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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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150/237

第150話 妹の進路が決まった

 玄関を開けたら、妹が茶の間で正座していた。


 膝をそろえて、背中をまっすぐにしている。座布団は横にどけてあって、畳の上に直に座っていた。


 去年の夏に同じ場所で見たときは、座布団を二枚重ねて、その上で斜めになっていた。


 ちゃぶ台の上に、紙が一枚だけ置いてあった。


 俺は靴を脱いだ。脱いだところで、妹がこっちを見た。見て、何も言わないで、また紙のほうへ戻した。


   ◇


 八月二十一日、金曜日。


 家に着いたのは七時二十分だった。


 六時に出れば六時四十分に着くはずだったが、駅の手前で電車が止まった。止まった理由は車内で二回言われて、二回とも聞き取れなかった。


 次の駅で降りて、そこから歩いた。歩くと、桜坂までは三十分かかる。三十分のあいだに、シャツの背中がもう一度湿った。


 途中にバスの停留所があって、時刻表を見た。次のバスは十九時三分で、そのときの時刻は十九時四分だった。


 時刻表の下のほうに、紙が貼ってある。八月のあいだだけ本数が減る、と書いてあった。減った理由は書いていない。


 停留所のベンチに、人が一人座っていた。バスを待っているのかどうかは分からない。俺が通り過ぎるまで、その人は一度も顔を上げなかった。


 桜坂の階段は、上りきったところの手すりだけ塗りが新しい。新しいところと古いところの継ぎ目に、細い段差がある。指をそこへ滑らせると、爪が引っかかった。


   ◇


 茶の間には、ちゃぶ台と座布団が四枚ある。


 座布団は四枚とも色が違う。青と、青と、茶色と、もう一枚は元の色が分からない。分からないのは、いちばん使われているやつだ。


 父さんはいつもの位置にいた。新聞を持っている。持っているだけで、ページは俺が入ってきたときと同じところだった。


 母さんは台所にいて、こっちに背中を向けていた。鍋の蓋を開けて、閉めて、また開けていた。


   ◇


「兄ちゃん、遅い」

「電車が止まった」

「どこで」

「駅の手前だ」

「歩いた?」

「歩いた」

「じゃあ汗くさい」

「くさい」


 妹は正座のまま、少しだけ後ろへ下がった。


 下がって、また同じ位置に戻った。


   ◇


 俺は手を洗って、ちゃぶ台の前に座った。


 座ったところで、紙が目の前に来た。


 紙は学校の紙だった。上のほうに枠があって、その中に組と番号と名前が書いてある。字は妹の字である。真ん中から下は、選ぶところが並んでいた。


 選ぶところの一つに、丸が付いていた。


   ◇


「それ、読んでいいのか」

「読んでいいよ。読んでいいけど、読んだあとで何か言うのはなしね。あたし、もう書いちゃったから」

「言わない」

「読んだ」

「早くない?」

「上から下まで見た」

「見るのと読むのは違うでしょ」


 妹は紙を自分のほうへ半分引いた。


 引いてから、また半分だけ戻した。戻した位置は、最初とほとんど同じだった。


   ◇


 母さんが茶碗を運んできた。


 三つ持って、一度に置いた。置いてから、もう一度台所へ戻って、四つ目を取ってきた。


「ご飯」

「食う」

「ひなたも」

「あとで」

「あとでって、いつ」


 妹は答えなかった。


 母さんは自分の座布団に座って、汁の椀を自分の前に置いた。


 置いてから、父さんのぶんの箸の向きを直した。直したのは向きだけで、位置は動かさなかった。


   ◇


「明日出すの」

「明日」


 妹は言った。


「二学期の最初に出すやつなんだけど、担任が今週中に一回見せろって言うの。見せとかないと、二学期になってから席の並びと一緒に決められちゃうんだって」

「そうか」

「文系にする」


   ◇


 父さんが新聞を下ろした。


 下ろして、紙のほうを見た。見て、うなずいた。


 うなずいて、また新聞を持ち上げた。ページはさっきと同じところだった。


 母さんは汁を飲んでいた。飲んで、椀を置いて、漬物の皿を妹のほうへ寄せた。


「ひなた、明日出すなら判子がいるんじゃないの。判子なら、お父さんの引き出しの上から二段目の、右の奥に箱ごと入ってるわよ」

「保護者の欄は九月でいいって」

「そう」

「今日は名前だけでいいの」

「じゃあいいわ」


 母さんは漬物を一切れ食べた。


 食べて、皿を今度は父さんのほうへ寄せた。


   ◇


 誰も何も言わなかった。


 俺は飯を食っていた。今日のおかずは鶏で、下に玉ねぎが敷いてある。玉ねぎのほうが味が濃い。


 台所のほうで、換気扇が回っている。回る音は一定で、ときどき低いところが一度だけ混ざる。


 妹は正座のままだった。


 膝の上に手を置いていて、その手を一度組み替えた。組み替えて、また元に戻した。


   ◇


「なんか言ってよ」


 妹が言った。


「なんかって」

「なんかはなんかだよ」

「うまいぞ、これ」

「そういうことじゃないでしょ」

「鶏だ」

「鶏なのは見れば分かるでしょ」


 母さんは茶碗を置いた。


 置いて、妹のほうを見て、それから言った。


「玉ねぎ、多かった?」

「多くない」

「じゃあいいわ」


   ◇


 妹は座布団の端を指でつまんだ。


 つまんで、離した。離したところの布が少し立って、そのまま戻らなかった。


「あたし、学校は変えないから」

「はい」

「今のとこのままだから」

「はい」

「兄ちゃん、はいしか言ってない」


   ◇


「言ってほしいことがあるなら、先に言え」

「そういうのじゃないの」

「じゃあなんだ」

「決めたって言ったら、決めたねって言われると思ってたの。そしたら誰も言わないから、あたしが決めたのかどうか分かんなくなってきた」

「丸が付いてる」

「え」

「紙に、丸が付いてる」

「……付いてるけど」

「はい」


 妹は紙の角を、指で二回はじいた。


 はじいた音は、二回とも同じだった。


   ◇


 俺は二杯目をよそった。


 釜の中は、二杯目でちょうど半分になった。半分から先は、しゃもじを立てないと取れない。


 よそいながら、紙のほうを見た。丸が付いているのは上から二つ目である。一つ目には何も付いていない。三つ目にも付いていない。


 付いているところの丸は、線が二重になっていた。一度書いて、その上からもう一度なぞったらしい。


 なぞったほうの線は、少しはみ出している。


   ◇


「文系って、何を切るか分かる?」


 妹が言った。


「わからん」

「わからないの」

「わからん」

「理科が二つになって、そのぶん社会が二つ増えるの。三年で選ぶやつは、二年のうちに決めた側からしか選べないようになってる」

「わからん」

「三回目だよ、それ」


 妹は紙の下のほうを指でなぞった。


 なぞった先に小さい字が並んでいて、そこだけ枠が細い。


「どっちが得なの、それ」

「知らん」

「知らないの?」

「学校の紙のことは、俺は分からん」

「じゃあ聞いても意味ないね」


 妹はそこで初めて、膝を崩した。


 崩して、片方の足を前に投げ出した。投げ出した足の先が、ちゃぶ台の脚に当たった。


 当たった音で、父さんの新聞が一度だけ動いた。


 動いて、また止まった。ページは、やはり同じところだった。父さんが読んでいる面には、写真が一枚だけ入っている。写真は上下がひっくり返って見えていた。


   ◇


 母さんは立って、鍋を火にかけ直した。


 かけ直して、こっちを見ないまま言った。


「ひなた、冷めるわよ」

「食べる」

「食べるなら来なさい」

「行く」


 妹は立たなかった。


 立たないで、ちゃぶ台の上の紙を、自分の前まで引いた。


   ◇


 三分くらいして、妹は立った。


 立って、台所へ行って、自分の茶碗を持って戻ってきた。戻ってきたときには、紙は裏返してあった。


 裏は白い。白いところに、鉛筆の跡がうっすら残っている。表に書いた字が、裏まで通っていた。


 妹は紙の上に茶碗を置かなかった。ちゃぶ台の端まで紙を寄せて、その手前に茶碗を置いた。


「いただきます」

「遅い」

「兄ちゃんに言われたくない」


 母さんは自分のぶんの汁を、もう一度温めに行った。


 温めているあいだ、茶の間には箸の音だけが残った。


   ◇


 俺は二杯目を食べ終わった。


 食べ終わって、茶碗を置いた。置いた場所に汁の跡が付いていて、拭いたら跡だけ広がった。


「風呂は」

「まだ」

「入る」

「入って」


 母さんはそう言って、鍋の蓋を開けた。


 湯気が上がって、換気扇のほうへ流れた。流れる途中で、一度だけ横へ折れた。


   ◇


 風呂に入った。


 入る前に、脱衣所の籠に洗濯物が入っていた。入っていたのは、妹のぶんではなくて父さんのぶんだった。


 籠の横に、体重計が立ててある。前は床に置いてあった。置いてあったころは、通るたびに誰かが踏んで、そのたびに数字が出た。


 俺は立ててあるほうを倒さないで、その横を通った。


 湯は熱かった。熱いので、最初の三十秒だけ足の先が痛い。痛いのは三十秒で終わる。


 窓を五センチだけ開けた。開けると外の音が入る。今日入ってきたのは、遠くを走る車の音と、どこかの家の風呂の給湯の音だった。


 出てから、湯呑みに茶を入れて、二階へ上がった。


   ◇


 階段は、下から四段目だけ音が高い。


 高いというのは、他の段より音が上に鳴るという意味である。踏むところの位置を変えても、音は変わらない。


 俺は四段目を踏んだ。踏んで、そのまま上がった。踏まないで上がる方法もあるが、そのためには二段飛ばしをしないといけない。


 湯呑みは片手で持っている。持っているほうの手は、上がるあいだ手すりを使えない。


   ◇


 二階の廊下は、突き当たりに窓がある。


 窓の下に洗濯籠が置いてあって、今日は空だった。空の籠は軽いので、風が入ると少し動く。今は動いていない。


 窓は下半分だけ開いている。網戸の下の角が少し破れていて、そこから虫が入る。入った虫は、たいてい電球のところで見つかる。


 外は暗い。隣の家の塀の上に、猫が乗っているときがある。今日は乗っていない。


 籠の横に、姿見がある。母さんのものだ。


 俺はその前で一度立った。


 言ったのは一行だけで、声は下に届かない大きさにした。


   ◇


 言ってから、湯呑みを持ち直した。


 持ち直したときに、中の茶が縁の近くまで来て、そこで止まった。こぼれなかった。


 窓の外は暗い。向かいの家の二階に明かりが点いていて、その下の一階は消えている。


   ◇


 下から足音がした。


 四段目が鳴って、そのあとに三つ続いた。妹が上がってきた。腕に洗濯物を抱えている。


「洗濯物」

「持ってきたのか」

「兄ちゃんのは入ってないよ。下に置きっぱなしのやつ、あれ自分で持ってきてって前から言ってるでしょ」

「持ってくる」

「今?」

「明日だ」


 俺は横に寄った。


 妹は籠の前まで行って、抱えていたものを入れた。入れて、上から手で押した。押したら、下から一枚が横へ出た。


 出たぶんは、そのままにして戻っていった。


   ◇


 俺は歩き出した。


 歩くと、廊下は真ん中の板が鳴る。鳴るところを踏まないで歩くと、体が右の壁に寄る。今日は湯呑みを持っているので、寄ると壁に当たる。


 俺は真ん中を踏んで歩いた。板は鳴った。


   ◇


 妹の部屋のドアが開いていた。


 いつもは閉まっている。閉まっているときは、下の隙間から光が出ている。今日は光が廊下まで出ていた。


 中で、妹が壁の前に立っていた。


 立って、片手に紙を持っている。もう片方の手には、何か小さいものを持っていた。


   ◇


 机の上に、ノートが一冊出ていた。


 開いていた。開いていたが、俺のいる位置からは中は見えない。ページの端が少しだけ反っている。


 妹はノートのほうを見なかった。


 壁のほうを見ていた。壁には、前から何枚か紙が貼ってある。貼ってあるところの周りだけ、壁の色が薄い。


 貼ってあるのは、時間割と、去年の予定表と、あとは字が細かくて廊下からは読めないやつが二枚である。


 どれも角が四つとも留めてある。一枚だけ、下の二つが留めていない。留めていないほうは、下の端が前へ丸まっていた。


   ◇


「兄ちゃん」

「なんだ」

「そこ、立ってる意味ある?」

「無い」

「じゃあ立ってなくていいよ」

「そうだな」


 俺は立っていた。


 妹は紙を壁に当てた。当てて、位置を少し上げて、また下げた。


 下げた位置で止めて、そこから顔を離して、遠くから見た。


   ◇


 妹は壁の前で、しばらく動かなかった。


 動かないで、紙の左の端を指で押さえていた。押さえているあいだ、右の端が少しずつ浮いてきた。


 浮いてきたところを、もう一度押さえ直した。


 押さえ直しても、同じところがまた浮いた。


   ◇


「これ出したら、もう変えられないんだって」

「そうか」

「二学期のあいだに気が変わっても、三年のぶんはこの紙で先に決まっちゃうって、担任が三回言った」

「三回か」

「三回」

「怖いか」

「怖くないよ」


 妹は紙の上の端を、両手で持ち直した。


「ちょっとだけ怖い」


   ◇


「お兄ちゃん」


 俺は返事をしなかった。


 しなかったのではなく、遅れた。


「なんだ」

「押さえてて」

「どこを」

「右の上」


   ◇


 俺は部屋に入って、紙の右の上を指で押さえた。


 押さえたら、浮いていたところが壁に付いた。付いたが、指を離すとまた浮く。


「離さないで」

「離してない」

「今、離した」

「離してない」

「離してたよ」

「離してない」

「じゃあ紙が動いたのはなんなの」

「壁だ」

「壁は動かないでしょ」


 妹は小さいものを持ち替えた。


 画鋲だった。銀色で、頭のところだけ透明の青が付いている。


   ◇


 妹は紙を壁に留めた。


 左の上から入れて、右の上に一つ入れて、下の二つは離れたところに入れた。四つ入れたところで、紙は浮かなくなった。


 入れ終わって、妹は画鋲の箱の蓋を閉めた。閉めて、箱を机の引き出しの、いちばん手前に入れた。


 入れてから、半歩下がった。


 下がって、もう半歩下がって、そこから紙を見ていた。


 俺も見ていた。廊下の光が斜めに入って、紙の下の端に影が一本出ている。影は細くて、まっすぐだった。


 妹は指を伸ばして、紙の右の下をもう一度だけ押した。押しても、そこはもう動かなかった。


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