第151話 呼ばれてしまった
机の上に、紙が一枚だけ置いてあった。
四階の会議室2は狭い。長机が一本と、椅子が六脚しか入らない。今日は三人しかいないので、椅子が三脚余っている。
窓は無い。天井の蛍光灯は二本で、机の上の紙がその下にある。
紙は横書きだった。上のほうに絵のような形が一つあって、その下に字が並んでいる。字は俺の読めない字だった。
紙の下の三分の一は空いている。空いているところに、あとから足すための枠が二つ引いてあった。枠の中には何も入っていない。
紙は一枚しかない。三人で一枚を見るので、俺の前に置いてあるものを、二人が横から覗く形になっていた。
◇
八月二十八日、金曜日。
朝の十時に来いと言われて、来た。
電車は空いていた。夏休みは今週で終わるらしく、駅に大きい紙が出ていた。紙には終わる日が書いてあって、その下に小さく学校の名前が並んでいた。
坂を上がるあいだに、蝉が二回鳴いて、二回とも途中でやめた。やめたあとに、もう一匹が別のところで鳴きはじめた。
ビルの中は冷えている。受付の人は札を出すときに、今日は二枚出した。二枚目は犬飼さんのぶんだった。
◇
「読めるか」
犬飼さんは机の上の紙を指で押さえた。
「読めません」
「そうだろうな」
「これは何語ですか」
「向こうの言葉じゃない。英語だ」
「英語です」
「読めてないだろ」
「読めてません」
◇
戸倉さんは、俺の斜め向かいに座っていた。
戸倉さんは自分の前に紙を置いていない。置かないで、俺の前の紙を横から見ていた。
「高町くん、先に日本語で言うわね」
「はい」
「あの映画が、九月の映画祭に出ることになった。向こうの選ぶ人たちが選んで、うちに連絡が来たのが今週」
「はい」
「それで、あなたが呼ばれてる」
◇
俺は紙を見た。
紙の真ん中あたりに、日付らしい並びがある。数字と、短い字と、また数字だった。
いちばん下に、手で書いた線が一本引いてある。線は誰かが引いたもので、印刷ではない。
「この線はなんですか」
「わたしが引いた」
「戸倉さんがですか」
「そう。そこが日にちの行だから」
◇
「九月十二日」
戸倉さんは言った。
「土曜日。現地で一日だけ。前の日に出て、次の日に帰る」
「はい」
「映画祭そのものは十一日間ある。うちが出すのは、その一日だけ」
「はい」
「十一日いたい?」
「いたくないです」
戸倉さんは、口の端を少し動かした。
動かして、すぐ元に戻した。
◇
「場所は南のほうだ」
犬飼さんが言った。
「海のそばの街だ。空港からは車で三十分らしい」
「北じゃないんですか」
「北じゃない。あれは撮った場所だ。出すのは別の場所だ」
「別ですか」
「別だ。作るところと、見せるところは、たいてい別だ」
「はい」
俺は紙の上のほうを見た。
絵のような形は、丸と、その中に何かが入っている形だった。何が入っているのかは分からない。
◇
「出品というのは、何ですか」
俺は聞いた。
「作った側が、そこで見せたいと出す。向こうが選ぶ。選ばれたら出る」
「選ばれたんですか」
「選ばれた」
「いつですか」
「向こうの都合で、決まったのは先週だ。うちに来たのが今週だ」
「遅いですね」
「遅い」
戸倉さんが紙を指で押さえた。
「うちが遅らせたわけじゃないの。向こうは決まった順に出していくから、こっちの都合とは関係ない」
◇
「招待というのは」
「呼ばれるということだ」
「誰がですか」
「君だ」
「俺ですか」
「君だ」
「わからん」
俺はそこで、声に出したことに気づいた。
犬飼さんは何も言わなかった。戸倉さんは紙のほうを見ていた。
◇
「もう一度言うぞ」
犬飼さんは椅子を少し引いた。
「あの映画が向こうの映画祭で上映される。上映の日に、作った人間と出た人間が呼ばれる。君は出た人間だ。だから呼ばれた」
「黒瀬さんは」
「行く」
「エリーは」
「行くと聞いている」
「そうですか」
◇
戸倉さんは、鞄から別の紙を出した。
出した紙は、日本語だった。日本語だと、字が読める。読めると、目が勝手に上から下まで行く。
「日本での公開は、来年の春。今のところそうなってる」
「はい」
「だから、九月に向こうで何が起きても、こっちで見られるのは春」
「はい」
「そのあいだの半年、あなたの写真だけが先に出るの」
◇
俺は自分の顔のことを言われている、と分かった。
分かったが、返事をする言葉が思いつかなかった。
「顔は動きません」
「知ってる」
「はい」
「動かないから困るんじゃなくて、動かないぶんを、こっちで書いておかないといけないの。その仕事はわたしのほう」
「はい」
「あなたは何もしなくていい」
◇
戸倉さんは、紙の右上に指を置いた。
「順番だけ決めておくわね。向こうから帰ってきた次の週に、うちで受ける取材が何本か入る。何本になるかは、向こうで何が起きるかで変わる」
「変わるんですか」
「変わるの。だから今は決めない。決めないというのは、やらないという意味じゃなくて、決める日を後ろにするだけ」
「はい」
「あなた、今の話を一つも覚えなくていいから」
◇
犬飼さんは湯呑みを持ち上げた。
持ち上げて、中を見て、置いた。中身は入っていなかったらしい。
「向こうで、君がやることは二つだ」
「はい」
「車から降りる。会場に入る」
「そのあとは」
「そのあとのことは向こうで言う」
「はい」
「喋ることは無い。それだけ先に言っておく」
◇
俺は少し考えた。
考えたのは、車の降り方ではなかった。
九月十二日は土曜である。前の日に出て、次の日に帰る。
出るのが十一日の何時かは聞いていないが、飛行機に乗る日は朝が早い。朝が早いと、家では何も食えない。
空港で何か食えるかもしれない。空港には店がある。三月に通ったときは、店が開いていた。
飛行機の中では、たぶん出る。三月のときはパンだった。パンとスープと、あとは冷たい肉だった。
着いてからが問題だった。
◇
海のそばの街だという。海のそばなら魚は出る。出るとして、それが何時に出るかが分からない。
北の島では、飯の時間は紙に書いてあった。朝が七時で、夜が六時である。紙は食堂の壁に貼ってあって、三か月のあいだ一度も変わらなかった。読んだのは最初の一度で、あとは毎朝、三隅さんが口で言った。
南に紙が貼ってあるかどうかは、行かないと分からない。
貼っていない場合は、誰かに聞く。誰に聞くかは、まだ決まっていない。
聞く相手を決めるところまで考えて、そこで止めた。
◇
「高町」
犬飼さんの声が、机の向こうから来た。
「はい」
「今、何を考えてた」
「何も考えてません」
「顔が動いてないのに、そう思わせる何かがある」
「はい」
「言え」
「言いません」
「言え」
◇
「向こうの飯は、何時に出ますか」
俺は聞いた。
戸倉さんが紙をそろえる手を止めた。止めた手の下で、いちばん上の一枚だけが揃わないまま残った。
犬飼さんは空の湯呑みを机の端へ寄せた。寄せて、そのまま手を離さなかった。
「知らん」
「知らないんですか」
「知らん。俺は行ったことがない」
「はい」
「聞いておく」
「はい」
◇
戸倉さんは、机の上の紙を封筒に入れた。
封筒は茶色で、口が三角に折れるやつだった。折って、留め具を回して閉めた。
「これ、持って帰って」
「はい」
「鞄、それ?」
「これです」
「入らないわね」
「入れます」
「中は、日程と、持ち物と、あとは向こうに出す書類のひな型。書くところに印が付けてある」
「はい」
「今日中に見なくていい。今日中に見ると、あなた、日程のところだけ見て閉じるでしょう」
◇
俺は封筒を受け取った。
両手ではなく、右手で受け取った。受け取って、鞄に入れようとして、入らなかった。
鞄の口より封筒のほうが少し大きい。斜めにしたら入った。斜めにしたので、中で角が曲がった。
「曲がってるぞ」
「曲がりました」
「あとで直せ」
「直します」
◇
ドアが開いて、有本さんが顔だけ入れた。
「犬飼さん、便のほう、二つとも押さえました。行きが十一日の午前で、帰りが十三日です」
「乗り継ぎは」
「一回です。待ち時間が四時間あります」
「長いな」
「短いのだと、二日前に出ないといけないので」
「そっちのほうが困る」
四時間というのは、空港の中で四時間ということだ。空港の中には店がある。三月のときは、店の前に椅子が並んでいた。椅子は硬かった。
有本さんは顔を引っ込めて、ドアを閉めた。閉める前に、俺のほうへ一度うなずいた。
◇
ビルを出た。
外は暑い。ビルの前の日陰は、この時間だと壁から一メートルしか出ていない。
向かいの店の前に、水を撒いたあとが残っていた。撒いたところと撒いていないところの境目が、道の上でまっすぐに切れている。切れ目は、日陰の端よりも手前にあった。
坂を下りた。下りきったところの信号は、渡る側の押しぼたんが二つある。一つは押しても光らない。
駅に入った。
行きより空いていた。
座って、鞄を膝の上に置いた。置いたら、中の封筒の角が、鞄の内側から布を押していた。
窓の外に、川が一本出てきて、すぐ消えた。橋の上を走るあいだだけ、車内の音が変わる。変わるのは行きも帰りも同じところだった。
向かいの席に、鞄を二つ持った人が座っている。二つのうち一つは膝の上で、もう一つは足のあいだにあった。
俺は携帯を出した。出して、番号を出して、押した。
◇
「なんだ」
「犬飼さんですか」
「俺だ」
「さっきの話ですが」
「どれだ」
「飯の時間です」
「まだ聞いてない」
「はい」
「今、社を出たところだ。聞くのはこれからだ」
「はい」
「君は、答えが来るまでのあいだ、何回それを聞くつもりだ」
「一回です」
「今のが一回だ」
「はい」
「次は無しだ」
「はい」
◇
「高町、一つ言っておく」
「はい」
「向こうに着いてから、飯の話を通訳の人に聞くな」
「なぜですか」
「その人はその日、飯の話を聞くために来ていない」
「はい」
「俺に聞け」
「はい」
電話は切れた。
◇
桜坂の駅で降りた。
階段の途中の壁に、貼り紙が一枚ある。角が二つとも剥がれていて、下の端だけが壁に残っていた。残った端が、風の来るたびに壁を打った。
上りきったところの自販機は、下の段が二列とも埋まっていた。
改札を出て、交番の前を通った。警官は中にいて、机のほうを向いていた。
商店街の入口の、魚屋の前に人が四人並んでいた。並んでいる先の台に、切ってあるのが白い皿に乗っている。値段の札は、上から一枚貼り直してあった。
家までのあいだに、コンビニが一軒ある。前を通った。中の棚の前に、制服の二人が並んで立っていた。
◇
家に着いたのは一時前だった。
玄関に、妹の靴が無かった。母さんの靴はある。父さんのは、平日なので朝から無い。
台所に誰もいない。ちゃぶ台の上に、皿が一枚だけ伏せてあった。伏せてある下に、握ったのが二つ入っていた。
俺は二つとも食った。
一つ目は塩だけで、二つ目には中に何か入っていた。入っていたのは魚で、皮が一枚だけ混じっていた。
食ってから、湯呑みに茶を入れて、二階へ上がった。
◇
二階の廊下は、突き当たりに窓がある。
窓の下の籠には、今日は洗濯物が入っていた。上のほうに、俺のシャツが一枚あった。
籠の横の姿見の前で、一度立った。
一行だけ言って、それから部屋のほうへ歩いた。
◇
部屋に入って、ドアを閉めた。
鞄を机の上に置いて、中から封筒を出した。角は曲がったままである。指で伸ばしたら、伸びたところがまた戻った。
湯呑みを机の端に置いた。
◇
湯呑みの縁に、口をつけていない側から湯気が立った。
「その茶色いの、なに」
人形が言った。
「紙だ」
「紙は見れば分かるわよ。中身を聞いてるの」
「まだ開けてない」
「開けなさいよ」
「開ける」
「今?」
「今だ」
◇
人形は机の縁まで歩いてきた。
歩いて、封筒の短いほうの端に立った。立って、上から見下ろした。
「あんた、さっき下で二つ食べたでしょう」
「食った」
「二つでいいの」
「二つだ」
「聞いたのはそこじゃないんだけど」
「二つで足りた」
「そう」
◇
「九月に、南のほうへ行く」
俺は言った。
「南」
「海のそばの街だ。一日だけ行って、帰る」
「あの映画のこと?」
「そうだ」
「出るの」
「上映されるらしい」
「あんたは何をするの」
「車から降りて、会場に入る」
「それだけ?」
「そのあとは、向こうで言われる」
人形は封筒の上に座った。
座って、しばらく何も言わなかった。
◇
「人は」
人形が言った。
「人?」
「見る人よ。何人いるの」
「聞いてない」
「聞いてないの」
「聞いてない」
「聞きなさいよ」
「聞いても分からん」
「分からないって、何が」
「多いか少ないかは、行けば分かる」
人形は台座の上で腕を組んだまま、こっちを見ていた。
組んだ腕をほどいて、封筒の縁を指で押した。押しても、封筒は動かなかった。
「行けば分かるって、あんた、三月にも同じことを言ったのよ」
「言ったか」
「言ったわよ。船に乗る前に言った」
「そうか」
「そうかじゃないわよ」
人形は封筒の端から降りた。
降りて、机の上を二歩だけ歩いて、そこで止まった。止まった位置は、湯呑みと封筒のあいだだった。
◇
俺は封を破った。
留め具を先に回して、それから上の折り返しを持って、端から横へ引いた。紙は途中で斜めに切れた。切れた線は、まっすぐにはならなかった。
中から、紙が三枚出てきた。いちばん上の一枚に、印が三つ付いている。
人形は、そのいちばん上の紙のほうを見ていた。
俺は一枚目をめくらないで、湯呑みを持った。
茶はもう熱くない。熱くない茶は、口に入れてから飲み込むまでが速い。
人形は、紙の上から動かなかった。




