第150話 妹の進路が決まった
玄関を開けたら、妹が茶の間で正座していた。
膝をそろえて、背中をまっすぐにしている。座布団は横にどけてあって、畳の上に直に座っていた。
去年の夏に同じ場所で見たときは、座布団を二枚重ねて、その上で斜めになっていた。
ちゃぶ台の上に、紙が一枚だけ置いてあった。
俺は靴を脱いだ。脱いだところで、妹がこっちを見た。見て、何も言わないで、また紙のほうへ戻した。
◇
八月二十一日、金曜日。
家に着いたのは七時二十分だった。
六時に出れば六時四十分に着くはずだったが、駅の手前で電車が止まった。止まった理由は車内で二回言われて、二回とも聞き取れなかった。
次の駅で降りて、そこから歩いた。歩くと、桜坂までは三十分かかる。三十分のあいだに、シャツの背中がもう一度湿った。
途中にバスの停留所があって、時刻表を見た。次のバスは十九時三分で、そのときの時刻は十九時四分だった。
時刻表の下のほうに、紙が貼ってある。八月のあいだだけ本数が減る、と書いてあった。減った理由は書いていない。
停留所のベンチに、人が一人座っていた。バスを待っているのかどうかは分からない。俺が通り過ぎるまで、その人は一度も顔を上げなかった。
桜坂の階段は、上りきったところの手すりだけ塗りが新しい。新しいところと古いところの継ぎ目に、細い段差がある。指をそこへ滑らせると、爪が引っかかった。
◇
茶の間には、ちゃぶ台と座布団が四枚ある。
座布団は四枚とも色が違う。青と、青と、茶色と、もう一枚は元の色が分からない。分からないのは、いちばん使われているやつだ。
父さんはいつもの位置にいた。新聞を持っている。持っているだけで、ページは俺が入ってきたときと同じところだった。
母さんは台所にいて、こっちに背中を向けていた。鍋の蓋を開けて、閉めて、また開けていた。
◇
「兄ちゃん、遅い」
「電車が止まった」
「どこで」
「駅の手前だ」
「歩いた?」
「歩いた」
「じゃあ汗くさい」
「くさい」
妹は正座のまま、少しだけ後ろへ下がった。
下がって、また同じ位置に戻った。
◇
俺は手を洗って、ちゃぶ台の前に座った。
座ったところで、紙が目の前に来た。
紙は学校の紙だった。上のほうに枠があって、その中に組と番号と名前が書いてある。字は妹の字である。真ん中から下は、選ぶところが並んでいた。
選ぶところの一つに、丸が付いていた。
◇
「それ、読んでいいのか」
「読んでいいよ。読んでいいけど、読んだあとで何か言うのはなしね。あたし、もう書いちゃったから」
「言わない」
「読んだ」
「早くない?」
「上から下まで見た」
「見るのと読むのは違うでしょ」
妹は紙を自分のほうへ半分引いた。
引いてから、また半分だけ戻した。戻した位置は、最初とほとんど同じだった。
◇
母さんが茶碗を運んできた。
三つ持って、一度に置いた。置いてから、もう一度台所へ戻って、四つ目を取ってきた。
「ご飯」
「食う」
「ひなたも」
「あとで」
「あとでって、いつ」
妹は答えなかった。
母さんは自分の座布団に座って、汁の椀を自分の前に置いた。
置いてから、父さんのぶんの箸の向きを直した。直したのは向きだけで、位置は動かさなかった。
◇
「明日出すの」
「明日」
妹は言った。
「二学期の最初に出すやつなんだけど、担任が今週中に一回見せろって言うの。見せとかないと、二学期になってから席の並びと一緒に決められちゃうんだって」
「そうか」
「文系にする」
◇
父さんが新聞を下ろした。
下ろして、紙のほうを見た。見て、うなずいた。
うなずいて、また新聞を持ち上げた。ページはさっきと同じところだった。
母さんは汁を飲んでいた。飲んで、椀を置いて、漬物の皿を妹のほうへ寄せた。
「ひなた、明日出すなら判子がいるんじゃないの。判子なら、お父さんの引き出しの上から二段目の、右の奥に箱ごと入ってるわよ」
「保護者の欄は九月でいいって」
「そう」
「今日は名前だけでいいの」
「じゃあいいわ」
母さんは漬物を一切れ食べた。
食べて、皿を今度は父さんのほうへ寄せた。
◇
誰も何も言わなかった。
俺は飯を食っていた。今日のおかずは鶏で、下に玉ねぎが敷いてある。玉ねぎのほうが味が濃い。
台所のほうで、換気扇が回っている。回る音は一定で、ときどき低いところが一度だけ混ざる。
妹は正座のままだった。
膝の上に手を置いていて、その手を一度組み替えた。組み替えて、また元に戻した。
◇
「なんか言ってよ」
妹が言った。
「なんかって」
「なんかはなんかだよ」
「うまいぞ、これ」
「そういうことじゃないでしょ」
「鶏だ」
「鶏なのは見れば分かるでしょ」
母さんは茶碗を置いた。
置いて、妹のほうを見て、それから言った。
「玉ねぎ、多かった?」
「多くない」
「じゃあいいわ」
◇
妹は座布団の端を指でつまんだ。
つまんで、離した。離したところの布が少し立って、そのまま戻らなかった。
「あたし、学校は変えないから」
「はい」
「今のとこのままだから」
「はい」
「兄ちゃん、はいしか言ってない」
◇
「言ってほしいことがあるなら、先に言え」
「そういうのじゃないの」
「じゃあなんだ」
「決めたって言ったら、決めたねって言われると思ってたの。そしたら誰も言わないから、あたしが決めたのかどうか分かんなくなってきた」
「丸が付いてる」
「え」
「紙に、丸が付いてる」
「……付いてるけど」
「はい」
妹は紙の角を、指で二回はじいた。
はじいた音は、二回とも同じだった。
◇
俺は二杯目をよそった。
釜の中は、二杯目でちょうど半分になった。半分から先は、しゃもじを立てないと取れない。
よそいながら、紙のほうを見た。丸が付いているのは上から二つ目である。一つ目には何も付いていない。三つ目にも付いていない。
付いているところの丸は、線が二重になっていた。一度書いて、その上からもう一度なぞったらしい。
なぞったほうの線は、少しはみ出している。
◇
「文系って、何を切るか分かる?」
妹が言った。
「わからん」
「わからないの」
「わからん」
「理科が二つになって、そのぶん社会が二つ増えるの。三年で選ぶやつは、二年のうちに決めた側からしか選べないようになってる」
「わからん」
「三回目だよ、それ」
妹は紙の下のほうを指でなぞった。
なぞった先に小さい字が並んでいて、そこだけ枠が細い。
「どっちが得なの、それ」
「知らん」
「知らないの?」
「学校の紙のことは、俺は分からん」
「じゃあ聞いても意味ないね」
妹はそこで初めて、膝を崩した。
崩して、片方の足を前に投げ出した。投げ出した足の先が、ちゃぶ台の脚に当たった。
当たった音で、父さんの新聞が一度だけ動いた。
動いて、また止まった。ページは、やはり同じところだった。父さんが読んでいる面には、写真が一枚だけ入っている。写真は上下がひっくり返って見えていた。
◇
母さんは立って、鍋を火にかけ直した。
かけ直して、こっちを見ないまま言った。
「ひなた、冷めるわよ」
「食べる」
「食べるなら来なさい」
「行く」
妹は立たなかった。
立たないで、ちゃぶ台の上の紙を、自分の前まで引いた。
◇
三分くらいして、妹は立った。
立って、台所へ行って、自分の茶碗を持って戻ってきた。戻ってきたときには、紙は裏返してあった。
裏は白い。白いところに、鉛筆の跡がうっすら残っている。表に書いた字が、裏まで通っていた。
妹は紙の上に茶碗を置かなかった。ちゃぶ台の端まで紙を寄せて、その手前に茶碗を置いた。
「いただきます」
「遅い」
「兄ちゃんに言われたくない」
母さんは自分のぶんの汁を、もう一度温めに行った。
温めているあいだ、茶の間には箸の音だけが残った。
◇
俺は二杯目を食べ終わった。
食べ終わって、茶碗を置いた。置いた場所に汁の跡が付いていて、拭いたら跡だけ広がった。
「風呂は」
「まだ」
「入る」
「入って」
母さんはそう言って、鍋の蓋を開けた。
湯気が上がって、換気扇のほうへ流れた。流れる途中で、一度だけ横へ折れた。
◇
風呂に入った。
入る前に、脱衣所の籠に洗濯物が入っていた。入っていたのは、妹のぶんではなくて父さんのぶんだった。
籠の横に、体重計が立ててある。前は床に置いてあった。置いてあったころは、通るたびに誰かが踏んで、そのたびに数字が出た。
俺は立ててあるほうを倒さないで、その横を通った。
湯は熱かった。熱いので、最初の三十秒だけ足の先が痛い。痛いのは三十秒で終わる。
窓を五センチだけ開けた。開けると外の音が入る。今日入ってきたのは、遠くを走る車の音と、どこかの家の風呂の給湯の音だった。
出てから、湯呑みに茶を入れて、二階へ上がった。
◇
階段は、下から四段目だけ音が高い。
高いというのは、他の段より音が上に鳴るという意味である。踏むところの位置を変えても、音は変わらない。
俺は四段目を踏んだ。踏んで、そのまま上がった。踏まないで上がる方法もあるが、そのためには二段飛ばしをしないといけない。
湯呑みは片手で持っている。持っているほうの手は、上がるあいだ手すりを使えない。
◇
二階の廊下は、突き当たりに窓がある。
窓の下に洗濯籠が置いてあって、今日は空だった。空の籠は軽いので、風が入ると少し動く。今は動いていない。
窓は下半分だけ開いている。網戸の下の角が少し破れていて、そこから虫が入る。入った虫は、たいてい電球のところで見つかる。
外は暗い。隣の家の塀の上に、猫が乗っているときがある。今日は乗っていない。
籠の横に、姿見がある。母さんのものだ。
俺はその前で一度立った。
言ったのは一行だけで、声は下に届かない大きさにした。
◇
言ってから、湯呑みを持ち直した。
持ち直したときに、中の茶が縁の近くまで来て、そこで止まった。こぼれなかった。
窓の外は暗い。向かいの家の二階に明かりが点いていて、その下の一階は消えている。
◇
下から足音がした。
四段目が鳴って、そのあとに三つ続いた。妹が上がってきた。腕に洗濯物を抱えている。
「洗濯物」
「持ってきたのか」
「兄ちゃんのは入ってないよ。下に置きっぱなしのやつ、あれ自分で持ってきてって前から言ってるでしょ」
「持ってくる」
「今?」
「明日だ」
俺は横に寄った。
妹は籠の前まで行って、抱えていたものを入れた。入れて、上から手で押した。押したら、下から一枚が横へ出た。
出たぶんは、そのままにして戻っていった。
◇
俺は歩き出した。
歩くと、廊下は真ん中の板が鳴る。鳴るところを踏まないで歩くと、体が右の壁に寄る。今日は湯呑みを持っているので、寄ると壁に当たる。
俺は真ん中を踏んで歩いた。板は鳴った。
◇
妹の部屋のドアが開いていた。
いつもは閉まっている。閉まっているときは、下の隙間から光が出ている。今日は光が廊下まで出ていた。
中で、妹が壁の前に立っていた。
立って、片手に紙を持っている。もう片方の手には、何か小さいものを持っていた。
◇
机の上に、ノートが一冊出ていた。
開いていた。開いていたが、俺のいる位置からは中は見えない。ページの端が少しだけ反っている。
妹はノートのほうを見なかった。
壁のほうを見ていた。壁には、前から何枚か紙が貼ってある。貼ってあるところの周りだけ、壁の色が薄い。
貼ってあるのは、時間割と、去年の予定表と、あとは字が細かくて廊下からは読めないやつが二枚である。
どれも角が四つとも留めてある。一枚だけ、下の二つが留めていない。留めていないほうは、下の端が前へ丸まっていた。
◇
「兄ちゃん」
「なんだ」
「そこ、立ってる意味ある?」
「無い」
「じゃあ立ってなくていいよ」
「そうだな」
俺は立っていた。
妹は紙を壁に当てた。当てて、位置を少し上げて、また下げた。
下げた位置で止めて、そこから顔を離して、遠くから見た。
◇
妹は壁の前で、しばらく動かなかった。
動かないで、紙の左の端を指で押さえていた。押さえているあいだ、右の端が少しずつ浮いてきた。
浮いてきたところを、もう一度押さえ直した。
押さえ直しても、同じところがまた浮いた。
◇
「これ出したら、もう変えられないんだって」
「そうか」
「二学期のあいだに気が変わっても、三年のぶんはこの紙で先に決まっちゃうって、担任が三回言った」
「三回か」
「三回」
「怖いか」
「怖くないよ」
妹は紙の上の端を、両手で持ち直した。
「ちょっとだけ怖い」
◇
「お兄ちゃん」
俺は返事をしなかった。
しなかったのではなく、遅れた。
「なんだ」
「押さえてて」
「どこを」
「右の上」
◇
俺は部屋に入って、紙の右の上を指で押さえた。
押さえたら、浮いていたところが壁に付いた。付いたが、指を離すとまた浮く。
「離さないで」
「離してない」
「今、離した」
「離してない」
「離してたよ」
「離してない」
「じゃあ紙が動いたのはなんなの」
「壁だ」
「壁は動かないでしょ」
妹は小さいものを持ち替えた。
画鋲だった。銀色で、頭のところだけ透明の青が付いている。
◇
妹は紙を壁に留めた。
左の上から入れて、右の上に一つ入れて、下の二つは離れたところに入れた。四つ入れたところで、紙は浮かなくなった。
入れ終わって、妹は画鋲の箱の蓋を閉めた。閉めて、箱を机の引き出しの、いちばん手前に入れた。
入れてから、半歩下がった。
下がって、もう半歩下がって、そこから紙を見ていた。
俺も見ていた。廊下の光が斜めに入って、紙の下の端に影が一本出ている。影は細くて、まっすぐだった。
妹は指を伸ばして、紙の右の下をもう一度だけ押した。押しても、そこはもう動かなかった。




