消えた。
妹に言われたので、あのあと家ではかった。はかったら二十三だった。何も出していない。
◇
保安検査の手前で、犬飼さんが止まった。
「ここから先は一人だ」
「はい」
「俺も乗るが、席は離れてる。安いほうを取った」
「はい」
「向こうで一泊して、そのあと船だ。船は三隅さんが押さえてる」
「はい」
「腹が減ったら機内食が出る。二回出る。二回目を寝て逃すと、次は空港だ」
犬飼さんはそこまで言って、手に持っていたタグの束を上着の内側へしまい直した。しまってから、袖口を一度だけ引いた。
◇
出国のところで、係の人が判子を押した。
押すときに、ページを一度めくって、めくったところで止めた。止めて、また戻して、そこに押した。
押した音は思ったより大きかった。
俺は返してもらったパスポートを内ポケットに入れた。入れたら、内ポケットには歌詞の紙が入ったままだった。
二つ重ねると、ポケットの外側が少し盛り上がる。
◇
飛行機は九時に出た。
窓は無い席だった。通路側で、右に人が二人いる。二人とも俺より先に乗っていて、二人とも眠っていた。
離陸してから、飴を一つ舐めた。舐めたが、耳は痛くならなかった。
母さんの結び目は、やっぱり二回目がほどけなかった。歯で切るのはやめて、爪で緩めた。
◇
機内の読書灯が、俺の席だけ点いていた。
右の二人のところは消えている。前の列も、後ろの列も消えている。
俺は座席の上のボタンを見た。ボタンは押されていない。
(消し方がわからん)
「消さなくていいわよ。あんた、寝るんでしょう」
(寝る)
「じゃあ点いてても同じじゃない」
(明るい)
「文句が多いわね」
俺は上着を頭からかぶった。かぶったら、そこだけ暗くなった。
◇
(十七時間だそうだ)
「十七時間」
(乗り継ぎを入れて十七時間だ)
「あんた、十七時間なにするの」
(寝る)
「十七時間寝るの」
(寝られるだけ寝る)
「わたし、海の上にいるっていうのに、連れが十七時間寝てるのよ」
人形の声は鞄の中からした。鞄は前の席の下に押し込んである。
(起きたら教える)
「何を」
(外が明るいか、暗いか)
「それだけ?」
(それだけだ)
◇
乗り継ぎの空港は広かった。
通路が長い。長い通路の両側に店が並んでいて、店の看板の字は読めない。読めないが、飲み物の絵は分かる。
放送が何度も流れた。流れる言葉のうち、聞き取れたのは番号と、地名らしいものだけだ。
犬飼さんは搭乗口の番号だけを見ていた。番号は途中で二回変わった。二回とも、画面の数字が先に変わって、放送は少し遅れた。
俺は椅子に座って、犬飼さんの背中を見ていた。犬飼さんは立ったまま画面を見ている。座らなかった。
◇
二本目は短かった。
短いと言っても四時間近くある。四時間のうち、俺は三時間半寝た。
起きたら、窓の外が明るかった。窓は遠くて、隣の隣の人の肩越しに見えるだけだった。
外は白い。雲なのか地面なのかは、その高さでは分からない。
降りるときに、時計を八時間戻した。戻したら、朝の六時になった。
◇
ヘルマルの空港は小さかった。
建物は一つで、出口も一つである。荷物は流れてこないで、係の人が台車で運んできて、床に並べた。
並べたところから自分のを取る。俺のは三番目にあった。
外は寒い。寒いというより、鼻の中が痛い。息を吸うと、鼻の奥のほうで一度止まる感じがする。
空はまだ暗いほうだった。朝の六時なのに、街灯が全部点いている。
◇
「高町さん」
声がして、振り返った。
厚い上着を着た人が立っていた。フードを下ろすと、日本人の顔だった。
「三隅です。電話の」
「三隅さんですか」
「三隅です。近くで見ると、ほんとに顔が動かないんですね」
「動きません」
「はい」
三隅さんはうなずいて、それから犬飼さんのほうへ手を出した。
握手をした。犬飼さんは握ってから、少し首を下げた。
◇
「船は十時です」
三隅さんは歩きながら言った。
「それまで四時間あります。港のところに開いてる店が一軒あるので、そこで待ちます」
「はい」
「高町さん、寝てますか」
「寝ました」
「よかった。船で寝ると、たいてい酔います」
港までは車で二十分だった。
道の両側に低い建物が並んでいて、屋根が全部同じ角度で傾いている。傾きの向きも同じだ。雪は道の端に寄せてあって、寄せた山が黒くなっていた。
◇
店には人が六人いた。
六人のうち四人が、俺たちが入ってきたほうを見た。見て、そのまま外さなかった。
俺は椅子に座った。座っても、二人はまだ見ていた。
目が合った。合ったが、そのままだった。しばらくして、片方が飲み物を口へ運んだ。運んでいるあいだも、顔はこっちを向いていた。
三隅さんは何も言わないで、上着を脱いで椅子の背に掛けた。
犬飼さんは店の奥の時計を見ていた。時計は針が三本あって、いちばん細いのだけが動いている。
◇
三隅さんはパンを三つ頼んだ。
頼むときに使ったのは短い言葉で、三音か四音しかなかった。店の人は同じ長さで返した。
「今、なんて言ったんですか」
「三つ、って言いました」
「それだけですか」
「それだけです。ここ、余計なことを言わないんです」
「はい」
パンは三つとも同じ形だった。中に入っているものだけが違う。俺のは魚だった。
◇
窓の外を、荷物を積んだ台車が通っていった。
押しているのは一人で、後ろから一人が付いている。付いているほうは手を出さないで、箱の高さを見ながら歩いていた。
「あれ、うちのです」
三隅さんが言った。
「うちの、というのは」
「撮影の。あの箱、機材です。船に積むのに、朝から三往復してます」
「三往復ですか」
「島に橋が無いので、全部船なんです。撮影が終わるまで、あれをずっとやります」
「はい」
「高町さんも同じ船です。人も機材も、同じ船に乗ります」
◇
犬飼さんが携帯を出して、画面を見て、また戻した。
「電波は」
「入ります。宿は入りにくいですけど、桟橋のところなら入ります」
「入りにくいというのは」
「二階が入りにくいです。一階の食堂は入ります」
「わかった」
犬飼さんは、そこまで聞いて、何も書かなかった。
書かないで、パンの袋を開けた。開けた袋の口を、指で三回折って押さえた。
◇
船は十時に出た。
乗ったのは十人くらいで、そのうち六人は撮影の関係の人だった。関係の人かどうかは、機材の箱の数で分かる。
箱は甲板の後ろに固めて置いてあって、上からベルトが二本掛かっていた。
船の中は暖かい。窓が曇るので、指で拭くと、拭いたところだけ外が見える。
見えるのは海と、遠くの白いところだ。白いところが陸なのか、氷なのかは、そこからでは分からなかった。
◇
七十分で島に着いた。
港というより、桟橋が一本出ているだけだった。桟橋の先に建物が一つあって、屋根の上に旗が立っている。旗は横に伸びきったまま動かない。
降りたところで、正面の丘の上に白い塔が見えた。
灯台だ。上のほうが少し細くなっていて、そこから下は同じ太さで下りている。今は点いていない。
三隅さんが荷物を持ったまま横に来た。
「あれが灯台です」
「はい」
「映画の題は、あの灯台から来てます」
「そうですか」
「知らずに来たんですね」
「知りませんでした」
◇
宿は桟橋から歩いて五分だった。
二階建てで、壁が濃い色に塗ってある。窓は小さくて、数が多い。
入口の前に、荷物が集まっていた。船で来たぶんが全部そこに下ろされている。
俺は自分のスーツケースを、その山の端に立てた。立てて、上に鞄を積んだ。
積んだら少し傾いたので、鞄を下ろして、向きを変えて積み直した。
◇
宿の一階に食堂があった。
入口から中が見える。長い机が二本あって、椅子は端をそろえて入れてあった。奥に厨房があって、そこだけ湯気が出ている。
机の上に、紙が一枚立ててあった。字は日本語ではない。数字だけが読める。数字は三つで、七と、十一と、十九だった。
「あれ、食事の時間です」
うしろで三隅さんの声がした。
「朝と昼と夜です」
「七時と十一時と十九時ですか」
「そうです。撮影が延びたときは、遅いぶんを取っておいてくれます」
「はい」
「言っておきますけど、ここ、米は出ません」
「聞きました」
「誰にですか」
「電話で三隅さんに」
「私、言いましたか」
「パンとスープと魚だと言いました」
「じゃあ、もう一度言います。三ヶ月それです」
俺は紙の数字をもう一度見た。
見たが、数字は三つのままだった。
◇
部屋は二階の、突き当たりの一つ手前だった。
ベッドが一つ、机が一つ、椅子が一つ。壁に釘が二本打ってあって、そこに服を掛ける。
鏡は無かった。洗面所にも無い。
窓は西を向いていて、昼前の光は壁の高いところにだけ当たっていた。床までは届いていない。
俺は鞄からタオルを解いて、人形を机の上に立てた。立てたら、机の脚が短いほうへ少し傾いた。
◇
荷物を解いて、下で飯を食って、部屋へ戻った。戻ったときには、壁に当たっていた光はもう無かった。
「鏡が無いわね」
「無い」
「あんた、どうするの」
「わからん」
窓ガラスに部屋の中が映っていた。机と、椅子と、その手前に立っている俺が映っている。
俺は窓の前に立った。
立って、一行だけ言った。
声は出したが、廊下に聞こえない大きさにした。
◇
言い終わったら、廊下で足音がした。
足音は部屋の前を通り過ぎて、廊下の突き当たりで止まった。止まったところに、共用の湯沸かしがある。
湯を注ぐ音がして、それから足音が戻っていった。
窓ガラスの中の俺は、まだそこに立っていた。




