第154話 へえ、とだけ言った
枕の位置が、寝たときと違っていた。
頭の側が壁から離れていて、代わりに足の側が寄っている。俺は枕を戻した。シーツに四角い跡が残っていた。
跡は薄い。手のひらで撫でると、半分だけ消えた。
机のスタンドが点いていた。点けた覚えはない。
◇
九月二十五日、金曜日。
仕事は昼で終わった。帰ってきたのは三時で、それから風呂に入った。
風呂は昼に入ると、湯が熱すぎる。朝に沸かしたやつが残っていて、追い焚きをしなくても足の先が痛い。
出てから、台所で水を一杯飲んだ。母さんは買い物に出ていて、家には誰もいなかった。
二階に上がる階段は、下から四段目の音が高い。今日はそこを踏んだ。
廊下の突き当たりの窓は、下半分だけ開いていた。網戸の破れているところから、虫が一匹入って、そのまま電球のほうへ上がっていった。
洗濯籠には、乾いたタオルが二枚だけ入っていた。二枚とも同じ畳み方をしてあって、端がきれいに揃っている。畳んだ角は、二枚とも上を向いていた。
◇
部屋のドアを閉めた。
閉めると、下の音が半分になる。半分になったところに、換気扇の低いほうだけが残る。
人形は机の上にいた。台座ごと窓のほうを向いていたのが、俺が入ったところで、こっちに向き直った。
机の上は、朝に出したままになっている。台本が一冊と、消しゴムが一つと、湯呑みが一つ。湯呑みの中身は昨日のぶんで、底のところだけ色が濃くなっていた。
俺は湯呑みを机の端へ寄せた。寄せた下に、輪の跡が残っていた。
「座りなさい」
「座ってます」
「ちゃんと座りなさい。膝をこっちに向けて」
俺は椅子を回した。回したら、脚の一本が床の継ぎ目に落ちて、椅子が傾いた。
傾いたぶんを、足で押し戻した。
この椅子は、四本のうち一本だけ長さが合っていない。合っていない一本は、座るたびに床の継ぎ目のところへ落ちる。
◇
「話があるの」
「はい」
「向こうで言いかけて、やめたでしょう」
「やめてました」
「あれの続きよ」
人形は台座の上で腰に手を当てていた。当てたまま、しばらく動かなかった。
動かないあいだ、窓の外で自転車が一台通った。ブレーキの音が長かった。
◇
「あんたのそれ、無限じゃないの」
「はい」
「分かってないでしょう、あんた」
「分かってません」
「使うと減るの。減ったぶんは戻らないの。寝ても戻らないし、休んでも戻らない。一生ぶんの量が最初から決まっていて、あんたは毎回そこから出してるのよ」
俺は椅子の背に体を預けた。
背もたれが少し鳴った。この椅子は中学のときから使っている。
「はい」
「その湯呑み、昨日のでしょう」
「昨日のです」
「飲まないなら、下げてらっしゃいよ」
◇
「たとえで言うわ」
「はい」
「マッチの箱よ。箱の中に何本入ってるかは、どこにも書いてないの。擦った本数も数えられない。分かるのは、一本擦ったら一本減るってことだけ」
「はい」
「箱を振っても、残りの数は分からないわ。音でだいたい分かる気になるだけよ」
「はい」
「そこで、はい、って言うのやめなさい」
俺は言うのをやめた。
やめたら、部屋が静かになった。静かになったところに、外の道の音が入ってきた。子どもが二人、走って通っていった。走っている音は、二人ぶんが少しずれていて、片方が先に遠くなった。
人形はマッチの話をしたあと、すぐには次を言わなかった。台座の上で、両手を腰から下ろして、机の木目のほうを見ていた。
木目は、机の右のほうで一度うねっている。うねったところに、俺が中学のときに付けた傷が重なっていた。
◇
「振ってみたことはあるんですか」
「何を」
「箱を」
「……あるわよ」
「どうでした」
「うるさかったわ」
◇
人形は台座の上で、少し体の重さを左に移した。
重さの移った側で、赤い裾が右へ寄った。寄ったぶんだけ、台座の上の隙間が広くなる。
「聞き方が変よ、あんた」
「変ですか」
「わたしが四十年言えなかったことを言ってるのに、あんたが聞いてるのは、箱の音のことでしょう」
「音の話をしたのはそっちです」
「たとえよ」
「たとえの中身を聞いたら怒られるんですか」
「怒ってないわ」
◇
人形は台座の上で一歩前に出た。
出て、机の縁の手前で止まった。縁から先は、机の脚の向こうに床がある。落ちたら台座が割れる。
俺は指を一本、縁のところに置いた。
「邪魔よ」
「落ちます」
「落ちないわよ」
「前に落ちました」
「あれは落としたのよ、あんたが」
◇
「もう一つあるわ」
「はい」
「使う量が多い日ほど、減り方も多いの。少ししか使わない日は、少ししか減らない。それだけの話よ。難しい話は何もしてないわ」
「はい」
「分かった?」
「分かりました」
◇
「言ってみなさい」
「使うと減る」
「それから」
「戻らない」
「それから」
「たくさん使うと、たくさん減る」
「……ちゃんと聞いてたのね」
「聞いてました」
「聞いてたのに、なんでその顔なのよ」
顔の話をされても困る。
俺の顔は、話を聞いているときも、聞いていないときも、同じ形をしている。
◇
「じゃあ、そのうち普通の人になるってことですか」
「そう」
「へえ」
◇
人形が動かなくなった。
動かないまま、こっちを見上げている。腰に当てていた手が、片方だけ下りた。
「へえ?」
「へえです」
「今、わたし、あんたの一生の話をしたのよ」
「聞きました」
「聞いた人の顔じゃないわ、それ」
俺は座ったままでいた。
座ったまま、椅子の脚をもう一度床の継ぎ目から外した。外したら、椅子がまっすぐになった。
ドアは閉めてある。閉めておいてよかった。俺の側の返事は、下に届く大きさだった。届いていたら、母さんが階段の下から何か言っている。
◇
「あんた、怖くないの」
「何がですか」
「無くなるのよ」
「はい」
「あんた、今わたしの話を、天気の話と同じ棚に入れたでしょう」
「じゃあ、なんて言えばいいですか」
「そういうことを聞いてるんじゃないの」
「はい」
人形は口を開けて、そのまま閉じた。
閉じたあと、台座の上で半歩下がった。下がった先に、俺が朝に置いた消しゴムがある。当たって、消しゴムが少し動いた。
動いた消しゴムを、俺は指で元の位置に戻した。人形は今度は前へ出た。前へ出て、消しゴムを避けて立った。
◇
「あんたね」
「はい」
「普通はここで、あと何回使えるんですかとか、そういうことを聞くのよ。それか、どうすればいいんですか、でしょう。わたしが聞かれる側だったころなら、たぶんそう聞かれてたわ」
「聞いたほうがいいですか」
「聞かなくていいわ」
「じゃあ聞きません」
「そういうところよ」
人形は言い終わったあと、机の上で二歩だけ歩いて、また戻ってきた。
戻ってきた場所は、さっき立っていたところと同じだった。
◇
腹が減っていた。
台所の鍋に、肉じゃがが残っている。母さんと父さんが先に食べていて、俺は帰りが遅かった日のぶんが一回ぶん、手つかずで入っていた。
昼のぶんは現場で出たやつを食べた。食べたが、三時間前である。
耳の奥が、少し詰まった感じがした。話が入ってこないわけではない。入ってきたものが、そのまま横を通っていった。
◇
「あんた、今、何を考えてるの」
「話を聞いてます」
「嘘ね」
「嘘です」
「認めるのが早いのよ、あんたは」
「早いですか」
「早いわ。嘘だって言われて、すぐ嘘ですって言うのは、考えてない証拠よ」
◇
「何を考えてたの」
「言わないほうがいい気がします」
「言いなさい」
「下に残ってるやつのことです」
「……」
「言えって言ったのはそっちです」
「言えとは言ったけど、それを言えとは言ってないわ」
人形は台座の上で腰に手を当て直した。
当て直して、そのまま横を向いた。横を向いた先には壁しかない。壁には何も貼っていない。貼ってあったものは、去年の秋に全部外した。外したところだけ、色が濃く残っている。
◇
「わたしね」
「はい」
「この話は、ずっと誰にもしてないの。しないでいるうちに、口のほうが動かなくなったわ。それを今日ようやく一つ出したのよ」
「はい」
「そこで、へえ、って言われたの」
「はい」
「あんた、それ、わざとやってる?」
わざとではない。
へえ、以外に出るものが無かった。
◇
人形は机の上を横に歩いた。
歩いて、スタンドの足のところまで行って、そこで止まった。止まったところは明かりの真下で、影が足元にだけ落ちている。
「わたしが何を言うと思ったの」
「わかりません」
「怒ると思ったでしょう」
「思いました」
「怒ってるわよ」
「はい」
「今日はここで言うのをやめておくわ。言うと、あんたが余計に何も言わなくなるから」
◇
俺は立ち上がった。
立ったら、椅子が後ろへ動いて、机との間が広くなった。
「どこ行くの」
「下です」
「まだ話は終わってないのよ」
「聞きます。食べながらでよければ」
「よくないわ」
◇
ドアを開けた。
開けたら、下から換気扇の音がはっきり戻ってきた。母さんが帰ってきているらしい。
俺は振り返らないで階段を下りた。四段目が鳴った。
下りきったところで、玄関に母さんの靴があるのが見えた。片方だけ横を向いている。横を向いているほうを、俺は足の先で直した。
直しても、揃いはしなかった。
◇
台所の明かりは点いていた。
母さんが流しの前に立っている。買い物の袋が二つ、床に置いてあった。片方は口が開いていて、上から青い葉の先が出ている。
もう片方は口が結んであって、中身は見えない。持ち手のところが伸びていて、下のほうが尖っている。重いものが底に入っているらしい。
袋の底の角に、値札の紙が貼りついている。剥がれかけていて、字の上半分だけが読めた。
流しには、洗ったばかりの皿が三枚立ててあった。三枚とも同じ向きで、水が同じところへ落ちている。
「食べる?」
「食う」
「温める?」
「温めなくていい」
「冷たいわよ」
「冷たくていい」
母さんは鍋の蓋を開けた。開けて、菜箸で中を一度混ぜた。混ぜたあと、蓋を戻した。
「温めるわね」
「はい」
◇
母さんは火を点けた。
点けてから、換気扇の強さを一段上げた。上げたぶん、音の高いところが増えた。
鍋の中が鳴りはじめるまでに、一分くらいかかった。そのあいだ、母さんは袋から出したものを冷蔵庫に入れていた。
入れる順番は決まっているようだった。冷たいものが先で、割れるものが後だった。最後に袋を畳んで、扉の内側の袋入れに押し込んだ。押し込んだら、上から一枚はみ出した。
◇
「あんた、二階でよく喋るわね」
「喋ってません」
「喋ってるわよ。声はしないけど、床が鳴るの。同じところで、二回ずつ」
「歩いてるだけだ」
「歩いてる人の鳴り方じゃないのよね、あれ」
「歩いてる」
「ならいいけど」
母さんは冷蔵庫の扉を閉めた。
閉めて、鍋の火を止めた。止めるとき、つまみを一度回しすぎて、戻した。
止めたあとも、鍋の中はしばらく音がしていた。音は小さくなっていって、途中で一度大きくなって、それから消えた。
「お皿、自分で出して」
「出す」
「あと、そこの棚のいちばん下」
「なんですか」
「取れるでしょ、あんたなら。わたしは踏み台がいるの」
俺は棚のいちばん下から、大きいほうの皿を出した。下にもう一枚あった。
◇
俺は皿を出して、椅子に座った。
真ん中だけが熱くて、端がまだ冷たかった。じゃがいもは崩れていない。にんじんは大きいまま入っている。
箸で持ち上げると、じゃがいもが一つ、半分に割れた。割れた面が白かった。
白いところに、汁の色がゆっくり入っていく。入りきる前に食べた。入りきってからのほうがうまいのは知っているが、待っていられなかった。
「明日は」
「昼から」
「そう」
母さんは自分の湯呑みを持って、向かいに座った。座って、テレビのほうを見た。テレビは点いていない。
「お父さん、今日は遅いって」
「そうか」
「だから、これ、明日の朝も出るわよ」
「はい」
「うれしそうね」
「顔に出てない」
「出てないけど、箸が早いのよ」
母さんは自分の湯呑みを両手で持って、一口だけ飲んだ。飲んだあと、湯呑みを持ったままでいた。
◇
食べ終わって、皿を流しに置いた。
置いたところに、母さんが上から水を出した。水は皿の縁に当たって、外へ跳ねた。跳ねたぶんが、俺の袖に付いた。
「ごめん」
「いい」
◇
流しの水を止めた。
止めたら、家の中の音が換気扇だけになった。母さんは茶の間へ行っていて、テレビの音がしはじめている。
俺は皿を伏せた。伏せた皿の下から、水が細く出てきて、流しの底の溝へ落ちていった。
◇
俺は窓の外を覗いた。
台所の窓は道に面していて、下は駐車場になっている。街灯が一つあって、その下に自転車が二台停まっていた。二台とも、家のではない。
街灯の光は下へ広がっていて、地面の丸いところだけが明るい。丸の外に、自転車の影が二本伸びている。影の長さは同じではなかった。
通りの向こうの家は、二階だけ明かりが点いている。その下の階は暗い。暗いところの窓に、こっちの街灯が細く映っていた。
街灯が暗くなって、また明るくなった。暗くなっていたのは一瞬で、そのあいだ、自転車の影が消えた。
消えて、また同じ場所に戻ってきた。
窓から離れて、台所を出た。
階段の下から見上げると、二階の廊下に、俺の部屋の明かりが横に伸びている。ドアは開けたままにしてきた。明かりも点けたままにしてきた。
伸びている明かりの中に、動いているものは何も無かった。
俺は一段目に足をかけた。かけて、そこで止まった。
上がったら、たぶんまだ怒っている。怒っている相手のところへ、これから茶を持って上がる。持って上がる理由は特にない。ただ、湯呑みが上に置きっぱなしだった。
俺は台所に戻って、急須の蓋を開けた。中の茶葉は、朝のままだった。
俺は四段目を踏んで上がった。




