第138話 抽象的な指示のほうが助かる
「もっと、雨の匂いで」
監督が言って、手のひらを上に向けた。
雨は降っていない。空は白くて、日は雲の切れ目から出たり入ったりしている。足元の岩は乾いていて、俺の靴の裏には砂が付いていた。
三隅さんがカメラの後ろから出てきた。出てきて、現地の人たちのほうを向いて、そこで一度止まった。
「訳しません。監督が言ったまま言います。『雨の匂いで』」
三隅さんは英語で短く言った。俺が拾えたのは「レイン」だけだった。
◇
照明の人が空を見上げた。
カメラの人が三隅さんに何か聞いた。三隅さんは同じことをもう一度言った。カメラの人はもう一度聞いた。三隅さんは三度目も同じことを言った。
背の高い人が海のほうを指した。指したまま、隣の人と何か喋っている。喋っているあいだに、日がまた雲へ入った。
いちばん後ろにいた人が、自分の腕の内側を嗅いだ。
◇
四月二十一日、火曜日。
撮っているのは灯台守の家の中で、家はセットではなく本物である。
窓が二つあって、片方は板が打ってある。打ってあるほうの窓の前に椅子が置いてあって、椅子の脚は四本のうち一本だけ長さが違う。座ると前に傾く。
外から見ると小屋にしか見えないが、中に入ると天井が高い。声が上のほうへ抜けるので、喋ると天井のあたりで一度、音が薄くなる。
撮影のあいだ、ドアは開けたままにしてある。閉めると音が変わるのだと、三隅さんが録音の人の言葉を訳して教えてくれた。
◇
カメラの人が外へ出ていった。
少ししてバケツを持って戻ってきた。バケツには水が入っている。持ってきて、監督の前に置いた。
監督は水を見た。見て、首を横に振った。
カメラの人は何か言った。三隅さんが訳した。訳したあとで、監督はもう一度首を横に振った。
バケツは外へ戻っていった。
◇
ヨナスさんは何も言わなかった。
言わないで、俺の足元まで来て、テープの位置を指で二回叩いた。それから自分の胸の前で手を横に払って、灯台のほうを指した。
立つ場所と、向きである。
俺はテープの上に立って、灯台のほうを向いた。
ヨナスさんは頭を一度だけ下げて、カメラの後ろへ戻った。戻る途中で、床のケーブルを足の甲で寄せた。
◇
「高町さん、今の、わかりました?」
「わからん」
「わたしもです」
「意味がわからないまま訳すんですか」
「訳しませんでした。そのまま言いました」
「はい」
三隅さんは台本を胸のところで持ち直した。持ち直してから、俺のほうは見ないで言った。
「意味をこっちで決めると、それはわたしの指示になります。わたしは指示を出す人ではないので」
「はい」
「高町さんは、それで困りませんか」
「困りません」
「困る人のほうが多いです。今、外に八人います」
「八人ですか」
「数えました。数えたのは、誰かに聞かれたときのためです」
「はい」
「聞かれません、たぶん」
三隅さんは台本を脇に挟み直した。挟み直したところで、外の八人から二人が中を覗いた。覗いて、目が合って、そのまま入ってきた。
入ってきた二人は、監督の前で立ったまま何か言った。監督は聞いてから、両手を膝に置いて、同じ言葉をもう一度言った。
「もっと、雨の匂いで」
二人は出ていった。
海の音は、こっちが黙っていると急に大きくなる。
波が岩に当たって、当たったところだけ白くなって、それが引くまで六つ数えられる。数えているあいだ、誰も喋らなかった。
ヨナスさんが手を上げた。
◇
俺は窓のほうへ六歩歩いて、椅子に座って、手を膝に置いた。
台詞は三行ある。音はカタカナで紙に書いてあって、紙は台本のあいだに入れたままにしてある。今日のぶんは、朝のうちに三回、口の中だけで通した。
言った。
言ったあとで、窓の外の岩を見た。岩は乾いたままだった。
◇
「はい」
監督はモニターから顔を上げないで言った。
「今の、半分」
三隅さんが英語にして、現地の人たちに伝えた。伝えたところで、照明の人が両手を広げて、肩のあたりまで下ろした。何かを聞き返している。
三隅さんはもう一度、同じ長さで言った。
照明の人は、灯りの高さを半分にした。半分にしてから、監督のほうを見た。監督は灯りのほうを見ていなかった。
◇
俺は半分にした。
半分にしろと言われたのは、たぶん歩く速さだ。速さのほかに半分にできるものが、その場に見当たらなかった。
六歩を、十二数えて歩いた。
「はい」
監督はうなずいた。うなずいて、それから隣の記録の人に何か言った。記録の人は台本にペンを入れた。
入れてから、消しゴムを一度かけて、同じところにまた書いた。
◇
「遅く」
この一語は、三隅さんも迷わなかった。迷わないで英語にして、現地の人たちがそろってうなずいた。
うなずいたあとで、カメラの人が指を三本立てた。三隅さんが監督に聞いた。
「どれくらい遅くしますか、と言っています」
「遅く」
「はい」
三隅さんは同じ言葉をもう一度言った。カメラの人は立てた指を下ろして、レンズの脇の目盛りを見た。見て、何も動かさなかった。
◇
「灰色で」
三隅さんが動いた。動いて、また止まった。
止まったまま、英語で一言だけ言った。言ってから、こっちを向いた。
「今の、合っているか分かりません」
「合ってないんですか」
「色の名前は言いました。色の名前だけです」
「はい」
「監督が言ったのが色のことなのかは、わたしにも分かりません」
照明の人が、灰色の布を持ってきた。持ってきて、監督の前に広げた。
監督は首を横に振って、布のほうは見ないで、俺の膝を指した。
◇
監督が指したのは膝だった。
俺は膝の上の手から、指が伸びないところまで力を抜いた。それ以外に、膝でできることを思いつかなかった。
「はい」
監督は座り直した。
「それでいい」
布は畳まれて、脚立の下に置かれた。置いた人が、置いてからしばらくそこを見ていた。
◇
日が雲へ入るのを待つ時間が長い。
待っているあいだに、照明の人が自分の脚立に腰かけて、目を閉じた。制作の人が箱を二つ運んで、運んだ先でまた向きを直した。録音の人はマイクを立てたまま、竿の先を見ていた。
俺は立ったまま、二回、目を閉じた。
二回目のとき、誰かが「アメノニオイ」と言った。言ったのは照明の人で、自分で言って自分で笑っていた。
笑ったあとで、隣の人にもう一度言わせて、二人で同じ発音になるまでやっていた。
◇
風下は車の陰である。
撮影隊の車は二台あって、一台は荷物で埋まっている。俺はもう一台の後ろの、風の来ないところに座った。
地面は砂利で、座ると尻の下で音がする。動くたびに音がするので、動かないでいた。
風は正面から来ないぶん、下から来る。座っていると、ズボンの裾のところだけ冷たい。
車の後ろの扉には、白い字が横に一列入っている。字は右の端だけ塗りが薄くて、そこに砂が乗っていた。扉の下の縁は、泥が乾いて、乾いた形のまま付いている。
◇
「高町くん、そこ、詰めてくれる」
「はい」
監督が隣に座った。
座って、白い髭を下から上へ一度撫でた。撫でると髭が広がって、広がったまま戻らなかった。
◇
「この島の灯台はね、二回光って、一回休むんだ。休むところが長い」
「はい」
「そこが撮りたくて来たんだけど、去年、中を見せてもらったら、ただの歯車だった」
「はい」
「がっかりしたよ。がっかりしたけど、帰らなかった」
監督は膝の上で手を組んだ。組んだ手の甲に、日が当たっている。当たっているところだけ、砂利の色が明るく見えた。
◇
「昔はね、船が週に一便しか来なかったんだって。灯台の人は、荷物を待つあいだ数を数えてたらしいよ」
「何をですか」
「わからない。教えてくれた人が、もう死んじゃった」
「はい」
「映画では、数えてることにした。何を数えてるかは、書いてない」
◇
海のほうから、船が一艘、右から左へ行った。
船は小さくて、屋根の上に赤いものが載っている。監督はそれを目で追って、追いきってから、また砂利のほうへ顔を戻した。
◇
監督は靴の先で砂利を寄せた。
寄せて、寄せたところに小さい山ができて、山は風で片側から崩れた。崩れきるのを、監督は座ったまま見ていた。
「冬に一度来たときはね、港の建物で二晩いたんだ。あそこ、椅子が硬い」
◇
宿までは歩いて十五分だと聞いている。
今ここを出れば、スープの鍋がまだ火にかかっているうちに着く。着けば、パンの端の固いところが残っている。固いところは、押すと戻る。
監督の話は続いていた。
◇
「雲は二十分で切れるって、あの人たちが言うんだよ」
「はい」
「ぼくは切れないほうに賭けてる。誰も乗ってこないけどね」
「はい」
「乾いてるでしょう、今日」
「乾いてます」
「うん」
監督はそこで一度、海のほうを見た。
見ているあいだ、俺は目を閉じている時間のほうが長かった。閉じても風の音は同じ大きさで来る。来るところが、右の耳だけだった。
◇
「監督、雲、切れました」
三隅さんが車の陰まで来て言った。
監督は膝に手をついて立ち上がった。立ち上がってから、砂利をもう一度、靴の先で均した。
「負けたな」
「はい」
「二十分もたってないよ、今の」
監督は歩きながら、まだ喋っていた。喋っている相手が俺なのかどうかは、途中でわからなくなった。
◇
午後は、同じ場所で四本撮った。
四本のあいだに、監督の言葉は三つだった。「短く」と「窓」と、それから、何も言わないで手のひらを一度だけ下へ向けた。
手のひらのぶんは、三隅さんも訳さなかった。訳す言葉が出ていないので、訳しようがないと言った。
現地の人たちは、手のひらのほうがいちばん早く動いた。照明の人が灯りを一段落として、録音の人が竿を五センチ下げて、ヨナスさんが俺の足元のテープを人差し指で押さえた。
テープは端が二箇所めくれていて、めくれたところに砂が入っている。押さえられたのは、めくれていないほうだった。
◇
終わったのは六時前で、外はまだ昼のような明るさだった。
機材を車へ運ぶあいだ、俺は箱を二つ持たされた。持って歩いたら、砂利のところで一度、箱の角が膝に当たった。
三隅さんが荷物の脇まで来た。
「高町さん、明日は台詞がありません」
「はい」
「立っているだけです。それでも来てくださいと、監督が」
「行きます」
「……立っているだけなのに、と言う人が多いです」
「言うんですか」
「言います。わたしが訳すのは、たいてい、そのあとの言い直しのほうです」
◇
今日のスープは白かった。
パンは端が残っていて、押すと戻った。魚は皿の上で二つに割れていて、割れ目のところに骨が見えている。名前は聞いていない。
◇
電波は、食堂の海側の壁の前でだけ入る。
壁の前には椅子が一つ置いてある。置いたのは俺ではない。誰が置いたのかも聞いていない。夕飯のあとに来ると、今日も空いていた。
その椅子に座って、端末を出した。
◇
妹から動画が来ていた。
開くと、最初に字幕が出た。〈兄ちゃんへ〉と書いてある。
次に台所が映った。母さんの後ろ姿だった。振り向かない。
次に茶の間。父さんが新聞を持っている。ページは動かなかった。〈父です〉と字幕が出た。
次に二階の廊下。姿見が一瞬だけ映って、すぐ外れた。
最後に妹が映って、二秒で終わった。〈以上〉
◇
全部で四十七秒だった。
そのうち三十秒は、母さんの後ろ姿だった。
音が三回、途中で終わっている。切ったところだ。
台所の映像には、鍋の蓋が二回鳴る音が入っている。二回目のあとで母さんが左へ動いて、そこで画が切り替わった。
茶の間の映像では、父さんの持っている新聞の右下に、折った跡が付いていた。折った跡のところだけ、字が読めない。
妹が映るところは、撮っている本人が映っているので、腕が伸びている。伸びた腕の向こうに、部屋の壁が半分だけ入った。
もう一度、頭から見た。
◇
知らない言葉のあいだに、知っている言葉が一つ混ざった。
食堂では現地の人が四人で喋っている。その中に、日本語が一つ入った。
「あんた、それ、何回見るの」
人形は椅子の背の上にいた。俺が置いた場所ではない。
(二回だ)
「三回よ。わたし、横で見てたもの」
(そうか)
◇
「あの子、返事を待ってるわよ」
(何を返す)
「何でもいいのよ」
(何でもいいのが、いちばん困る)
「困りなさいよ、たまには」
現地の人の一人が立ち上がって、椅子を戻した。戻すときに椅子の脚が床を擦って、人形の声はその音に混ざった。混ざったが、こっちには全部聞こえている。
◇
(明日、台詞が無い)
「関係ないでしょう」
(返すものが無い日に返すと、次が続かない)
「あんた、今ちょっと考えて言ったわね」
(考えた)
「考えた顔じゃなかったわよ」
◇
部屋に戻った。
窓は西を向いている。外はまだ明るくて、ガラスには何も映らない。
俺は窓の前に立って、一行だけ言った。声は出したが、廊下まで出ない大きさにした。
◇
机の上に台本を出した。
次の場面のぶんの紙は、夕方に三隅さんがくれた。カタカナが七行あって、その下に小さい字で日本語の意味が入っている。字は縦の線がまっすぐで、はらいのところだけ速い。
紙は四つに折ってある。折ったところが切れそうだったので、折る向きを変えた。変えたら、前の折り目と新しい折り目が交差して、真ん中のところだけ厚くなった。
ドアの下から紙が一枚入ってきた。明日の香盤である。
明日のところに、俺の台詞は入っていなかった。
◇
俺は、七行のカタカナの紙を、台本の明日のページにはさんだ。
はさんだところだけ、台本が浮いている。
窓の外は、まだ明るかった。




