第143話 選べるようになった
ヨナスさんの手が上がった。
俺は止まった。止まった場所が違ったらしく、手は下がらないで、そのまま横へ動いた。俺も横へ動いた。手が下りた。そこが今日の立ち位置だった。
ヨナスさんは俺と喋らない人なので、間違えたところは十秒で片づいた。
◇
六月十八日、木曜日。
岩場は下が濡れている。潮が引いたあとで、平らに見えるところほど滑った。
朝、ここで一人転んだ。転んだのは俺ではなく、録音の人だった。録音の人は棒の先のマイクを先に頭の上へ上げて、それから尻から落ちた。マイクは濡れなかった。
六月の島は、夜になっても暗くならなかった。今は昼で、光の向きだけが朝と違っている。
◇
「高町さん」
三隅さんが後ろから来た。
「監督が、明日の前に一本だけ通すと言っています。頭から終わりまで止めません。途中で何かあっても止めない、そのつもりで立っていてくださいと」
「はい」
「明日の朝が早いので、今日のうちに一度、と」
「はい」
三隅さんは言い終わってから、上着の前を閉めた。閉めてから、風の来るほうへ半歩ずれた。
◇
エリーが岩の上から下りてきた。
下りるときに、両手を横に広げた。岩は、広げるほど広くなかった。
「おはよう」
「昼だ」
「オハヨウ」
「昼だ」
エリーは俺の上着の袖を引いて、岩のいちばん高いところを指した。指した先に、鳥の羽が一枚落ちていた。
取ってこいという意味なのか、見ろという意味なのかが分からなかった。俺は取りに行った。取ってきたら、エリーは受け取らないで、両手を後ろに回した。
エリーは羽を指したまま、もう一度「オハヨウ」と言った。二回目は少し大きかった。
◇
俺は上着の内側から紙を出した。
台詞の音をカタカナで書いた紙である。行の頭に印を付けて、息を継ぐところに縦の線を引いてある。線は自分で引いた。
紙は折り目のところが柔らかくなっていて、開くとひとりでに同じ形に開く。
三行ぶんを目で追って、また折って、内側へ戻した。
紙の右上の角だけ、色が濃くなっている。持つときにいつも同じところを持つので、そこだけ手の脂が入った。
◇
「高町」
犬飼さんは岩の上の平らなところに立っていた。
「はい」
「今日の飯の話をする。食堂は七時で終わる。明日は四時に宿を出る。四時に出ると、食堂は開いていない」
「開いてませんか」
「開いていない。だから今夜のうちに何か置いてもらう。置くものは向こうが決める」
「はい」
「今、そこを話している最中だ」
犬飼さんは片手に紙を持っていた。紙には島の絵は無く、時刻だけが縦に並んでいる。並んだ時刻のうち、上から二つに丸が付けてあった。
◇
黒瀬さんが岩を回って歩いてきた。
小柄な人で、髭が白い。歩くときに片方の肩が先に出る。
「高町くん、通しを一本」
「はい」
「頭から。最後の一行まで止めない。止まっても止めない」
「はい」
「ソウは、名前を呼ぶだけです。返事は来ません」
黒瀬さんはそれだけ言うと、モニターのほうへ戻っていった。
◇
人が集まってきた。
カメラの後ろに三人。その横に照明の人が二人。岩の上に立っているのがヨナスさんで、モニターの前に黒瀬さんと三隅さんが並んでいる。
背の高い人が、遠くで持っていた反射板を下ろした。下ろして、こっちを向いた。
エリーは岩の下の砂利のところに座らされていて、隣に付いている人が肩に手を置いていた。エリーは動かなかったが、足の先だけが二回、砂利を蹴った。
犬飼さんは岩の下の砂利のところにいて、紙を上着の内側へしまっていた。しまってから、両手を空にした。
風が一度だけ強くなって、それから止まった。
◇
人が集まりきったところで、足の裏の下から何かが来かけた。
来かけたところで、俺は息を止めた。止めたら、そこで止まった。
止まったあとも、手の先までは来る前と同じ重さだった。
息を吸い直した。肩は上がらなかった。吸ったぶんが、そのまま腹の下のほうへ落ちた。
◇
ヨナスさんの手が下りた。
◇
現場の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。
背筋が伸びた。
俺は海のほうを向いて、一行目を出した。
カタカナで書いた音を、そのまま並べる。意味は分からなかった。分からないので、息を継ぐところだけ守った。
声は風の下を通っていった。前に出した量が多すぎると、二行目の頭が薄くなる。薄くならない量まで下げて、そこで止めた。
足の裏の下で、岩が斜めになっている。低いほうへ体が寄るので、左の親指の付け根で押し返した。押し返しているあいだ、そこだけが熱かった。
二行目の終わりで、沖に船が一つ出ていた。白い船で、こちらへは来ない向きに走っている。船が水平線の切れ目に入って、そこで見えなくなった。
カメラは正面と、左の低いところから回っていた。低いほうのレンズに、俺の靴の先が入っている。靴の先には、朝からの泥がそのまま乾いてついていた。
岩の割れ目に水が残っていて、風が来るたびに、その水の面だけが細かく揺れた。揺れているあいだも、割れ目の外の水たまりは動かない。
三行目を出した。
三行目は名前だけである。呼ぶ相手はいなかった。呼んだあと、返事の来ない長さぶんだけ立っていることになっていた。
その長さのあいだ、風がやんだ。
やんだので、自分の息の音だけが聞こえた。
◇
船の上で誰かが昼を食っていると思った。あの上なら、風は来ない。
◇
「オーケー」
黒瀬さんの声が後ろから来た。
その声のあとで、しばらく誰も何も言わなかった。ヨナスさんは上げた手を下ろさないままで、下ろしたのは三隅さんが何か言ってからだった。
照明の人が反射板を持ち直した。持ち直すときに、板の角が岩に当たって鳴った。鳴った音で、その場の人が二人ぶん動いた。
◇
膝から先が無くなったように感じた。
感じただけで、痛くはなかった。俺は岩のいちばん低いところまで歩いて、そこに座った。
座ってから、手を岩の上に置いた。指は開いたが、閉じるほうは遅れた。
視界の端が白い。白いところは動かないので、そこを見ないようにして海のほうを見た。
岩の表面は、日の当たっていた側だけ温かかった。温かい側に手を置いて、そのままにした。指の腹の下に、細かい貝の殻が二つ挟まっている。取ろうとしたが、指がうまく閉じないので、そのままにした。
◇
「高町」
犬飼さんが横に来た。
「歩けます」
「歩けとは言っていない」
「はい」
「そこにいろ。立つな」
「いつものです」
「知らん。立つな」
「はい」
「俺は上で話がある。三隅さんに下りてもらう」
犬飼さんは砂利を踏んで岩を上がっていった。上がる途中で一度だけ振り返って、それから上がりきった。
◇
三隅さんは俺の前を通って、通ってから戻ってきた。
「高町さん、水は」
「あります」
「そこ、風が上がってきますよ」
「はい」
「わたし、いつもこの岩の陰で飲むんです。風が来ないので」
三隅さんは自分の水筒の蓋を開けて、飲んだ。飲んでから、蓋を閉めて、岩の陰に座った。
水筒は銀色で、底に近いところが一箇所へこんでいる。へこんだところを下にして置くと立たないので、三隅さんは横に寝かせて置いた。
座って、海のほうを見ていた。俺のほうは見なかった。
◇
二十分くらい、そこに座っていた。
立つときは、膝より先に手を岩から離す。離してから体を前に倒すと、勝手に立てる。
立ってから、宿までの道を歩いた。道は坂で、上りは長いかわりに、途中で二度だけ平らになる。
◇
宿の一階の食堂に、台が一つ出ていた。
台の上に、パンと、スープと、魚が並んでいる。魚は骨が多い。骨は皿の縁に寄せることになっていて、寄せた骨を最後に一人が集めて回る。
米は無かった。
俺はパンを二つ取って、スープを一杯もらった。スープの底に豆が沈んでいて、匙で掬うと、掬ったぶんだけ次が浮いてくる。
窓際に現地の人が四人座っていた。そのうち二人がこっちを向いて、片手を上げた。
「トーマ」
何と言われたのかは分からなかった。分からないので、俺も片手を上げた。上げたら、四人とも笑った。
笑われた理由も分からなかったが、パンはもう一つもらえた。
◇
靴の紐が、結んだのと違う形で結ばれていた。
◇
部屋は二階の、突き当たりの一つ手前である。窓は西を向いていて、この時間でも外は明るい。
明るいのに、窓ガラスには自分が映る。映るのは夜だけだと思っていたが、今日は雲が厚かった。
窓の前で一度立って、一行だけ言った。声は出したが、外に聞こえない大きさにした。
「それ、まだやってるのね」
人形は窓の桟の上に座っていた。桟の埃を指で分けて、そこへ座っている。
俺は答えないで、鞄を椅子の上に置いた。
椅子は脚が四本とも同じ長さではなく、置いた鞄の重さで、右の前だけが床から浮いた。
◇
「あんた、今日、一回止まったでしょう」
人形は鞄の口のところに座っていた。
「止まった」
「途中でよ。始まりかけて、途中で」
「そうだな」
「そのあと、自分で行ったわね」
「行った」
人形は鞄の口の上で膝を抱えた。
組んだまま、しばらく何も言わなかった。それから、組んだ手をほどいて、鞄の口の縁を一度なぞった。
◇
「ミューナ」
「別に」
「言いかけたぞ」
「言いかけてないわよ」
人形は鞄の口から降りて、机の端まで歩いていった。
机の上には、島に来てからの紙が置いてある。俺はその横に水の瓶を置いた。置いたら、人形が瓶のほうへ二歩寄って、そこで止まった。
「あんた、明日は朝の四時ですって?」
「宿を出るのがだ」
「飯は」
「食堂が開いてない」
「じゃあどうするの」
「犬飼さんが話してる」
人形は瓶の横に座った。座って、それ以上は聞かなかった。
「明日、あんたの見てる人は何人いるの」
「知らん」
「数えないの」
「数えたら遅れる」
「そう」
人形は瓶のラベルの端を見ていた。ラベルは水に濡れて、端から少しめくれている。めくれた側から、瓶の中の水の高さが透けて見えた。
◇
窓の外で、鳥が二羽、同じ向きに飛んでいった。
二羽とも羽を動かさないで、風の上に乗ったまま、崖のほうへ流れていく。流れた先で片方だけ上がって、もう片方は下がった。
部屋の中は静かで、廊下の突き当たりの湯沸かしの音だけが聞こえていた。
◇
九時に、また現場へ出た。
外はまだ明るい。明るいので、時計を見ないと何時か分からなくなる。
灯台の下に人が集まっていて、明日の段取りをやっていた。ヨナスさんが手で立ち位置を指して、指した先へ人が動く。動いた人の足元に、白いテープが貼られた。
テープは黄色いのと白いのが二種類あった。ヨナスさんは、俺の足元には白いほうを貼った。
灯台の壁は白いが、下から一メートルくらいのところだけ色が違う。そこまでは波がかかるらしく、白の上に緑がかったものが薄く広がっていた。
◇
「高町くん」
黒瀬さんが灯台の扉の横に立っていた。
「はい」
「明日のソウは、何もしません」
「はい」
「上の部屋で、船が通るのを見ています。船は止まらない。ソウも動かない。それを撮ります」
「はい」
「台詞は三行です。三行のうち、二行目までは背中で言います」
背中で言うのが分からなかったので、そう言った。
「わからん、ということでいいですか」
三隅さんが横で通訳を止めて、こちらを見た。
黒瀬さんは白い髭のところを一度触った。
「いいです。明日、上でやってみましょう」
◇
灯台の中は狭い。
螺旋の階段が壁に沿って上がっていて、真ん中は空いている。空いているところを覗くと、下の床の石の継ぎ目が見えた。
上の部屋には窓が四つあって、そのうち三つが海を向いている。残りの一つは島の内側を向いていて、そこからは宿の屋根が見えた。
部屋の真ん中に、昔の灯りの台が残っていた。台の上のガラスは外してあって、外した跡の輪だけが金具に残っている。輪の内側を指でなぞると、埃が一本の線になって付いた。
床の板は、窓の下のところだけが新しい。踏むと、新しいほうだけ鳴らなかった。
屋根の上に洗濯物が干してある。この時間でも取り込まれていない。
◇
明日の段取りを聞きながら、朝の四時から昼までが何時間あるかを数えていた。
◇
階段を下りた。
下りる途中で、壁の石が一箇所だけ出っ張っている。上がるときに肩が当たった。下りるときは当たらなかった。
外に出たら、風の向きが変わっていた。
昼は海から来ていたのが、今は島の内側から出ていっている。出ていく風の中に、宿の煙突の匂いが混ざっていた。
◇
「高町」
犬飼さんが扉の外にいた。
「はい」
「飯の話がついた。今夜、宿の一階の台の上に、パンと魚が出る。冷えたやつだ」
「冷えてますか」
「冷えている。温めるものは無い。文句があるなら食うな」
「食います」
「四時に出るときに、袋ごと持っていけ。宿の中で食うな。灯台の下まで持っていって、そこで食え」
犬飼さんは上着のポケットに手を入れて、何も出さずに抜いた。
「灯台まで、下りで十分だ。パンは歩きながら食うな。落とす」
「落としません」
「落とした人間はみんなそう言う」
「はい」
犬飼さんは灯台の壁に背中を預けた。預けてから、すぐに離した。壁は濡れていて、上着の背中に線が一本ついていた。
「明日は長い」
「はい」
「終わったら、俺が下にいる」
◇
今から宿へ戻れば、まだ湯が残っている時間だった。
湯が残っているうちに戻れば、明日の朝は顔を洗わなくて済む。済ませておけば、四時に起きてから外に出るまでが短くなる。短くなったぶんは、たぶん寝るほうに使う。
俺は戻らないで、灯台の下に残った。
残ったのは、犬飼さんがまだ話していたからだ。
◇
岩に腰を下ろした。
靴の中に砂が入っていた。靴を脱がないと出せなかった。
結び目に指をかけて、ほどいた。
ほどいたところで、上着の内側から紙が落ちた。落ちた紙は風で一度めくれて、俺の膝の上で止まった。
止まった面に、明日の三行が出ていた。




