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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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154/237

第154話 へえ、とだけ言った

 枕の位置が、寝たときと違っていた。


 頭の側が壁から離れていて、代わりに足の側が寄っている。俺は枕を戻した。シーツに四角い跡が残っていた。


 跡は薄い。手のひらで撫でると、半分だけ消えた。


 机のスタンドが点いていた。点けた覚えはない。


   ◇


 九月二十五日、金曜日。


 仕事は昼で終わった。帰ってきたのは三時で、それから風呂に入った。


 風呂は昼に入ると、湯が熱すぎる。朝に沸かしたやつが残っていて、追い焚きをしなくても足の先が痛い。


 出てから、台所で水を一杯飲んだ。母さんは買い物に出ていて、家には誰もいなかった。


 二階に上がる階段は、下から四段目の音が高い。今日はそこを踏んだ。


 廊下の突き当たりの窓は、下半分だけ開いていた。網戸の破れているところから、虫が一匹入って、そのまま電球のほうへ上がっていった。


 洗濯籠には、乾いたタオルが二枚だけ入っていた。二枚とも同じ畳み方をしてあって、端がきれいに揃っている。畳んだ角は、二枚とも上を向いていた。


   ◇


 部屋のドアを閉めた。


 閉めると、下の音が半分になる。半分になったところに、換気扇の低いほうだけが残る。


 人形は机の上にいた。台座ごと窓のほうを向いていたのが、俺が入ったところで、こっちに向き直った。


 机の上は、朝に出したままになっている。台本が一冊と、消しゴムが一つと、湯呑みが一つ。湯呑みの中身は昨日のぶんで、底のところだけ色が濃くなっていた。


 俺は湯呑みを机の端へ寄せた。寄せた下に、輪の跡が残っていた。


「座りなさい」

「座ってます」

「ちゃんと座りなさい。膝をこっちに向けて」


 俺は椅子を回した。回したら、脚の一本が床の継ぎ目に落ちて、椅子が傾いた。


 傾いたぶんを、足で押し戻した。


 この椅子は、四本のうち一本だけ長さが合っていない。合っていない一本は、座るたびに床の継ぎ目のところへ落ちる。


   ◇


「話があるの」

「はい」

「向こうで言いかけて、やめたでしょう」

「やめてました」

「あれの続きよ」


 人形は台座の上で腰に手を当てていた。当てたまま、しばらく動かなかった。


 動かないあいだ、窓の外で自転車が一台通った。ブレーキの音が長かった。


   ◇


「あんたのそれ、無限じゃないの」

「はい」

「分かってないでしょう、あんた」

「分かってません」

「使うと減るの。減ったぶんは戻らないの。寝ても戻らないし、休んでも戻らない。一生ぶんの量が最初から決まっていて、あんたは毎回そこから出してるのよ」


 俺は椅子の背に体を預けた。


 背もたれが少し鳴った。この椅子は中学のときから使っている。


「はい」

「その湯呑み、昨日のでしょう」

「昨日のです」

「飲まないなら、下げてらっしゃいよ」


   ◇


「たとえで言うわ」

「はい」

「マッチの箱よ。箱の中に何本入ってるかは、どこにも書いてないの。擦った本数も数えられない。分かるのは、一本擦ったら一本減るってことだけ」

「はい」

「箱を振っても、残りの数は分からないわ。音でだいたい分かる気になるだけよ」

「はい」

「そこで、はい、って言うのやめなさい」


 俺は言うのをやめた。


 やめたら、部屋が静かになった。静かになったところに、外の道の音が入ってきた。子どもが二人、走って通っていった。走っている音は、二人ぶんが少しずれていて、片方が先に遠くなった。


 人形はマッチの話をしたあと、すぐには次を言わなかった。台座の上で、両手を腰から下ろして、机の木目のほうを見ていた。


 木目は、机の右のほうで一度うねっている。うねったところに、俺が中学のときに付けた傷が重なっていた。


   ◇


「振ってみたことはあるんですか」

「何を」

「箱を」

「……あるわよ」

「どうでした」

「うるさかったわ」


   ◇


 人形は台座の上で、少し体の重さを左に移した。


 重さの移った側で、赤い裾が右へ寄った。寄ったぶんだけ、台座の上の隙間が広くなる。


「聞き方が変よ、あんた」

「変ですか」

「わたしが四十年言えなかったことを言ってるのに、あんたが聞いてるのは、箱の音のことでしょう」

「音の話をしたのはそっちです」

「たとえよ」

「たとえの中身を聞いたら怒られるんですか」

「怒ってないわ」


   ◇


 人形は台座の上で一歩前に出た。


 出て、机の縁の手前で止まった。縁から先は、机の脚の向こうに床がある。落ちたら台座が割れる。


 俺は指を一本、縁のところに置いた。


「邪魔よ」

「落ちます」

「落ちないわよ」

「前に落ちました」

「あれは落としたのよ、あんたが」


   ◇


「もう一つあるわ」

「はい」

「使う量が多い日ほど、減り方も多いの。少ししか使わない日は、少ししか減らない。それだけの話よ。難しい話は何もしてないわ」

「はい」

「分かった?」

「分かりました」


   ◇


「言ってみなさい」

「使うと減る」

「それから」

「戻らない」

「それから」

「たくさん使うと、たくさん減る」

「……ちゃんと聞いてたのね」

「聞いてました」

「聞いてたのに、なんでその顔なのよ」


 顔の話をされても困る。


 俺の顔は、話を聞いているときも、聞いていないときも、同じ形をしている。


   ◇


「じゃあ、そのうち普通の人になるってことですか」

「そう」

「へえ」


   ◇


 人形が動かなくなった。


 動かないまま、こっちを見上げている。腰に当てていた手が、片方だけ下りた。


「へえ?」

「へえです」

「今、わたし、あんたの一生の話をしたのよ」

「聞きました」

「聞いた人の顔じゃないわ、それ」


 俺は座ったままでいた。


 座ったまま、椅子の脚をもう一度床の継ぎ目から外した。外したら、椅子がまっすぐになった。


 ドアは閉めてある。閉めておいてよかった。俺の側の返事は、下に届く大きさだった。届いていたら、母さんが階段の下から何か言っている。


   ◇


「あんた、怖くないの」

「何がですか」

「無くなるのよ」

「はい」

「あんた、今わたしの話を、天気の話と同じ棚に入れたでしょう」

「じゃあ、なんて言えばいいですか」

「そういうことを聞いてるんじゃないの」

「はい」


 人形は口を開けて、そのまま閉じた。


 閉じたあと、台座の上で半歩下がった。下がった先に、俺が朝に置いた消しゴムがある。当たって、消しゴムが少し動いた。


 動いた消しゴムを、俺は指で元の位置に戻した。人形は今度は前へ出た。前へ出て、消しゴムを避けて立った。


   ◇


「あんたね」

「はい」

「普通はここで、あと何回使えるんですかとか、そういうことを聞くのよ。それか、どうすればいいんですか、でしょう。わたしが聞かれる側だったころなら、たぶんそう聞かれてたわ」

「聞いたほうがいいですか」

「聞かなくていいわ」

「じゃあ聞きません」

「そういうところよ」


 人形は言い終わったあと、机の上で二歩だけ歩いて、また戻ってきた。


 戻ってきた場所は、さっき立っていたところと同じだった。


   ◇


 腹が減っていた。


 台所の鍋に、肉じゃがが残っている。母さんと父さんが先に食べていて、俺は帰りが遅かった日のぶんが一回ぶん、手つかずで入っていた。


 昼のぶんは現場で出たやつを食べた。食べたが、三時間前である。


 耳の奥が、少し詰まった感じがした。話が入ってこないわけではない。入ってきたものが、そのまま横を通っていった。


   ◇


「あんた、今、何を考えてるの」

「話を聞いてます」

「嘘ね」

「嘘です」

「認めるのが早いのよ、あんたは」

「早いですか」

「早いわ。嘘だって言われて、すぐ嘘ですって言うのは、考えてない証拠よ」


   ◇


「何を考えてたの」

「言わないほうがいい気がします」

「言いなさい」

「下に残ってるやつのことです」

「……」

「言えって言ったのはそっちです」

「言えとは言ったけど、それを言えとは言ってないわ」


 人形は台座の上で腰に手を当て直した。


 当て直して、そのまま横を向いた。横を向いた先には壁しかない。壁には何も貼っていない。貼ってあったものは、去年の秋に全部外した。外したところだけ、色が濃く残っている。


   ◇


「わたしね」

「はい」

「この話は、ずっと誰にもしてないの。しないでいるうちに、口のほうが動かなくなったわ。それを今日ようやく一つ出したのよ」

「はい」

「そこで、へえ、って言われたの」

「はい」

「あんた、それ、わざとやってる?」


 わざとではない。


 へえ、以外に出るものが無かった。


   ◇


 人形は机の上を横に歩いた。


 歩いて、スタンドの足のところまで行って、そこで止まった。止まったところは明かりの真下で、影が足元にだけ落ちている。


「わたしが何を言うと思ったの」

「わかりません」

「怒ると思ったでしょう」

「思いました」

「怒ってるわよ」

「はい」

「今日はここで言うのをやめておくわ。言うと、あんたが余計に何も言わなくなるから」


   ◇


 俺は立ち上がった。


 立ったら、椅子が後ろへ動いて、机との間が広くなった。


「どこ行くの」

「下です」

「まだ話は終わってないのよ」

「聞きます。食べながらでよければ」

「よくないわ」


   ◇


 ドアを開けた。


 開けたら、下から換気扇の音がはっきり戻ってきた。母さんが帰ってきているらしい。


 俺は振り返らないで階段を下りた。四段目が鳴った。


 下りきったところで、玄関に母さんの靴があるのが見えた。片方だけ横を向いている。横を向いているほうを、俺は足の先で直した。


 直しても、揃いはしなかった。


   ◇


 台所の明かりは点いていた。


 母さんが流しの前に立っている。買い物の袋が二つ、床に置いてあった。片方は口が開いていて、上から青い葉の先が出ている。


 もう片方は口が結んであって、中身は見えない。持ち手のところが伸びていて、下のほうが尖っている。重いものが底に入っているらしい。


 袋の底の角に、値札の紙が貼りついている。剥がれかけていて、字の上半分だけが読めた。


 流しには、洗ったばかりの皿が三枚立ててあった。三枚とも同じ向きで、水が同じところへ落ちている。


「食べる?」

「食う」

「温める?」

「温めなくていい」

「冷たいわよ」

「冷たくていい」


 母さんは鍋の蓋を開けた。開けて、菜箸で中を一度混ぜた。混ぜたあと、蓋を戻した。


「温めるわね」

「はい」


   ◇


 母さんは火を点けた。


 点けてから、換気扇の強さを一段上げた。上げたぶん、音の高いところが増えた。


 鍋の中が鳴りはじめるまでに、一分くらいかかった。そのあいだ、母さんは袋から出したものを冷蔵庫に入れていた。


 入れる順番は決まっているようだった。冷たいものが先で、割れるものが後だった。最後に袋を畳んで、扉の内側の袋入れに押し込んだ。押し込んだら、上から一枚はみ出した。


   ◇


「あんた、二階でよく喋るわね」

「喋ってません」

「喋ってるわよ。声はしないけど、床が鳴るの。同じところで、二回ずつ」

「歩いてるだけだ」

「歩いてる人の鳴り方じゃないのよね、あれ」

「歩いてる」

「ならいいけど」


 母さんは冷蔵庫の扉を閉めた。


 閉めて、鍋の火を止めた。止めるとき、つまみを一度回しすぎて、戻した。


 止めたあとも、鍋の中はしばらく音がしていた。音は小さくなっていって、途中で一度大きくなって、それから消えた。


「お皿、自分で出して」

「出す」

「あと、そこの棚のいちばん下」

「なんですか」

「取れるでしょ、あんたなら。わたしは踏み台がいるの」


 俺は棚のいちばん下から、大きいほうの皿を出した。下にもう一枚あった。


   ◇


 俺は皿を出して、椅子に座った。


 真ん中だけが熱くて、端がまだ冷たかった。じゃがいもは崩れていない。にんじんは大きいまま入っている。


 箸で持ち上げると、じゃがいもが一つ、半分に割れた。割れた面が白かった。


 白いところに、汁の色がゆっくり入っていく。入りきる前に食べた。入りきってからのほうがうまいのは知っているが、待っていられなかった。


「明日は」

「昼から」

「そう」


 母さんは自分の湯呑みを持って、向かいに座った。座って、テレビのほうを見た。テレビは点いていない。


「お父さん、今日は遅いって」

「そうか」

「だから、これ、明日の朝も出るわよ」

「はい」

「うれしそうね」

「顔に出てない」

「出てないけど、箸が早いのよ」


 母さんは自分の湯呑みを両手で持って、一口だけ飲んだ。飲んだあと、湯呑みを持ったままでいた。


   ◇


 食べ終わって、皿を流しに置いた。


 置いたところに、母さんが上から水を出した。水は皿の縁に当たって、外へ跳ねた。跳ねたぶんが、俺の袖に付いた。


「ごめん」

「いい」


   ◇


 流しの水を止めた。


 止めたら、家の中の音が換気扇だけになった。母さんは茶の間へ行っていて、テレビの音がしはじめている。


 俺は皿を伏せた。伏せた皿の下から、水が細く出てきて、流しの底の溝へ落ちていった。


   ◇


 俺は窓の外を覗いた。


 台所の窓は道に面していて、下は駐車場になっている。街灯が一つあって、その下に自転車が二台停まっていた。二台とも、家のではない。


 街灯の光は下へ広がっていて、地面の丸いところだけが明るい。丸の外に、自転車の影が二本伸びている。影の長さは同じではなかった。


 通りの向こうの家は、二階だけ明かりが点いている。その下の階は暗い。暗いところの窓に、こっちの街灯が細く映っていた。


 街灯が暗くなって、また明るくなった。暗くなっていたのは一瞬で、そのあいだ、自転車の影が消えた。


 消えて、また同じ場所に戻ってきた。


 窓から離れて、台所を出た。


 階段の下から見上げると、二階の廊下に、俺の部屋の明かりが横に伸びている。ドアは開けたままにしてきた。明かりも点けたままにしてきた。


 伸びている明かりの中に、動いているものは何も無かった。


 俺は一段目に足をかけた。かけて、そこで止まった。


 上がったら、たぶんまだ怒っている。怒っている相手のところへ、これから茶を持って上がる。持って上がる理由は特にない。ただ、湯呑みが上に置きっぱなしだった。


 俺は台所に戻って、急須の蓋を開けた。中の茶葉は、朝のままだった。


 俺は四段目を踏んで上がった。

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