第136話 わからん、と言い続けた
ドアを三回叩かれた。
開けたら、廊下に大きい人が立っていた。上着の肩に雪が乗っている。乗ったまま溶けていない。
その人は何も言わなかった。俺の顔を見て、自分の手首を二回叩いて、それから階段のほうを指した。
指して、行った。
◇
三月三十一日、火曜日。
時計は六時十分だった。窓の外はまだ暗い。暗いが、真っ黒ではなくて、下のほうだけ薄い。
昨日から撮影が始まっている。昨日は港のところで、船が着くところを撮った。俺は立っていただけだ。
今日は二日目である。
俺は上着を三枚とも着た。着たら腕が上がらなくなったので、一枚脱いで、鞄に入れた。
◇
一階に下りたら、三隅さんが食堂の入口に立っていた。
立って、湯呑みではなくて、取っ手の付いた大きいカップを持っている。
「起きましたね」
「起こされました」
「ヨナスです。助監督の」
「ヨナスさんですか」
「ヨナスです。あの人、たぶん高町さんに一言も喋らないと思います」
「喋りませんでした」
「喋りません。でも、あの人の言うことだけは全部わかりますよ」
三隅さんはカップの中を一度見て、飲まずに下ろした。
◇
現場は灯台の下である。
丘の上まで、道が一本ある。道の両側に雪が寄せてあって、寄せた山の高さが俺の腰くらいある。
上まで上がると風が変わった。下では正面から来ていたのが、上では横から来る。
灯台の根元に機材が並べてあった。箱が七つと、脚の長いのが三つと、白い板が二枚だ。白い板は二人で押さえている。押さえていないと飛ぶ。
人は二十人くらいいた。そのうち何人が向こうの製作の人で、何人が島の人なのかは、上着の色が全員似ているので区別が付かない。
撮るのは、灯台の下に立っている場面だと三隅さんが言った。立っているところへ、船の音が遠くから聞こえてくる、という順番らしい。船は今日は来ないので、音はあとで足すそうだ。
◇
「トーマ」
誰かが呼んだ。
振り返ったら、背の高い人が手を上げていた。上げた手を下ろして、地面を指した。
指したところに、テープが貼ってある。テープは黄色で、十字に貼ってあった。
俺はそこに立った。立ったら、背の高い人はうなずいて、行った。
そのあと、丘の上で四人に呼ばれた。四人ともトーマと言った。
◇
黒瀬さんは、機材の後ろの椅子に座っていた。
白い髭で、小柄で、俺より頭一つ低い。上着の前を開けたままにしている。開けているのに寒そうではなかった。
俺が立ったのを見て、椅子から立ち上がって、こっちへ歩いてきた。
「おはよう、高町くん」
「おはようございます」
「よく寝た?」
「寝ました」
「うん」
黒瀬さんは、そこで話をやめて、俺の足元のテープを見た。
見て、テープの位置を靴の先で二センチだけずらした。ずらしてから、自分で戻した。
◇
「今日は、君が最初に喋る日だ」
黒瀬さんが、白い髭のあたりを一度さわってから言った。
「はい」
「三行ある。三行とも短い」
「はい」
「意味は、三隅さんに聞いた?」
「聞きました」
「じゃあ、忘れていいよ」
「忘れるんですか」
「うん。音だけでいい」
黒瀬さんは椅子のほうへ戻っていった。
戻る途中で、機材の脚をまたいだ。またぐときに、少しも減速しなかった。
◇
三隅さんが紙を一枚くれた。
紙は四つに折ってある。折ったところが白くなっていた。
開いたら、カタカナが三行並んでいた。
カタカナの下に、小さい字で日本語の意味が書いてある。書いたのは三隅さんだ。字は縦の線がまっすぐで、はらいのところだけ速い。
「上がその音です。下は意味です」
「はい」
「意味のほうは、たぶん、あってもなくても一緒です」
「はい」
「監督が忘れていいって言いましたよね」
「言いました」
「じゃあ忘れてください。私が書いたのに、私が言うのも変ですけど」
◇
最初のテストが始まった。
ヨナスさんが手を上げた。上げた手を、そのまま横に倒した。倒したら、白い板を持っている二人が動いた。
俺のほうへは、指を二本立てて、それを下へ向けた。
俺はテープの上に立った。
立ってから、ヨナスさんを見た。ヨナスさんは手のひらをこっちへ向けて、止めた。それから、その手を下ろした。
下ろした瞬間に、周りの音が全部止まった。
◇
俺は三行を言った。
カタカナのとおりに言った。一行目は八音で、二行目は十一音で、三行目は五音だ。
言い終わったら、風の音だけになった。
しばらくして、黒瀬さんが「はい」と言った。日本語だった。
一秒くらい、機材のあたりで音がしなかった。
そのあと全員が同時に動き出した。動き出したところで、俺は自分の紙をもう一度見た。
◇
録音の人が来て、俺に何か言った。
早口だった。音の切れ目が分からない。分からないので、どこまでが一つの言葉なのかも分からない。
聞き取れたのは、三つだけだった。ワン、と、ダウン、と、オーケー。
「わからん」
俺は言った。
録音の人は止まった。止まって、三隅さんのほうを見た。
◇
「今の、訳しますね」
三隅さんが横に来た。
「一つ目の音を、もう少し下げてほしいそうです」
「下げるとは」
「声の高さです」
「高さですか」
「……えっと、低く言ってください」
「低くですか」
「低くです」
俺はカタカナの一行目を、低く言った。
録音の人は親指を立てた。立てて、機材のほうへ戻っていった。
◇
待ち時間は長かった。
白い板の向きを変えるのに、四人で十分かかった。変えたあとで、もう一度戻した。戻すのにも同じくらいかかった。
そのあいだ、俺は灯台の壁のところに立っていた。壁は石で、触ると冷たい。冷たいが、風が当たらないぶん、道の真ん中より暖かい。
現地の人が一人、紙のカップを持ってきた。持ってきて、俺に差し出した。
中は茶色い液体だった。飲んだら甘かった。甘いだけで、他の味がしない。
俺は紙のカップを持ったまま、その人を見た。
その人はうなずいた。うなずいて、自分のぶんを一口飲んで、同じ顔をした。
◇
次に来たのはカメラの人だった。
カメラの人は俺の肩を持って、五センチだけ回した。回してから、自分のカメラのところへ戻って、また来て、今度は逆に三センチ回した。
戻るときに、一言だけ言った。
俺はその一言を、聞こえたとおりに繰り返した。
カメラの人は笑った。
笑って、俺の肩をもう一度触って、行った。
◇
三隅さんが後ろから来て言った。
「今のは、褒めてます」
「褒めてましたか」
「肩を触るのは、こっちだと、そういうことです」
「はい」
「高町さん、さっきから、わからんしか言ってません」
「わかりませんから」
「知ってます」
三隅さんは手袋を外して、両手に息を吹きかけた。吹きかけて、また嵌めた。
◇
外国の現場で、監督の言葉を黙って受け止めている主演に見えたはずだが、朝から一語も聞き取れていなかった。
◇
本番は四回撮った。
四回のうち、二回目でヨナスさんが手を上げた。上げて、機材の後ろの誰かに向けて、指を三本立てた。
三本の意味は分からない。分からないが、そのあと全員が同じ方向へ二歩動いたので、位置の話らしかった。
三回目のとき、黒瀬さんが椅子から立った。
立って、俺のところまで歩いてきた。
◇
「高町くん、そこ」
「はい」
「そこ、寒いままでいいよ」
黒瀬さんが、モニターの後ろから言った。
「監督、寒いままというのは」
「うん」
「わからん、です」
「わからないままでいい」
黒瀬さんは戻っていった。
三隅さんは、そのやりとりを横で聞いていた。聞いて、何も訳さなかった。訳す相手がいないので、当たり前だった。
◇
四回目のあと、ヨナスさんが両手を上げた。
上げて、開いた。それで終わりだった。
◇
機材を片付けるのは全員でやった。
俺も箱を一つ運んだ。運んでいたら、ヨナスさんが横に来て、箱の持ち方を直した。指で下の縁を叩いて、そこを持て、という形にした。
直したら、たしかに軽くなった。
丘の下まで運んで、置いて、上へ戻った。戻ったら、ヨナスさんが次の箱を指していた。
その日、ヨナスさんは俺に一言も喋らなかった。喋らないのに、どこへ行けばいいかだけは全部わかった。
◇
三隅さんが横に来て、紙を返してきた。
「これ、落としてました」
「はい」
「雪の上にあったので、少し濡れてます」
「乾かします」
「明日ぶんも書いておきます。四行あります」
「四行ですか」
「そのうち一行、笑うところがあるんですけど、高町さんは笑わなくていいそうです」
俺は紙を上着の内側に入れた。
入れたら、内ポケットの形に合わなくて、折ったところで一度曲がった。曲がったところが、白い線になって残った。
撮影は三時に終わった。空はまだ高くて、雪の面は白いままだった。
丘を下りるとき、雪の寄せてあるところの上を歩いた。歩いたら足首まで沈んだので、道の真ん中に戻った。
◇
食堂が開いたのは十九時だった。
長い机が二本ある。撮影の人が三十人くらいいて、席は決まっていない。
俺は入口に近いほうの端に座った。座ったら、向かいに現地の人が二人来た。二人とも俺の顔を見た。見て、しばらく見ていた。
目を逸らさない。逸らさないまま、パンを取って、割って、食べ始めた。
◇
厨房の人が、俺の前に来た。
鍋を二つ指した。左のは白くて、右のは赤い。指してから、何か言った。
聞き取れたのは、オアと、ウィッチだけだった。
「わからん」
厨房の人は、もう一度言った。
今度は少しゆっくりだった。ゆっくりでも同じだった。
◇
俺は考えた。
左が白い。白いのは魚かもしれない。魚なら、昨日も出た。昨日と同じなら、量は分かる。
右が赤い。赤いのは辛いかもしれない。辛いと、パンが減る。パンが減ると、あとで腹が減る。
ただ、白いほうが少ないかもしれない。少ないと足りない。足りないときに、もう一杯もらえるのかどうかが分からない。もらえるかどうかを聞くには、聞く言葉が要る。
聞く言葉が無い。
厨房の人は、俺が黙っているあいだ、鍋の柄を持ったまま同じ角度で待っていた。待っているうちに後ろに三人並んだが、その三人も何も言わずに立っていた。
俺は右の鍋を指さした。
◇
赤いほうは辛くなかった。
トマトだった。中に魚が入っている。白いほうにも魚が入っていた。向かいの人の皿を見て分かった。
パンは硬い。硬いが、スープに浸すと柔らかくなる。向かいの二人がそうしていたので、そうした。
米は出なかった。
出ないと聞いていたので、探さなかった。探さなかったが、机の上を一度だけ端から端まで見た。
◇
三隅さんが向かいの席に来た。
来て、座って、上着を脱ぐ前にスプーンを取った。
「高町さん、今日、何回わからんって言いました」
「数えてません」
「私は数えてました」
「何回ですか」
「言いません」
「なぜですか」
「言うと、明日から減らそうとするでしょう」
「減らしません」
「減らさないでください」
三隅さんは、そこで自分のスープを一口すくった。
◇
「さっき、録音の人が言ってました」
三隅さんはスプーンを持ったまま言った。
「なんて言ってましたか」
「わからないと言える役者は少ない、って」
「少ないんですか」
「少ないそうです。だいたい、わかった顔をするそうです」
「わかった顔は、できません」
「……そうですね」
三隅さんはスプーンを置いた。
置いて、少し笑った。笑って、また取った。
◇
「一つ、言っておきます」
三隅さんは言った。
「はい」
「高町さん、さっきから向かいの人にずっと見られてますよね」
「見られてます」
「気持ち悪いですか」
「わかりません」
「ここの人は、いいと思ったら目を逸らさないの。日本と逆」
三隅さんは、そこで一度だけ日本語の調子を変えた。
変えたあとで、すぐ元に戻した。
「私、十年ここにいますけど、最初の一年はずっと怒られてると思ってました」
「怒られてませんでしたか」
「褒められてました。全部」
◇
向かいの二人は、まだこっちを見ていた。
見ながらパンを食っている。片方が何か言って、もう片方が笑った。笑ってから、また俺を見た。
俺はスープをすくった。
すくって、口へ運んだ。運んだところで、向かいの片方がスプーンを持ち上げて、同じ形で止めた。
止めて、そのまま口へ運んだ。
◇
部屋に戻ったのは八時半だった。
廊下の突き当たりで湯を汲んだ。汲むときに、注ぎ口の下に置く台の高さが合わなくて、カップを持ったまま注いだ。
部屋の中は暖かい。窓は西で、外はもう真っ暗だ。
机の端に、こっちで配られた台本が置いてある。日本から持ってきた紙の束は、その下に入れた。
カタカナの紙は、机の上に置いた。置いたら、風で少し動いたので、上にカップを乗せた。
◇
窓の外の景色に、映るはずのないものが一つ映った。
窓ガラスの外は雪で、その手前に部屋の中が映っている。机と、椅子と、カップと、その横に、腕を組んだ小さいのが立っていた。
机の上を見た。人形は台座の上にいる。
「あんた、今日、ずいぶん喋ったわね」
「喋ってない」
「わからん、をあれだけ言ったら、喋ったのと同じよ」
「同じか」
「同じよ。あの通訳の子、三回書き直してたわよ」
◇
人形は台座の上で足を組み替えた。
「ここの人、目を逸らさないわね」
「逸らさない」
「あんた、それでどうなの」
「どうもならん」
「どうもならないの」
「飯が出る」
「そう」
人形は窓のほうを向いた。
向いて、しばらく何も言わなかった。窓の外では、雪が横に降っている。
◇
俺は机の上のカップを持ち上げた。
持ち上げたところに水滴の輪が残っていて、その輪がカタカナの紙の端にかかっていた。俺は袖で拭いた。
拭いたところだけ、一行の頭の二音が薄くなった。薄くなったが、まだ読める。
◇
丘の上で、灯台が点いた。
点いて、消えて、また点いた。
その光が、窓ガラスの中の俺の顔の上を、一度だけ横切っていった。




