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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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141/236

第141話 時差のある通話

 シーツの端が、俺が寝る側と反対に折れていた。


 昨日の夜、俺は右を下にして寝た。折れているのは左のほうである。


「あんた、今日は撮らないんでしょう」


 人形は窓枠の上に座っていた。窓の外は白い。白いというのは霧のことで、霧が出ると、この島では海が消える。海が消えると、灯台も途中から上が見えなくなる。


「流れた」

「じゃあ何するの」

「何もしない」

「一日中?」

「そうだ」


   ◇


 五月二十九日、金曜日。


 六時に一度、廊下で足音がした。


 足音は俺の部屋の前で止まって、それから戻っていった。しばらくして、ドアの下に紙が入った。


 紙には三隅さんの字で〈本日、霧のため撮影なし。夕食は通常どおりです〉と書いてあった。


 その下に、小さい字で〈港も出ません〉と足してある。


 港が出ないと、本土から物が来ない。物が来ないと、食堂の献立が変わる。変わったところで、俺の側にできることは何も無い。


 紙は裏が白かったので、裏返して机の端に置いた。


 朝の飯はパンと、茹でた卵と、黒い汁だった。


 黒い汁が何なのかは、飲んでもわからなかった。飲んだあとで舌の奥に残る味は、日本で飲んだことのないものだった。


 食堂には四人いた。四人とも、今日はゆっくり食べていた。


 いちばん奥に座っていたのは、灯台の階段で灯りを持っていた人だ。パンを二つに割って、片方だけ皿に置いて、もう片方を持ったまま外を見ていた。外は白い。見えるものは無い。


 見えるものが無いほうを、その人は長いこと見ていた。


   ◇


 廊下の突き当たりの湯沸かしの前に、二人並んでいた。


 二人とも、湯が出るのを待っている。この湯沸かしは、押してから湯が出るまでのあいだに、必ず空気が出る。空気が出ているあいだ、押した人はコップを浮かせて待つ。


 俺が後ろに並んだら、前の一人が振り向いて、場所を空けた。空けられたので、先に湯を入れた。入れて、礼のつもりで頭を下げた。


 下げたら、二人とも下げ返してきた。


   ◇


 部屋に戻って、机に座った。


 机の上には台本と、紙と、端末がある。台本は今日は開かない。紙も出さない。


 端末の画面の上には、時刻が二つ並んで出る。


 二つのあいだは八時間ある。


   ◇


「日本にかけるとする」

「かけなさいよ」

「今こっちは八時だ」

「それで?」

「八時に八時間を足すと、十六時だ」

「引くんじゃないの」

「引くと零時だ」

「零時なら寝てるわね」

「十六時なら学校だ」

「どっちなの」

「わからん」


   ◇


 人形は窓枠から机の縁へ移った。


「あんた、こっちに来て何日たったかは数えるのに、時計は数えられないのね」

「数えてない」

「数えてないの?」

「日は聞かれれば言える。三隅さんが毎朝、日付を言うからだ」

「じゃあ時計も聞きなさいよ」

「今聞くと、朝飯の途中で邪魔をする」

「もう食べ終わってるでしょう」

「終わった」

「じゃあ聞きなさいよ」


   ◇


 俺は場合分けをした。


 場合分けというのは、犬飼さんが電話でよくやるやつだ。先方が受けたらこう、受けなかったらこう、と口に出して並べる。並べているあいだ、犬飼さんは前を見ている。


 こっちが八時で、向こうが十六時だとする。学校は終わっている。妹は帰っている。母さんは台所にいる。父さんはいない。


 こっちが八時で、向こうが零時だとする。全員寝ている。妹だけ起きている可能性がある。妹は起きていても出ない。


 どちらにしても、出るのは妹ではない。


「結論は」

「昼まで待つ」

「待つの?」

「待つ」


   ◇


 窓の外は、十時になっても白かった。


 白い中に、たまに黒いものが通る。鳥である。鳥は霧の中でも真っ直ぐ飛ぶ。真っ直ぐ飛ぶのに、どこへ行くのかは見えない。


 部屋の中は静かだった。静かなので、下の食堂で誰かが椅子を引く音が、天井を通って聞こえる。


   ◇


 昼まで待った。


 待っているあいだ、俺は窓の外を見ていた。霧は動く。動くのに、どこへ行っているのかがわからない。動いているのに、景色のほうは変わらない。


 人形はその横で、同じほうを見ていた。


「日本の音、聞かせなさいよ」

「聞こえないだろう」

「聞こえないわよ。でも、あんたの返事は聞こえるでしょう」

「そうだな」

「あんたの返事だけ聞いてれば、向こうが何を言ってるかは、だいたいわかるの」


   ◇


 昼の少し前に、端末が鳴った。


 鳴ったのは机の上ではない。ポケットの中だった。


 部屋の中では、窓際に立ったときだけ電波が届く。届くといっても、切れる。


 俺は部屋を出て、階段を下りて、宿の外へ出た。


   ◇


 宿の前の砂利を十歩ほど歩いて、草のところで立つと、切れなくなる。


 草は霧で濡れている。濡れているので、立っていると靴の縫い目のところから水が入る。入るのは右だけだ。左は入らない。


 入るほうの足を少し上げて、片方の踵を石の上に乗せた。乗せると水は入らないが、そのまま長くは立てない。


 立って、画面を見た。


 妹だった。


   ◇


「兄ちゃん」

「なんだ」

「今どこ」

「外だ」

「外って、宿の外?」

「宿の外だ」

「なんで外にいるの」

「中だと切れる」


 画面の中の妹は、茶の間にいた。後ろに茶箪笥が映っていて、その上に何か新しいものが置いてある。何なのかは、光って見えなかった。


「そっち、何時」

「十二時前だ」

「こっち八時。夜の」

「そうか」

「そっちが十二時なら、こっちは八時。足すんだよ、八時間」

「引くんじゃないのか」

「足すの。引くのはこっちの側」


 妹は画面を横へ動かした。


 動かした先に、台所の入口が入った。母さんが立っていて、こっちを見て、それから手を拭いた。拭いてから、一度手を上げた。上げただけで、何も言わなかった。


   ◇


「飯は」

「食べたとこ」

「何食った」

「鮭」

「他は」

「味噌汁と、白いご飯」


 妹は画面を下に向けた。


 下に向けた先に、茶碗が映った。茶碗は空だった。空だが、内側の底のところに、粒が三つ残っている。


「見えた?」

「見えた」

「三粒残ってる」

「そこだけ乾いてない」

「兄ちゃん、今、目が動いた」

「動いてない」


   ◇


 妹は画面を戻した。


「そっちのご飯は」

「パンと魚だ」

「毎日?」

「毎日だ」

「飽きない?」

「飽きない」

「嘘でしょ」

「魚は日によって形が違う」

「そこじゃないよ」


   ◇


 父さんが後ろを通った。


 通って、画面のほうを見ないで、そのまま風呂場のほうへ行った。行ってから、戻ってきて、画面の端に立った。


「元気か」


 それだけ聞いて、また行った。


 行ってから、風呂場のドアが閉まる音がした。閉まる音のあとで、水の音になった。父さんは湯を張るとき、必ず一度、蛇口を全開にしてから絞る。


「今の、父さん」

「見えた」

「三日くらい前から、風呂の前にあそこで止まるようになった」

「そうか」


   ◇


 妹は画面を自分に戻して、少し黙った。


「あ」

「なんだ」

「誕生日おめでとうって言うの忘れてた」

「そうか」

「十九でしょ」

「そうだ」


 左手の指を折って、島に来てからの日を数え直した。折った指は二回、最初に戻った。


「今言った」

「聞いた」


 妹はそれ以上その話をしなかった。しないで、後ろの茶箪笥の上のものを取って、画面に近づけた。近づけすぎて、何なのかは、やっぱりわからなかった。


   ◇


「学校は」

「終わった。四時に」

「そうか」

「兄ちゃん、学校の話、興味ないでしょ」

「茶碗に三粒あった」

「え」

「さっき映ったやつだ。まだ残ってるのか」

「……もう洗ったよ」

「そうか」


 妹は画面を持ち直した。持ち直すとき、指が一本、レンズのところに入った。入ったので、画面の隅が丸く暗くなった。


   ◇


「兄ちゃん、いつ帰ってくるの」

「六月の終わりだ」

「六月の何日」

「二十六日に終わる。帰るのはその後だ」

「終わるのと帰るのは違うの」

「違う」

「ふうん」


 妹は画面の下のほうを見ていた。見ながら、片手で茶箪笥の縁を触っている。触って、離して、また触った。


「別に、早く帰ってこいとかじゃないから」

「わかった」

「わかってないでしょ」


   ◇


 妹が画面から消えた。画面が一度、天井を映した。


 消えて、少ししてから、別の顔が入った。


「高町くん」


 美咲だった。


 画面が一度、天井を映してから戻った。持ち替えたのだと思う。持ち替えたあとの角度は、妹のときより低い。低いので、顎の下のほうが映っている。


   ◇


「なんでうちにいる」

「ひなたちゃんに借りたものを返しに来たの」

「そうか」

「返して、そのまま上がった。お母さんがお茶を出したから」

「そうか」

「二時間いる」

「長いな」

「長いわね」


 美咲は画面を持ったまま、廊下のほうへ歩いた。歩いて、玄関のところで止まった。玄関の靴箱の上に、鍵が置いてある。


   ◇


「そっち、寒い?」

「寒い」

「どれくらい」

「息が白くなる日と、ならない日がある」

「五月なのに」

「五月だ」

「……こっちは、もう暑いのよ」


 美咲は靴箱の上の鍵を見ていた。見て、指で位置を直した。直したところで、また止めた。


 鍵は二本ある。一本は玄関のやつだ。もう一本は違う。違うほうを靴箱の上に置くと、帰るときに忘れる。


「それ、鍵か」

「わたしのよ」

「置くと忘れる」

「……知ってるわよ」


 美咲は鍵を取って、ポケットに入れた。入れて、手をポケットから出さなかった。


   ◇


「あなた、ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

「寝てる?」

「寝てる」

「困ってることは」

「無い」

「一つもないの」

「今日は何も無い」


 美咲は少しのあいだ、何も言わなかった。


 言わないで、玄関の戸のガラスのほうを向いた。ガラスの向こうは暗い。暗いのに、向こう側を見ようとする形で顔が動いた。


 玄関の戸は、下のほうのガラスが一枚だけ曇っている。前から曇っている。美咲が向いたのは、その曇っているほうだった。


   ◇


「わたし、最近、そっちの時間で考えるようになった」

「どういう意味だ」

「時計を見て、八時間引くの」

「そうか」

「引いて、今そっちは何時だな、と思うだけ。それだけよ」

「そうか」

「……そうか、しか言わないのね」

「はい」

「はいでもないでしょう」


   ◇


 美咲は画面を少し下げた。


 下げたので、映っているのは肩から下だけになった。肩から下は動かない。


「別に、何かあるわけじゃないの」

「わかった」

「時計を見るだけよ」

「はい」

「……もういい。ひなたちゃんに返す」


 画面が揺れて、妹に戻った。


   ◇


 妹の後ろで、美咲が何か言った。言った声は入ったが、言葉は聞き取れなかった。


「今の、なんて言った」

「言ってない」

「言った」

「言ってないって言ってるでしょ」


 妹は画面を持ち上げて、自分の顔だけにした。


「兄ちゃん、美咲さんの顔、赤かった」

「見てない」

「見てないの?」

「画面が下がってた」

「下げたんだよ」

「そうか」


 妹は口を開けて、開けたまま何も言わないで、閉じた。


 閉じてから、後ろの茶箪笥のほうへ画面を向けた。向けた先に、さっきの新しいものがある。今度は近づけなかったので、輪郭だけ見えた。四角くて、下に脚が二本ついている。


「これ、なんだと思う」

「わからん」

「当ててよ」

「わからん」

「もういい」


 妹はそれを言って、切った。


 切れる直前に、後ろで母さんが何か言ったのが、半分だけ入った。


   ◇


 俺は草のところに立ったまま、画面を見ていた。


 画面は、切れたあともしばらく明るいままだった。明るいあいだに、そこに映っているのは俺の顔ではなく、通話が終わったことを知らせる字だけだった。


 霧はまだ出ている。出ているが、朝より薄い。薄くなったので、灯台の下のほうが見えるようになった。


 宿のほうを振り返ったら、食堂の窓が二つとも開いていた。開けたのは誰かが煙草を吸うためで、吸っている人は窓の内側にいる。


 画面の上に、通知が一つ残っていた。


 ケイからである。


 名前の横の小さい画を見た。去年の収録の楽屋で撮ったやつで、二人写っている。俺の側だけ目が半分閉じていた。島へ来る前の最後の収録でも、隣はこの男だった。


   ◇


 部屋に戻った。


 机の上の紙は、朝に裏返して置いたままだった。裏の白いほうが上を向いていて、その上に、窓から来た光の四角が半分だけ載っている。


 俺は椅子を引いて座って、通知を開いた。


   ◇


 動画だった。


 最初に映ったのは天井で、次にケイの顔が入った。顔が入るまでに四秒かかっている。


「おう、灯真。撮ってんのか、これ。撮れてるな」


 ケイは自分の部屋にいるらしい。後ろに壁があって、壁に何も貼っていない。


「なんかな、そっち電話しにくいらしいやんけ。時間が合わへんとか、電波が入らんとか。ほんで動画でええかって言われて、動画や」


   ◇


「こっちはな、暑いで。もう夏や。お前のとこ寒いんやろ。ええな」


 ケイは首の後ろを掻いた。掻いて、そのまま手を止めた。


「ええなて、何がええねんな。俺、寒いの嫌いやったわ」


 画面が一度傾いた。傾いて、戻った。戻ったときには、ケイは座り直していた。


   ◇


「特番な、収録の日また動いた。二日ぶんが三日になった。三日やぞ。誰も謝らへんねんこれ」


 ケイは画面の外へ手を伸ばして、何か取った。取ったものを口に入れて、噛んだ。噛みながら喋るので、音が潰れた。


「お前んち、この前も行ったで。お前おらんのに行った。妹に追い返された」


   ◇


「あー、あとな」


 ケイはそこで止まった。


 止まって、画面の外のほうを見た。見て、口を一度開けて、閉じた。


 閉じてから、全然違う話を始めた。


「そや、駅前の店な、潰れたわ。あの、いつも行ってた」


 ケイは指を二本立てて、それを画面の前で振った。


「二百八十円の。あそこ、俺ら二人しか客おらんかったやろ。そら潰れるわ」


 言って、笑った。笑ってから、笑うのをやめて、また画面の外を見た。


   ◇


 動画のあいだ、ケイは一度もこっちの名前を呼ばなかった。


 最初に一回だけ呼んで、あとは呼ばない。呼ばないで喋るので、誰に向かって喋っているのかが、途中でわからなくなる。俺はそのまま見終わった。


   ◇


 動画は一分五十秒あった。


 最後の十秒で、ケイは顔を横に向けたまま喋った。横に向けたので、声が急に小さくなった。


 小さくなったぶん、その向こうで鳴っている音のほうが近くなった。ケイの部屋の外の音だ。


 音を上げても、それ以上は上がらない。


   ◇


 俺は端末を耳に当てた。


 当てて、最後の十秒をもう一度流した。


 当てると、部屋の中の音が半分になる。半分になったぶん、動画の中の音が近くなった。


 入っていたのは、ケイの声と、その向こうで鳴っている踏切の音だった。


 踏切の音は、ケイの家の近くのものだ。あの踏切は、鳴りはじめてから電車が来るまでが長い。長いあいだ、ケイは何も言わなかった。


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