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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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151/237

第151話 呼ばれてしまった

 机の上に、紙が一枚だけ置いてあった。


 四階の会議室2は狭い。長机が一本と、椅子が六脚しか入らない。今日は三人しかいないので、椅子が三脚余っている。


 窓は無い。天井の蛍光灯は二本で、机の上の紙がその下にある。


 紙は横書きだった。上のほうに絵のような形が一つあって、その下に字が並んでいる。字は俺の読めない字だった。


 紙の下の三分の一は空いている。空いているところに、あとから足すための枠が二つ引いてあった。枠の中には何も入っていない。


 紙は一枚しかない。三人で一枚を見るので、俺の前に置いてあるものを、二人が横から覗く形になっていた。


   ◇


 八月二十八日、金曜日。


 朝の十時に来いと言われて、来た。


 電車は空いていた。夏休みは今週で終わるらしく、駅に大きい紙が出ていた。紙には終わる日が書いてあって、その下に小さく学校の名前が並んでいた。


 坂を上がるあいだに、蝉が二回鳴いて、二回とも途中でやめた。やめたあとに、もう一匹が別のところで鳴きはじめた。


 ビルの中は冷えている。受付の人は札を出すときに、今日は二枚出した。二枚目は犬飼さんのぶんだった。


   ◇


「読めるか」


 犬飼さんは机の上の紙を指で押さえた。


「読めません」

「そうだろうな」

「これは何語ですか」

「向こうの言葉じゃない。英語だ」

「英語です」

「読めてないだろ」

「読めてません」


   ◇


 戸倉さんは、俺の斜め向かいに座っていた。


 戸倉さんは自分の前に紙を置いていない。置かないで、俺の前の紙を横から見ていた。


「高町くん、先に日本語で言うわね」

「はい」

「あの映画が、九月の映画祭に出ることになった。向こうの選ぶ人たちが選んで、うちに連絡が来たのが今週」

「はい」

「それで、あなたが呼ばれてる」


   ◇


 俺は紙を見た。


 紙の真ん中あたりに、日付らしい並びがある。数字と、短い字と、また数字だった。


 いちばん下に、手で書いた線が一本引いてある。線は誰かが引いたもので、印刷ではない。


「この線はなんですか」

「わたしが引いた」

「戸倉さんがですか」

「そう。そこが日にちの行だから」


   ◇


「九月十二日」


 戸倉さんは言った。


「土曜日。現地で一日だけ。前の日に出て、次の日に帰る」

「はい」

「映画祭そのものは十一日間ある。うちが出すのは、その一日だけ」

「はい」

「十一日いたい?」

「いたくないです」


 戸倉さんは、口の端を少し動かした。


 動かして、すぐ元に戻した。


   ◇


「場所は南のほうだ」


 犬飼さんが言った。


「海のそばの街だ。空港からは車で三十分らしい」

「北じゃないんですか」

「北じゃない。あれは撮った場所だ。出すのは別の場所だ」

「別ですか」

「別だ。作るところと、見せるところは、たいてい別だ」

「はい」


 俺は紙の上のほうを見た。


 絵のような形は、丸と、その中に何かが入っている形だった。何が入っているのかは分からない。


   ◇


「出品というのは、何ですか」


 俺は聞いた。


「作った側が、そこで見せたいと出す。向こうが選ぶ。選ばれたら出る」

「選ばれたんですか」

「選ばれた」

「いつですか」

「向こうの都合で、決まったのは先週だ。うちに来たのが今週だ」

「遅いですね」

「遅い」


 戸倉さんが紙を指で押さえた。


「うちが遅らせたわけじゃないの。向こうは決まった順に出していくから、こっちの都合とは関係ない」


   ◇


「招待というのは」

「呼ばれるということだ」

「誰がですか」

「君だ」

「俺ですか」

「君だ」

「わからん」


 俺はそこで、声に出したことに気づいた。


 犬飼さんは何も言わなかった。戸倉さんは紙のほうを見ていた。


   ◇


「もう一度言うぞ」


 犬飼さんは椅子を少し引いた。


「あの映画が向こうの映画祭で上映される。上映の日に、作った人間と出た人間が呼ばれる。君は出た人間だ。だから呼ばれた」

「黒瀬さんは」

「行く」

「エリーは」

「行くと聞いている」

「そうですか」


   ◇


 戸倉さんは、鞄から別の紙を出した。


 出した紙は、日本語だった。日本語だと、字が読める。読めると、目が勝手に上から下まで行く。


「日本での公開は、来年の春。今のところそうなってる」

「はい」

「だから、九月に向こうで何が起きても、こっちで見られるのは春」

「はい」

「そのあいだの半年、あなたの写真だけが先に出るの」


   ◇


 俺は自分の顔のことを言われている、と分かった。


 分かったが、返事をする言葉が思いつかなかった。


「顔は動きません」

「知ってる」

「はい」

「動かないから困るんじゃなくて、動かないぶんを、こっちで書いておかないといけないの。その仕事はわたしのほう」

「はい」

「あなたは何もしなくていい」


   ◇


 戸倉さんは、紙の右上に指を置いた。


「順番だけ決めておくわね。向こうから帰ってきた次の週に、うちで受ける取材が何本か入る。何本になるかは、向こうで何が起きるかで変わる」

「変わるんですか」

「変わるの。だから今は決めない。決めないというのは、やらないという意味じゃなくて、決める日を後ろにするだけ」

「はい」

「あなた、今の話を一つも覚えなくていいから」


   ◇


 犬飼さんは湯呑みを持ち上げた。


 持ち上げて、中を見て、置いた。中身は入っていなかったらしい。


「向こうで、君がやることは二つだ」

「はい」

「車から降りる。会場に入る」

「そのあとは」

「そのあとのことは向こうで言う」

「はい」

「喋ることは無い。それだけ先に言っておく」


   ◇


 俺は少し考えた。


 考えたのは、車の降り方ではなかった。


 九月十二日は土曜である。前の日に出て、次の日に帰る。


 出るのが十一日の何時かは聞いていないが、飛行機に乗る日は朝が早い。朝が早いと、家では何も食えない。


 空港で何か食えるかもしれない。空港には店がある。三月に通ったときは、店が開いていた。


 飛行機の中では、たぶん出る。三月のときはパンだった。パンとスープと、あとは冷たい肉だった。


 着いてからが問題だった。


   ◇


 海のそばの街だという。海のそばなら魚は出る。出るとして、それが何時に出るかが分からない。


 北の島では、飯の時間は紙に書いてあった。朝が七時で、夜が六時である。紙は食堂の壁に貼ってあって、三か月のあいだ一度も変わらなかった。読んだのは最初の一度で、あとは毎朝、三隅さんが口で言った。


 南に紙が貼ってあるかどうかは、行かないと分からない。


 貼っていない場合は、誰かに聞く。誰に聞くかは、まだ決まっていない。


 聞く相手を決めるところまで考えて、そこで止めた。


   ◇


「高町」


 犬飼さんの声が、机の向こうから来た。


「はい」

「今、何を考えてた」

「何も考えてません」

「顔が動いてないのに、そう思わせる何かがある」

「はい」

「言え」

「言いません」

「言え」


   ◇


「向こうの飯は、何時に出ますか」


 俺は聞いた。


 戸倉さんが紙をそろえる手を止めた。止めた手の下で、いちばん上の一枚だけが揃わないまま残った。


 犬飼さんは空の湯呑みを机の端へ寄せた。寄せて、そのまま手を離さなかった。


「知らん」

「知らないんですか」

「知らん。俺は行ったことがない」

「はい」

「聞いておく」

「はい」


   ◇


 戸倉さんは、机の上の紙を封筒に入れた。


 封筒は茶色で、口が三角に折れるやつだった。折って、留め具を回して閉めた。


「これ、持って帰って」

「はい」

「鞄、それ?」

「これです」

「入らないわね」

「入れます」

「中は、日程と、持ち物と、あとは向こうに出す書類のひな型。書くところに印が付けてある」

「はい」

「今日中に見なくていい。今日中に見ると、あなた、日程のところだけ見て閉じるでしょう」


   ◇


 俺は封筒を受け取った。


 両手ではなく、右手で受け取った。受け取って、鞄に入れようとして、入らなかった。


 鞄の口より封筒のほうが少し大きい。斜めにしたら入った。斜めにしたので、中で角が曲がった。


「曲がってるぞ」

「曲がりました」

「あとで直せ」

「直します」


   ◇


 ドアが開いて、有本さんが顔だけ入れた。


「犬飼さん、便のほう、二つとも押さえました。行きが十一日の午前で、帰りが十三日です」

「乗り継ぎは」

「一回です。待ち時間が四時間あります」

「長いな」

「短いのだと、二日前に出ないといけないので」

「そっちのほうが困る」


 四時間というのは、空港の中で四時間ということだ。空港の中には店がある。三月のときは、店の前に椅子が並んでいた。椅子は硬かった。


 有本さんは顔を引っ込めて、ドアを閉めた。閉める前に、俺のほうへ一度うなずいた。


   ◇


 ビルを出た。


 外は暑い。ビルの前の日陰は、この時間だと壁から一メートルしか出ていない。


 向かいの店の前に、水を撒いたあとが残っていた。撒いたところと撒いていないところの境目が、道の上でまっすぐに切れている。切れ目は、日陰の端よりも手前にあった。


 坂を下りた。下りきったところの信号は、渡る側の押しぼたんが二つある。一つは押しても光らない。


 駅に入った。


 行きより空いていた。


 座って、鞄を膝の上に置いた。置いたら、中の封筒の角が、鞄の内側から布を押していた。


 窓の外に、川が一本出てきて、すぐ消えた。橋の上を走るあいだだけ、車内の音が変わる。変わるのは行きも帰りも同じところだった。


 向かいの席に、鞄を二つ持った人が座っている。二つのうち一つは膝の上で、もう一つは足のあいだにあった。


 俺は携帯を出した。出して、番号を出して、押した。


   ◇


「なんだ」

「犬飼さんですか」

「俺だ」

「さっきの話ですが」

「どれだ」

「飯の時間です」

「まだ聞いてない」

「はい」

「今、社を出たところだ。聞くのはこれからだ」

「はい」

「君は、答えが来るまでのあいだ、何回それを聞くつもりだ」

「一回です」

「今のが一回だ」

「はい」

「次は無しだ」

「はい」


   ◇


「高町、一つ言っておく」

「はい」

「向こうに着いてから、飯の話を通訳の人に聞くな」

「なぜですか」

「その人はその日、飯の話を聞くために来ていない」

「はい」

「俺に聞け」

「はい」


 電話は切れた。


   ◇


 桜坂の駅で降りた。


 階段の途中の壁に、貼り紙が一枚ある。角が二つとも剥がれていて、下の端だけが壁に残っていた。残った端が、風の来るたびに壁を打った。


 上りきったところの自販機は、下の段が二列とも埋まっていた。


 改札を出て、交番の前を通った。警官は中にいて、机のほうを向いていた。


 商店街の入口の、魚屋の前に人が四人並んでいた。並んでいる先の台に、切ってあるのが白い皿に乗っている。値段の札は、上から一枚貼り直してあった。


 家までのあいだに、コンビニが一軒ある。前を通った。中の棚の前に、制服の二人が並んで立っていた。


   ◇


 家に着いたのは一時前だった。


 玄関に、妹の靴が無かった。母さんの靴はある。父さんのは、平日なので朝から無い。


 台所に誰もいない。ちゃぶ台の上に、皿が一枚だけ伏せてあった。伏せてある下に、握ったのが二つ入っていた。


 俺は二つとも食った。


 一つ目は塩だけで、二つ目には中に何か入っていた。入っていたのは魚で、皮が一枚だけ混じっていた。


 食ってから、湯呑みに茶を入れて、二階へ上がった。


   ◇


 二階の廊下は、突き当たりに窓がある。


 窓の下の籠には、今日は洗濯物が入っていた。上のほうに、俺のシャツが一枚あった。


 籠の横の姿見の前で、一度立った。


 一行だけ言って、それから部屋のほうへ歩いた。


   ◇


 部屋に入って、ドアを閉めた。


 鞄を机の上に置いて、中から封筒を出した。角は曲がったままである。指で伸ばしたら、伸びたところがまた戻った。


 湯呑みを机の端に置いた。


   ◇


 湯呑みの縁に、口をつけていない側から湯気が立った。


「その茶色いの、なに」


 人形が言った。


「紙だ」

「紙は見れば分かるわよ。中身を聞いてるの」

「まだ開けてない」

「開けなさいよ」

「開ける」

「今?」

「今だ」


   ◇


 人形は机の縁まで歩いてきた。


 歩いて、封筒の短いほうの端に立った。立って、上から見下ろした。


「あんた、さっき下で二つ食べたでしょう」

「食った」

「二つでいいの」

「二つだ」

「聞いたのはそこじゃないんだけど」

「二つで足りた」

「そう」


   ◇


「九月に、南のほうへ行く」


 俺は言った。


「南」

「海のそばの街だ。一日だけ行って、帰る」

「あの映画のこと?」

「そうだ」

「出るの」

「上映されるらしい」

「あんたは何をするの」

「車から降りて、会場に入る」

「それだけ?」

「そのあとは、向こうで言われる」


 人形は封筒の上に座った。


 座って、しばらく何も言わなかった。


   ◇


「人は」


 人形が言った。


「人?」

「見る人よ。何人いるの」

「聞いてない」

「聞いてないの」

「聞いてない」

「聞きなさいよ」

「聞いても分からん」

「分からないって、何が」

「多いか少ないかは、行けば分かる」


 人形は台座の上で腕を組んだまま、こっちを見ていた。


 組んだ腕をほどいて、封筒の縁を指で押した。押しても、封筒は動かなかった。


「行けば分かるって、あんた、三月にも同じことを言ったのよ」

「言ったか」

「言ったわよ。船に乗る前に言った」

「そうか」

「そうかじゃないわよ」


 人形は封筒の端から降りた。


 降りて、机の上を二歩だけ歩いて、そこで止まった。止まった位置は、湯呑みと封筒のあいだだった。


   ◇


 俺は封を破った。


 留め具を先に回して、それから上の折り返しを持って、端から横へ引いた。紙は途中で斜めに切れた。切れた線は、まっすぐにはならなかった。


 中から、紙が三枚出てきた。いちばん上の一枚に、印が三つ付いている。


 人形は、そのいちばん上の紙のほうを見ていた。


 俺は一枚目をめくらないで、湯呑みを持った。


 茶はもう熱くない。熱くない茶は、口に入れてから飲み込むまでが速い。


 人形は、紙の上から動かなかった。


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