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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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137/236

第137話 子どもには通じた

 顔を真似されていた。


 真似というのは、動かさないということだ。眉も動かさない。口の端も動かさない。目だけ開けて、こっちを見ている。


 やっているのは子どもだった。俺の胸くらいの背で、赤い上着を着ている。


 十秒くらいやって、それから自分で吹き出した。吹き出して、また同じ顔に戻した。


   ◇


 四月九日、木曜日。


 雪は溶け始めていた。溶けているのは道の上だけで、寄せてある山のほうはまだ白い。白い山の裾のところが黒くなって、そこから水が出ている。


 現場は灯台の裏側だった。表側は先週撮り終わっている。


 今日の撮影は午後からの予定だった。午前のあいだは機材の入れ替えで、俺は呼ばれていない。呼ばれていないが、部屋にいても何もすることがないので、昼を食ってから上まで上がってきた。


 上がってきたら、子どもがいた。


   ◇


「エリーです」


 三隅さんが後ろから言った。


「エリー・ヴァンス。十一歳です。今日から入ります」

「今日からですか」

「船で朝に着きました。お母さんが一緒に来てます」

「はい」

「高町さんの相手役です。二人で出る場面が、たぶん全体の半分くらいあります」

「半分ですか」

「半分です。私も、その半分ずっと横にいます」


 三隅さんはそこまで言って、手袋の指を一本ずつ引っ張った。


   ◇


「一つだけ、先に言っておきます」


 三隅さんは声を少し下げた。


「はい」

「あの子、子役です。もう何本も出てます。だから、こっちが何もしなくても、向こうから合わせてきます」

「合わせてくる」

「合わせてきます。合わせてこられると、たいてい大人のほうが慌てます。私、去年それで一人、泣かせました」

「泣かせたんですか」

「泣いたのは大人のほうです。三十八歳でした」


 エリーは、その話のあいだ、俺の靴を見ていた。


 見て、自分の靴と並べた。並べて、大きさの差を指で測った。測って、上を見て、口を開けて、また閉じた。


   ◇


 エリーは俺の前まで来た。


 来て、上を見た。首を後ろに倒すくらい上を見た。俺の背が百八十二あるので、そうなる。


 見てから、日本語で言った。


「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

「二回言った」

「オハヨウ」


 三度目はカタカナの発音だった。


 エリーは自分で笑って、後ろの三隅さんのほうを見た。三隅さんは何も言わなかった。


   ◇


「日本語、それだけです」


 三隅さんが言った。


「それだけですか」

「あと一つあります。あとで言うと思います」

「あとで」

「たぶん、二時間以内に言います」


 エリーは俺の上着の袖を引っ張った。


 引っ張って、灯台の壁のほうを指した。指したところに、風の来ない隅がある。石の壁が直角になっていて、そこだけ雪が残っていない。


 俺はついていった。


   ◇


 隅に、木の箱が二つ置いてあった。


 エリーは片方に座って、もう片方を手で叩いた。叩いたところに座れ、という形だった。


 俺は座った。座ったら、箱が少し沈んだ。


 エリーは自分の台本を出した。表紙が折れていて、角が全部丸くなっている。中に色のついた紙が何枚も挟んであった。


 俺も出した。俺のは白いほうと、内ポケットのカタカナの紙だ。


 エリーは俺の白いほうを指して、それから自分のを指して、首を横に振った。二冊は同じ本のはずだが、表紙の色が違う。違う理由は分からない。


   ◇


 エリーはカタカナの紙を覗き込んだ。


 覗き込んで、指でなぞった。なぞって、俺の顔を見た。


 俺は一行目を読んだ。カタカナのとおりに読んだ。


 エリーは口を開けた。開けて、何か言った。速かった。


「わからん」


 エリーはもう一度言った。今度は短かった。


 短くても分からなかった。


   ◇


 エリーは自分の台本を開いて、あるページを俺に見せた。


 見せて、指で二行を押さえた。上の行と、下の行だ。


 上の行を自分で読んだ。読んでから、下の行を指して、俺のほうへ押した。


 下の行は、俺のカタカナの紙の二行目と同じ長さだった。


 俺は二行目を読んだ。


 エリーはうなずいた。うなずいて、また上の行を読んだ。さっきより少し遅かった。


 俺は二行目を読んだ。さっきと同じ速さで読んだ。


 エリーは首を横に振った。


 振って、自分の胸を二回叩いて、それから俺の胸を指した。指してから、両手を下へ押す形にした。


 もう少し遅く読んだ。


 エリーは親指を立てた。立てて、また上の行を読んだ。


 その次は、俺が読んだあとに間ができた。エリーが読み出すまでに、一拍あった。


 一拍あってから、エリーが読んだ。


 風が横から来て、台本のページが二枚めくれた。エリーは手のひらで押さえた。


   ◇


 三隅さんは、少し離れたところにいた。


 立って、携帯を見ている。画面に何か打ち込んで、消して、また打ち込んでいる。打ち込むたびに、指の下で画面が一度光った。


 機材のほうでは、四人が脚の長いやつを組み直していた。組み直しながら、一人が別の一人に何か言って、二人とも笑った。


 風は、灯台の角のところで音を立てていた。


   ◇


 エリーが台本を閉じた。


 閉じて、膝の上に置いた。置いてから、俺の顔を見た。


 見て、動かなかった。目を逸らさない。


 逸らさないまま、少し首をかしげた。かしげて、また戻した。


 それから、口を動かした。


   ◇


「ユア・フェイス・ダズント・トーク」


 エリーは言った。


 言って、自分の顔を手で一度なでた。なでてから、指を二本立てて、その二本を自分の目の下に当てた。


「ソー・アイ・ルック・アット・ユア・アイズ」


   ◇


 三隅さんが後ろから来ていた。


 来ていたのに、気づかなかった。


「訳しますね」

「はい」

「あなたの顔は喋らない。だから、目を見る」

「はい」

「……そう言いました」


 三隅さんは、そこで言葉を足さなかった。


 足さないで、少し下がって、また離れた。


   ◇


 エリーは指を二本立てたままだった。


 立てたまま、俺の目のところで止めている。止めて、動かさない。


 俺の顔は動かなかった。動かそうとしても動かないので、そのままにしていた。


 エリーは指を下ろさなかった。下ろさないで、そこを見ていた。


   ◇


 現場の音が遠のいた。


 輪郭がはっきりした。


 背筋が伸びた。


   ◇


 風の音が消えた。


 消えたのではなくて、遠くなった。機材を組む音も、四人の声も、全部、壁の向こうへ行った。


 残っているのは、目の前の子どもの顔だけだった。


 睫毛が濡れている。さっき雪の山に触った手で、顔をこすったからだ。


 箱が片側だけ沈んでいるのが、そのときになって気になった。座り直したかったが、動くと膝の上の台本が落ちる。


 俺は、二行目を読んだ。


   ◇


 カタカナのとおりに読んだ。


 声は、思っていたところから出なかった。


 喉の下のほうが震えている。震えが胸の骨まで来て、そこで止まっている。指の先まで、順番に力が通っていく感じがあった。


 エリーが立ち上がった。


 立ち上がって、箱の上に乗った。乗って、俺と同じ高さになった。


   ◇


 エリーは上の行を読んだ。


 読んで、途中で止めた。止めて、また頭から読んだ。二度目は声が小さかった。


 小さいのに、全部聞こえた。


 俺は三行目を読んだ。三行目は五音しかない。五音を、間を空けて出した。


 エリーは口を開けたまま、何も言わなかった。


 エリーが箱から飛び降りた。


 降りて、両手を上げて、大きい声で何か言った。速かった。速いのに、さっきより長かった。


 俺は聞き取れなかった。


 一語も聞き取れなかった。


   ◇


 エリーは三隅さんのほうへ走っていった。


 走っていって、三隅さんの上着を引っ張って、俺のほうを指して、また何か言った。


 三隅さんはそれを聞いていた。


 聞いて、俺のほうを見た。見て、口を開けて、閉じた。


 閉じたあとで、エリーの頭に手を置いた。


   ◇


 膝が抜けたのは、そのあとだった。


 立ち上がろうとして、箱から腰が浮いたところで、右の膝が下へ落ちた。落ちて、そのまま石の壁に肩が当たった。


 当たった音は小さかった。


 俺はもう一度座った。座り直したのではなくて、座るところまでしか行かなかった。


 三隅さんが走ってきた。


「立てますか」

「立てます」

「立ててません」

「これは、いつものです」

「いつもの」

「はい」


 三隅さんは俺の顔を見た。


 見て、それ以上は言わなかった。


 三隅さんはポケットから小さい包みを出した。


 出して、俺の膝の上に置いた。


「チョコです」

「はい」

「私、いつもポケットに二個入れてます。自分のぶんです。持ってないと、私が先に倒れるので」

「はい」

「一個あげます。一個は私のです」


 俺は包みを開けて、食った。


 甘かった。甘いだけで、他の味がしなかった。厨房のスープの日と同じ甘さである。


   ◇


 撮影は始まらなかった。


 午後の予定が、機材の都合で流れた。流れたことを、三隅さんが誰かに聞いてきて、俺に言った。


「今日はもう、無しです」

「無しですか」

「明日の朝からです。エリーも今日は撮りません」

「はい」

「歩けるようになったら降りましょう」

「歩けます」

「まだ座ってます」


   ◇


 俺は壁にもたれて座っていた。


 石は冷たい。冷たいが、しばらく座っていると、当たっているところだけ冷たくなくなる。


 三隅さんは俺の横に立って、丘の下を見ていた。時々こっちを見て、また下を見た。


 エリーは機材のほうへ行っていた。行って、脚の長いやつの下に潜って、大人に出されて、また潜っていた。出されるたびに、出した人の顔を見上げて、同じ顔をしてみせている。


 三度目に出されたとき、出した人が笑った。笑ったので、エリーは四度目に潜った。


 俺は、その様子を座ったまま見ていた。見ているうちに、肩の当たっている石のところが痛くなって、少し体をずらした。


   ◇


 空は白かった。


 白いところに、灰色の筋が三本入っている。筋は西から東へ動いていて、動く速さが上のほうと下のほうで違った。


 海のほうを見ると、水平線のところだけ明るい。明るいところの手前が暗い。


 鳥が二羽、灯台の上を通っていった。通っていって、戻ってこなかった。


   ◇


 三隅さんが、丘の下を見たまま言った。


「明日は朝からです。朝の八時に船が着いて、そこから機材が上がってくるので、実際に始まるのは十時くらいだと思います」

「はい」

「エリーの場面は、明日は無いです。明後日からです」

「はい」

「高町さん、明後日ぶんの紙は、今日のうちに書いておきます」

「はい」

「そのあとの紙も、前の日に渡します。ずっとそうします」


 三隅さんは、そこで一度こっちを見た。


「高町さん、さっきのこと、うちの記録に一行だけ書きます」

「書くんですか」

「書きます。書かないと、明日また同じことがあったときに、私が最初から説明することになるので」

「はい」

「中身は書きません。座っていた、とだけ書きます」

「はい」

「これは高町さんの話じゃなくて、私の段取りの話です」


 三隅さんは、また下を向いた。下を向いたまま、手袋を片方だけ外して、外した手を反対の袖の中へ入れた。


   ◇


 立ったのは、そのあとだった。


 立ったら、一度ふらついた。ふらついたが、壁に手をついたら止まった。


 三隅さんが手を出しかけて、途中で下ろした。


「歩けます」

「はい」

「さっきと同じことを言ってますね」

「はい」

「同じことを言う人は、だいたい大丈夫です」


 三隅さんは先に歩き出した。


 歩き出して、二歩目でこっちを振り返った。


   ◇


 丘の道は下りだった。


 下りは楽なはずだが、膝が言うことを聞かないので、足の裏を全部つけて下りた。


 道の真ん中に、水が流れている。雪が溶けたぶんだ。流れは細くて、途中で二つに分かれて、また合わさる。


 三隅さんは俺の前を歩いた。時々止まって、俺が追いつくのを待った。待つときに、下を見ているふりをしていた。


 道の端の雪の山は、上のほうが溶けて、そこだけ角が丸くなっている。丸くなったところに、鳥の足跡が三つ並んで残っていた。三つとも同じ向きを向いている。


 下のほうから、船の音がした。今日は船が着かないと聞いていたが、音は船の音だった。港のほうを見ても、桟橋には何もいない。


 三隅さんは振り返らなかった。振り返らないで、「あれ、漁の船です」とだけ言った。


   ◇


 半分くらい下りたところで、足が戻ってきた。


 膝に力が入るようになった。次に足首が動いた。


 動くようになったら、腹の減り方が急に強くなった。


   ◇


「高町さん、夜のことだけ言っておきます」

「はい」

「宿の食堂、夜のぶんは十九時からです」

「十九時ですか」

「今、十六時半です」

「二時間半ですか」

「座って待つか、歩いて待つかです」

「歩きます」


 三隅さんは笑った。


 笑って、それから、少しだけ首を振った。振ったが、何も言わなかった。


   ◇


 宿の前に水たまりがあった。


 入口の三歩手前で、道が少しへこんでいる。へこんだところに雪の溶けたのが溜まって、底が見えないくらいになっていた。


 脇を通ろうとしたら、脇は泥だった。踏んだら、靴の底の溝が全部埋まる種類の泥である。宿の入口の内側には、その泥を落とすための金物の櫛が打ちつけてあった。


 俺は水たまりをまたいだ。


 またいだら、向こう側の縁が思ったより低くて、着地したところで靴の先が入った。


   ◇


 入口の脇に、エリーが立っていた。


 いつのまに先に降りていたのかは分からない。壁にもたれて、両手をポケットに入れている。


 俺を見て、壁から背中を離した。


 離して、こっちへ二歩来た。


「おなかすいた」


 エリーは言った。


 日本語だった。


「俺もだ」

「オナカスイタ」

「わかった」

「オナカスイタ」


 エリーは三度言って、それから宿の中へ走っていった。


 走るときに、水たまりを避けなかった。避けないで、真ん中を踏んだ。


   ◇


 三隅さんが俺の横に来た。


 来て、水たまりのほうを見た。水は、エリーが踏んだところからまだ揺れている。


「あの子、日本語はそれだけです」

「聞きました」

「ええ」


 三隅さんは、そこで一度、言いかけた。


 言いかけて、やめた。やめて、上着の襟を立てた。


 立ててから、先に宿へ入っていった。


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