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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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148/237

第148話 胃薬の量で状況がわかる

 一階の受付の台の上に、紙の束が二つ置いてあった。


 二つとも角をそろえてある。低いほうは名前を書く紙で、いつもそこにある。高いほうは今日だけのもので、上から二枚目だけ端が折れていた。


 有本さんが、その前で鞄の中を探していた。両手を空けるために置いたらしい。


「高町さん、おはようございます」

「おはようございます」

「すみません、そこ、どきます」


 有本さんは紙の束を持ち上げた。持ち上げたところで一度膝に乗せ直して、乗せ直してから抱えた。


 抱えたら、顎の下まで来た。


   ◇


 七月十日、金曜日。


 朝の九時で、外はもう暑い。坂を上がってくるあいだにシャツの背中が湿った。


 ビルに入ったら中は冷えていた。受付の人が札を出してくれて、名前の横に線を引いた。線を引く定規は今日も使わない。


 自動ドアは出るときだけ二回に分けて開く。入るときは一度で開く。何度か試したが、いつもそうだった。


   ◇


「高町さん、飲みます?」

「飲みます」

「いちばん左です」


 自販機は三台並んでいる。右が缶で、真ん中がペットボトル、左が紙コップだ。


 俺は左の前に立って、上から二つ目を押した。


 先に、紙コップが落ちる音がした。落ちてから、少し間があって、それから上のほうで湯が出はじめた。出ている時間は長い。長いあいだ、俺は下の穴を見ていた。


「今日、もう十九本です」


 有本さんが後ろで言った。


「本というのは」

「電話です。犬飼さんに言うんですけど、朝から十九本で、まだ十時前なので」

「多いんですか」

「多いです」

「はい」

「朝のうちに十九本は多いです。犬飼さんが折り返すぶんが、まだ一本も減ってません」


 有本さんは束を抱え直して、階段のほうへ行った。


 俺は紙コップを持ったまま、少しのあいだそこに立っていた。


 紙コップは熱い。持つところが無いので、上の縁を指でつまんで持つ。つまむと、中の水面が少し動く。


 コップの外側に、線が一本印刷してあった。線のところまで入れるらしいが、今日入っているのは線より上だった。


   ◇


 四階に上がった。


 廊下に、予備の椅子が四脚出してあった。四脚とも座面の高さが違う。二脚は同じに見えるが、並べると背の高さでずれる。ほかの階の廊下には、椅子は出ていない。


 会議室2のドアは閉まっていた。中から声はしない。


 犬飼さんは廊下の反対の端で待っていた。待ちながら、腕時計の位置を直していた。直して、袖を下ろして、また直した。


「こっちだ」


 会議室1のほうだった。


   ◇


 会議室1は広い。長机が四本ある。


 今日は四本とも使っていた。


 四本の上に、紙が並べてある。並べてあるというより、置いてある。重なっているところと、重なっていないところがある。


 窓は無い。天井の蛍光灯は全部点いていて、紙の白がまぶしかった。


 壁の時計は入口の上にある。秒針の無い時計である。長い針が動くところを見ていても、動く瞬間は見えない。


 九条さんが奥の机の端に立っていた。立ったまま、一枚を目の高さまで上げて見ている。


   ◇


「座れ」

「はい」


 俺は手前の机の、紙の無いところに座った。


 座ったら、目の前に紙の角が来た。角は俺のほうを向いていて、字は逆さまだった。


「読まなくていい」


 犬飼さんは紙の向きを直した。


「読んでも、君が決めることは一つも無い」

「はい」

「今日は君に決めさせるために呼んだんじゃない。顔だけ出させて、あとで知らなかったと言われないようにするために呼んだ」

「はい」

「わかったか」

「顔を出しました」


   ◇


 犬飼さんは机の端から順に紙を動かしはじめた。


「右が受ける。真ん中が、まだ決めない。奥が断る」


 犬飼さんは動かしながら言った。


「奥がいちばん高いです」

「そうだ」


   ◇


 一枚を右へ置いて、次を奥へ置いて、その次でまた右へ戻した。


 戻した紙を、少ししてからもう一度持ち上げた。持ち上げて、目の高さで止めて、また右に置いた。


 同じ紙を三度動かしたのを、俺は見ていた。


   ◇


「断るほうは、誰が言うんですか」

「俺だ。電話でだ。紙で断ると、紙が残る」

「はい」

「電話なら、向こうも忘れたふりができる」


 犬飼さんはペンを持って、奥の山のいちばん上の紙の端に、短く何か書いた。


 次の紙にも書こうとして、ペン先を紙に付けたまま止まった。止まっているあいだに、付けたところが少しずつ丸くなって、青い点が広がった。


   ◇


「犬飼、その一枚は今日じゃなくていい」


 九条さんが奥の机の前で言った。


「今日でないと、向こうが動きます」

「動かせておけ。うちが慌てて返事をすると、次から同じ速さを期待される」


 犬飼さんはペンを紙から離した。


 離した先に、青い点が一つ残った。


   ◇


「奥に置いたやつを、もう一度見ます」


 犬飼さんは九条さんのほうを見ないで言った。


「見て変わるのか」

「変わりません」

「なら見るな」

「見ます」


 犬飼さんは奥の山を手前に引いて、上から一枚ずつめくった。めくる速さは、分けていたときより遅い。


 いちばん下まで行って、そのまま奥へ戻した。戻した山は、引く前と同じ高さだった。


   ◇


 戻してから、いちばん上の一枚だけを取って、真ん中へ置いた。置いて、すぐに奥へ返した。


 返した紙の上に、犬飼さんは手のひらを置いた。置いたまま、しばらく動かさなかった。


 手の下から角が一つだけ出ていて、そこが手のひらの縁で押されて、少しずつ折れていった。


 手をどけたとき、角は折れたままだった。犬飼さんは折れたところを指でこすって、伸ばして、また同じ場所へ戻した。


   ◇


 犬飼さんの携帯が鳴った。


 鳴ったのは机の上ではなく、上着の中だった。犬飼さんは椅子を引いて立って、廊下へ出た。


 ドアは閉まりきらなかった。少し開いたところで止まって、そのままになった。


 廊下から声が聞こえた。話している中身は分からない。分かるのは、犬飼さんの声が部屋にいるときより低いことだけだった。


 二分くらいで戻ってきた。戻って、椅子に座って、奥の山からいちばん上の一枚を取った。取って、右の山へ移した。


「変わったのか」


 九条さんが手を止めた。


「向こうが日を動かしました。九月の後ろへずらすそうです」

「動いたなら受けられるのか」

「受けられます」

「じゃあ、そっちだ」


 犬飼さんは移した紙の端を、指で二回押さえた。


 押さえたところが、少し波打った。


   ◇


 右の山と、真ん中の山と、奥の山がある。いちばん厚いのが奥だった。


 紙は同じ速さで動く。置くときの音も、毎回同じだった。見ているうちに、まぶたが重くなった。


 俺は紙コップを持ち上げた。持ち上げたら、九条さんがこっちを見た。


「飲め」

「はい」


   ◇


「高町くん」


 九条さんが、紙の束の横から言った。


「うちは、来た話の中から選ぶ。選ぶというのは、断るということだ。断ったほうが多くなる年もある。今年はそうなる」

「はい」

「断られた側は、うちを恨まない。恨むほど覚えていない。覚えているのはこっちだけだ」

「はい」

「今の話は、君が覚えなくていい」


 九条さんは紙を机に置いて、眼鏡を外した。


 外して、レンズを見て、かけ直した。


   ◇


「高町くん、右の山から一つだけ教えておく」

「はい」

「八月の終わりに、一日だけ空けてある。何が入るかは、まだうちも知らない」

「空いてるんですか」

「空けてある。空いているのと空けてあるのは違う」

「はい」

「違いが分かったか」

「わかりません」

「それでいい。分かるようになると、君は先に予定を心配しはじめる」


 九条さんは机の上で、紙を一枚だけ横に滑らせた。


 滑らせた先に何も無かったので、紙は机の端で止まった。


   ◇


 名刺の束の上に、影が一つ増えていた。


 束は手前の机の端にある。紙に一枚ずつ留めてあったのを、犬飼さんが外して、まとめて置いたものだ。


 人形は束の上に立って、いちばん上の一枚を足の先で押していた。押しても動かない。


 蛍光灯の真下でも、人形の顔の色は薄い桃色のままだった。


「これ、全部よその人でしょう」


(そうだ)


「何人いるの」


(数えてない)


「数えなさいよ」


(数えると、犬飼さんが別のものを数えろと言う)


   ◇


 人形は束の縁まで歩いて、そこで振り返った。


「呼ばれた意味は」


(顔を出した)


「顔ならいつも出てるでしょう」


 人形は束の上に座った。座って、机の向こうの二人を見ていた。


   ◇


 ドアが開いた。


 有本さんが顔だけ入れた。手には、さっき一階で持ち上げた束がある。


「犬飼さん、追加です。今朝の分と、昨日の夜に入ったやつです」

「そこへ置いてくれ」

「あと、四時のは明日に回してもらいました」

「そうしてくれ」


 有本さんは束を手前の机に置いた。


 置いて、ドアのところまで戻って、そこで一度止まった。


「犬飼さん」

「なんだ」

「今週、まだ胃薬の箱を開けてないですよ」


   ◇


 犬飼さんは有本さんのほうを見なかった。


 見ないで、机の上の紙を一枚裏返した。


「そうか」

「そうです」

「わかった」


 有本さんはドアを閉めた。


 閉まる音は小さかった。


 机の上には紙しか出ていない。有本さんが置いていった束が、いちばん手前で少しずれている。


 人形は束の上から、ドアのほうを見ていた。見ているだけで、声は出さなかった。


   ◇


 紙コップの残りを飲んだ。


 残りは半分より少なかった。少なかったが、飲んだら口の中が甘くなった。押したのは、砂糖が入るほうだったらしい。


 今から一階まで下りて、自販機の前に立って、そのまま戻ってこなければ、この紙が全部片付くまで座っていなくて済む。


 下りるには、この部屋のドアを開けて、廊下を通って、階段を四階ぶん下りる。


 俺は座っていた。


   ◇


「高町」


 犬飼さんの声が机の向こうから来た。


「はい」

「眠いか」

「眠いです」

「そうか」


 犬飼さんは紙を動かす手を止めなかった。


「眠いのは時差が抜けてないからだ、と言ってやりたいところだが、帰ってきて十一日だ」

「経ちました」

「ただ眠いだけだな」

「そうです」


   ◇


 九条さんは奥の机の前で、紙を分け直していた。


 分け直したら、奥の山が少し低くなって、真ん中が高くなった。


「犬飼、真ん中をもう一度見せてくれ」

「今日中に決めますか」

「今日中じゃない。今日中に決めると、決めた理由を来週の俺が忘れる」


 九条さんは真ん中の山を手前に引いた。


 引いて、上から三枚をどけた。どけた三枚は、机の端に立てて置いた。


 立てた三枚は、しばらくしてから片方へ倒れた。


   ◇


 犬飼さんは椅子に座った。


 座ってから、机の上に手を置いて、指で天板を一度だけ叩いた。


 それから、また紙を持ち上げた。


   ◇


「高町くん」


 九条さんが、椅子ごとこっちを向いて言った。


「君は今、休みが無い」

「はい」

「無いのは、うちが無くしたからだ。文句は聞く」

「無いです」

「無いか」

「休みだと、何をするか決めないといけないので」


 九条さんは眼鏡の縁を持ったまま、しばらく止まっていた。


 止まって、それから犬飼さんのほうを見た。犬飼さんは紙を見ていた。


 九条さんは、そのまま紙に戻った。


   ◇


 十一時半に、話が終わった。


 終わったというより、九条さんが紙を持って出ていった。持って出たのは真ん中の山で、右と奥は机に残った。


 犬飼さんは残った紙を集めて、机の縁で角をそろえた。


 そろえて、二回、下を打った。


 人形は、いつのまにか俺の鞄の中に戻っていた。


   ◇


 廊下に出た。


 廊下は会議室より涼しい。冷房の吹き出し口が天井の真ん中にあって、下を通ると首の後ろに当たる。


 会議室2のドアが開いて、中から三人出てきた。


 一人は知っている顔で、二人は知らない顔だった。知らないほうの二人は、両方とも紙のファイルを持っている。


   ◇


「暑いですね」


 背の高いほうが犬飼さんに言った。


「暑いです」

「エレベーターは」

「うちは階段です」

「四階まで階段ですか」

「五階まであります」


 背の高いほうは笑った。笑って、ファイルを持ち直した。


 背の低いほうは笑わなかった。笑わないで、俺のほうを二度見た。


   ◇


「犬飼さん」


 背の低いほうが言った。


「先ほどはどうも」

「いえ」

「こちらが」


 背の低いほうは、俺のほうを見た。


 見て、ファイルを左手に持ち替えて、右手を上着の内ポケットに入れた。


   ◇


 名刺が出てきた。


 両手で持って、こっちへ向けて差し出された。字がこっちを向いている。


 俺の左手には、さっき犬飼さんに渡された紙が一枚ある。右手は空いていた。


   ◇


 俺は名刺を受け取った。


 右手だけで、下の端を持った。持ってから、字を上から下まで読んだ。


 会社の名前と、部の名前と、人の名前が三行に分かれている。三行目がいちばん字が大きい。


「高町です」

「存じております」

「ありがとうございます」


 背の低いほうは頭を下げた。下げて、上げて、もう一人と一緒に階段のほうへ歩いていった。


   ◇


 俺は名刺を見ていた。


 紙の厚みが、会議室の紙と違う。指で押すと、少し戻る。


「高町」


 犬飼さんが、少し離れたところから呼んだ。


「はい」

「帰るぞ」

「はい」


   ◇


 犬飼さんは、俺の右手を見ていた。


 名刺のほうではなかった。名刺を持っている手のほうだった。


 見て、そのまま階段のほうへ先に歩いた。


 俺は名刺を鞄の内ポケットに入れた。内ポケットには、前に入れた紙が一枚残っていて、名刺はその手前に入った。


 入れてから、あとを歩いた。


 階段の手すりは、上から三段目のあたりだけ塗りが剥げている。剥げたところに手を置くと、そこだけ金属の温度である。


 三歩ほど行ったところで、犬飼さんが一度だけ振り返った。


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