第147話 あの記事の終わり
入口の上の吹き出し口から、冷たい風が出ていた。
二月に同じ部屋に座ったときは、そこから暖かい風が出ていた。出る場所も向きも同じで、俺の座っているところにまっすぐ当たる。
当たる場所だけ、腕の毛が立った。
部屋に入ったとき、犬飼さんが先に座っていて、上着を椅子の背にかけていた。かけた上着の袖が床に垂れていたが、直さなかった。
◇
四階の会議室2に窓は無い。
明るさは天井の蛍光灯だけで、四本とも点いている。机の上に置かれた紙が白く見えるのも、二月と同じだった。
椅子は六脚ある。今日は四つ使っていた。
戸倉さんと、犬飼さんと、法務の人と、俺である。
◇
七月一日、水曜日。
昨日の夜、夜中に一度起きた。起きて、水を飲んで、そのあとは朝まで寝た。
朝、母さんが冷蔵庫を開けて閉めて、また開けた。開け直したほうから何かを出して、俺の前に置いた。置いたのは飯だった。
妹は二階から下りてこなかった。下りてこないまま、俺が出るときに階段の途中まで来て、そこから何も言わずに戻っていった。
電車には、座っている人が数えられるくらいしかいなかった。渋谷で降りて、坂を上がった。花屋の前の桶は、二月には空の日があった。今日は縁のところまで水が入っていて、葉が二枚浮いている。
◇
「先に結論から言います」
戸倉さんは机の上の紙を一枚めくった。
「先方が訂正を出しました。次の号に載ります。実物はここにあります」
「はい」
「うちからは何も出しません。出さないことを、社長と九条と、わたしで決めました」
「はい」
「高町くんがやることは、今日は何もありません」
戸倉さんは紙をこちらへ向けて置いた。
置いた紙は一枚で、上のほうに小さい字が並んでいる。並んだ字のうち、真ん中のあたりの三行だけが太い。
太い三行のうち、いちばん上は十二月の見出しだった。〈人気俳優、共演者と深夜デート〉と刷ってある。その下に、写真が二点。並んで歩いている一枚と、車に乗り込む一枚だった。
◇
俺はその紙を見た。
紙の下のほうに、日付が二つ入っている。片方が先週で、もう片方が来週だった。来週のほうに、丸が付けてある。
丸を付けたのは戸倉さんではないらしく、線の太さが上の書き込みと違っていた。
字は読めた。読めたが、途中の一行に知らない言葉があって、そこで止まった。
止まったところの上の行に、十二月の日付が入っている。日付の横の括弧の中は、数字が二つ並んでいた。号数らしい。
「これ、なんて読むんですか」
「どれですか」
「ここです」
「……訂正記事の、体裁の名前です。読み方は覚えなくていいです」
「意味もわからん」
「意味も覚えなくていいです」
戸倉さんは眼鏡をかけていない。かけていないのに、紙を読むときだけ目を細める。
細めた目のまま、紙の端をそろえた。そろえた指の爪が、二月に見たときより短かった。
◇
「順番に話します」
戸倉さんは続けた。
「十二月に出た記事に、事実でない部分がありました。それが分かったのが一月です。そこから先方の中で調べていて、先週、結論が出ました」
「事実でない部分というのは」
「写真です。二枚は別々の日に撮ったものでした。それを、同じ夜のものとして並べていました」
「はい」
「二枚とも、去年七月の打ち上げの前後です」
「はい」
「関わった人間の処分は、先方が社内で決めました。中身はうちには来ません。来ないので、わたしも知りません」
「はい」
「知らないことを、うちが外で喋ることはありません」
「はい」
「もう一つあります。先方の会社から、うちに文書が来ました。これも次の号と同じ日に出ます」
「文書ですか」
「謝罪の文書です。中身はここでは読みません。読むと長いので」
「はい」
「読みたいなら、あとでわたしのところへ来てください。ただ、来なくていいと思います」
法務の人が横で紙を一枚めくった。めくった紙の裏に、付箋が三枚ついている。
三枚とも色が違った。
法務の人と会うのは、この件で二度目だった。一度目は十二月で、そのときも同じ部屋の同じ席に座っていた。今日は前の紙の束が薄い。
薄い束の上に、鉛筆が一本置いてある。芯は削ったばかりで、まだ一度も使われていなかった。
戸倉さんの前の紙は、逆に厚い。厚い束の横に、もう一つ小さい束があって、そっちには色の違う紙が挟まっている。挟まった紙の端が、上から見ると階段のように並んでいた。
並んだ端のうち、上から三つ目だけが少し飛び出ていた。飛び出ているほうへ、戸倉さんは何度か手を伸ばして、そのたびに触らずに戻した。
◇
犬飼さんは腕を組んで座っていた。
組んだまま、机の下で足を組み替える音を一度させた。
「高町」
「はい」
「写真を売った人間がいる、と一月に言った。うちの人間じゃない、君でもない、俺でもない。よその事務所の人間だ、と言っただろう」
「言いました」
「そこの名前だ。クロスロードだ」
「はい」
犬飼さんは組んでいた腕をほどいて、片手を机の上に置いた。
置いた手の指が、天板を一度だけ叩いた。
「名前を知っても、君にできることは一つも増えない」
「増えません」
「それでいい」
「はい」
「一つ言っておく。今日から先、この件で君に聞いてくる人間が出る。全部こっちへ回せ。答えるな」
「答えません」
「答えないというのは、黙るという意味だ。走って逃げると、逃げた絵になる」
「はい」
「歩け。いつもの速さでだ」
◇
戸倉さんが紙をもう一枚出した。
「先方の社名は、この件では表に出ません。出さない約束です」
「はい」
「うちも出しません。今、犬飼が言ったのは、この部屋の中の話です」
「はい」
「外で聞かれても、高町くんは知らないと言ってください。実際、今日まで知らなかったので、嘘になりません」
戸倉さんは、そこで一度、水を飲んだ。
紙のコップで、中身は半分だった。飲んだあと、コップを机の上の元の位置に戻した。戻した位置は、輪の跡と一ミリずれた。
ずれたところに、新しい輪がもう一つできた。二つの輪は、重なった部分だけ色が濃い。
◇
話は続いた。
法務の人が、紙を三枚まとめて配った。配られた紙のうち、一枚は俺が持って帰るもので、二枚は持って帰らないものだった。
どれが持って帰るほうなのかは、あとで言われた。
◇
壁の時計が十二時を回った。
回ったが、誰も立たなかった。誰も時計を見なかった。壁の時計は入口の上にあって、座っている全員の背中の側にある。
机の脚には、床とのあいだに薄いゴムが挟んである。四本のうち一本だけ、そのゴムが無かった。
◇
腹が減った。
◇
「高町くん」
戸倉さんは紙を伏せた。
「はい」
「一つだけ、確認します。あの記事が出てからのことで、うちが把握していないことがありますか」
「ありません」
「学校でも、現場でも」
「ありません」
「向こうの島では」
「島の人は、記事のことを知りませんでした」
戸倉さんは伏せた紙の上に手を置いた。
置いて、そのまま二秒くらい動かなかった。
「わたしは、十二月から今日まで、この件をやっていました」
「はい」
「今日で終わりです。終わりなので、報告をしました。以上です」
「はい」
「昼、まだですよね。すみません、わたしのほうの都合で長くなりました」
戸倉さんの声は、部屋のいちばん奥まで同じ大きさで届く。届く大きさのまま、最後の一言だけ短かった。
◇
「わかりました」
戸倉さんはそう言って、机の上の紙を集めた。
集めるときに、一枚が机の下へ落ちた。落ちた紙を犬飼さんが拾って、戸倉さんに渡した。
渡された戸倉さんは、受け取って、束の上に載せた。載せた紙は上下が逆だった。逆のまま揃えて、そこで気づいて、直した。
◇
紙を集めているあいだに、帰りの電車のことを考えた。
この時間に出ると、渋谷から座れる。座れるが、途中で乗り換えがある。乗り換えを一回にすると遠回りで、二回にすると近いかわりに立ったままになる。
一時を過ぎると、座れるほうの電車が混みはじめる。混みはじめる前に出るには、あと二十分しかない。
終わらなかった場合は、乗り換えを二回にして立つ。立つと、家までのあいだに寝られない。
寝られない場合は、家に着いてから寝る。着くのは二時半で、そこから寝ると、夕飯の時間に起きられない。
起きられなかった場合は、夜中に食う。夜中に食うと、朝が入らない。
◇
三通り考えて、そこまでにした。
◇
部屋を出た。
廊下は会議室より暖かい。会議室の風が冷たかったので、出たところで首の後ろが緩んだ。
犬飼さんは先に出て、俺が出るのを待って、ドアを閉めた。
「高町、昼は下で食え」
「はい」
「上には何も無い」
「はい」
「有本が下にいる。車で来ている」
「電車で帰れます」
「聞いていない。下にいると言った」
◇
階段を下りた。
二階と三階のあいだの踊り場に、誰もいなかった。
二階の廊下からレッスン室の音がした。歌ではなく、床を踏む音が続いている。続いて、止まって、また同じところから始まった。
その音は、二月に通ったときと同じ速さだった。
踊り場の窓は開いていた。開いた窓から、下の道の音が入ってくる。入ってくる音のうち、車の音だけが一定で、あとは途切れた。
一階まで下りて、受付の前を通った。受付の人は俺の顔を見て、それから何か言おうとして、言わないで、札を出した。
札を返して、名前の横に線を引いてもらった。線を引く定規は使わない。
机の端に、来客の名前を書く紙が置いてある。今日のぶんは三行埋まっていて、いちばん下の行だけ、時刻の欄が空いていた。
受付の横の椅子に、スーツの男が二人並んで座っていた。片方は名前を呼ばれて上へ通されて、もう片方は座ったままだった。
◇
自販機は三台並んでいる。
右が缶で、真ん中がペットボトル、左が紙コップである。
缶のほうの上から二段目に微糖がある。二段目の右から三本目で、その左は無糖と、砂糖の多いやつだった。
俺は微糖を押した。落ちてきたのを取って、口を開けた。
缶は冷えていて、持っている側の手のひらが先に濡れた。濡れたのは水滴で、拭くところが無いのでズボンにつけた。つけたところが、色の濃い丸になって残った。
真ん中の機械の前に、社員の人が一人立っていた。立って、選ばないで、そのまま行った。
◇
「高町さん」
後ろから声がした。
◇
振り返ったら、男の人が立っていた。
スーツを着ている。鞄を体の前で持っていて、持ち方が両手だった。
髪は短い。短いところに寝癖がついていて、そこだけ立っている。
鞄は角が丸くなっていて、持ち手のところの色が抜けていた。抜けているのは片方だけで、いつも同じ手で持つらしい。
靴は左のほうが汚れている。汚れは乾いていて、擦ると粉になって落ちそうだった。
◇
「週刊真相の、蜂谷と言います」
◇
俺は缶を持ったままだった。
持ったまま、何も言わなかった。名前を聞いて、誰なのかが分かるまでに三秒かかった。
◇
蜂谷さんは、鞄を持ち直した。
「事実確認は、しました。……足りなかったのは、認めます」
◇
俺は缶を左手に持ち替えた。
持ち替えて、右手を下ろした。下ろした先に、さっきの紙が三枚ある。三枚とも折らないで持っていたので、下の端が手のひらの汗で柔らかくなっていた。
◇
蜂谷さんは顔を上げた。
「あなたの顔、写真だと全部同じなんですよ。だから何とでも書ける」
◇
俺は言った。
「上のほうの階には、誰もいませんよ」
◇
蜂谷さんは、何も返さなかった。
返さないで、頭を下げた。下げた角度は深くて、下げているあいだに鞄が前へ滑った。滑った鞄を、下げたままの姿勢で押さえた。
押さえて、頭を上げて、自動ドアのほうへ歩いていった。
歩く途中で、床に貼ってある案内の矢印を踏んだ。踏んだところで一度立ち止まって、足元を見て、また歩きだした。
自動ドアは、出るときだけ二回に分けて開く。一度目で半分、少し止まって、残りが開く。
蜂谷さんは、一度目で半分開いたところで止まって、開ききってから出ていった。
◇
外の光が、ドアの開いた形のまま床に入ってきた。
入ってきた光は、ドアが閉まると床の途中で切れた。
切れた線の内側に、俺の靴の先が入っていた。入っていた側だけ、床の色が明るい。
◇
有本さんが受付の横から出てきた。
「高町さん、車、正面に着けてあります」
「電車でも帰れます」
「犬飼さんから、車と聞いています」
「はい」
「あと、昼のお弁当を後ろに置いてあります。二つあります」
「一つでいいです」
「一つは犬飼さんのですけど、犬飼さんはまだ上なので、たぶん高町さんが食べることになります」
「二つ食べていいですか」
「いいと思います。犬飼さん、車の中では食べないので」
「はい」
「中身は同じです。わたしが同じ店で二つ買いました」
有本さんは鞄の口を押さえて、正面のほうを指した。押さえた鞄は、空港のときより薄くなっている。中の紙は入れ替わったらしい。
指した先に、車が停まっている。ハザードが点いていて、点滅に合わせて、ガラスの外の柱の影が二回ずつ動いた。
◇
俺は缶の残りを飲んだ。
飲んで、空にして、自販機の横の箱に入れた。箱の口は缶の大きさより少し小さくて、押し込むと音がした。
押し込んだあと、箱の中で缶が下まで落ちる音がした。落ちた先には、ほかにも何本か入っているらしい。
◇
右手の紙を見た。
三枚のうち、持って帰るのは一枚だけだった。あとの二枚は、置いていっていいと言われた。
どれが持って帰るほうなのかは、上のほうに小さく印が打ってある。印は一枚にだけあった。
◇
俺は印のある一枚を上着の内側に入れた。
残りの二枚を揃えて、二つに折って、缶を入れた箱の隣の、紙を捨てるほうの箱に入れた。
二枚は箱の口のところで一度引っかかって、それから落ちた。
落ちる音はしなかった。中に紙がたまっているらしい。




