↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
153/237

第153話 たぶん時差ボケです

 廊下の奥で、誰かがパイプ椅子を運んでいた。


 重ねたまま持っているらしく、上のほうが歩くたびに鳴っている。鳴る間隔は、足の速さと同じだった。


 音は控室の前で一度大きくなって、それから角のほうへ離れていった。


 離れたあとの廊下は静かで、そのぶん、隣の部屋で戸を引く音がよく聞こえた。


 俺は控室に入って、ドアを閉めた。


 机の上に箱が三つ積んである。上の蓋が開いていて、中身が半分になっていた。


 箱の横に、紙が一枚置いてあった。字が書いてあるが、誰の字かは分からない。


 俺は椅子に座って、その紙を裏返した。裏は白かった。


   ◇


 九月二十四日、木曜日。


 現場は都内で、入りは七時だった。家を出たのは五時二十分で、そのとき外はまだ暗かった。


 駅までの道に、朝の早い時間だけ開いている店が一軒ある。その前を通ったとき、中で人が椅子を下ろしていた。椅子は四脚あって、下ろしたのは二脚だけだった。


 昨日の夜も、眠くならなかった。代わりに、朝の三時に目が覚めた。目が覚めたあとは、下の道を車が通る音を数えていた。数えているうちに、外が明るくなった。


 母さんには「戻るまで一週間くらいかかるらしいわよ」と言われた。誰から聞いたのかは言わなかった。


 台所の時計は、いつのまにか一分進んでいた。針の先が、目盛りの右の縁に半分かかっている。


   ◇


 控室は三畳くらいで、机が一つと椅子が三脚ある。


 入口の横の椅子は、座面が低い。低いと、机の縁が胸のあたりに来る。俺はいつもそこに座る。


 壁に鏡がある。鏡の下にティッシュの箱と、切れた輪ゴムが置いてあった。輪ゴムは切れたところが黒くなっている。


 鏡の右上の角に、テープの跡が四角く残っている。剥がしたのは俺ではない。


 鞄は椅子の脚のところに置いた。口は開けたままにしてある。


   ◇


 メイクの人が来た。


 台を持ってきて、机の空いているところに置いた。置いてから、俺の顔を横から見た。


「顔、乾いてますね」

「わかりません」

「乾いてます。飛行機に乗ると三日は続くので、今日は下に一枚入れます」


 そう言って、白い容器の蓋を開けた。中身を指の先に取って、俺の頬に置いた。


 冷たかった。冷たいのは最初だけで、伸ばされているうちに分からなくなった。


 その人は途中で一度、指を止めた。止めて、俺の目の下のところを親指の腹で二回押した。押してから、また塗った。


   ◇


「昨日、何時に寝ました?」

「一時です」

「起きたのは」

「三時です」

「それ、寝てないですよ」

「二時間寝ました」

「それは寝たうちに入らないんですよ。わたしの姉が看護師なんですけど、四時間を切ったら数えるなって言ってました」


 メイクの人は台の上の道具を、右から左へ並べ替えた。


 並べ替えたあと、一番左のものだけを手に取って、また置いた。置いた場所は、並べ替える前と同じところだった。


   ◇


 衣装は昨日と同じで、上着だけが替わっていた。


 替わったほうは袖が少し長い。長いぶん、手首のところで一度たわむ。たわみを直す係の人が来て、内側で布を折って、そこを留めた。


 留めたところは外から見えない。見えないが、腕を上げると引っかかる。


「上げますか」

「上げません」

「上げないなら、このままでいきます」


   ◇


 鞄の中で、人形が動いた。


(起きたか)


「起きてるわよ」


(ずっと下を向いてた)


「向いてないわよ」


(向いてた)


 人形は鞄の口の縁まで上がってきて、そこに座った。


 座ったところに、天井の明かりがまっすぐ当たっている。当たっているのに、顔の色は白いままだった。


(顔が白い)


「白くないわよ」


(白い)


 人形は膝の上で手を組んだ。組んだまま、それきり何も言わなかった。


 鞄の口を閉めるかどうかで少し迷って、開けたままにした。前に閉めたときは、暗いと言われた。


 俺は箱の蓋を閉めた。閉める拍子に、紙が下に落ちた。拾って、また同じところに置いた。


   ◇


 ドアが二回鳴った。


「高町さん、板付きお願いします」

「はい」


 顔を出したのは進行の人だった。首から札を下げていて、札の裏に折った紙が挟んである。


 板付き。


 わからん。


 板が付くという言い方が、どこから来ているのかも分からない。板は今日ここに貼ったばかりである。


 聞いたら、先に立っておくことらしい。カメラが回る前から、そこにいる形になるという話だった。


 廊下を歩きながら、進行の人はその紙をもう一度開いた。開いて、上から順に指でなぞって、途中で止めた。止めたところに丸が付いていた。


   ◇


 セットは家の二階の廊下で、床が本物の板でできている。


 板は現場に来てから貼ったもので、端のところだけ色が違う。違うところはカメラに入らない。


 立ち位置に、白いテープが十字に貼ってあった。テープの上に立つと、爪先が半分はみ出す。


 カメラは正面に一台と、右斜めに一台ある。右のほうは低い位置にあって、下から俺のほうを向いていた。


 壁の向こうは何もない。板を立てて、裏から棒で支えてある。棒は三本で、一番下のところが床に釘で留めてあった。


   ◇


 人が集まってきた。


 カメラの後ろに並んで、壁際にも並んだ。モニターの前は、俺が入ってきたときより一人ぶん狭くなっている。


 照明の人が脚立の上にいて、上から布の位置を直していた。直すたびに、床の明るいところの形が変わる。


 形が四角に近くなったところで、下の人が片手を上げた。上げたら、脚立の上の手が止まった。


   ◇


 本番が始まった。


 俺は板の上を歩いて、途中で止まって、右を向いた。台詞は二行ある。一行目を言って、間を置いて、二行目を言う。


 言い終わったところで、カメラが止まった。


 止まったあと、モニターの前で誰かが何か言った。何を言ったかは聞こえない。聞こえないが、そのあとで壁際の人が二人、モニターのほうへ寄った。


 寄ったぶん、通り道が細くなった。細くなったところを、記録の人が体を斜めにして通った。


   ◇


 照明の人が脚立から下りてきた。


 下りて、床のテープのところまで来て、しゃがんだ。しゃがんで、板の継ぎ目を指で押した。押しても板は動かなかった。


「今の、下から見てたんですけど」

「はい」

「脚立の上からだと、下は頭のてっぺんしか見えないんです。頭が動けば、そろそろ次だなって分かるんですよ」

「はい」

「今のは、下の頭がどれも動きませんでした。それで、布を持ったまま上で止まってました」


 その人は手のひらを上に向けて、そこに何か載せる形をしてみせた。してみせてから、脚立のところへ戻っていった。


   ◇


 監督が椅子から立った。


 立って、セットの端まで来て、床のテープを靴の先で軽く叩いた。叩いたのは十字の交わったところで、そこだけ端が浮いている。


「もう少し手前」

「どのくらいですか」

「半分でいい」


 俺はテープの半分ぶんだけ前に出た。右のカメラの黒いところが、視界の下に入ってきた。


 監督はそれを見て、椅子に戻った。戻ったあと、何も言わなかった。


   ◇


 二回目を撮ることになった。


 立ち位置に戻ったところで、こめかみの内側が鳴った。


 鳴ったあと、痛みが残った。押しても場所が動かない。目を閉じても変わらない。


 立っているぶんには問題ない。喋るのも問題ない。ただ、正面の明かりが少しうるさかった。


 うるさいというのは音の話ではなくて、明るさの話である。


   ◇


 休憩まであと何回撮るのかは、聞いていない。聞いても変わらない。


 次の休憩まで、どこかに座っていたい。パイプ椅子でいい。背もたれは無くていい。


 座って、床の一点を見ていられれば、それでいい。誰も話しかけてこなければ、なお良い。


 二回目が終わって、三回目に入った。三回目は歩く速さだけを変えた。変えろと言われたわけではない。板の継ぎ目のところで足が引っかかったので、そのぶん遅くなった。


 誰も何も言わなかった。


   ◇


 共演の人が、俺の右に立った。


 年上の男の人で、初日から一緒に撮っている。自分の台本を丸めて、それを右手に持っていた。


 持ったまま、俺のほうを見た。


「高町くん、それ、ずっと入れっぱなしにしてるでしょう」

「はい」

「休憩のときも抜いてないよね。さっき控室で見たけど、椅子に座ったまま、こっちも見ないで水だけ飲んでた」

「はい」

「僕はね、一回抜かないと持たないんだ。三時間も入れっぱなしにしたら、その日の夜まで戻ってこないんだよ」


 入れていない。


 抜いてもいない。


 控室で水を飲んでいたのは、喉が渇いていたからだ。


   ◇


 その人は、丸めた台本の先を俺の肩に軽く当てた。


「無理しないでよ」

「はい」

「いや、無理しないでって言っても、しちゃう人には言っても無駄なんだよな。僕も昔そう言われて、一回も聞かなかったから分かる」

「はい」

「まあ、僕が勝手に言ってるだけだから、忘れていいよ」


 俺は返事をしていた。返事以外は何もしていない。


   ◇


 役から抜けないまま次の段取りを待っている男に見えたはずだが、そのとき考えていたのは、控室の一番上の箱におにぎりが二つ残っていたかどうかということだった。


   ◇


 撮る順番が変わった。


 助監督の人が紙を持って走ってきて、モニターの前で三十秒くらい何か話した。話が終わると、共演の人のほうを先に撮ることになった。


 誰も理由を言わなかった。


 俺は壁際のパイプ椅子に座った。座面は、上着ごしに分かるくらい冷たかった。


 パイプ椅子は最初から二脚あって、俺が座る前は両方とも畳んで壁に立てかけてあった。開いたのは進行の人で、開いてから、片方の脚を指で二回動かして高さを見ていた。


   ◇


 共演の人は、カメラの前に立つ前に一度こっちを見た。


 見て、丸めた台本を上げた。上げてから、それを脇に挟んで、テープの上に立った。


 立ったところで、記録の人がノートを開いた。開いて、ページの上のほうに何か書いた。書きながら、もう片方の手で自分の耳のうしろを触っていた。


   ◇


 俺は座っていた。


 座っているあいだ、痛みは同じ強さで続いていた。強くもならないし、弱くもならない。


 床に電源のコードが三本走っている。三本のうち二本は黒くて、一本だけ灰色だった。灰色のほうは、途中で一度たわんでいる。


 たわんだところに、足で踏んだ跡が付いていた。跡は一つではなくて、重なって二つあった。


   ◇


 共演の人の撮影は長かった。


 同じところを四回撮って、そのたびに監督が椅子から立った。立って、何か言って、また座る。


 三回目のあと、共演の人はカメラの前で一度、両手で顔をこすった。こすってから、下を向いて、しばらく動かなかった。


 四回目が終わったとき、その人はテープの上から動かなかった。動かないまま、モニターのほうを見ていた。


 誰かが「オッケーです」と言って、そこでやっと足が動いた。


   ◇


 休憩になった。


 パイプ椅子から立つと、膝の裏に座面の縁の跡が付いていた。付いたところだけ、しばらく赤い。


 控室に戻る途中で、進行の人とすれ違った。


「あと二つです」

「何時までですか」

「押してないので、明るいうちに終わります」


 押していないというのが、何に対して押していないのかは分からない。分からないが、終わるのが早いのは良いことだと思う。


 進行の人は、紙の丸を一つ、指で塗りつぶした。塗りつぶしてから、俺のほうを見ないで先に歩いていった。


   ◇


 二時間して、全部終わった。


 終わりの声がかかったあと、セットの明かりが半分落ちた。落ちたところで、床の板の色が急に濃くなった。


 俺は控室に戻って、鞄を持った。


 箱は三つとも机の上にあった。一番上の蓋は開いたままで、中身は朝より減っていた。


 机の紙は、まだ裏を向いたままだった。誰も表に戻していない。


 俺は上着を椅子の背から取った。取ったら、袖の内側で留めたところが、指に当たった。


   ◇


 廊下に出ると、共演の人が壁のほうを向いて電話をしていた。


 背中しか見えない。声は聞こえるが、何を言っているかまでは分からない。話しながら、片手で自分の首の後ろを揉んでいた。


 俺が通り過ぎるとき、その人は振り返らなかった。振り返らないで、片方の手だけを肩の高さまで上げた。


 上げて、そのまま下ろした。


   ◇


 外はもう暗い。


 駐車場の街灯が一つだけ点いていなくて、そこだけ地面が黒かった。黒いところを踏んで通ったが、踏んでも何も変わらなかった。


 犬飼さんの車の助手席に座った。座ったら、背もたれが立っていた。倒すつまみは右にある。


 俺は倒さないで、そのまま座った。膝が前の物入れに当たった。当たったところに、細い擦れの線が横に走っている。


   ◇


「高町」

「はい」

「明日は九時入りだ。今日より二時間遅い」

「はい」

「寝ろ」

「寝ます」

「寝るとは言うんだな、君は」


   ◇


 車が動き出した。


 窓の外を見ると、ガラスに俺の顔が映っていた。映った顔の向こうを、道路の看板が流れていく。看板の字と、俺の顎のあたりが重なった。


 重なったのは一瞬で、次の看板までは間があった。


   ◇


「頭が痛いです」

「風邪か」

「違います。たぶん時差ボケです」

「まだ抜けてないのか」

「はい」

「向こうで寝てなかったからな」

「はい」


 犬飼さんはハンドルの上のほうを持ち替えた。


 持ち替えて、それきり何も言わなかった。


   ◇


 信号で止まった。


 止まったところで、前の車のブレーキランプが二回続けて明るくなった。二回とも同じ長さだった。


 運転席のほうから、ウインカーの音がしている。音は左右で同じ速さで、途中で一度も揺れない。


 外の歩道を、傘を持った人が通った。雨は降っていない。持っているだけで、開いてはいなかった。


   ◇


「明日は、あの人は来るんですか」

「来る。同じ日に撮る」

「そうですか」

「何かあったか」

「肩を叩かれました」

「それだけか」

「それだけです」


 犬飼さんは、そこで少し黙った。


 黙って、信号が変わってから車を出した。出すとき、ハンドルを回す手が一度止まって、また動いた。


   ◇


 俺は目をこすった。


 こすったら、明かりの粒が横に伸びた。伸びたのは一瞬で、すぐ元に戻った。


 鞄は膝の上にある。口は開いたままで、その口のところから人形がこっちを見上げていた。


 人形は何も言わないで、縁に手をかけている。かけた手を、車が曲がるのに合わせて掛け替えた。


 窓の外を、店の明かりが後ろへ流れていく。流れていく先に、まだ点いていない看板が一つあった。


 通り過ぎるときに、その看板の明かりが点いた。


   ◇


「明日も痛かったら言え」


 犬飼さんは前を向いたまま言った。


「はい」

「言わなかったら、こっちは無いものとして組む」

「はい」


 車は坂を上がって、家のほうへ曲がった。


 曲がった先の道は、街灯が両側に並んでいる。並んだ明かりが、一つずつ前から後ろへ流れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。