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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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139/236

第139話 起動しなかったテイク

 エリーが俺の前に回り込んだ。


 回り込んで、顔を近づけて、そのまま止まった。止まったまま、こっちの目の高さに自分の目を合わせている。


「近い」


 エリーは俺の言ったことがわからないので、笑った。笑ってから、俺と同じ顔を作ろうとして、失敗して、また笑った。


 失敗したあとで、両手で自分の頬を上から押さえて、口の両端を指で下げた。下げたまま、もう一度こっちを見た。


 俺は下がらなかった。


「オハヨウ」


 エリーは、夕方にそれを言った。今日で三度目だった。


   ◇


 五月八日、金曜日。


 昼は十一時に出た。


 パンと、茹でた芋と、魚の入っていない魚のスープだった。魚のスープに魚が入っていない理由は、三隅さんに聞いても、向こうの人に聞いても、答えが違った。


 今は六時を過ぎている。


 六時を過ぎているが、日はまだ高い。この島では、日の位置で時間を測るとひどい目に遭う。


   ◇


 現場までは、宿から車で八分と、歩いて四分かかる。


 車が入れるのは草の生えている手前までで、そこから先は岩なので、機材は全部、人が持って下りる。下りる道は一本しかない。一本しかないので、朝は誰かの後ろを歩く。


 今朝、俺の前を歩いていたのはヨナスさんだった。ヨナスさんは途中で一度立ち止まって、足元の平たい石を指した。指してから、その石をまたいだ。


 俺もまたいだ。


 後ろから来た制作の人もまたいだ。またいでから、こっちを向いて、親指を立てた。何が良かったのかはわからない。


   ◇


 三隅さんが台本を持って隣に来た。


「今日のところ、船を待っている場面です」

「はい」

「船は来ません。来ないんですけど、来ないと知っているのは見ている人だけで、ソウは知りません」

「はい」

「監督は、待っている時間の長さだけ撮りたいと言っています。それで、長いです」

「はい」

「今日で三日目です。同じ岩で三日、待っています」


 三隅さんは台本の同じページを二回めくった。めくって、二回目に戻したところで手を止めた。


「高町さん、待っているのが長くて嫌になりませんか」

「腹は減ります」

「……そういう話ではなく」

「はい」


   ◇


 エリーは今日、この場面には出ない。


 出ないのに、朝から現場にいる。いる理由を三隅さんに聞いたら、家が近いからだと言われた。この島では、たいていのものが家から近い。


 エリーは俺の横に来て、俺と同じ方向を向いて、同じように立った。立って、二十秒くらいで飽きて、岩の窪みに溜まった水を指で突きはじめた。


 突いた水が跳ねて、俺のズボンの裾に当たった。エリーは俺の顔を見た。


 俺の顔は動かない。


 エリーは満足して、また水を突いた。


   ◇


 撮っているのは、灯台の下の岩場である。


 波は、来る間隔が長いときと短いときがある。短いときに台詞を言うと、後ろの音が変わるので、録音の人が手を上げる。上げられたら、その本は流れる。


 午前中に四本流れた。


 午後は、雲で二本流れた。


   ◇


 俺の台詞は三行ある。


 三行のうち、最後の一行だけ短い。短い一行の音は、紙に書くと五文字にしかならない。五文字のところに、三隅さんが日本語で「行くよ」と書き足してくれた。


 書き足してあるので、意味はわかっている。わかっているが、口から出るのは五文字の音だ。


   ◇


 海のほうを向いて立っていると、視界に入るのは水平線と、右の端に灯台の下のところだけだ。


 人は入らない。カメラも入らない。入らないので、どこを見ればいいのかは、最初の日に三隅さんが教えてくれた。


「水平線の、少し上を見てください。少しです」

「どれくらいですか」

「……少しです」


 少しがどれくらいなのかは、三日目になってもわからない。わからないので、同じところを見ている。


   ◇


 台詞の音を書いた紙は、コートの内側のポケットに入れてある。


 風のあるところで出すと持っていかれるので、出すときは背中を風のほうへ向ける。今日は三回出した。三回とも、同じ角を親指で押さえた。


 押さえるところが決まってきたので、そこだけ紙が白くなっている。折り目のところは、指で伸ばすと戻る。


 紙は誰にも見せていない。見せる必要のあるものではないし、見せたところで読めるのは俺だけである。


   ◇


 岩場の右のほうに、船が一艘置いてある。


 船といっても、動かない。木の枠に板を張って、外側だけ本物らしくしてある。美術の人が三日かけて色を塗ったと三隅さんが言っていた。


 今日はその船を撮らない。撮らないのに、朝、四人がかりでそこへ運んできた。運び終わると、四人とも岩に座って、しばらく動かなかった。


 俺はその四人の座り方を、朝のあいだ見ていた。四人とも足の開き方が同じだった。


 船の舳先のところに、白い字で名前が書いてある。読めない字だ。三隅さんに読んでもらったら、島の名前でも人の名前でもなくて、数字だと言われた。


 数字を字で書いてあるので、読めなかった。


   ◇


 七本目のあとに、制作の人が紙コップを配った。


 中身は湯だった。湯だけだった。何かを入れるための湯なのか、湯そのものなのか、周りを見てもわからなかった。


 現地の人たちは全員そのまま飲んでいた。俺も飲んだ。


 飲んだら、腹が余計に減った。


 エリーがコップの縁を両手で持って、湯気のところに顔を近づけて、そのまま動かなくなった。三隅さんが後ろから「熱いよ」と日本語で言って、それから英語で言い直した。


   ◇


 八本目のとき、風が変わった。


 風が変わると波の間隔も変わる。録音の人が手を上げて、そのあとで自分の耳の後ろを触った。


 ヨナスさんが空を見た。見て、腕時計を見た。それから監督のほうへ歩いていった。


 監督は座ったまま、モニターの上のほうを指した。


   ◇


 九本目と十本目は、続けて撮った。


 続けて撮ると、あいだに水を飲む時間が無い。飲まないでいると、二行目の途中で口の中が乾く。乾いたところで一度、音が薄くなった。


 監督は何も言わなかった。


 記録の人が台本にペンを入れて、入れたところに指を置いたまま、モニターを見ていた。


   ◇


 日が落ちはじめた。


 落ちはじめるといっても、この島の落ち方は遅い。遅いが、色は先に変わる。岩が急に茶色くなって、海のほうだけ明るいままになる。


 照明の人が脚立を畳んだ。


 制作の人が箱を二つ、車のほうへ運んでいった。運んで、戻ってきて、こんどはケーブルの束を肩に掛けた。


 衣装の人が俺の後ろへ来て、コートを持って立っていた。


   ◇


 ヨナスさんが手のひらを下へ向けた。


 終わりの合図だと思った。思ったが、ヨナスさんはそのあとでカメラの人に何か言って、カメラの人はレンズの脇を触った。


 三隅さんが小走りで来た。


「もう一本、押さえで撮ります」

「はい」

「音は諦めるそうです。絵だけ押さえます」

「はい」

「五分で終わります。たぶん」


   ◇


 衣装の人はコートを持ったまま、下がった。


 照明の人は、畳んだ脚立を畳んだまま持っていた。持ったまま、立っている。制作の人はケーブルを肩に掛けたまま、車の手前で止まった。


 カメラが回った。


   ◇


 俺は岩の上を六歩歩いて、立ち止まって、海のほうを向いた。


 風は右の耳から来る。波は、長いほうの間隔になっている。


 三行言った。


 最後の五文字を言ったところで、足の下の岩が少し滑った。滑ったので、右足の親指のところで踏み直した。


   ◇


 カメラが止まった。


 誰かが「オーケー」と言った。言ったのはカメラの人で、言ってからすぐ、自分でレンズにキャップをはめた。


 照明の人が脚立を車のほうへ持っていった。


 俺はコートを受け取って、袖に腕を通した。通したところで、腹が鳴った。


 鳴った音は、波の音に消えた。消えたと思ったが、衣装の人は俺の腹のあたりを見て、それから自分のポケットを探して、何も出さないで手を戻した。


   ◇


 監督がモニターの前で手を上げた。


 上げた手を、そのままにしている。


 三隅さんが監督のところへ行って、戻ってきた。


「見るそうです」

「今からですか」

「今からです」

「車は」

「待つそうです。全部」


   ◇


 モニターは車の後ろに置いてある。


 布が掛けてあって、布の端を持ち上げると中が見える。持ち上げる係は決まっていないので、いつも近くにいる人が持ち上げる。今日は制作の人だった。


 監督は椅子に座った。


 俺は立って見た。エリーは俺の横に来て、俺の腕のところに顎を乗せようとして、届かないので諦めた。


   ◇


「八本目、頭から」


 制作の人が布を持ち上げ直した。八本目が流れた。


 監督は途中で指を上げて、止めさせた。止まった画面の中では、俺が半分だけ振り向いている。


「ここね、振り向くところで、まだ船を待ってる。待ってるうちに振り向くと、待ってないことになる」

「はい」

「わかった?」

「わかりません」

「うん。ぼくもね、口で言うとこうなる」


 監督は指を下ろした。下ろしたところで、記録の人がページをめくった。


   ◇


 九本目が流れた。


 十本目のところで、監督は指を動かして、飛ばした。


 十一本目が流れた。


   ◇


 監督は画面を指で押さえた。


 押さえて、そのまま止めた。止めた画面の中では、俺が海のほうを向いて立っている。


 俺は台本を持った手を止めた。止めたのは、紙が落ちそうだったからではない。落ちそうではなかった。


   ◇


「今のが一番よかった。……なぜ驚いてるの」


 監督は日本語で言った。俺に向かって言ったので、三隅さんは訳さなかった。


「驚いてません」

「そう」


 監督は画面から指を離した。


   ◇


 モニターの後ろに立っていた人たちに見えたのは、片付けの途中で回した十一本目を、監督が指で押さえているところだけだった。


「もう一度、頭から」


 監督が言って、制作の人が布の端を持ち直した。


 十一本目が、また頭から流れた。


   ◇


 二度目が終わっても、誰も車のほうへ戻らなかった。


 照明の人は脚立を持ったまま立っている。制作の人は布の端を持ったままだ。ヨナスさんは、片付けかけたケーブルの上に片足を乗せた形で止まっていた。


 衣装の人だけが、俺のコートの襟を後ろから直した。


   ◇


 三度目が流れた。


 三度目は、監督が言う前に制作の人が布を持ち上げた。持ち上げるとき、後ろから二人が来て、モニターの横に立った。


 録音の人も来た。音を諦めた本だと知っている側の人が、腕を組んで画面を見ていた。


 エリーは飽きて、岩のほうへ戻っていった。


   ◇


 俺は車の後ろに立ったまま、コートのボタンを一つ留めた。


 留めてから、モニターのほうをもう一度見た。人はまだ動かない。ヨナスさんが足を下ろして、下ろした足でケーブルを軽く踏んで、踏んだまま画面を見ている。


 照明の人が、持っていた脚立を地面に置いた。置く音がして、そこで何人かが振り向いた。振り向いてから、また画面に戻った。


 誰も片付けを始めない。


 制作の人だけが、布の端を持ち上げる手をときどき持ち替えている。持ち替えるたびに、画面の端が一度暗くなる。


   ◇


 記録の人が三隅さんに何か言った。


 短い一言だった。三隅さんは聞いて、少しのあいだ、こっちを見なかった。


「訳します」

「はい」

「『十一本目だけ、書くところがありませんでした』」


   ◇


「どういう意味ですか」

「わかりません」

「三隅さんもですか」

「わたしもです。そのまま言いました」


   ◇


「書くところというのは、何を書くところですか」

「直すところです。次の本で直してもらうことを書きます。位置とか、間とか、目の高さとか」

「はい」

「今日は、十本ぶん書きました」

「多いですか」

「多くはないです。普通です」


 記録の人は台本を閉じて、脇に挟んだ。


 挟んでから、こっちを見て、それから自分の靴の先を見た。靴の先には、岩を歩いたぶんの傷が横に入っている。


 三隅さんは、記録の人が行ってしまってからも、その場に立っていた。


「高町さん、さっきのですけど」

「はい」

「わたしはうまく訳せていません。日本語にすると、違う話に聞こえます」

「そうですか」

「向こうの言い方だと、もっと短いんです。短いぶん、意味が広いです」

「はい」

「……すみません、うまく言えません」

「はい」


 三隅さんは台本を持ち直して、車のほうへ歩いていった。歩きながら、一度だけ振り返った。


   ◇


 監督が立ち上がった。


 立ち上がって、椅子を自分で畳んだ。畳んでから、俺のほうを見ないで言った。


「明日も、同じ場所でやる」

「はい」

「同じ場所で、同じところを、もう少しやる」

「はい」

「うん」


 監督は椅子を脇に抱えて、歩いていった。歩きながら、白い髭を下から上へ撫でた。


 撫でたところで一度立ち止まって、こっちを向かないまま、片手を肩の高さまで上げた。上げて、そのまま下ろした。


 現地の人が二人、同じことをやり返した。監督は見ていない。


 俺は台本をコートの脇に挟んだ。


 挟んだところに紙が入っているので、脇が少し厚い。厚いぶん、腕が体から離れる。離れたまま歩くと、風がそこへ入る。


 入るので、腕を締めた。締めると台本の角が肋のところに当たる。当たるほうを選んだ。


   ◇


 車のドアが順に閉まった。


 俺の乗る車は、いちばん後ろに停まっている。荷台の側が海のほうを向いていて、開けたままにしてあると、中に風が入る。


 風が入ると、荷台に積んだ紙の箱の蓋が持ち上がる。持ち上がるので、上に工具の袋を一つ乗せてある。乗せたのは俺ではない。


 俺は荷台の縁に腰を掛けて、靴の底についた砂を、縁の角で落とした。落ちた砂は、下の草の上に溜まった。


 三隅さんが横に立った。


「高町さん、夕飯、今日はスープが残っているそうです」

「はい」

「魚は、入っているそうです」

「はい」

「監督が、明日は朝が遅くていいと言っていました。潮の時間が動くので」

「はい」


   ◇


 俺は息を吐いた。


 吐いた息が、少しだけ白くなって、すぐに消えた。五月だが、日が落ちるとここは冷える。


 モニターの後ろには、まだ人が立っていた。


 灯台が二回光って、一回休んだ。


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