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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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140/236

第140話 何もしていないのに褒められた

 現場に着いたら、俺の立つところに、もうテープが貼ってあった。


 貼ったのは俺ではない。ヨナスさんでもない。ヨナスさんは俺より後から車を降りて、テープを見て、指で二回叩いた。叩いて、位置は直さなかった。


 直さなかったので、そのまま立った。


   ◇


 五月十九日、火曜日。


 朝、宿の前に車が来たのは八時だった。


「今日は車です」

「歩かないんですか」

「機材を上まで上げる日は車が出ます。ついでに乗せてもらいます」

「はい」

「帰りも同じです。荷物と一緒に下ります」


 乗ったのは俺と、三隅さんと、衣装の人と、あとから走ってきた制作の人だった。制作の人は乗ると、自分の膝の上で紙を広げて、それを二回折り直した。


 車は坂を上って、草のところで止まる。止まったところから灯台までは、砂利の道が二百歩くらい続いている。数えたのは今日ではない。


 降りるとき、衣装の人が俺のコートの襟を先に立てた。立ててから、自分のコートの襟を立てた。


   ◇


 今日は灯台の中で撮る。


 中は狭い。階段が壁に沿って上まで続いていて、真ん中は空いている。空いているところに下から風が来るので、上がるほど寒い。


 照明は下から二段目のところに一つと、上の踊り場に一つ立てた。二つ立てるのに、朝から一時間半かかった。


 一時間半のあいだ、俺は下の壁のところに立っていた。壁は石で、背中を付けると冷たい。冷たいので、五分ごとに離した。


 壁の石は、下のほうだけ角が丸い。丸いのは腰の高さまでで、その上は角が立ったままだった。丸いところの表面は、触ると粉が付く。


 俺の場面は、その下から二段目のところだ。


   ◇


 監督は階段の下に椅子を置いて座った。


 座って、上を見て、それから膝の上に台本を広げた。広げた台本は、風でページがめくれる。監督は片手でページを押さえた。


 押さえたまま、何も言わなかった。


   ◇


 一本目を撮った。


 二本目を撮った。


 三本目のあとで、監督は「はい」と言って、それから「次」と言った。


 三隅さんが英語にした。現地の人たちが動いた。動くのが速かったので、俺はまだ階段に立っていた。


   ◇


 次の場所は、階段の上の踊り場だった。


 上がるあいだ、俺の前を照明の人が歩いた。照明の人は、途中で振り返って、俺の足元を指した。段の縁が一箇所欠けている。


「サンキュー」


 俺の言える英語は、これと、あと二つだ。


 照明の人は笑って、上まで行って、そこで灯りの向きを変えた。


   ◇


 灯台の上には、機械がある。


 上がりきったところにガラスの部屋があって、その真ん中に、大きい玉のようなものが載っている。玉は硝子でできていて、中に灯りが入っている。


 載っている台の下に歯車が四つある。四つのうち二つは大きくて、二つは小さい。回っているときは、小さいほうが速い。


 撮影のあいだ、機械は止めてある。止めてあるのに、下から風が入ると、いちばん小さい歯車だけが少し動く。


 俺は待ち時間のあいだ、それを見ていた。動くのは、風が入って三つ数えたあたりだ。


 ガラスの部屋の床には、丸い金属の板が嵌めてある。板の縁に沿って、細かい傷が一周ぶん付いていた。傷の向きは全部同じで、内側から外へ流れている。


   ◇


 踊り場は四畳ぶんくらいある。


 窓が一つあって、そこから海が見える。ガラスは厚くて、外の音がほとんど入らない。入らないので、ここで喋ると、自分の声が耳の内側に残る。


 台詞は二行だった。二行とも短い。


 二行目のあとに、窓のほうへ半歩だけ動く。半歩は、テープの端から靴の幅ぶんだ。朝、ヨナスさんが自分の靴で測って決めた。


 測ったとき、ヨナスさんは自分の足を俺の足の横に並べた。並べて、大きさが違うのを見て、それから俺の靴のほうで測り直した。


   ◇


 撮った。


 撮り終わったところで、監督は椅子から立ち上がらなかった。立ち上がらないまま、下から上に向かって片手を上げた。


 上げた手は、階段の真ん中の空いているところを通って、上まで見えた。監督の顔は見えない。見えるのは手だけだ。


 俺も手を上げた。上げてから、上げる必要があったのかどうかを考えた。考えても答えが出ないので、下ろした。


 三隅さんが階段の途中から言った。


「オーケーだそうです」

「はい」

「もう一本もらいますか、と助監督が聞いたら、要らないと言ったそうです」

「はい」


   ◇


 二本目のあいだに、下から二人上がってきた。


 上がってきて、踊り場の隅に立った。二人とも、手に何も持っていない。持っていないので、何をしにきたのかがわからなかった。


 三隅さんに聞いたら、休みの時間だと言われた。


「休みなのに上がってくるんですか」

「上がってきます」

「はい」

「下は寒いので、と言っていました」


 下のほうが寒くないことは、朝のうちにわかっている。


   ◇


 記録の人は、踊り場の入口に座っていた。


 座って、台本を膝に置いて、ペンを持っている。持っているだけで、二本目のあいだ、一度も紙に付けなかった。


 三本目のあとで、ページをめくった。めくった先は白かった。


   ◇


 三本目のあいだ、踊り場の隅の二人は動かなかった。


 動かないまま、窓の枠のところに手をついていた。ついた手が、ガラスに映っている。映ったほうの手だけ、指が長く見えた。


 撮り終わって、監督が下から片手を上げたとき、二人は先に階段を下りていった。下りる音が、上まで返ってきた。


   ◇


 衣装の人が俺のコートを持って立っていた。


 持っているのに、渡さない。渡さないで、俺が窓の前から離れるまで待っていた。離れたところで、腕を通す形に広げた。


 通した。通したところで、襟の後ろを一度直された。


   ◇


 照明の人が灯りを下ろしにきた。


 下ろす前に、俺の肩を一度叩いた。叩いて、短い言葉を言った。


 一語だった。


 言ってから、灯りの脚を畳んで、下りていった。


 三隅さんは階段の途中で止まっていた。


「今の、訳しますか」

「訳せますか」

「……少し待ってください」


 三隅さんは窓のほうを向いた。向いて、手すりに手を置いた。置いた手の指が、二回動いた。


「風が来る前の、空気が止まっているときの言い方です」

「長いですね」

「向こうでは一語です。天気にも人にも使います」


   ◇


「わからん」

「わたしもです。いえ、意味はわかるんですけど、日本語にすると別のものになります」

「はい」

「短くできませんか」

「できます。『静かだ』です」

「短いです」

「短いですけど、別の言葉になります。長くすると、今度は褒め言葉に聞こえなくなります」

「はい」

「向こうの人は、長く褒めません。長く褒めるのは、たぶん、失礼になります」


 三隅さんは手すりから手を離した。


 離してから、もう一度置いた。置いた手は、さっきと同じところにあった。


   ◇


 階段を下りた。


 下りる途中で、下から上がってきた録音の人とすれ違った。すれ違うとき、体を横にして、壁のほうへ寄った。


 寄った壁は、階段の側だけ塗りが剥げている。剥げているのは肩の高さのところで、上と下は残っていた。同じところが何度も擦れたらしい。


   ◇


 灯台の外へ出た。


 外は明るい。五月の終わりが近いので、日が長くなっている。草の上に機材の箱が並んでいて、箱の上に手袋が片方だけ置いてあった。


 誰の手袋なのかは、聞いていない。


   ◇


 箱は全部で十四あった。


 四つは同じ大きさで、残りは全部違う。横に長いのが一つあって、留め金が三つ付いている。三つのうち一つだけ、色が新しい。


 積むのは現地の人の仕事で、俺は手を出さないように言われている。言われているので、草のところに立って見ていた。


 見ていたら、いちばん背の高い人が「トーマ」と呼んだ。呼んで、箱を一つこっちへ寄越して、車の後ろを指した。


 この島で俺の名前は「トーマ」だ。高町のほうは、誰も言わない。言えないらしい。


「高町さん、それ、持たなくていいです」

「持ちます」

「言われてるので」

「もう持ってます」


 三隅さんは、そこで一度、背の高い人のほうを見た。背の高い人は次の箱を持ち上げていた。


 俺はその箱を運んだ。運んだら、二つ目が来た。三つ目は、制作の人が横から取っていった。


 取っていくとき、制作の人は俺の手のほうを見ないで、箱の底を見ていた。


   ◇


 車が来なかった。


 車は二台あって、機材を先に積んで下ろしに行っている。下ろして戻ってくるまで二十分だと聞いていたが、四十分たっても来なかった。


 道は一本しかない。


 道の先を見ても、坂の下までしか見えない。坂の下から先は、草と、その向こうが海だ。


 草は膝の高さで、風が来るたびに一方向へ倒れる。倒れて、戻るのが遅い。倒れているあいだだけ、地面の色が見える。


   ◇


「歩いたら何分ですか」

「三十分くらいです。道は一本なので迷いません」

「飯は」

「七時までなら残っています」

「はい」


 俺は歩き出した。


   ◇


 ヨナスさんが道の真ん中に立って、坂の下を見ていた。


 見て、戻ってきて、俺の前で立ち止まって、両手を横に広げた。広げてから、歩く形に指を二本動かした。


 俺はもう歩いている。


 ヨナスさんは広げた手をそのまま下ろして、俺の横に並んだ。並んで、同じ方向へ歩き出した。


「重い物は置いていきます。持って帰るのは、自分の物だけです」


 訳したのは三隅さんだった。


   ◇


 俺の持ち物は、コートと、台本と、紙である。


 紙はコートの内側に入っている。歩くと、内側のポケットのところで一度、紙の角が肋に当たる。当たるのは左だ。


 当たるので、歩幅を少し変えた。


 コートのボタンは五つある。いちばん上の一つが糸から外れかけていて、歩くとそこだけ前が開いた。


   ◇


 歩き出して五分で、後ろから話し声が聞こえた。


 現地の人が四人、少し離れて歩いている。四人のうち二人が途中で足を止めて、片方の靴を脱いで、中の砂を出した。


 三隅さんが俺の横に並んだ。並んで、歩幅を合わせようとして、途中でやめた。やめて、半歩後ろを歩くようになった。半歩後ろだと、こっちの顔が見えない。


 俺は歩幅を落とさなかった。落とすと、また合わせにくる。


   ◇


「訳せないものは、どうするんですか」

「訳しません」

「はい」

「訳さないと、伝わりません。伝わらないんですけど、間違って伝わるよりはましです」

「はい」

「……高町さん、これ、困っているのはわたしだけですね」

「困ってません」

「はい。知ってます」


   ◇


 坂を下りたところで、風の向きが変わった。


 変わると、海の匂いが強くなる。強くなると、腹が減る。


 道の脇に石を積んだ塀があって、塀の上が一箇所だけ凹んでいる。凹んだところに水が溜まっていて、水は濁っていない。濁っていないので、空が映っていた。


 三隅さんは水を見なかった。見ないで、まだ言葉を探していた。


   ◇


 宿に着いたのは八時前だった。


 空はまだ明るかった。食堂の窓だけ、中の灯りのほうが明るくなっている。


 飯はパンと魚だった。魚は、皿の上で頭のほうが左を向いていた。


 皿は縁が一箇所欠けている。欠けたところに指を置くと、そこで止まる。


 骨は、背のところで一本だけ太い。太いところを外すと、あとは指で分けられる。分けたぶんを端に寄せて、寄せたところにパンの端を置いた。


 俺は皿を空にした。空にしたところで、食堂の人が皿を下げにきて、俺の皿を見て、それから同じ一語を言った。


   ◇


 電波は、海側の壁の前でだけ入る。


 壁の前の椅子に座って、端末を出した。日本から一通来ていた。有本さんからである。


 〈お疲れさまです。有本です〉

 〈帰りの便を仮で押さえました。日にちの確定は追って連絡します〉

 〈日本から取材の依頼が二件来ています。返事はまだしていません〉

 〈以上です〉


   ◇


 俺は〈はい〉と返した。


 返す文はいつも短い。短いと、次の連絡に「以上です」が増える。増えたぶん、こっちの返す文がまた短くなる。


 返してから、少し待った。待っているあいだ、画面の上のところに、向こうの時刻と、こっちの時刻が二つ並んで出ている。二つのあいだは八時間ある。


 向こうは朝の四時だった。


 返事は来なかった。


   ◇


 三隅さんが食堂の入口から呼んだ。


「高町さん、明日は九時です。宿の前に車が来ます」

「来ますか」

「……来ます」

「はい」

「今日のは、下ろしに行った先で、荷物がもう一つ増えたそうです。それで遅れました」

「はい」


 三隅さんはそこで一度、口を開けて、閉じた。


 閉じてから、別のことを言った。


「明日、監督は現場に来ません。船で本土へ行きます」


   ◇


 外に出た。


 宿の入口の内側には、靴の泥を落とす金物の櫛が打ちつけてある。


 こすったら、砂利のほうが落ちなかった。落ちないので、外へ出た。


 宿の前は砂利で、その先が草になっている。砂利のところに、俺の靴より小さい石がいくつも混ざっている。


 混ざっている石の何個かは、色が濃い。濃いのが並んでいるのは、屋根の縁の真下の一列だけだった。指で押すと、そこだけ沈む。


 丘の上の灯台は、もう点いていた。点いているのに、外はまだ明るい。


   ◇


 食堂の窓の中では、まだ人が座っていた。


 照明の人と、録音の人と、名前を知らない人が二人。四人とも、テーブルの同じ側に並んで座っている。向かい側は空いている。


 テーブルの真ん中に、瓶が一本置いてある。瓶の横にコップが四つあって、四つとも中身の高さが違う。いちばん減っているのは、いちばん端のコップだった。


 俺が窓の外を通ったら、照明の人が顔を上げた。


 上げて、片手を肩の高さまで上げた。上げて、そのまま下ろした。


   ◇


 俺は小石を一つ蹴った。


 蹴った石は、砂利の上を転がって、草のところで止まった。止まったところに、窓から出た灯りが届いている。


 石の影は、石の大きさに比べて長かった。


 影の先は、草の中まで届いている。届いた先で、どこまでが影でどこからが草なのか、わからなくなっていた。


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