第152話 数千人は、少し多い
車の窓の外に、柵が見えた。
柵は道の両側にあって、その向こうに人が立っている。柵の高さは腰くらいで、上のところに布が巻いてある。布は赤かった。
車は徐行していた。徐行しているのに、前の車との間が縮まらない。前の車も同じ速さで、そのまた前も同じ速さだった。
「高町、降りたら右へ歩け」
「右ですか」
「右だ。左は行き止まりになってて、そっちに人が固まってる。間違えて入ると、戻ってくるまでに十分かかる」
「はい」
「十分あると、開くまでに間に合わん」
◇
九月十二日、土曜日。
日本を出たのは昨日の午前で、途中の空港で四時間待った。四時間のうち、二時間は椅子で寝ていた。椅子は硬かった。
着いたのは昨日の夜で、そこから車で三十分だった。宿に入って、寝た。
起きたら朝の三時だった。三時から六時まで、天井を見ていた。
昼に一度、部屋で横になった。横になったが、外が明るくて、明るいまま二時間過ぎた。
車に乗ったのは五時十五分で、走り出してすぐ、窓の外に海が見えた。見えたのは一度だけで、そのあとは建物にふさがれた。
現地の時刻で、今は夕方の六時前だった。眠い。寝る時間がずれたままだ。
◇
街は海のそばにある。
海は見えていない。車が走っているのは建物のあいだの道で、その先に会場がある。
道の上に、布が横に渡してあった。布には字が書いてある。字は読めない。
同じ布が、少し先にもう一枚あった。二枚目のほうは字が少なくて、そのぶん一字が大きい。大きくても読めなかった。
英語ではなかった。空港の看板も英語ではなくて、その下に小さく英語が付いていた。付いていても読めない。
「これ、なんて書いてありますか」
「知らん」
「はい」
「俺も読めん」
◇
車が止まった。
止まったところの右側に、赤い布を敷いた道がある。道の幅は、二人が並んで歩けるくらいだった。
ドアが外から開いた。開けたのは、朝から一緒にいる人である。名前は聞いたが、聞いたときに覚えなかった。
俺は膝の上の帽子を、犬飼さんのほうへ渡した。
「持っててください」
「持っておく」
「行きます」
「行け」
◇
降りた瞬間に、音が来た。
音は左からと右から同時に来て、真ん中で重なった。重なったところは、一つの音になっていて、中身が分からない。
柵の向こうに、人がいる。前の列は柵に体を付けていて、その後ろにもう三列か四列ある。後ろのほうは、顔が並んでいるようにしか見えなかった。
手が上がっている。上がっている手の数は数えなかった。数えようとすると、動くので数えられない。
柵の内側に、揃いの上着を着た人が等間隔で立っていた。全員が客のほうを向いていて、こっちには背中を向けている。
その一人が、俺のほうを見ないまま、腕だけを横に伸ばした。伸ばした先が、歩く方向だった。
◇
「ソウ」
柵のほうから声がした。
俺の名前ではない。役の名前である。
声のほうを見たら、子どもが一人、大人の肩に乗っていた。子どもは両手を上げていて、口をもう一度動かした。
「ソウ」
俺は手を上げた。
上げたら、子どもの周りの人が一斉に何か言った。何を言ったのかは分からない。
◇
赤い布の上を歩いた。
布は薄い。下の石の段差が、靴の裏に来る。段差は途中に三つあって、三つとも同じ高さではなかった。
カメラが右側に並んでいる。並んでいる人たちは、こっちを向いて、何か言っていた。言っているのは短い言葉で、同じ言葉を繰り返している人が多い。
繰り返している言葉は「ソウ」だった。
途中で、案内の人が立ち止まって、俺のほうへ手のひらを見せた。見せてから、その手を横へ動かした。
横に動かした先には、カメラが集まっている。俺はそっちを向いて、立った。
立っているあいだ、光が何度も切れた。切れているのではなくて、光る回数が多い。
何秒立てばいいのかは言われていない。案内の人が手をもう一度動かしたので、動かしたほうへ歩いた。
◇
犬飼さんは、俺の斜め後ろを歩いていた。
歩きながら、二度、腕時計を見た。
「高町、止まるな」
「止まってません」
「今、遅くなった」
「石が違います」
「石か」
「三つあります」
◇
建物に入った。
中は暗い。外が明るかったので、しばらく何も見えなかった。見えるようになったら、壁が全部布で覆ってあるのが分かった。
布は天井まで届いている。天井のところで、上に向かって畳んであった。
通路は細い。細いところに人が立っていて、立っている人はみんな首から札を下げていた。札の色が四種類ある。色ごとに、通れるところが違うらしい。
俺の札は白だった。犬飼さんのは黄色で、案内の人のは黒だった。
黒い札の人が立ち止まると、白と黄色の札の人が全員止まる。止まったところで、横の戸から別の一団が出てきて、先に通っていった。
通路の途中で階段を上った。上りきったところにもう一つあって、そこも上った。上るあいだ、前の人の札の裏だけが目の前にあった。
通っていった中に、俺の知っている顔は無かった。
◇
案内の人が前を歩いた。
英語で何か言って、こっちを見た。俺は聞いていたが、単語が三つしか取れなかった。
「わからん」
案内の人は、もう一度言った。今度は前より遅かった。
遅くしても、単語は三つのままだった。
「犬飼さん、わかりません」
「名前を呼ばれたら出る。出たら真ん中に立つ。それだけだ」
「はい」
「今の人が言ったのも、たぶんそれだ。順番と、立つ場所と、降りる段の数を言ってる」
「段の数もですか」
「言ってると思う。俺も半分しか聞き取れてない」
「はい」
「あとは全部、向こうがやる」
「はい」
「一つだけ言っておく。中は席が足りてないそうだ。立って見る人間が出る」
「はい」
◇
通路の途中に、両開きの戸があった。
戸は少しだけ開いている。開いているところから、光と音が出ていた。
光は白くて、下から上へ広がっている。音は、人の声が集まった音だった。集まると、一つ一つの声は消える。
俺は戸の隙間から中を見た。
席が上のほうまで並んでいる。上のほうは暗くて、どこで終わっているのかが見えなかった。
◇
客席のざわめきが、一箇所だけ静かだった。
人形は、上着の内ポケットの縁に座っていた。座って、戸の隙間のほうを見ている。
(起きてたのか)
「起きてるわよ」
(宿では動かなかった)
「動く気がなかったの」
人形は縁から立ち上がった。
立って、俺の襟のところまで上がってきた。上がってから、もう一度、戸のほうを見た。
◇
「あんた、あの中に入るの」
(入る)
「立つだけ?」
(手を上げる)
「それだけ?」
(それだけだ)
人形はそこで何か言いかけて、やめた。
やめて、襟の縁に手をかけたまま、動かなくなった。
◇
(外にも人がいた)
「見たわよ」
(柵の向こうだ)
「あんた、あそこで手を上げたわね」
(上げた)
「上げたら、増えたでしょう」
(増えた)
人形は襟の縁から、首のほうへ半歩寄った。
寄って、そこで止まった。止まったところから、もう一度、戸の隙間のほうを見た。
◇
通路に立っているところだけを見れば、これから客席の前に出る主演だが、頭にあったのは、さっき上ってきた階段が三階ぶんだったか四階ぶんだったかということだけだった。
◇
戸が開いた。
開けたのは通路にいた人で、開けると同時に横へ寄った。
前を歩く人がいる。監督だった。監督の後ろに、子どもが一人いる。エリーだった。
エリーはこっちを向かないで、前を向いたまま歩いた。歩きながら、片方の手だけを後ろへ振った。
俺はそのあとを歩いた。
◇
舞台の上に出た。
出た瞬間に、下から音が来た。
さっきの戸の隙間から出ていた音とは、量が違った。前は隙間から漏れていたぶんで、今は全部だった。
照明が正面から当たっている。当たっているので、下は見えない。見えないが、そこに人がいるのは音で分かる。
舞台の上には、俺の前に二人いた。監督とエリーで、二人の立った間隔は揃っていなかった。
床に、白いテープが横に一本貼ってあった。テープの手前に立つのか、向こうに立つのかは、誰も言わなかった。
前の二人が手前に立ったので、俺も手前に立った。
踵のほうへ体の重さを移そうとした。移す前に、肩が勝手に前へ出た。
◇
会場の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。
背筋が伸びた。
◇
司会の人が喋っていた。
喋っている言葉は分からない。分からないが、区切りのところで客席が鳴るので、そこが区切りだと分かる。
名前が呼ばれた。監督の名前が最初だった。
次に子どもの名前が呼ばれて、そのあとに俺の名前が呼ばれた。
読み方が、日本語の読み方とは違っていた。名字のほうが後ろに来て、真ん中の音が伸びていた。
伸びていても、俺の名前だった。
◇
俺は手を上げた。
上げた高さは、肩より少し上である。上げたときに、客席の音が一度大きくなって、そのあと続いた。
続いているあいだ、俺は下を見ていた。下は見えない。
こめかみの内側が、脈に合わせて一度鳴った。
◇
音は、なかなか止まらなかった。
止まらないあいだ、正面の光がまっすぐ来ている。光の中に、細かいものが浮いているのが見えた。
浮いているものは、上から下へ落ちていく。落ちる速さは、どれも同じではない。速いのは光の手前を通って、遅いのはずっと同じところに留まって見える。
俺は立っていた。
立っているあいだに、こめかみの内側が、もう一度鳴った。
◇
監督が半歩前に出た。
出て、客席のほうへ手を上げた。上げたら、音がまた大きくなった。
エリーは監督の横で、両手を叩いていた。叩きながら、一度だけこっちを見た。
見て、すぐ前へ戻した。
舞台を降りた。
降りるときに、段が三つあった。三つとも同じ高さだった。行きの布の下の石とは違う。
通路に戻ったら、光が急に無くなった。
音も、戸が閉まったところで半分になった。半分になっても、まだ鳴っている。
◇
控えの部屋に入った。
部屋は狭い。椅子が四脚と、壁に鏡が一枚ある。鏡の周りに電球が並んでいて、そのうち二つが点いていない。点いていない二つは、隣り合っていなかった。
机の上に、水のボトルが六本置いてあった。六本とも同じ向きに並べてある。
俺は椅子に座った。座ったら、椅子の脚が少し短かった。四脚のうち、二脚だけ座面の布の色が違う。
部屋の外から、まだ音が聞こえている。壁を一枚はさむと、高いところが先に消えて、低いところだけが残る。
残っているのは、床から来る音だった。足の裏に来る。
◇
頭が痛い。
痛いのは、こめかみの内側だった。押しても痛みの場所が動かない。
外は人が多かった。中も多かった。
俺は水のボトルを一本開けて、半分飲んだ。
飲んだら、痛みは残ったままだった。
◇
人形は、机の上にいた。
いつのまにか、上着の内から出ていた。出て、水のボトルの列の手前に立っている。
立ったまま、こっちを見ていた。
顔が白かった。
◇
(どうした)
人形は答えなかった。
(今日、一度も茶化してないぞ)
人形はこっちを見たままだった。
(何かあったのか)
人形は答えなかった。
(ミューナ)
人形は台座の上で、一歩だけ後ろへ下がった。
下がって、そこで止まった。止まってから、手を一度だけ胸のところまで上げて、下ろした。
◇
(何か言え)
「言わないわよ」
(言わないのか)
「言わない」
(さっきも、言いかけてやめた)
「やめたわね」
人形は水のボトルの影に入った。
影の中で、こっちを向いたまま動かなかった。
◇
俺はボトルの向きを、指で一本だけ変えた。
変えたら、影の形が変わった。人形は影が動いたぶんだけ、横へずれて、また影の中に入った。
(そこにいるのか)
「いるわよ」
(顔が白い)
「白くないわよ」
(白い)
人形はそれには答えなかった。
◇
ドアが開いた。
犬飼さんが入ってきた。手に帽子を持っている。
「終わったぞ」
「はい」
「車は下だ。下まで通路を二つ通る。二つ目のほうが人が多いから、離れるな」
「はい」
「上映は俺たちが出たあとだ。中で見る人は見るが、君は見ない。日本で見ればいい」
「はい」
「顔色が悪い」
「眠いです」
「そうか」
◇
「昨日から寝てないのか」
「三時に起きました」
「三時か」
「三時から六時まで、天井を見てました」
「それは寝てないと言う」
「はい」
犬飼さんは帽子を差し出した。
俺は右手で受け取った。受け取って、膝の上に置いた。つばの内側に、細い紙の札が縫い付けてある。札には字が三つ並んでいた。読めない字ではなくて、数字だった。
◇
「向こうの飯だが」
犬飼さんは壁の鏡のほうへ寄って、電球の点いていないところを指で押した。押しても点かなかった。
「聞いた。宿に戻ってからだ。八時を過ぎる」
「遅いです」
「遅い。それより早いのは無いそうだ」
「はい」
「何が出るかまでは聞けなかった」
◇
俺は立ち上がった。
立ったところで、こめかみの内側がもう一度鳴った。鳴ったが、立てた。
机の上のボトルは、五本になっている。並べた向きは、俺が一本取ったところだけ空いていた。
人形は、その空いたところに立っていた。
◇
俺は帽子をかぶった。
つばを一度直して、それから深くした。深くすると、下の端が眉のところまで来る。来ると、正面の上半分が見えなくなる。
犬飼さんがドアを開けた。開けた向こうの通路は、来たときより人が多かった。
出る前に、机のほうを一度見た。ボトルの影のところには、もう何もいない。
人形は、いつのまにか鞄の中に戻っていた。鞄の口は開いたままだった。俺はそこを閉めないで、肩にかけた。
通路へ出て、犬飼さんの後ろを歩いた。
肩の鞄の中から、人形がこっちを見上げていた。
顔は、まだ白かった。




