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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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144/236

第144話 使わないほうを選んだ

 四時に宿を出て、下りの道を十分歩いた。灯台の下へ着いたら、もう十人以上いた。


 袋の中のパンは冷えていて、端のほうから固くなっていた。固いところは後に回した。真ん中を先に開けて、指を入れて二つに割って、割ったほうから食った。


 半分残して、袋ごと砂利の上に置いた。置いた場所は、扉から三歩の、平らな石の横だった。


   ◇


 六月十九日、金曜日。


 四時なのに明るい。


 空の明るさは昨日の夜と変わらなかった。変わらないので、夜と朝の区別を時計のほうで付ける。


 灯台の壁は、海から風の当たる側だけ乾いていた。当たらない側は濡れている。人はみんな乾いている側に立っていた。


 濡れている側の壁の下に、ロープが一巻き置いてある。使う予定は無いらしく、朝から誰も触らなかった。


   ◇


 エリーは椅子の上で寝ていた。


 誰かの上着が肩から掛けてある。足が椅子から出ていて、その先の靴が片方だけ脱げかけていた。


 脱げかけているほうを、通りかかった照明の人が指で押して直した。直してから、また歩いていった。


 椅子の脚のまわりだけ、砂利が踏み固められて平らになっていた。夜のあいだ、そこに何人か立っていたらしい。


 椅子から少し離れたところに、エリーの母親が立っていた。壁の乾いている側で、動かないでいた。


   ◇


 犬飼さんは扉の外の、機材を置いた台のところに立っていた。


「高町、上は狭いらしい」

「狭いんですか」

「らしい。俺は下にいる」

「はい」

「終わるまで、下から動かない。用があるやつは全部こっちで止める」


 犬飼さんは上着の前を開けたままでいた。風は、開けているほうの側から来ている。


 台の上に、飲み物の紙のカップが並んでいた。並んだカップのうち、一つだけ湯気が出ていなかった。


 犬飼さんはその一つを取って、少し飲んで、また台へ戻した。戻した位置は元と違っていて、そこだけ列がずれた。


   ◇


「上に上がるのは五人です」


 三隅さんが下の扉のところで言った。


「誰ですか」

「カメラと、録音と、監督と、ヨナスと、高町さんです。上の部屋は狭いので、それ以上は入れません。ほかの人は下でモニターを見ます」

「はい」

「下は十四人います。全員、モニターの前です」


 三隅さんは扉の内側に手を当てて、開く角度を確かめた。扉は途中で一度引っかかって、それから全部開いた。


 開いたところから、上の階の風の音が下りてきた。


   ◇


 螺旋の階段を上がった。


 上がる途中で、壁の出っ張りに肩が当たった。


 後ろから機材が上がってくる音がした。三脚の脚を畳んで、二人がかりで持ち上げている。角が壁に当たるたびに、下から短く声が上がった。


 螺旋の段は五十二段である。上がりきる四段手前で、段の幅が急に狭くなる。狭いところは、足を横にして踏んだ。


 階段の窓は縦に細長い。細いので、外の光が床に落ちると、線のようになる。線は一段ごとにずれていて、上がるあいだ、その線を踏んだり踏まなかったりした。


   ◇


 上の部屋は、人が五人入ると壁まで一歩で届く。


 窓が四つ。三つが海で、一つが島の内側を向いている。


 カメラは海側の窓を背にして据えられた。据えたあとで、脚の一本の下に木の板が挟まれた。挟んで、また外して、薄いほうに替えた。


 床の板は、窓の下のところだけ新しい。新しいほうは踏んでも鳴らない。カメラの人は、鳴るほうの板を避けて自分の足の位置を決めていた。


 部屋の隅に、昔の油の缶が二つ積んである。上の一つは蓋が無くて、中に雨水が溜まっていた。


 録音の人は棒を天井の梁のところまで上げて、そこで肘を壁につけた。壁につけると腕が固定される。固定してから、動かなくなった。


   ◇


「高町くん」


 黒瀬さんは窓の桟に片手を置いていた。


「はい」

「ソウは、何もしません」

「はい」

「船が来ます。通ります。行きます。ソウは、その全部を見ています。窓のほうを向いたままで、二行目までは背中で言ってください」

「はい」

「三行目のときだけ、こちらを向きます。向いたら、そこで終わりです」


 黒瀬さんは桟に置いた手をどけた。どけたところに、埃の付いていない四角い跡が残った。


   ◇


 ヨナスさんが俺の肩を指した。


 指してから、自分の肩を指して、それを一度だけ後ろへ引いた。俺は同じことをした。ヨナスさんは頷いた。


 それから、床の板を靴の先で二回叩いた。叩いた場所に立てということだった。


 立ったら、ヨナスさんは何も言わずに窓の横へ下がった。下がった位置は、俺からいちばん遠い角だった。


   ◇


 上着の内側から紙を出した。


 三行のうち、二行目だけが二段に折り返してある。折り返しの行頭に印を打ってあって、印のところで声の量を戻すことにしていた。


 目で追って、折って、内側へ戻した。戻すときに、内ポケットの布が少し引っかかった。


 紙は上着の内側で少し温かくなっていた。温かいと、折り目のところが余計に柔らかくなる。


   ◇


 沖を通るのは、本物の船だった。


 撮影のために止まってはくれないので、通る時刻に合わせて撮る。通り過ぎたら次は夕方になると、昨日ヨナスさんが手で示していた。


 窓から見ていると、水平線の右のほうに白い点が出た。


 点は動いていないように見えた。目を離して、また見ると、位置が変わっている。


   ◇


 下で人が集まる音がした。


 モニターは扉のすぐ外に置いてあって、そこに十四人が寄る。寄ると、砂利を踏む音が一度にまとまって、それから止まる。


 止まったあと、下からは何も聞こえなくなった。


 風の音と、俺の左の耳のすぐ横で、録音の人が息を止めている気配だけがあった。


   ◇


 現場の音が、遠のきかけた。


   ◇


 遠のきかけたところで、俺は動かなかった。


   ◇


 音は戻ってきた。


 波の音も、下で誰かが咳をした音も、そのままそこにあった。窓の枠の内側で、風が細く鳴っている。左の膝の裏が、朝の冷えでまだ硬い。


 息を吸いかけて、吸わないで止めた。止めたまま、体の重さを踵のほうへ残した。残したぶん、前へ出かけていた肩が戻った。


 俺は窓のほうを向いたまま立っていた。


 窓枠の下の隅に、蜘蛛の巣が一つ張ってある。糸は切れていて、風が来ると片側だけが持ち上がった。持ち上がって、下りて、また持ち上がった。


 背中の後ろに、四人いる。四人とも動かない。動かないので、四人ぶんの気配が、そのまま背中に当たっていた。


 下の十四人は見えない。見えないが、砂利の音が止まったまま戻ってこないので、そこにいた。


   ◇


 白い点が、島の正面まで来ていた。


 一行目を出した。


 カタカナで書いた音を、書いた順に並べる。息を継ぐところは縦の線で決めてある。線のところで継いだ。


 背中で言うので、自分の声が窓のガラスに当たって戻ってくる。戻ってきた音のほうが、出した音より少し高い。高いぶんを引いて、次の量を決めた。


   ◇


 二行目に入った。


 二行目は長い。長いので、途中で一度、量が落ちる。落ちたところで足の指を床につけ直した。つけ直したら、上まで戻った。


 窓の外で、船が右から左へ動いていく。


 船の横腹に文字が書いてある。読めない文字だった。読めないので、字の間隔だけを見ていた。間隔は右のほうが詰まっていた。


 船は止まらなかった。


 船の後ろに白い筋が伸びて、伸びた先が、来たほうの水平線まで続いていた。続いている途中で、筋は幅が広くなって、そこから消えていった。


 窓のガラスは古い。古いので、外の景色が場所によって少し歪む。船が窓の右から左へ動くあいだに、船の形が一度だけ縦に伸びて、また戻った。


 伸びたところは、ガラスの下から三分の一くらいの高さにあった。そこを通るときだけ、外のものが全部そうなる。


   ◇


 三行目の前に、二拍待つ段取りだった。


 待っているあいだ、下の砂利の上で誰かの携帯が鳴りかけて、途中で切れた。切れる前に、一音だけ入った。


 入ったが、そのまま待った。


 携帯を鳴らした人は、切ったあとで動かなくなったらしい。下の砂利の音が、そこから一度も鳴らなかった。


 二拍のあいだに、窓の外の光が一度弱くなって、また戻った。雲が一つ、通っていったらしい。


   ◇


 振り返った。


 振り返ると、部屋の中が急に狭く見える。カメラのレンズは俺の胸のあたりを向いていて、その上に黒瀬さんの目があった。


 黒瀬さんは片手を口の前に持っていっていた。持っていったまま、動かさない。指の関節のところが白かった。


 三行目を出した。


 三行目は短い。短いので、出したあとが長い。


 俺は動かないで立っていた。窓の外の光が、床の板の上を右へ動いていった。


   ◇


「オーケー」


 黒瀬さんの声だった。


   ◇


 録音の人が棒を下ろすのを忘れていた。


 忘れたまま、肘を壁につけたままでいて、それからヨナスさんに肩を叩かれて下ろした。下ろすときに、棒の先が梁に当たった。当たった音が、部屋の中で二度跳ねた。


 カメラの人は、カメラから手を離さなかった。離さないまま、レンズのほうを見ていた。それからようやく手を離して、離した手をズボンで拭いた。


 ヨナスさんは俺のほうへ来て、俺の肩を一度だけ叩いた。叩いてから、自分の手を見た。


 記録の人が階段の下から声を上げた。上げた声に、上の三人が同時に返事をした。三人とも同じ言葉を返したらしく、返したあとで顔を見合わせていた。


   ◇


 下から人が上がってきた。


 上がってきたのは三隅さんで、階段の途中で一度止まって、それから上がりきった。


 上がりきってから、部屋の入口のところで立ったままでいた。


「高町さん、監督が、下でもう一本と言うかどうか、まだ言っていません」

「はい」

「……上がってきた用は、それだけです」

「はい」

「わたし、走って上がってきたので、少し息が上がっています。それだけです」


 三隅さんはそう言って、下りていった。


 下りる途中で、階段の壁に手をついた音が二回した。二回目のほうが大きく、そのあと二段ぶん、足の音が抜けていた。


   ◇


 黒瀬さんは窓の外を見ていた。


 船はもう見えない。見えないところまで行って、水平線のほうへ抜けた。


「高町くん、今のを使います」

「はい」

「次は、この部屋の下で、階段を上がってくるところを撮ります。準備に一時間かかるそうです」

「はい」

「一時間あるので、下で何か食べてください」


 黒瀬さんは、それから床の板の新しいところを一度踏んだ。踏んで、鳴らないのを確かめて、部屋を出ていった。


 出ていくときに、扉の枠に肩が当たった。当たったが、そのまま出ていった。


   ◇


 窓の桟に手を置いた。


 桟は木で、上の面が波で削れたように丸くなっている。丸いところに指を沿わせると、指が勝手に同じ位置で止まった。


 外は明るい。四時から明るくて、その明るさのまま続いている。


   ◇


 下りるときは、螺旋の外側の手すりを持つ。


 手すりは鉄で、握ると冷たい。冷たいのは上の三分の一までで、下は人の手が触るぶんだけ温かくなっていた。


 下りながら、帰りの道のことを考えた。


 坂は、上りのほうが長い。


   ◇


 宿までは坂を上って二十分かかる。


 トラックが下りるのは午後の一便だけで、それに乗り遅れたら歩く。途中の分かれ道を右へ行くと近いが、右は昨日の雨で崩れていた。左は遠いかわりに乾いている。


 乾いているほうを歩くと二十五分。そのぶん、宿に着くのが遅い。


 遅くなると、湯が終わる。


   ◇


 トラックの荷台の縁の板が一枚外れかけていて、そこに誰かの手袋が挟まっていた。


   ◇


 一階まで下りた。


 扉の外にモニターがあって、十四人はまだそこにいた。いたが、画面のほうを見ている人がいない。


 背の高い人が反射板を抱えたまま立っていて、抱えているのを忘れているように見えた。照明の人はケーブルを巻きかけて、巻いた途中で手を止めていた。


 俺が出てきたら、何人かが同時に動きだした。動きだしてから、二人が同じ方向へ行こうとして、肩がぶつかった。


   ◇


「トーマ」


 背の高い人が言った。


 言ったあとの言葉は分からなかった。分からないので、俺は頷いた。頷いたら、その人は自分の胸のあたりを二回叩いて、それから反射板を抱え直した。


 抱え直した反射板が、途中で一度、手から滑りかけた。滑りかけた側を、横にいた人が下から支えた。支えた人も、こっちを見たままだった。


   ◇


 犬飼さんは台のところにいた。


 紙のカップを一つ持っていて、中身は減っていない。持ったまま、俺のほうへ来た。


「一時間空くそうだ」

「聞きました」

「昼はまだ来ない。来るのは十一時だ」

「はい」

「腹が減っているなら、朝のやつの残りを食え。置いた場所は覚えているか」

「砂利の上です」

「拾ってこい。鳥に持っていかれる前にな」

「鳥がいますか」

「昨日、事務所へ送る書類の袋を一度やられた。中身は無事だったが、袋が二十メートル先まで行った」


 犬飼さんは持っていた紙のカップを台へ戻した。戻して、両手を空にしてから、扉のほうを見た。


   ◇


 椅子の上でエリーが起きていた。


 起きて、上着を膝の上に落としたまま座っている。俺が前を通ったら、袖を掴まれた。


 エリーは掴んだ袖をそのままにして、もう片方の手で、下の砂利を指した。指した先に、袋が一つ置いてある。


 俺の袋だった。四時に半分だけ食って、残りをそこに置いたままだった。


   ◇


 袋を取って、中を見た。


 パンが半分と、魚が一切れ入っている。魚は冷えて、脂が白く固まっていた。


 エリーは俺の顔を見て、それから袋を見て、また俺の顔を見た。


 見るときに、目のところだけを見る。俺の顔の下半分は見ない。上着の袖を掴んだままの手は、掴む力が少しずつ弱くなっていた。


 俺は残っていたパンをもう一度半分に割って、片方を渡した。


 渡したほうが、割った断面の大きいほうだった。エリーはそれを両手で受けて、受けてから、断面のほうを上に向けて持ち直した。


   ◇


 エリーは受け取ったパンを両手で持って、椅子の上に座り直した。


 座り直すときに、俺の袖を掴んでいたほうの手を先に開いた。


 俺はその手から、袖を離した。


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