第140話 何もしていないのに褒められた
現場に着いたら、俺の立つところに、もうテープが貼ってあった。
貼ったのは俺ではない。ヨナスさんでもない。ヨナスさんは俺より後から車を降りて、テープを見て、指で二回叩いた。叩いて、位置は直さなかった。
直さなかったので、そのまま立った。
◇
五月十九日、火曜日。
朝、宿の前に車が来たのは八時だった。
「今日は車です」
「歩かないんですか」
「機材を上まで上げる日は車が出ます。ついでに乗せてもらいます」
「はい」
「帰りも同じです。荷物と一緒に下ります」
乗ったのは俺と、三隅さんと、衣装の人と、あとから走ってきた制作の人だった。制作の人は乗ると、自分の膝の上で紙を広げて、それを二回折り直した。
車は坂を上って、草のところで止まる。止まったところから灯台までは、砂利の道が二百歩くらい続いている。数えたのは今日ではない。
降りるとき、衣装の人が俺のコートの襟を先に立てた。立ててから、自分のコートの襟を立てた。
◇
今日は灯台の中で撮る。
中は狭い。階段が壁に沿って上まで続いていて、真ん中は空いている。空いているところに下から風が来るので、上がるほど寒い。
照明は下から二段目のところに一つと、上の踊り場に一つ立てた。二つ立てるのに、朝から一時間半かかった。
一時間半のあいだ、俺は下の壁のところに立っていた。壁は石で、背中を付けると冷たい。冷たいので、五分ごとに離した。
壁の石は、下のほうだけ角が丸い。丸いのは腰の高さまでで、その上は角が立ったままだった。丸いところの表面は、触ると粉が付く。
俺の場面は、その下から二段目のところだ。
◇
監督は階段の下に椅子を置いて座った。
座って、上を見て、それから膝の上に台本を広げた。広げた台本は、風でページがめくれる。監督は片手でページを押さえた。
押さえたまま、何も言わなかった。
◇
一本目を撮った。
二本目を撮った。
三本目のあとで、監督は「はい」と言って、それから「次」と言った。
三隅さんが英語にした。現地の人たちが動いた。動くのが速かったので、俺はまだ階段に立っていた。
◇
次の場所は、階段の上の踊り場だった。
上がるあいだ、俺の前を照明の人が歩いた。照明の人は、途中で振り返って、俺の足元を指した。段の縁が一箇所欠けている。
「サンキュー」
俺の言える英語は、これと、あと二つだ。
照明の人は笑って、上まで行って、そこで灯りの向きを変えた。
◇
灯台の上には、機械がある。
上がりきったところにガラスの部屋があって、その真ん中に、大きい玉のようなものが載っている。玉は硝子でできていて、中に灯りが入っている。
載っている台の下に歯車が四つある。四つのうち二つは大きくて、二つは小さい。回っているときは、小さいほうが速い。
撮影のあいだ、機械は止めてある。止めてあるのに、下から風が入ると、いちばん小さい歯車だけが少し動く。
俺は待ち時間のあいだ、それを見ていた。動くのは、風が入って三つ数えたあたりだ。
ガラスの部屋の床には、丸い金属の板が嵌めてある。板の縁に沿って、細かい傷が一周ぶん付いていた。傷の向きは全部同じで、内側から外へ流れている。
◇
踊り場は四畳ぶんくらいある。
窓が一つあって、そこから海が見える。ガラスは厚くて、外の音がほとんど入らない。入らないので、ここで喋ると、自分の声が耳の内側に残る。
台詞は二行だった。二行とも短い。
二行目のあとに、窓のほうへ半歩だけ動く。半歩は、テープの端から靴の幅ぶんだ。朝、ヨナスさんが自分の靴で測って決めた。
測ったとき、ヨナスさんは自分の足を俺の足の横に並べた。並べて、大きさが違うのを見て、それから俺の靴のほうで測り直した。
◇
撮った。
撮り終わったところで、監督は椅子から立ち上がらなかった。立ち上がらないまま、下から上に向かって片手を上げた。
上げた手は、階段の真ん中の空いているところを通って、上まで見えた。監督の顔は見えない。見えるのは手だけだ。
俺も手を上げた。上げてから、上げる必要があったのかどうかを考えた。考えても答えが出ないので、下ろした。
三隅さんが階段の途中から言った。
「オーケーだそうです」
「はい」
「もう一本もらいますか、と助監督が聞いたら、要らないと言ったそうです」
「はい」
◇
二本目のあいだに、下から二人上がってきた。
上がってきて、踊り場の隅に立った。二人とも、手に何も持っていない。持っていないので、何をしにきたのかがわからなかった。
三隅さんに聞いたら、休みの時間だと言われた。
「休みなのに上がってくるんですか」
「上がってきます」
「はい」
「下は寒いので、と言っていました」
下のほうが寒くないことは、朝のうちにわかっている。
◇
記録の人は、踊り場の入口に座っていた。
座って、台本を膝に置いて、ペンを持っている。持っているだけで、二本目のあいだ、一度も紙に付けなかった。
三本目のあとで、ページをめくった。めくった先は白かった。
◇
三本目のあいだ、踊り場の隅の二人は動かなかった。
動かないまま、窓の枠のところに手をついていた。ついた手が、ガラスに映っている。映ったほうの手だけ、指が長く見えた。
撮り終わって、監督が下から片手を上げたとき、二人は先に階段を下りていった。下りる音が、上まで返ってきた。
◇
衣装の人が俺のコートを持って立っていた。
持っているのに、渡さない。渡さないで、俺が窓の前から離れるまで待っていた。離れたところで、腕を通す形に広げた。
通した。通したところで、襟の後ろを一度直された。
◇
照明の人が灯りを下ろしにきた。
下ろす前に、俺の肩を一度叩いた。叩いて、短い言葉を言った。
一語だった。
言ってから、灯りの脚を畳んで、下りていった。
三隅さんは階段の途中で止まっていた。
「今の、訳しますか」
「訳せますか」
「……少し待ってください」
三隅さんは窓のほうを向いた。向いて、手すりに手を置いた。置いた手の指が、二回動いた。
「風が来る前の、空気が止まっているときの言い方です」
「長いですね」
「向こうでは一語です。天気にも人にも使います」
◇
「わからん」
「わたしもです。いえ、意味はわかるんですけど、日本語にすると別のものになります」
「はい」
「短くできませんか」
「できます。『静かだ』です」
「短いです」
「短いですけど、別の言葉になります。長くすると、今度は褒め言葉に聞こえなくなります」
「はい」
「向こうの人は、長く褒めません。長く褒めるのは、たぶん、失礼になります」
三隅さんは手すりから手を離した。
離してから、もう一度置いた。置いた手は、さっきと同じところにあった。
◇
階段を下りた。
下りる途中で、下から上がってきた録音の人とすれ違った。すれ違うとき、体を横にして、壁のほうへ寄った。
寄った壁は、階段の側だけ塗りが剥げている。剥げているのは肩の高さのところで、上と下は残っていた。同じところが何度も擦れたらしい。
◇
灯台の外へ出た。
外は明るい。五月の終わりが近いので、日が長くなっている。草の上に機材の箱が並んでいて、箱の上に手袋が片方だけ置いてあった。
誰の手袋なのかは、聞いていない。
◇
箱は全部で十四あった。
四つは同じ大きさで、残りは全部違う。横に長いのが一つあって、留め金が三つ付いている。三つのうち一つだけ、色が新しい。
積むのは現地の人の仕事で、俺は手を出さないように言われている。言われているので、草のところに立って見ていた。
見ていたら、いちばん背の高い人が「トーマ」と呼んだ。呼んで、箱を一つこっちへ寄越して、車の後ろを指した。
この島で俺の名前は「トーマ」だ。高町のほうは、誰も言わない。言えないらしい。
「高町さん、それ、持たなくていいです」
「持ちます」
「言われてるので」
「もう持ってます」
三隅さんは、そこで一度、背の高い人のほうを見た。背の高い人は次の箱を持ち上げていた。
俺はその箱を運んだ。運んだら、二つ目が来た。三つ目は、制作の人が横から取っていった。
取っていくとき、制作の人は俺の手のほうを見ないで、箱の底を見ていた。
◇
車が来なかった。
車は二台あって、機材を先に積んで下ろしに行っている。下ろして戻ってくるまで二十分だと聞いていたが、四十分たっても来なかった。
道は一本しかない。
道の先を見ても、坂の下までしか見えない。坂の下から先は、草と、その向こうが海だ。
草は膝の高さで、風が来るたびに一方向へ倒れる。倒れて、戻るのが遅い。倒れているあいだだけ、地面の色が見える。
◇
「歩いたら何分ですか」
「三十分くらいです。道は一本なので迷いません」
「飯は」
「七時までなら残っています」
「はい」
俺は歩き出した。
◇
ヨナスさんが道の真ん中に立って、坂の下を見ていた。
見て、戻ってきて、俺の前で立ち止まって、両手を横に広げた。広げてから、歩く形に指を二本動かした。
俺はもう歩いている。
ヨナスさんは広げた手をそのまま下ろして、俺の横に並んだ。並んで、同じ方向へ歩き出した。
「重い物は置いていきます。持って帰るのは、自分の物だけです」
訳したのは三隅さんだった。
◇
俺の持ち物は、コートと、台本と、紙である。
紙はコートの内側に入っている。歩くと、内側のポケットのところで一度、紙の角が肋に当たる。当たるのは左だ。
当たるので、歩幅を少し変えた。
コートのボタンは五つある。いちばん上の一つが糸から外れかけていて、歩くとそこだけ前が開いた。
◇
歩き出して五分で、後ろから話し声が聞こえた。
現地の人が四人、少し離れて歩いている。四人のうち二人が途中で足を止めて、片方の靴を脱いで、中の砂を出した。
三隅さんが俺の横に並んだ。並んで、歩幅を合わせようとして、途中でやめた。やめて、半歩後ろを歩くようになった。半歩後ろだと、こっちの顔が見えない。
俺は歩幅を落とさなかった。落とすと、また合わせにくる。
◇
「訳せないものは、どうするんですか」
「訳しません」
「はい」
「訳さないと、伝わりません。伝わらないんですけど、間違って伝わるよりはましです」
「はい」
「……高町さん、これ、困っているのはわたしだけですね」
「困ってません」
「はい。知ってます」
◇
坂を下りたところで、風の向きが変わった。
変わると、海の匂いが強くなる。強くなると、腹が減る。
道の脇に石を積んだ塀があって、塀の上が一箇所だけ凹んでいる。凹んだところに水が溜まっていて、水は濁っていない。濁っていないので、空が映っていた。
三隅さんは水を見なかった。見ないで、まだ言葉を探していた。
◇
宿に着いたのは八時前だった。
空はまだ明るかった。食堂の窓だけ、中の灯りのほうが明るくなっている。
飯はパンと魚だった。魚は、皿の上で頭のほうが左を向いていた。
皿は縁が一箇所欠けている。欠けたところに指を置くと、そこで止まる。
骨は、背のところで一本だけ太い。太いところを外すと、あとは指で分けられる。分けたぶんを端に寄せて、寄せたところにパンの端を置いた。
俺は皿を空にした。空にしたところで、食堂の人が皿を下げにきて、俺の皿を見て、それから同じ一語を言った。
◇
電波は、海側の壁の前でだけ入る。
壁の前の椅子に座って、端末を出した。日本から一通来ていた。有本さんからである。
〈お疲れさまです。有本です〉
〈帰りの便を仮で押さえました。日にちの確定は追って連絡します〉
〈日本から取材の依頼が二件来ています。返事はまだしていません〉
〈以上です〉
◇
俺は〈はい〉と返した。
返す文はいつも短い。短いと、次の連絡に「以上です」が増える。増えたぶん、こっちの返す文がまた短くなる。
返してから、少し待った。待っているあいだ、画面の上のところに、向こうの時刻と、こっちの時刻が二つ並んで出ている。二つのあいだは八時間ある。
向こうは朝の四時だった。
返事は来なかった。
◇
三隅さんが食堂の入口から呼んだ。
「高町さん、明日は九時です。宿の前に車が来ます」
「来ますか」
「……来ます」
「はい」
「今日のは、下ろしに行った先で、荷物がもう一つ増えたそうです。それで遅れました」
「はい」
三隅さんはそこで一度、口を開けて、閉じた。
閉じてから、別のことを言った。
「明日、監督は現場に来ません。船で本土へ行きます」
◇
外に出た。
宿の入口の内側には、靴の泥を落とす金物の櫛が打ちつけてある。
こすったら、砂利のほうが落ちなかった。落ちないので、外へ出た。
宿の前は砂利で、その先が草になっている。砂利のところに、俺の靴より小さい石がいくつも混ざっている。
混ざっている石の何個かは、色が濃い。濃いのが並んでいるのは、屋根の縁の真下の一列だけだった。指で押すと、そこだけ沈む。
丘の上の灯台は、もう点いていた。点いているのに、外はまだ明るい。
◇
食堂の窓の中では、まだ人が座っていた。
照明の人と、録音の人と、名前を知らない人が二人。四人とも、テーブルの同じ側に並んで座っている。向かい側は空いている。
テーブルの真ん中に、瓶が一本置いてある。瓶の横にコップが四つあって、四つとも中身の高さが違う。いちばん減っているのは、いちばん端のコップだった。
俺が窓の外を通ったら、照明の人が顔を上げた。
上げて、片手を肩の高さまで上げた。上げて、そのまま下ろした。
◇
俺は小石を一つ蹴った。
蹴った石は、砂利の上を転がって、草のところで止まった。止まったところに、窓から出た灯りが届いている。
石の影は、石の大きさに比べて長かった。
影の先は、草の中まで届いている。届いた先で、どこまでが影でどこからが草なのか、わからなくなっていた。




