第137話 子どもには通じた
顔を真似されていた。
真似というのは、動かさないということだ。眉も動かさない。口の端も動かさない。目だけ開けて、こっちを見ている。
やっているのは子どもだった。俺の胸くらいの背で、赤い上着を着ている。
十秒くらいやって、それから自分で吹き出した。吹き出して、また同じ顔に戻した。
◇
四月九日、木曜日。
雪は溶け始めていた。溶けているのは道の上だけで、寄せてある山のほうはまだ白い。白い山の裾のところが黒くなって、そこから水が出ている。
現場は灯台の裏側だった。表側は先週撮り終わっている。
今日の撮影は午後からの予定だった。午前のあいだは機材の入れ替えで、俺は呼ばれていない。呼ばれていないが、部屋にいても何もすることがないので、昼を食ってから上まで上がってきた。
上がってきたら、子どもがいた。
◇
「エリーです」
三隅さんが後ろから言った。
「エリー・ヴァンス。十一歳です。今日から入ります」
「今日からですか」
「船で朝に着きました。お母さんが一緒に来てます」
「はい」
「高町さんの相手役です。二人で出る場面が、たぶん全体の半分くらいあります」
「半分ですか」
「半分です。私も、その半分ずっと横にいます」
三隅さんはそこまで言って、手袋の指を一本ずつ引っ張った。
◇
「一つだけ、先に言っておきます」
三隅さんは声を少し下げた。
「はい」
「あの子、子役です。もう何本も出てます。だから、こっちが何もしなくても、向こうから合わせてきます」
「合わせてくる」
「合わせてきます。合わせてこられると、たいてい大人のほうが慌てます。私、去年それで一人、泣かせました」
「泣かせたんですか」
「泣いたのは大人のほうです。三十八歳でした」
エリーは、その話のあいだ、俺の靴を見ていた。
見て、自分の靴と並べた。並べて、大きさの差を指で測った。測って、上を見て、口を開けて、また閉じた。
◇
エリーは俺の前まで来た。
来て、上を見た。首を後ろに倒すくらい上を見た。俺の背が百八十二あるので、そうなる。
見てから、日本語で言った。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
「二回言った」
「オハヨウ」
三度目はカタカナの発音だった。
エリーは自分で笑って、後ろの三隅さんのほうを見た。三隅さんは何も言わなかった。
◇
「日本語、それだけです」
三隅さんが言った。
「それだけですか」
「あと一つあります。あとで言うと思います」
「あとで」
「たぶん、二時間以内に言います」
エリーは俺の上着の袖を引っ張った。
引っ張って、灯台の壁のほうを指した。指したところに、風の来ない隅がある。石の壁が直角になっていて、そこだけ雪が残っていない。
俺はついていった。
◇
隅に、木の箱が二つ置いてあった。
エリーは片方に座って、もう片方を手で叩いた。叩いたところに座れ、という形だった。
俺は座った。座ったら、箱が少し沈んだ。
エリーは自分の台本を出した。表紙が折れていて、角が全部丸くなっている。中に色のついた紙が何枚も挟んであった。
俺も出した。俺のは白いほうと、内ポケットのカタカナの紙だ。
エリーは俺の白いほうを指して、それから自分のを指して、首を横に振った。二冊は同じ本のはずだが、表紙の色が違う。違う理由は分からない。
◇
エリーはカタカナの紙を覗き込んだ。
覗き込んで、指でなぞった。なぞって、俺の顔を見た。
俺は一行目を読んだ。カタカナのとおりに読んだ。
エリーは口を開けた。開けて、何か言った。速かった。
「わからん」
エリーはもう一度言った。今度は短かった。
短くても分からなかった。
◇
エリーは自分の台本を開いて、あるページを俺に見せた。
見せて、指で二行を押さえた。上の行と、下の行だ。
上の行を自分で読んだ。読んでから、下の行を指して、俺のほうへ押した。
下の行は、俺のカタカナの紙の二行目と同じ長さだった。
俺は二行目を読んだ。
エリーはうなずいた。うなずいて、また上の行を読んだ。さっきより少し遅かった。
俺は二行目を読んだ。さっきと同じ速さで読んだ。
エリーは首を横に振った。
振って、自分の胸を二回叩いて、それから俺の胸を指した。指してから、両手を下へ押す形にした。
もう少し遅く読んだ。
エリーは親指を立てた。立てて、また上の行を読んだ。
その次は、俺が読んだあとに間ができた。エリーが読み出すまでに、一拍あった。
一拍あってから、エリーが読んだ。
風が横から来て、台本のページが二枚めくれた。エリーは手のひらで押さえた。
◇
三隅さんは、少し離れたところにいた。
立って、携帯を見ている。画面に何か打ち込んで、消して、また打ち込んでいる。打ち込むたびに、指の下で画面が一度光った。
機材のほうでは、四人が脚の長いやつを組み直していた。組み直しながら、一人が別の一人に何か言って、二人とも笑った。
風は、灯台の角のところで音を立てていた。
◇
エリーが台本を閉じた。
閉じて、膝の上に置いた。置いてから、俺の顔を見た。
見て、動かなかった。目を逸らさない。
逸らさないまま、少し首をかしげた。かしげて、また戻した。
それから、口を動かした。
◇
「ユア・フェイス・ダズント・トーク」
エリーは言った。
言って、自分の顔を手で一度なでた。なでてから、指を二本立てて、その二本を自分の目の下に当てた。
「ソー・アイ・ルック・アット・ユア・アイズ」
◇
三隅さんが後ろから来ていた。
来ていたのに、気づかなかった。
「訳しますね」
「はい」
「あなたの顔は喋らない。だから、目を見る」
「はい」
「……そう言いました」
三隅さんは、そこで言葉を足さなかった。
足さないで、少し下がって、また離れた。
◇
エリーは指を二本立てたままだった。
立てたまま、俺の目のところで止めている。止めて、動かさない。
俺の顔は動かなかった。動かそうとしても動かないので、そのままにしていた。
エリーは指を下ろさなかった。下ろさないで、そこを見ていた。
◇
現場の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。
背筋が伸びた。
◇
風の音が消えた。
消えたのではなくて、遠くなった。機材を組む音も、四人の声も、全部、壁の向こうへ行った。
残っているのは、目の前の子どもの顔だけだった。
睫毛が濡れている。さっき雪の山に触った手で、顔をこすったからだ。
箱が片側だけ沈んでいるのが、そのときになって気になった。座り直したかったが、動くと膝の上の台本が落ちる。
俺は、二行目を読んだ。
◇
カタカナのとおりに読んだ。
声は、思っていたところから出なかった。
喉の下のほうが震えている。震えが胸の骨まで来て、そこで止まっている。指の先まで、順番に力が通っていく感じがあった。
エリーが立ち上がった。
立ち上がって、箱の上に乗った。乗って、俺と同じ高さになった。
◇
エリーは上の行を読んだ。
読んで、途中で止めた。止めて、また頭から読んだ。二度目は声が小さかった。
小さいのに、全部聞こえた。
俺は三行目を読んだ。三行目は五音しかない。五音を、間を空けて出した。
エリーは口を開けたまま、何も言わなかった。
エリーが箱から飛び降りた。
降りて、両手を上げて、大きい声で何か言った。速かった。速いのに、さっきより長かった。
俺は聞き取れなかった。
一語も聞き取れなかった。
◇
エリーは三隅さんのほうへ走っていった。
走っていって、三隅さんの上着を引っ張って、俺のほうを指して、また何か言った。
三隅さんはそれを聞いていた。
聞いて、俺のほうを見た。見て、口を開けて、閉じた。
閉じたあとで、エリーの頭に手を置いた。
◇
膝が抜けたのは、そのあとだった。
立ち上がろうとして、箱から腰が浮いたところで、右の膝が下へ落ちた。落ちて、そのまま石の壁に肩が当たった。
当たった音は小さかった。
俺はもう一度座った。座り直したのではなくて、座るところまでしか行かなかった。
三隅さんが走ってきた。
「立てますか」
「立てます」
「立ててません」
「これは、いつものです」
「いつもの」
「はい」
三隅さんは俺の顔を見た。
見て、それ以上は言わなかった。
三隅さんはポケットから小さい包みを出した。
出して、俺の膝の上に置いた。
「チョコです」
「はい」
「私、いつもポケットに二個入れてます。自分のぶんです。持ってないと、私が先に倒れるので」
「はい」
「一個あげます。一個は私のです」
俺は包みを開けて、食った。
甘かった。甘いだけで、他の味がしなかった。厨房のスープの日と同じ甘さである。
◇
撮影は始まらなかった。
午後の予定が、機材の都合で流れた。流れたことを、三隅さんが誰かに聞いてきて、俺に言った。
「今日はもう、無しです」
「無しですか」
「明日の朝からです。エリーも今日は撮りません」
「はい」
「歩けるようになったら降りましょう」
「歩けます」
「まだ座ってます」
◇
俺は壁にもたれて座っていた。
石は冷たい。冷たいが、しばらく座っていると、当たっているところだけ冷たくなくなる。
三隅さんは俺の横に立って、丘の下を見ていた。時々こっちを見て、また下を見た。
エリーは機材のほうへ行っていた。行って、脚の長いやつの下に潜って、大人に出されて、また潜っていた。出されるたびに、出した人の顔を見上げて、同じ顔をしてみせている。
三度目に出されたとき、出した人が笑った。笑ったので、エリーは四度目に潜った。
俺は、その様子を座ったまま見ていた。見ているうちに、肩の当たっている石のところが痛くなって、少し体をずらした。
◇
空は白かった。
白いところに、灰色の筋が三本入っている。筋は西から東へ動いていて、動く速さが上のほうと下のほうで違った。
海のほうを見ると、水平線のところだけ明るい。明るいところの手前が暗い。
鳥が二羽、灯台の上を通っていった。通っていって、戻ってこなかった。
◇
三隅さんが、丘の下を見たまま言った。
「明日は朝からです。朝の八時に船が着いて、そこから機材が上がってくるので、実際に始まるのは十時くらいだと思います」
「はい」
「エリーの場面は、明日は無いです。明後日からです」
「はい」
「高町さん、明後日ぶんの紙は、今日のうちに書いておきます」
「はい」
「そのあとの紙も、前の日に渡します。ずっとそうします」
三隅さんは、そこで一度こっちを見た。
「高町さん、さっきのこと、うちの記録に一行だけ書きます」
「書くんですか」
「書きます。書かないと、明日また同じことがあったときに、私が最初から説明することになるので」
「はい」
「中身は書きません。座っていた、とだけ書きます」
「はい」
「これは高町さんの話じゃなくて、私の段取りの話です」
三隅さんは、また下を向いた。下を向いたまま、手袋を片方だけ外して、外した手を反対の袖の中へ入れた。
◇
立ったのは、そのあとだった。
立ったら、一度ふらついた。ふらついたが、壁に手をついたら止まった。
三隅さんが手を出しかけて、途中で下ろした。
「歩けます」
「はい」
「さっきと同じことを言ってますね」
「はい」
「同じことを言う人は、だいたい大丈夫です」
三隅さんは先に歩き出した。
歩き出して、二歩目でこっちを振り返った。
◇
丘の道は下りだった。
下りは楽なはずだが、膝が言うことを聞かないので、足の裏を全部つけて下りた。
道の真ん中に、水が流れている。雪が溶けたぶんだ。流れは細くて、途中で二つに分かれて、また合わさる。
三隅さんは俺の前を歩いた。時々止まって、俺が追いつくのを待った。待つときに、下を見ているふりをしていた。
道の端の雪の山は、上のほうが溶けて、そこだけ角が丸くなっている。丸くなったところに、鳥の足跡が三つ並んで残っていた。三つとも同じ向きを向いている。
下のほうから、船の音がした。今日は船が着かないと聞いていたが、音は船の音だった。港のほうを見ても、桟橋には何もいない。
三隅さんは振り返らなかった。振り返らないで、「あれ、漁の船です」とだけ言った。
◇
半分くらい下りたところで、足が戻ってきた。
膝に力が入るようになった。次に足首が動いた。
動くようになったら、腹の減り方が急に強くなった。
◇
「高町さん、夜のことだけ言っておきます」
「はい」
「宿の食堂、夜のぶんは十九時からです」
「十九時ですか」
「今、十六時半です」
「二時間半ですか」
「座って待つか、歩いて待つかです」
「歩きます」
三隅さんは笑った。
笑って、それから、少しだけ首を振った。振ったが、何も言わなかった。
◇
宿の前に水たまりがあった。
入口の三歩手前で、道が少しへこんでいる。へこんだところに雪の溶けたのが溜まって、底が見えないくらいになっていた。
脇を通ろうとしたら、脇は泥だった。踏んだら、靴の底の溝が全部埋まる種類の泥である。宿の入口の内側には、その泥を落とすための金物の櫛が打ちつけてあった。
俺は水たまりをまたいだ。
またいだら、向こう側の縁が思ったより低くて、着地したところで靴の先が入った。
◇
入口の脇に、エリーが立っていた。
いつのまに先に降りていたのかは分からない。壁にもたれて、両手をポケットに入れている。
俺を見て、壁から背中を離した。
離して、こっちへ二歩来た。
「おなかすいた」
エリーは言った。
日本語だった。
「俺もだ」
「オナカスイタ」
「わかった」
「オナカスイタ」
エリーは三度言って、それから宿の中へ走っていった。
走るときに、水たまりを避けなかった。避けないで、真ん中を踏んだ。
◇
三隅さんが俺の横に来た。
来て、水たまりのほうを見た。水は、エリーが踏んだところからまだ揺れている。
「あの子、日本語はそれだけです」
「聞きました」
「ええ」
三隅さんは、そこで一度、言いかけた。
言いかけて、やめた。やめて、上着の襟を立てた。
立ててから、先に宿へ入っていった。




