第142話 変わったね、と言われた
夜の場面を撮るのに、外が明るい。
六月に入ってから、この島の夜は来なくなった。十時でも明るい。十二時でも、空の下のほうが白く残っている。
それで、黒い布を張る。
窓の外側に枠を組んで、布を掛けて、隙間を別の布で塞ぐ。塞ぎ終わるまでに二時間かかった。二時間かけて作った夜は、中から見ると、たしかに夜だった。
窓は三つある。枠の木は白く塗ってあって、塗りの剥げたところだけ、下の色が茶色く出ている。布は、三つぶんで一枚だった。
外から見ると、家の窓のところだけが四角く黒い。海のほうから歩いてくると、そこだけ穴が空いているように見える。
俺は一度、海のほうまで行って、そこから振り返って見た。行けと言われたわけではない。待ち時間が長かった。
◇
俺の出番は、その中の三十秒だ。
三十秒のために、外で待った。待つあいだ、俺は家の壁に背中をつけて立っていた。壁は石で、日が当たっている側だけ温かい。
温かいほうへ寄ると、眠くなる。
眠くなるので、一度、温かくないほうへ移った。移ったら寒かったので、また戻った。
◇
布を張るのは、現地の人が六人でやる。下から見る係が「そこ」と言うと、上の四人が動く。言葉はわからないが、動く順番は今日も同じだった。
途中で、下から見ていた一人が俺のほうを向いて、両手で四角を作った。作って、その中を覗く形をして、それから首を横に振った。
三隅さんが訳した。
「今のところ、まだ光が入っています、と言っています」
「はい」
「高町さんに言ったわけではないです。たぶん、近くにいた人に言いました」
「はい」
「でも、こっちを向いていました」
◇
六月九日、火曜日。
昨日は二時に寝た。
二時でも外は明るかった。明るいところで目を閉じると、閉じてから寝るまでのあいだが長い。長いので、その時間に何を考えていたかは覚えていない。
起きたのは八時だった。
起きたときも明るかった。窓の外の明るさは、寝る前とほとんど同じだった。
◇
ヨナスさんが布の内側から出てきた。
出てきて、俺のほうを見て、手のひらを二回、下へ向けて動かした。まだ待て、という意味だ。
それから自分の腕時計を指して、指を三本立てた。三分だと思う。三時間ではないと思う。
三分たった。
まだ呼ばれなかった。
五分たった。まだ呼ばれない。壁の温かいほうに戻ってから、目を閉じないようにして立っていた。閉じると、そのまま立ったまま行きそうになる。
行きそうになったところで、海のほうで鳥が鳴いた。鳴き声は一回だけで、そのあとは波の音に戻った。
◇
この島に来てから、暗いところにいた時間より、明るいところにいた時間のほうが長い。
三月の終わりに着いたときは、まだ雪が残っていた。あのころは四時には暗くなって、飯のあとには外へ出られなかった。
今は逆になっている。逆になったのがいつからなのかは、誰も言わなかった。
◇
布の外側では、制作の人が二人で紐を引いていた。
引くたびに布の下のほうが動いて、動いたところから光が入る。二人は布の下の端を石で押さえて、横から入ったぶんには、別の布を一枚、斜めに掛けた。
塞いだところで、中から声がした。声は短くて、たぶん、いい、という意味だった。石は、そのへんに落ちているのを拾ってきたものだ。
◇
俺は台本を開かなかった。
三十秒の場面には、台詞が一行ある。一行の音は紙に書いてあって、紙はポケットに入っている。出さなかった。
出さないでいると、代わりに壁の石の目地を見ることになった。目地は、下のほうほど白い。上のほうは黒い。
白いところと黒いところの境目は、俺の腰より少し上にあった。
◇
三隅さんが来た。
「高町さん、宿から連絡がありました」
「宿から」
「日本から電話があったそうです。宿の帳場のほうに」
「事務所ですか」
「違うそうです。個人の方だと言っていました」
「名前は」
「キリュウさん、と名乗ったそうです」
◇
「用件は」
「言わなかったそうです。夜にまたかけると」
「夜はどれくらいですか」
「……こっちの夜ですか、向こうの夜ですか」
「わからん」
「わたしもわかりません。宿の人にも、そこまでは伝わっていません」
三隅さんは布のほうを見た。
布の内側から、また声がした。声は日本語ではない。日本語ではないので、内容はわからないが、急いでいることだけはわかった。
◇
呼ばれた。
布の内側は暗い。目が慣れるまでのあいだ、俺は足元だけ見て歩いた。
俺は椅子に座って、机の上に手を置いた。
監督は机の向こう側に座っていた。座っている位置は、カメラの後ろではなく、机の反対側である。俺の目の高さと、監督の目の高さが同じになる。
同じになるので、こっちを見られている時間が長い。長いが、監督は何も言わないで、机の上の紙を手で押さえていた。
「そこ、少し寒くしてくれる」
「はい」
◇
寒くしろと言われたので、肩を落とした。
落として、手を机の上で組んだ。組んだ手のうち、下になったほうの指先を、上の手の甲に付けた。
付けたら、指が冷たかった。壁の温かくないほうにいたぶんだ。冷たいのは指の先だけで、手の甲は温かい。
監督は何も言わなかった。
カメラが回りはじめた。
◇
一行言った。
三十秒は、待った二時間より短い。短いので、終わったときに、終わったことに気づくのが遅れる。
監督が「はい」と言った。
言って、それから「今日はここまで」と言った。三隅さんが英語にして、布の外で誰かが手を叩いた。
◇
布の中から出たら、外が明るくて、目が痛かった。
痛いのは一瞬で、そのあとは何ともない。何ともないが、出た直後に足元が見えなくなる。見えないので、二歩ぶん止まった。
止まっているあいだに、ヨナスさんが横を通った。通るとき、俺の肩を手の甲で一度押した。押したのは、そこにいると邪魔だという意味だと思う。
俺は横へ寄った。
◇
布を外すのに、張るときの半分もかからなかった。
外した布は畳んで、車の荷台に載せる。載せる係は決まっている。その人は今日も、端をそろえてから三つに折って、最後に半分にした。折るあいだ、誰も手を出さなかった。
枠の脚は、一本で俺の背より長い。持つと、後ろの端が地面につく。つくと音がするので、少し持ち上げて歩く。
俺は枠の脚を二本、車まで運んだ。
運んだら、運ばなくていいと言われた。言われたが、もう車の横まで来ていたので、そこに置いた。
◇
宿に着いたのは十一時前だった。
外は明るい。食堂の灯りが点いているのかどうかは、外からだとわからない。入ってみたら点いていた。
飯は残っていた。魚とパンと、あと、皿に何か茶色いものが載っていた。
残っていたぶんは、蓋のついた鍋に入れて、火から下ろしてある。下ろしてあるので、皿に取ると温かくない。温かくないが、腹には同じだ。
茶色いものは、味が二回変わる。噛みはじめの味と、飲み込む前の味が違う。三隅さんに聞いたら、名前を教えてくれたが、聞いた音が長すぎて覚えられなかった。
覚えられなかったので、皿を指して「これ」と言うことにしている。「これ」で通じる。通じるが、通じたあとに向こうが必ず名前をもう一度言う。言われても、やっぱり覚えられない。
◇
食堂には三隅さんがいた。
三隅さんは端のテーブルで、紙を三枚並べていた。並べて、いちばん上のを取って、いちばん下に入れ直した。
三枚のうち一枚だけ、端が波打っている。濡れて、そのまま乾いたらしい。波打った側は、机に置いても浮いた。
「あと何日ですか」
「撮影ですか」
「はい」
「終わるのは二十六日です。それは決まっています」
「はい」
「そのあと、荷物を出す日と、船の日と、飛行機の日があります。三つとも別の日です」
「はい」
「高町さん、今の、聞いてました?」
「聞いてました」
「日にちのところ、覚えなくていいです。わたしが言いますから」
「はい」
三隅さんは紙をそろえて、机の端で二回叩いた。
叩いたあとで、一枚だけ抜いて、こっちへ寄越した。
「これ、高町さんのぶんです」
「はい」
「日付と、時間と、迎えの車のことしか書いていません。読まなくても、朝わたしが言います」
「読みます」
「……読むんですね」
◇
部屋に戻った。
鞄を椅子の背に掛けて、椅子を引いて座った。
◇
机の上の水が、揺れる理由もなく揺れた。
窓は閉まっている。外に風はあるが、この部屋の窓は建てつけが固くて、風では動かない。
「あんた、寝なさいよ」
人形は机の縁に座っていた。
「電話が来る」
「来る前に寝なさいよ。来たら起こしてもらえばいいでしょう」
「起こしに来るのは宿の人だ」
「じゃあ、起こしてもらいなさいよ」
「向こうも寝てる時間だ」
◇
「あんた、今日、何時に寝るの」
「わからん」
「わからないの?」
「外が明るいと、決めにくい」
「時計を見なさいよ」
「時計は見た」
「見て?」
「見ても、外が明るい」
人形は机の縁から水のほうへ歩いて、コップの横で止まった。
コップの底には、水の輪が二重についている。内側のほうが濃い。
◇
「あんた、電話の相手は誰なの」
「桐生さんだ」
「あの子ね」
「そうだ」
「何の用なの」
「わからん」
「聞いてないの?」
「宿の人が受けた。宿の人は日本語がわからん」
「じゃあ、なんで名前だけわかったのよ」
「名乗ったからだ」
人形は水のコップの向こう側へ回った。回ると、コップの硝子ごしに人形の形が歪む。歪んだほうを見ていると、どっちが本当の形なのかがわからなくなる。
「あんた、あの子のこと、まだ怖い?」
「怖くない」
「前は怖いって言ってたわよ」
「言ってない」
「言ってたわよ」
◇
一階から声がした。
声は階段の下から上がってきて、途中で止まった。それから、ドアが三回叩かれた。
開けたら、宿の人が立っていた。立って、階段の下を指して、それから自分の耳のところに手を当てた。
電話である。
◇
階段は十四段ある。
下りるとき、上から五段目が鳴る。鳴るのは俺が下りるときだけではなく、宿の人が下りるときも鳴る。鳴っても、誰も気にしない。
一階の帳場には、灯りが一つ点いていた。宿の人は帳場の椅子には座らないで、その横の壁に寄りかかって待っていた。俺が下りたら、電話のほうを指して、それから自分の部屋のほうへ行った。
帳場の台の後ろの壁に、鍵を掛ける板が付いている。下がっている鍵と、下がっていない鍵がある。下がっていないほうが多かった。
◇
帳場の電話は、壁に付いている。
付いていて、受話器だけが下に垂れる形になっている。垂れた受話器は、壁の下のところで一度、壁に当たっていた。当たったところの壁紙が、そこだけ剥げている。
俺は受話器を取って、耳に当てた。
「もしもし」
「あ、出た」
◇
桐生さんだった。
「桐生さん」
「うん。番号、事務所の人に聞いた。宿の番号なんだね、そこ」
「そうです」
「携帯にかけたら、繋がらなかった」
「外に出ないと繋がりません」
「外に出るの」
「十歩くらいです」
◇
「今、何時」
「十一時です。夜の」
「明るい?」
「明るいです」
「そう」
桐生さんの声は、まったく遅れないで返ってくる。遠いところからかけているようには聞こえない。
「こっちは朝の七時。今から出るところ」
◇
「用ですか」
「無いよ」
「無いんですか」
「無い」
「はい」
「無いのに電話するのは、変かな」
「わかりません」
「僕もわからない」
受話器の向こうで、何かを閉める音がした。ドアだと思う。
◇
「妹に、そっちの島の写真を見せた」
「はい」
「灯台のやつ。地図で見たんだけどね、小さいね、あの島」
「小さいです」
「人は何人いるの」
「九百人だと聞きました」
「僕が去年やった現場より少ない。あれ、エキストラだけで千人いた」
「はい」
「千人いても、名前は三人しか覚えなかったけどね」
「はい」
桐生さんは、そこで少しだけ間を置いた。置いてから、また同じ速さで喋りはじめた。
◇
「そっち、監督は元気?」
「元気です」
「僕のほうは、まだ何も始まってない。本読みもない」
「はい」
「先に君のほうが終わるね」
「六月の二十六日です」
「そう」
桐生さんはそこで、少し黙った。
黙っているあいだ、向こうの音だけが入っていた。人の声と、車の音と、それから、金属を引く音が一度した。
◇
「高町くん」
受話器の向こうで、息を吸う音がした。
「君、変わったね」
◇
俺は受話器を持ったまま、壁の剥げているところを見ていた。
「どこがですか」
◇
桐生さんは答えなかった。
答えないで、黙っていた。黙っているあいだ、向こうの音は続いている。車が一台、通り過ぎた。
「わからない」
「はい」
「わからないまま言った。こういうのは、あんまり言わないんだけどね」
「はい」
「君、今、何か言った?」
「はい、と言いました」
「うん。それだ」
◇
「それだ、というのは」
「わからない」
「はい」
「二回わからないと言った。三回目を言うと格好がつかなくなるから、このへんで切るよ」
「はい」
「じゃあ、また」
◇
電話が切れた。
切れたあと、受話器からは何も聞こえない。何も聞こえないのに、少しのあいだ耳に当てていた。
俺は受話器を右から左へ持ち替えた。
持ち替えたところで、帳場の窓から外が見えた。外は昼のままだった。時計は十一時を過ぎている。
窓の下の桟に、砂が薄く溜まっていた。指で押したら、押したところだけ木の色が出た。
窓の外の道に、鳥が一羽下りてきた。下りて、道の端を二回つついて、何も咥えないで、また飛んだ。
俺は受話器を左手に持ったまま、それを見ていた。
飛んだ先は見えなかった。窓の枠が、そこで切れている。切れているところから先は、明るいだけだった。




