第141話 時差のある通話
シーツの端が、俺が寝る側と反対に折れていた。
昨日の夜、俺は右を下にして寝た。折れているのは左のほうである。
「あんた、今日は撮らないんでしょう」
人形は窓枠の上に座っていた。窓の外は白い。白いというのは霧のことで、霧が出ると、この島では海が消える。海が消えると、灯台も途中から上が見えなくなる。
「流れた」
「じゃあ何するの」
「何もしない」
「一日中?」
「そうだ」
◇
五月二十九日、金曜日。
六時に一度、廊下で足音がした。
足音は俺の部屋の前で止まって、それから戻っていった。しばらくして、ドアの下に紙が入った。
紙には三隅さんの字で〈本日、霧のため撮影なし。夕食は通常どおりです〉と書いてあった。
その下に、小さい字で〈港も出ません〉と足してある。
港が出ないと、本土から物が来ない。物が来ないと、食堂の献立が変わる。変わったところで、俺の側にできることは何も無い。
紙は裏が白かったので、裏返して机の端に置いた。
朝の飯はパンと、茹でた卵と、黒い汁だった。
黒い汁が何なのかは、飲んでもわからなかった。飲んだあとで舌の奥に残る味は、日本で飲んだことのないものだった。
食堂には四人いた。四人とも、今日はゆっくり食べていた。
いちばん奥に座っていたのは、灯台の階段で灯りを持っていた人だ。パンを二つに割って、片方だけ皿に置いて、もう片方を持ったまま外を見ていた。外は白い。見えるものは無い。
見えるものが無いほうを、その人は長いこと見ていた。
◇
廊下の突き当たりの湯沸かしの前に、二人並んでいた。
二人とも、湯が出るのを待っている。この湯沸かしは、押してから湯が出るまでのあいだに、必ず空気が出る。空気が出ているあいだ、押した人はコップを浮かせて待つ。
俺が後ろに並んだら、前の一人が振り向いて、場所を空けた。空けられたので、先に湯を入れた。入れて、礼のつもりで頭を下げた。
下げたら、二人とも下げ返してきた。
◇
部屋に戻って、机に座った。
机の上には台本と、紙と、端末がある。台本は今日は開かない。紙も出さない。
端末の画面の上には、時刻が二つ並んで出る。
二つのあいだは八時間ある。
◇
「日本にかけるとする」
「かけなさいよ」
「今こっちは八時だ」
「それで?」
「八時に八時間を足すと、十六時だ」
「引くんじゃないの」
「引くと零時だ」
「零時なら寝てるわね」
「十六時なら学校だ」
「どっちなの」
「わからん」
◇
人形は窓枠から机の縁へ移った。
「あんた、こっちに来て何日たったかは数えるのに、時計は数えられないのね」
「数えてない」
「数えてないの?」
「日は聞かれれば言える。三隅さんが毎朝、日付を言うからだ」
「じゃあ時計も聞きなさいよ」
「今聞くと、朝飯の途中で邪魔をする」
「もう食べ終わってるでしょう」
「終わった」
「じゃあ聞きなさいよ」
◇
俺は場合分けをした。
場合分けというのは、犬飼さんが電話でよくやるやつだ。先方が受けたらこう、受けなかったらこう、と口に出して並べる。並べているあいだ、犬飼さんは前を見ている。
こっちが八時で、向こうが十六時だとする。学校は終わっている。妹は帰っている。母さんは台所にいる。父さんはいない。
こっちが八時で、向こうが零時だとする。全員寝ている。妹だけ起きている可能性がある。妹は起きていても出ない。
どちらにしても、出るのは妹ではない。
「結論は」
「昼まで待つ」
「待つの?」
「待つ」
◇
窓の外は、十時になっても白かった。
白い中に、たまに黒いものが通る。鳥である。鳥は霧の中でも真っ直ぐ飛ぶ。真っ直ぐ飛ぶのに、どこへ行くのかは見えない。
部屋の中は静かだった。静かなので、下の食堂で誰かが椅子を引く音が、天井を通って聞こえる。
◇
昼まで待った。
待っているあいだ、俺は窓の外を見ていた。霧は動く。動くのに、どこへ行っているのかがわからない。動いているのに、景色のほうは変わらない。
人形はその横で、同じほうを見ていた。
「日本の音、聞かせなさいよ」
「聞こえないだろう」
「聞こえないわよ。でも、あんたの返事は聞こえるでしょう」
「そうだな」
「あんたの返事だけ聞いてれば、向こうが何を言ってるかは、だいたいわかるの」
◇
昼の少し前に、端末が鳴った。
鳴ったのは机の上ではない。ポケットの中だった。
部屋の中では、窓際に立ったときだけ電波が届く。届くといっても、切れる。
俺は部屋を出て、階段を下りて、宿の外へ出た。
◇
宿の前の砂利を十歩ほど歩いて、草のところで立つと、切れなくなる。
草は霧で濡れている。濡れているので、立っていると靴の縫い目のところから水が入る。入るのは右だけだ。左は入らない。
入るほうの足を少し上げて、片方の踵を石の上に乗せた。乗せると水は入らないが、そのまま長くは立てない。
立って、画面を見た。
妹だった。
◇
「兄ちゃん」
「なんだ」
「今どこ」
「外だ」
「外って、宿の外?」
「宿の外だ」
「なんで外にいるの」
「中だと切れる」
画面の中の妹は、茶の間にいた。後ろに茶箪笥が映っていて、その上に何か新しいものが置いてある。何なのかは、光って見えなかった。
「そっち、何時」
「十二時前だ」
「こっち八時。夜の」
「そうか」
「そっちが十二時なら、こっちは八時。足すんだよ、八時間」
「引くんじゃないのか」
「足すの。引くのはこっちの側」
妹は画面を横へ動かした。
動かした先に、台所の入口が入った。母さんが立っていて、こっちを見て、それから手を拭いた。拭いてから、一度手を上げた。上げただけで、何も言わなかった。
◇
「飯は」
「食べたとこ」
「何食った」
「鮭」
「他は」
「味噌汁と、白いご飯」
妹は画面を下に向けた。
下に向けた先に、茶碗が映った。茶碗は空だった。空だが、内側の底のところに、粒が三つ残っている。
「見えた?」
「見えた」
「三粒残ってる」
「そこだけ乾いてない」
「兄ちゃん、今、目が動いた」
「動いてない」
◇
妹は画面を戻した。
「そっちのご飯は」
「パンと魚だ」
「毎日?」
「毎日だ」
「飽きない?」
「飽きない」
「嘘でしょ」
「魚は日によって形が違う」
「そこじゃないよ」
◇
父さんが後ろを通った。
通って、画面のほうを見ないで、そのまま風呂場のほうへ行った。行ってから、戻ってきて、画面の端に立った。
「元気か」
それだけ聞いて、また行った。
行ってから、風呂場のドアが閉まる音がした。閉まる音のあとで、水の音になった。父さんは湯を張るとき、必ず一度、蛇口を全開にしてから絞る。
「今の、父さん」
「見えた」
「三日くらい前から、風呂の前にあそこで止まるようになった」
「そうか」
◇
妹は画面を自分に戻して、少し黙った。
「あ」
「なんだ」
「誕生日おめでとうって言うの忘れてた」
「そうか」
「十九でしょ」
「そうだ」
左手の指を折って、島に来てからの日を数え直した。折った指は二回、最初に戻った。
「今言った」
「聞いた」
妹はそれ以上その話をしなかった。しないで、後ろの茶箪笥の上のものを取って、画面に近づけた。近づけすぎて、何なのかは、やっぱりわからなかった。
◇
「学校は」
「終わった。四時に」
「そうか」
「兄ちゃん、学校の話、興味ないでしょ」
「茶碗に三粒あった」
「え」
「さっき映ったやつだ。まだ残ってるのか」
「……もう洗ったよ」
「そうか」
妹は画面を持ち直した。持ち直すとき、指が一本、レンズのところに入った。入ったので、画面の隅が丸く暗くなった。
◇
「兄ちゃん、いつ帰ってくるの」
「六月の終わりだ」
「六月の何日」
「二十六日に終わる。帰るのはその後だ」
「終わるのと帰るのは違うの」
「違う」
「ふうん」
妹は画面の下のほうを見ていた。見ながら、片手で茶箪笥の縁を触っている。触って、離して、また触った。
「別に、早く帰ってこいとかじゃないから」
「わかった」
「わかってないでしょ」
◇
妹が画面から消えた。画面が一度、天井を映した。
消えて、少ししてから、別の顔が入った。
「高町くん」
美咲だった。
画面が一度、天井を映してから戻った。持ち替えたのだと思う。持ち替えたあとの角度は、妹のときより低い。低いので、顎の下のほうが映っている。
◇
「なんでうちにいる」
「ひなたちゃんに借りたものを返しに来たの」
「そうか」
「返して、そのまま上がった。お母さんがお茶を出したから」
「そうか」
「二時間いる」
「長いな」
「長いわね」
美咲は画面を持ったまま、廊下のほうへ歩いた。歩いて、玄関のところで止まった。玄関の靴箱の上に、鍵が置いてある。
◇
「そっち、寒い?」
「寒い」
「どれくらい」
「息が白くなる日と、ならない日がある」
「五月なのに」
「五月だ」
「……こっちは、もう暑いのよ」
美咲は靴箱の上の鍵を見ていた。見て、指で位置を直した。直したところで、また止めた。
鍵は二本ある。一本は玄関のやつだ。もう一本は違う。違うほうを靴箱の上に置くと、帰るときに忘れる。
「それ、鍵か」
「わたしのよ」
「置くと忘れる」
「……知ってるわよ」
美咲は鍵を取って、ポケットに入れた。入れて、手をポケットから出さなかった。
◇
「あなた、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「寝てる?」
「寝てる」
「困ってることは」
「無い」
「一つもないの」
「今日は何も無い」
美咲は少しのあいだ、何も言わなかった。
言わないで、玄関の戸のガラスのほうを向いた。ガラスの向こうは暗い。暗いのに、向こう側を見ようとする形で顔が動いた。
玄関の戸は、下のほうのガラスが一枚だけ曇っている。前から曇っている。美咲が向いたのは、その曇っているほうだった。
◇
「わたし、最近、そっちの時間で考えるようになった」
「どういう意味だ」
「時計を見て、八時間引くの」
「そうか」
「引いて、今そっちは何時だな、と思うだけ。それだけよ」
「そうか」
「……そうか、しか言わないのね」
「はい」
「はいでもないでしょう」
◇
美咲は画面を少し下げた。
下げたので、映っているのは肩から下だけになった。肩から下は動かない。
「別に、何かあるわけじゃないの」
「わかった」
「時計を見るだけよ」
「はい」
「……もういい。ひなたちゃんに返す」
画面が揺れて、妹に戻った。
◇
妹の後ろで、美咲が何か言った。言った声は入ったが、言葉は聞き取れなかった。
「今の、なんて言った」
「言ってない」
「言った」
「言ってないって言ってるでしょ」
妹は画面を持ち上げて、自分の顔だけにした。
「兄ちゃん、美咲さんの顔、赤かった」
「見てない」
「見てないの?」
「画面が下がってた」
「下げたんだよ」
「そうか」
妹は口を開けて、開けたまま何も言わないで、閉じた。
閉じてから、後ろの茶箪笥のほうへ画面を向けた。向けた先に、さっきの新しいものがある。今度は近づけなかったので、輪郭だけ見えた。四角くて、下に脚が二本ついている。
「これ、なんだと思う」
「わからん」
「当ててよ」
「わからん」
「もういい」
妹はそれを言って、切った。
切れる直前に、後ろで母さんが何か言ったのが、半分だけ入った。
◇
俺は草のところに立ったまま、画面を見ていた。
画面は、切れたあともしばらく明るいままだった。明るいあいだに、そこに映っているのは俺の顔ではなく、通話が終わったことを知らせる字だけだった。
霧はまだ出ている。出ているが、朝より薄い。薄くなったので、灯台の下のほうが見えるようになった。
宿のほうを振り返ったら、食堂の窓が二つとも開いていた。開けたのは誰かが煙草を吸うためで、吸っている人は窓の内側にいる。
画面の上に、通知が一つ残っていた。
ケイからである。
名前の横の小さい画を見た。去年の収録の楽屋で撮ったやつで、二人写っている。俺の側だけ目が半分閉じていた。島へ来る前の最後の収録でも、隣はこの男だった。
◇
部屋に戻った。
机の上の紙は、朝に裏返して置いたままだった。裏の白いほうが上を向いていて、その上に、窓から来た光の四角が半分だけ載っている。
俺は椅子を引いて座って、通知を開いた。
◇
動画だった。
最初に映ったのは天井で、次にケイの顔が入った。顔が入るまでに四秒かかっている。
「おう、灯真。撮ってんのか、これ。撮れてるな」
ケイは自分の部屋にいるらしい。後ろに壁があって、壁に何も貼っていない。
「なんかな、そっち電話しにくいらしいやんけ。時間が合わへんとか、電波が入らんとか。ほんで動画でええかって言われて、動画や」
◇
「こっちはな、暑いで。もう夏や。お前のとこ寒いんやろ。ええな」
ケイは首の後ろを掻いた。掻いて、そのまま手を止めた。
「ええなて、何がええねんな。俺、寒いの嫌いやったわ」
画面が一度傾いた。傾いて、戻った。戻ったときには、ケイは座り直していた。
◇
「特番な、収録の日また動いた。二日ぶんが三日になった。三日やぞ。誰も謝らへんねんこれ」
ケイは画面の外へ手を伸ばして、何か取った。取ったものを口に入れて、噛んだ。噛みながら喋るので、音が潰れた。
「お前んち、この前も行ったで。お前おらんのに行った。妹に追い返された」
◇
「あー、あとな」
ケイはそこで止まった。
止まって、画面の外のほうを見た。見て、口を一度開けて、閉じた。
閉じてから、全然違う話を始めた。
「そや、駅前の店な、潰れたわ。あの、いつも行ってた」
ケイは指を二本立てて、それを画面の前で振った。
「二百八十円の。あそこ、俺ら二人しか客おらんかったやろ。そら潰れるわ」
言って、笑った。笑ってから、笑うのをやめて、また画面の外を見た。
◇
動画のあいだ、ケイは一度もこっちの名前を呼ばなかった。
最初に一回だけ呼んで、あとは呼ばない。呼ばないで喋るので、誰に向かって喋っているのかが、途中でわからなくなる。俺はそのまま見終わった。
◇
動画は一分五十秒あった。
最後の十秒で、ケイは顔を横に向けたまま喋った。横に向けたので、声が急に小さくなった。
小さくなったぶん、その向こうで鳴っている音のほうが近くなった。ケイの部屋の外の音だ。
音を上げても、それ以上は上がらない。
◇
俺は端末を耳に当てた。
当てて、最後の十秒をもう一度流した。
当てると、部屋の中の音が半分になる。半分になったぶん、動画の中の音が近くなった。
入っていたのは、ケイの声と、その向こうで鳴っている踏切の音だった。
踏切の音は、ケイの家の近くのものだ。あの踏切は、鳴りはじめてから電車が来るまでが長い。長いあいだ、ケイは何も言わなかった。




