第149話 一段上で会う
台車が先に曲がってきた。
段ボールが四つ積んである。押しているのは背中の丸い人で、こっちを見ないまま角を回った。
廊下は狭い。二人がすれ違うときは、片方が壁側に寄る。台車が来たら、両方が寄る。
俺は壁に寄って、台車が通り過ぎるのを待った。待っているあいだに、反対側から人が来た。
廊下の片側だけ、壁が白くない。腰の高さのところに、台車がこすった線が横に長く続いている。線は途中で二度切れて、切れたところから先は少し高い。
紙の束を両手で抱えた人だった。
◇
七月二十八日、火曜日。
昼の一時を過ぎている。
午前から打ち合わせが一つあって、それが十二時半に終わって、そのあと十五分ほど別の部屋で待たされた。待たされた理由は、俺には言われなかった。
有本さんは車を回しに行っている。停めたところから表の道へ出るまでに時間がかかる、と朝に言っていた。
俺は四階にいた。広いほうの会議室を、午前中ずっと使っていた。
朝から何も食べていない。九時に家を出て、車の中で寝て、着いてすぐ部屋に入った。部屋には菓子の皿が出ていたが、蓋がしてあった。蓋を取る人は一人も出なかった。皿は俺の左斜め前にあって、手を伸ばせば届く位置だった。
打ち合わせのあいだ、俺は蓋の取っ手のところを見ていた。取っ手は木で、端が少し欠けている。
欠けたところの色が、周りより濃かった。
◇
紙を抱えた人は、台車の反対側で止まった。
止まって、抱えたものを胸の高さで持ち直した。
澪さんだった。
同じ事務所の先輩で、去年、歌の番組に一緒に出た。
「あなた、いつ帰ったの」
「六月です」
「六月のいつ」
「二十九日です」
「一か月も前ね」
「はい」
「連絡が来ないと思ったら、そういうことね」
「連絡ですか」
「わたしが出すほうの話よ」
澪さんは束を持ち直しながら言った。
束は白い紙で、上に厚い紙が一枚かぶせてある。かぶせた紙の角が折れていた。
◇
台車が通り過ぎた。
通り過ぎたあとの廊下は、また元の幅に戻った。
俺たちは同じ方向に歩き出した。廊下の先は突き当たりで、その手前を折れると階段になる。
「持ちます」
「いいわよ」
「半分でいいので」
「半分なら」
澪さんは束の上半分を、こっちへ寄せた。
俺は受け取った。厚みは指の関節一つぶんくらいで、思ったより重かった。
持ったときに、束の下の紙が数枚だけ外へ滑った。滑ったところを、澪さんが上から手のひらで押さえた。
押さえた手はすぐ離れた。離れたあとも、紙は元の位置に戻らなかった。
◇
俺は歩きながら枚数を数えていた。
数えたところで何にもなるわけではない。中身は読めないし、読んでも意味が分からない。ほかにやることが無かった。
半分で四十一枚あった。
「何枚あった?」
澪さんが言った。
「四十一です」
「わたしのほうが多いわね」
「多いです」
「数えたの」
「数えました」
「そう」
澪さんは前を見たまま歩いていた。
俺も前を見て歩いた。並んで歩くと、歩幅が合わない。合わせようとすると、片方が半歩ずつ損をする。俺は合わせなかった。
◇
途中で、両手にライトを持った人が三人、向こうから来た。
澪さんは壁側へ寄った。俺も寄った。三人は間を通っていって、いちばん後ろの人が小さく頭を下げた。
下げたのが澪さんに対してだったのか、俺に対してだったのかは、こっちからは見えなかった。
三人が行ったあと、澪さんはまた真ん中へ戻った。戻るときに、束の角が壁をこすった。
澪さんは束を抱え直して、先に歩きだした。
◇
澪さんの手が見えた。
束の下を、指を広げて支えている。爪は短く切ってある。指の関節が太い。人差し指の付け根と、そこから少し内側に、皮の厚くなったところが二つあった。
左の親指の腹に、紙で切った線が一本入っていた。血は出ていない。線の周りだけ、白くなっている。
「切れてます」
「どこ」
「親指です」
「今朝よ」
「痛いですか」
「痛くない。痛いのは明日」
澪さんは束を持ち直した。
持ち直したときに、いちばん上の紙が少しずれた。ずれた下から、赤い字が出た。字は横向きで、俺のほうからは読めなかった。
澪さんは、ずれた一枚を親指で押して戻した。押した親指は、切れているほうだった。
◇
突き当たりの手前で、廊下が少しだけ広くなった。
広くなったところに、椅子が二脚立ててある。二脚は座面の高さが揃っていない。
その先に階段がある。階段の手前に窓があって、隣のビルの壁がすぐそこに見える。窓は開かない。
「あなた、下?」
「下です」
「わたしも下」
澪さんは階段のほうへ曲がった。
俺は紙の束を持ったまま、そのあとについて下りた。
◇
四階から一階まで下りた。
途中の踊り場は、階によって広さが違う。いちばん狭いのは、二階と三階のあいだのやつだった。その隅に消火器が二本置いてある。
その踊り場で、下から人が上がってきた。上がってきた人は澪さんを見て一度止まって、それから壁側へ寄った。
澪さんは何も言わないで通った。俺はすみませんと言った。言ってから、言う必要があったかどうかを考えた。考えているうちに、次の踊り場に着いた。
「重くない?」
「重くないです」
「あなた、そういうときは重いって言うのよ」
「重いです」
「今のは嘘でしょう」
「嘘です」
澪さんは階段の途中で笑わなかった。
笑わなかったが、下りる速さが少し落ちた。
◇
一階の出口で、澪さんは束を受け取った。
受け取って、両手で抱え直して、それを受付の横の台の上に置いた。
置いてから、俺のほうを見た。
「高町くん、時間ある?」
「あります」
「何分」
「わかりません」
「わからないのに、あるって言ったの」
「聞いておきます」
俺は有本さんに電話をかけた。
電話は二回鳴って出た。出たとたんに、車のウインカーの音が向こうで鳴っていた。
三十分でいいと言われた。三十分でいいというのは、三十分待つという意味だった。
有本さんは、待つあいだに三本かける、と言っていた。三本というのは電話のことである。
澪さんは台の上の束を、両手で持ち上げた。持ち上げて、下から支え直した。
◇
店は、ビルの裏の細い道を入ったところにあった。
看板は出ていない。ガラスの引き戸に、白い字で営業中と書いた札が下げてある。札は裏返しになりかけていた。
中は狭い。四人がけの台が二つと、あとは長い板の席だけである。
客は俺たちのほかに、奥に一人いた。その人は新聞を広げていて、顔は見えなかった。
冷房は効いている。効いてはいるが、風の出るところが天井の隅にしかなくて、席によって温度が違う。
板の席の上に、値段を書いた紙が貼ってあった。紙は端が反っていて、下の行だけ字が薄い。薄いのは、そこだけ書き直したからだと思う。
◇
澪さんは奥の台に座った。
俺は向かいに座った。座ってから、鞄を足元に置いた。
鞄は倒れた。倒れたので、椅子の脚に立てかけ直した。立てかけたら、今度は倒れなかった。
店の人が湯呑みを二つと、急須を一つ持ってきた。急須には茶葉だけが入っていて、湯は別のポットで置いていった。
「甘いものは」
「食います」
「二つ頼んでいい?」
「二つで足ります」
澪さんは指を二本立てて、店の人に見せた。
店の人は指を見て、うなずいて、奥へ入っていった。
奥から湯を沸かす音がした。音は最初のうちだけ大きくて、そのあとは何も聞こえなくなった。
◇
団子が来た。
串に三つ刺さっていて、上からたれがかかっている。皿の端にたれが垂れていて、串の下に溜まっていた。
俺は一本目を食べた。
食べているあいだ、澪さんは自分のぶんに手を付けなかった。付けないで、湯呑みの縁を指で回していた。
◇
「秋に、一本やるの」
澪さんが言った。
「はい」
「舞台。二か月ある」
「長いですね」
「長いわよ」
澪さんは湯呑みから指を離した。
「あれ、わたしが言ったの」
「言った」
「事務所に。これがやりたいって、自分から言った」
◇
俺は二本目を持った。
持って、口に入れる前に止めた。
「初めてですか」
「初めて」
澪さんは、そこで少し黙った。
黙って、皿の上の串の向きを直した。直して、また元に戻した。
「言ったあと、部屋を出て、階段のところで手すりを持ったの。持って、そこで五分くらい立ってた」
「長いですね」
「長いのよ。何を考えてたのかは、覚えてない」
◇
「怖かったんですか」
俺は聞いた。
「怖くない」
「はい」
「怖くはないの。怖いのは慣れてるから。あれは、なんて言うんだろう」
澪さんは言葉を探していた。
探している顔は、こっちを見ていなかった。台の木目のほうを見ている。
「言ったら、次から言えるでしょう。言えるようになったら、言わなかった年のぶんが、全部こっちに返ってくるのよ」
「はい」
「わからないでしょう」
「わかりません」
「わたしもわからない」
◇
澪さんは台の上で指を組んだ。組んだ手の親指だけが、一度だけ動いた。
「稽古が九月から」
「はい」
「毎日六時間。それが二か月」
「はい」
「あなた、それを聞いて何を思った」
「昼が入るなと思いました」
「昼」
「六時間だと、途中で一回入ります」
澪さんはこっちを見た。
見て、二秒くらい何もしなかった。
「入るわね」
「入ります」
「入るのよね」
◇
「このあとは」
「稽古場です。四時から」
「今からですか」
「今から。ここから二十分」
「歩きですか」
「歩き。地下鉄だと乗り換えが二回あるの」
澪さんは台の下で、足の甲を一度回した。
回して、もう片方も回した。
◇
俺は二本目を食べた。
たれが甘い。甘いが、下のほうにしょうゆの味が残っている。三本目に行く前に、茶を飲もうと思った。
湯呑みは空だった。
◇
「あなた、向こうで何を食べてたの」
「パンです」
「毎日?」
「毎日です。あとはスープと魚です」
「米は」
「出ませんでした」
「よく二か月いたわね」
「三か月です」
澪さんは湯呑みの位置を直した。
「三か月」
「三か月です」
「二か月って言ったのは、わたしが勝手に思ってただけね」
「はい」
澪さんは口の左のほうを先に上げた。
右は、そのあとだった。
◇
「向こうの監督は」
「黒瀬さんです」
「日本の人よね」
「日本の人です」
「あなた、あの人に何を言われたの」
「雨の匂いで、と言われました」
「雨の匂い」
「はい」
「それで、どうしたの」
「わからん、と言いました」
澪さんは湯呑みを持った。
持って、口をつけないで置いた。
「言ったの」
「言いました」
「そう」
◇
「わたし、あなたが向こうにいたあいだに、一回だけ番組で名前を言われたの」
「はい」
「同じ事務所の人が、と言われた。名前じゃなくて」
「はい」
「腹が立つと思った?」
「思いません」
「わたしも思わなかった。思わなかったのが、自分でも意外だったの」
◇
奥の客が立った。
新聞をたたんで、板の席の端に置いて、金を払って出ていった。出るときに引き戸が半分で引っかかって、もう一度引き直していた。
店の中は、それで俺たちだけになった。
澪さんは引き戸のほうを見ていた。見て、こっちへ戻した。
「さっきの、言い直していい」
「はい」
「言えるようになったんじゃないの。言っていい人になっただけ。それも、誰かがそう決めたわけじゃないのよ」
「はい」
澪さんは指先で、台の上の水の輪をなぞった。
なぞったところは消えて、そのすぐ横に新しい輪ができた。
澪さんは急須の蓋を持ち上げた。
持ち上げて、中を見て、閉めた。
◇
俺は三本目を食べた。
三本目は、いちばん下の一つだけ焦げていた。焦げているところにはたれが乗らないで、外れて皿に落ちる。
食べ終わって、串を皿の上に置いた。皿の上にはたれが残っている。残ったたれは、串で寄せると一箇所に集まった。
「食べないんですか」
「食べる」
「はい」
「見てるでしょう」
「見てます」
澪さんは自分のぶんを一つだけ食べた。
食べて、串を置いて、皿を少しこっちへ押した。
「残りはあげる」
「いいんですか」
「いいわよ」
俺は残りの二つを食べた。
二つ目を食べたところで、腹の中の位置が変わった。位置が変わると、朝から何も入っていなかったことが、あとから分かる。
澪さんは食べ終わるまで、串の端を持ったままだった。
「足りた?」
「足りました」
「嘘」
「足りてません」
◇
店の人が、湯のポットを取り替えに来た。
新しいほうは、注ぎ口から湯気が上がっていた。
澪さんはポットを取った。取って、急須の蓋を外して、湯を入れた。
入れるときに、手首だけを動かした。ポットの底は台から離さない。離さないで、傾ける角度だけで量を決めていた。
湯が急須に落ちる音が、途中で低くなった。
◇
「あなた、九月は」
「聞いてません」
「聞いてないの」
「事務所が決めてます」
「そう」
澪さんは急須の胴に手のひらを当てた。
当てて、少しのあいだそのままにしていた。熱さを見ているのだと思う。手のひらを離して、指を二本だけ胴に残した。
◇
「三十分、そろそろですか」
俺は聞いた。
「まだ十分ある」
「はい」
「十分あるのに、あなたは今、鞄を見たわね」
「見ました」
「見たのを言うのね」
「聞かれたので」
澪さんは急須を持ち上げた。
持ち上げて、俺の湯呑みのほうへ傾けた。
◇
澪さんは、俺の湯呑みに茶を注いだ。
落ちる先が細くて、湯呑みの底に当たる音がした。当たる音は、溜まるにつれて低くなっていく。
澪さんは八分目で止めた。止めて、急須を台に戻した。戻すときに、底が台に当たる音がしなかった。
急須から手が離れた。離れた手の親指の白い線が、湯気の向こうに一度だけ見えた。




