第148話 胃薬の量で状況がわかる
一階の受付の台の上に、紙の束が二つ置いてあった。
二つとも角をそろえてある。低いほうは名前を書く紙で、いつもそこにある。高いほうは今日だけのもので、上から二枚目だけ端が折れていた。
有本さんが、その前で鞄の中を探していた。両手を空けるために置いたらしい。
「高町さん、おはようございます」
「おはようございます」
「すみません、そこ、どきます」
有本さんは紙の束を持ち上げた。持ち上げたところで一度膝に乗せ直して、乗せ直してから抱えた。
抱えたら、顎の下まで来た。
◇
七月十日、金曜日。
朝の九時で、外はもう暑い。坂を上がってくるあいだにシャツの背中が湿った。
ビルに入ったら中は冷えていた。受付の人が札を出してくれて、名前の横に線を引いた。線を引く定規は今日も使わない。
自動ドアは出るときだけ二回に分けて開く。入るときは一度で開く。何度か試したが、いつもそうだった。
◇
「高町さん、飲みます?」
「飲みます」
「いちばん左です」
自販機は三台並んでいる。右が缶で、真ん中がペットボトル、左が紙コップだ。
俺は左の前に立って、上から二つ目を押した。
先に、紙コップが落ちる音がした。落ちてから、少し間があって、それから上のほうで湯が出はじめた。出ている時間は長い。長いあいだ、俺は下の穴を見ていた。
「今日、もう十九本です」
有本さんが後ろで言った。
「本というのは」
「電話です。犬飼さんに言うんですけど、朝から十九本で、まだ十時前なので」
「多いんですか」
「多いです」
「はい」
「朝のうちに十九本は多いです。犬飼さんが折り返すぶんが、まだ一本も減ってません」
有本さんは束を抱え直して、階段のほうへ行った。
俺は紙コップを持ったまま、少しのあいだそこに立っていた。
紙コップは熱い。持つところが無いので、上の縁を指でつまんで持つ。つまむと、中の水面が少し動く。
コップの外側に、線が一本印刷してあった。線のところまで入れるらしいが、今日入っているのは線より上だった。
◇
四階に上がった。
廊下に、予備の椅子が四脚出してあった。四脚とも座面の高さが違う。二脚は同じに見えるが、並べると背の高さでずれる。ほかの階の廊下には、椅子は出ていない。
会議室2のドアは閉まっていた。中から声はしない。
犬飼さんは廊下の反対の端で待っていた。待ちながら、腕時計の位置を直していた。直して、袖を下ろして、また直した。
「こっちだ」
会議室1のほうだった。
◇
会議室1は広い。長机が四本ある。
今日は四本とも使っていた。
四本の上に、紙が並べてある。並べてあるというより、置いてある。重なっているところと、重なっていないところがある。
窓は無い。天井の蛍光灯は全部点いていて、紙の白がまぶしかった。
壁の時計は入口の上にある。秒針の無い時計である。長い針が動くところを見ていても、動く瞬間は見えない。
九条さんが奥の机の端に立っていた。立ったまま、一枚を目の高さまで上げて見ている。
◇
「座れ」
「はい」
俺は手前の机の、紙の無いところに座った。
座ったら、目の前に紙の角が来た。角は俺のほうを向いていて、字は逆さまだった。
「読まなくていい」
犬飼さんは紙の向きを直した。
「読んでも、君が決めることは一つも無い」
「はい」
「今日は君に決めさせるために呼んだんじゃない。顔だけ出させて、あとで知らなかったと言われないようにするために呼んだ」
「はい」
「わかったか」
「顔を出しました」
◇
犬飼さんは机の端から順に紙を動かしはじめた。
「右が受ける。真ん中が、まだ決めない。奥が断る」
犬飼さんは動かしながら言った。
「奥がいちばん高いです」
「そうだ」
◇
一枚を右へ置いて、次を奥へ置いて、その次でまた右へ戻した。
戻した紙を、少ししてからもう一度持ち上げた。持ち上げて、目の高さで止めて、また右に置いた。
同じ紙を三度動かしたのを、俺は見ていた。
◇
「断るほうは、誰が言うんですか」
「俺だ。電話でだ。紙で断ると、紙が残る」
「はい」
「電話なら、向こうも忘れたふりができる」
犬飼さんはペンを持って、奥の山のいちばん上の紙の端に、短く何か書いた。
次の紙にも書こうとして、ペン先を紙に付けたまま止まった。止まっているあいだに、付けたところが少しずつ丸くなって、青い点が広がった。
◇
「犬飼、その一枚は今日じゃなくていい」
九条さんが奥の机の前で言った。
「今日でないと、向こうが動きます」
「動かせておけ。うちが慌てて返事をすると、次から同じ速さを期待される」
犬飼さんはペンを紙から離した。
離した先に、青い点が一つ残った。
◇
「奥に置いたやつを、もう一度見ます」
犬飼さんは九条さんのほうを見ないで言った。
「見て変わるのか」
「変わりません」
「なら見るな」
「見ます」
犬飼さんは奥の山を手前に引いて、上から一枚ずつめくった。めくる速さは、分けていたときより遅い。
いちばん下まで行って、そのまま奥へ戻した。戻した山は、引く前と同じ高さだった。
◇
戻してから、いちばん上の一枚だけを取って、真ん中へ置いた。置いて、すぐに奥へ返した。
返した紙の上に、犬飼さんは手のひらを置いた。置いたまま、しばらく動かさなかった。
手の下から角が一つだけ出ていて、そこが手のひらの縁で押されて、少しずつ折れていった。
手をどけたとき、角は折れたままだった。犬飼さんは折れたところを指でこすって、伸ばして、また同じ場所へ戻した。
◇
犬飼さんの携帯が鳴った。
鳴ったのは机の上ではなく、上着の中だった。犬飼さんは椅子を引いて立って、廊下へ出た。
ドアは閉まりきらなかった。少し開いたところで止まって、そのままになった。
廊下から声が聞こえた。話している中身は分からない。分かるのは、犬飼さんの声が部屋にいるときより低いことだけだった。
二分くらいで戻ってきた。戻って、椅子に座って、奥の山からいちばん上の一枚を取った。取って、右の山へ移した。
「変わったのか」
九条さんが手を止めた。
「向こうが日を動かしました。九月の後ろへずらすそうです」
「動いたなら受けられるのか」
「受けられます」
「じゃあ、そっちだ」
犬飼さんは移した紙の端を、指で二回押さえた。
押さえたところが、少し波打った。
◇
右の山と、真ん中の山と、奥の山がある。いちばん厚いのが奥だった。
紙は同じ速さで動く。置くときの音も、毎回同じだった。見ているうちに、まぶたが重くなった。
俺は紙コップを持ち上げた。持ち上げたら、九条さんがこっちを見た。
「飲め」
「はい」
◇
「高町くん」
九条さんが、紙の束の横から言った。
「うちは、来た話の中から選ぶ。選ぶというのは、断るということだ。断ったほうが多くなる年もある。今年はそうなる」
「はい」
「断られた側は、うちを恨まない。恨むほど覚えていない。覚えているのはこっちだけだ」
「はい」
「今の話は、君が覚えなくていい」
九条さんは紙を机に置いて、眼鏡を外した。
外して、レンズを見て、かけ直した。
◇
「高町くん、右の山から一つだけ教えておく」
「はい」
「八月の終わりに、一日だけ空けてある。何が入るかは、まだうちも知らない」
「空いてるんですか」
「空けてある。空いているのと空けてあるのは違う」
「はい」
「違いが分かったか」
「わかりません」
「それでいい。分かるようになると、君は先に予定を心配しはじめる」
九条さんは机の上で、紙を一枚だけ横に滑らせた。
滑らせた先に何も無かったので、紙は机の端で止まった。
◇
名刺の束の上に、影が一つ増えていた。
束は手前の机の端にある。紙に一枚ずつ留めてあったのを、犬飼さんが外して、まとめて置いたものだ。
人形は束の上に立って、いちばん上の一枚を足の先で押していた。押しても動かない。
蛍光灯の真下でも、人形の顔の色は薄い桃色のままだった。
「これ、全部よその人でしょう」
(そうだ)
「何人いるの」
(数えてない)
「数えなさいよ」
(数えると、犬飼さんが別のものを数えろと言う)
◇
人形は束の縁まで歩いて、そこで振り返った。
「呼ばれた意味は」
(顔を出した)
「顔ならいつも出てるでしょう」
人形は束の上に座った。座って、机の向こうの二人を見ていた。
◇
ドアが開いた。
有本さんが顔だけ入れた。手には、さっき一階で持ち上げた束がある。
「犬飼さん、追加です。今朝の分と、昨日の夜に入ったやつです」
「そこへ置いてくれ」
「あと、四時のは明日に回してもらいました」
「そうしてくれ」
有本さんは束を手前の机に置いた。
置いて、ドアのところまで戻って、そこで一度止まった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「今週、まだ胃薬の箱を開けてないですよ」
◇
犬飼さんは有本さんのほうを見なかった。
見ないで、机の上の紙を一枚裏返した。
「そうか」
「そうです」
「わかった」
有本さんはドアを閉めた。
閉まる音は小さかった。
机の上には紙しか出ていない。有本さんが置いていった束が、いちばん手前で少しずれている。
人形は束の上から、ドアのほうを見ていた。見ているだけで、声は出さなかった。
◇
紙コップの残りを飲んだ。
残りは半分より少なかった。少なかったが、飲んだら口の中が甘くなった。押したのは、砂糖が入るほうだったらしい。
今から一階まで下りて、自販機の前に立って、そのまま戻ってこなければ、この紙が全部片付くまで座っていなくて済む。
下りるには、この部屋のドアを開けて、廊下を通って、階段を四階ぶん下りる。
俺は座っていた。
◇
「高町」
犬飼さんの声が机の向こうから来た。
「はい」
「眠いか」
「眠いです」
「そうか」
犬飼さんは紙を動かす手を止めなかった。
「眠いのは時差が抜けてないからだ、と言ってやりたいところだが、帰ってきて十一日だ」
「経ちました」
「ただ眠いだけだな」
「そうです」
◇
九条さんは奥の机の前で、紙を分け直していた。
分け直したら、奥の山が少し低くなって、真ん中が高くなった。
「犬飼、真ん中をもう一度見せてくれ」
「今日中に決めますか」
「今日中じゃない。今日中に決めると、決めた理由を来週の俺が忘れる」
九条さんは真ん中の山を手前に引いた。
引いて、上から三枚をどけた。どけた三枚は、机の端に立てて置いた。
立てた三枚は、しばらくしてから片方へ倒れた。
◇
犬飼さんは椅子に座った。
座ってから、机の上に手を置いて、指で天板を一度だけ叩いた。
それから、また紙を持ち上げた。
◇
「高町くん」
九条さんが、椅子ごとこっちを向いて言った。
「君は今、休みが無い」
「はい」
「無いのは、うちが無くしたからだ。文句は聞く」
「無いです」
「無いか」
「休みだと、何をするか決めないといけないので」
九条さんは眼鏡の縁を持ったまま、しばらく止まっていた。
止まって、それから犬飼さんのほうを見た。犬飼さんは紙を見ていた。
九条さんは、そのまま紙に戻った。
◇
十一時半に、話が終わった。
終わったというより、九条さんが紙を持って出ていった。持って出たのは真ん中の山で、右と奥は机に残った。
犬飼さんは残った紙を集めて、机の縁で角をそろえた。
そろえて、二回、下を打った。
人形は、いつのまにか俺の鞄の中に戻っていた。
◇
廊下に出た。
廊下は会議室より涼しい。冷房の吹き出し口が天井の真ん中にあって、下を通ると首の後ろに当たる。
会議室2のドアが開いて、中から三人出てきた。
一人は知っている顔で、二人は知らない顔だった。知らないほうの二人は、両方とも紙のファイルを持っている。
◇
「暑いですね」
背の高いほうが犬飼さんに言った。
「暑いです」
「エレベーターは」
「うちは階段です」
「四階まで階段ですか」
「五階まであります」
背の高いほうは笑った。笑って、ファイルを持ち直した。
背の低いほうは笑わなかった。笑わないで、俺のほうを二度見た。
◇
「犬飼さん」
背の低いほうが言った。
「先ほどはどうも」
「いえ」
「こちらが」
背の低いほうは、俺のほうを見た。
見て、ファイルを左手に持ち替えて、右手を上着の内ポケットに入れた。
◇
名刺が出てきた。
両手で持って、こっちへ向けて差し出された。字がこっちを向いている。
俺の左手には、さっき犬飼さんに渡された紙が一枚ある。右手は空いていた。
◇
俺は名刺を受け取った。
右手だけで、下の端を持った。持ってから、字を上から下まで読んだ。
会社の名前と、部の名前と、人の名前が三行に分かれている。三行目がいちばん字が大きい。
「高町です」
「存じております」
「ありがとうございます」
背の低いほうは頭を下げた。下げて、上げて、もう一人と一緒に階段のほうへ歩いていった。
◇
俺は名刺を見ていた。
紙の厚みが、会議室の紙と違う。指で押すと、少し戻る。
「高町」
犬飼さんが、少し離れたところから呼んだ。
「はい」
「帰るぞ」
「はい」
◇
犬飼さんは、俺の右手を見ていた。
名刺のほうではなかった。名刺を持っている手のほうだった。
見て、そのまま階段のほうへ先に歩いた。
俺は名刺を鞄の内ポケットに入れた。内ポケットには、前に入れた紙が一枚残っていて、名刺はその手前に入った。
入れてから、あとを歩いた。
階段の手すりは、上から三段目のあたりだけ塗りが剥げている。剥げたところに手を置くと、そこだけ金属の温度である。
三歩ほど行ったところで、犬飼さんが一度だけ振り返った。




