第146話 空港が埋まっていた
乗り継ぎの空港で四時間待った。
待つあいだ、椅子は硬いほうと柔らかいほうがあって、柔らかいほうは全部埋まっていた。俺は硬いほうに座った。座って、前を通る人の靴の音を聞いていた。
音の間隔が同じ人と、同じでない人がいる。同じでない人は、途中で必ず立ち止まった。
犬飼さんは向かいの列に座って、四時間のうち三時間半、紙を見ていた。残りの三十分は目を閉じていた。閉じているあいだも、膝の上の紙は落ちなかった。
売店で買ったものを二つに割って、片方を渡された。パンだった。島でも、ここでも、パンが出る。
◇
二本目の便に乗った。
窓側だった。窓側は一度座ると出にくいので、飲み物のときだけ通路側の人が立つ。立つ回数は三回だった。
毛布は膝の上に置いたまま、かけないでいた。かけると暑い。かけないと足が冷える。足の冷えるほうを選んだ。
前の席に小さい子がいて、途中で二回、椅子の隙間からこっちを覗いた。覗いて、目が合うと引っ込む。三回目は引っ込まないで、そのまま見ていた。
俺は見返した。子どもは自分の親のほうへ顔を戻して、何か言った。言われた親が振り返って、頭を下げた。
◇
六月二十九日、月曜日。
寝られなかった。
島を出たのは一昨日の朝で、船の時間が早かった。便に乗ったのは昨日で、そのあいだの一晩は港町の宿に泊まった。眠いのに、目を閉じると耳の奥で機体の音が大きくなる。
三度、目を閉じた。三度とも、閉じたまま起きていた。
食事が二回出た。一回目は肉で、二回目はパンと果物だった。果物は角の丸い四角に切ってあって、フォークで刺すと逃げる。逃げるので、指で取った。
◇
温かいタオルが配られた。
袋に入っていて、袋の口を指で裂いて出す。出したら思ったより熱くて、手のひらの上で二回持ち替えた。
顔を拭いて、畳んで、前の座席の背についている台の上に置いた。
◇
タオルが、掛けた覚えのない場所に掛かっていた。
◇
肘掛けの、通路と反対側の端だった。
畳んだはずのものが広がっていて、端が下へ垂れている。垂れた下に、鞄の口が開いていた。
(そこは俺の腕の場所だ)
人形は鞄の口の内側から、垂れたタオルの端を引っ張っていた。
(暑いのよ)
人形は引っ張るのをやめないで、体ごと後ろへ下がった。下がったぶんだけ、タオルが鞄の中へ入っていく。
(湿ってるぞ)
(知ってるわよ)
人形はタオルを半分まで引き込んで、そこで手を離した。離したタオルは、肘掛けの上に半分だけ残った。
俺はそれを取って、台の上に戻した。
◇
通路をはさんだ向こうの列に、三隅さんが座っていた。
同じ便だった。日本に用があるらしい。何の用かは聞いていない。
三隅さんは離陸してすぐに寝て、起きたのは食事のときだけだった。起きて、食べて、また寝た。
犬飼さんは二列前の通路側にいる。上から見ると、頭のてっぺんの髪が薄くなりかけているのが分かった。
◇
時計を二回直した。
一回目は乗り継ぎのところで、二回目は着く前だった。直すたびに、何時間ぶん動いたのかが分からなくなる。
窓の下は雲だった。雲の切れ目から、下が青く見えるところが一箇所だけあった。
高いところの雲は動かない。動かないように見えるだけで、下のほうの薄いやつは横へ流れていた。流れる速さは、機体の速さと同じ向きだった。
窓の縁に霜のようなものが付いていて、指で押すと消える。消えたところが、しばらくしてまた白くなった。
◇
降りた。
通路を歩いて、扉を出て、長い廊下を歩いた。廊下は動く床が付いていて、乗ると速い。乗らない人のほうが多かった。
俺は乗った。乗ったら、犬飼さんは乗らないで、横を歩いていた。同じ速さだった。
◇
入国の窓口は、列が七本あって、そのうち三本しか開いていなかった。
並んでいるあいだ、前の人が持っている書類の裏側の字が透けて見えた。読もうとしたが、逆さまだった。
窓口の人は俺の顔と、書類の写真を三回見比べた。三回見比べて、判を押した。判を押す前に、隣の窓口の人と一度目を合わせていた。
判は二回押された。一回目が薄かったらしい。二回目のほうは、紙の裏まで色が出ていた。
◇
荷物が出てくるのを待った。
回っている台の前に人が並ぶ。自分のが来るまで、他人のを何度も見送った。同じ形の黒いのが四つ続けて回ってきて、四つとも誰も取らなかった。
俺のスーツケースは、角が一つ潰れて帰ってきた。潰れた側に、紙のシールが二枚重ねて貼ってある。上のほうは剥がれかけていて、下のほうは行きに貼られたやつだった。
犬飼さんは自分のを先に取って、それから俺のを台から下ろした。下ろすときに、腰の入れ方が下手だった。
◇
「高町」
犬飼さんは荷物の上に手を置いた。
「はい」
「出たら、まっすぐ歩け。止まるな。呼ばれても止まるな」
「はい」
「有本が向こう側で待っている。俺が前を歩く。君はその後ろだ」
「はい」
犬飼さんは携帯を出して、画面を見た。見て、すぐにしまった。
しまってから、上着の前を閉めた。閉めて、袖口も直した。直した袖口の下から、腕時計の金具が出ていた。
時計は日本の時間に直してある。直したのは俺ではなく、犬飼さんが機内で自分のと一緒に直した。
◇
自動の扉が開いた。
◇
人がいた。
◇
扉の外は、柵で二列に区切られている。区切られた両側に、人が立っていた。
立っているだけではなくて、後ろにもいる。後ろの人は前の人の肩のあいだから顔を出していて、そのまた後ろの人は台の上に乗っていた。台は荷物を載せるためのもので、そこに靴のまま乗っていた。
柵の外の通路にも人がいた。通路の向こうの店の前にもいる。店の前の人は列に見えたが、店に用がある人ではないらしく、全員こっちを向いていた。
二階にもいた。二階は手すりのある吹き抜けで、そこに人が並んで、下を見下ろしている。手すりの上に腕を並べて載せているので、腕だけが横に長くつながって見えた。
柵の内側は空いている。空いているのは俺たちが通るところだけで、幅は一メートル半くらいだった。
床には矢印の貼り紙がしてある。貼ったばかりらしく、角がまだ浮いていない。
◇
便が混んでいる。
◇
声が上がった。
上がった声は俺の名前で、その次に上がったのも俺の名前だった。同じ言葉が別の場所から来ると、真ん中のあたりで一度重なって、そこで潰れる。
潰れた音は、島の拍手のときのと似ていた。似ているが、あれより硬い。
柵の外で、誰かが持っている紙が上がった。紙には字が書いてあって、俺の名前と、その下に丸い絵が描いてある。灯台の絵ではない。何の絵なのかは分からなかった。
その紙の隣で、別の紙が上がった。二枚目のほうが大きくて、一枚目が見えなくなった。見えなくなったほうの人が、紙を横へずらした。
◇
犬飼さんが前を歩いた。
歩幅が広い。広いので、俺は半歩ぶん急いだ。急いだところで、犬飼さんが右へ寄った。寄ったほうの柵が、人の重さで内側へ膨らんでいる。
空港の人が二人、膨らんだところを外から押し戻していた。押し戻しながら、片方が無線に何か言っている。
柵の脚が床の上を少しずつ滑っていた。滑った跡が、床に細い線になって残る。線は途中で曲がって、そこから先は二本に分かれていた。
犬飼さんは一度も後ろを見なかった。見ないで、右手だけを腰の高さで後ろへ出している。出した手は、俺の歩く幅を測っているらしかった。
◇
カメラが上がった。
上がったのは腕である。腕の先に携帯があって、それが一斉に上がった。上がった腕のあいだから、また名前が飛んできた。
俺は前を見て歩いた。
顔は動かない。腕は下ろしたままにした。
◇
有本さんが柱の陰に立っていた。
立って、両手で紙の束を持っていた。持ったまま、俺たちのほうへ来ようとして、人にぶつかって、一度止まった。
「高町さん、お帰りなさい。荷物、これ、あの、こっちです」
「はい」
「車はもう出口の近くまで回してあります。近くと言っても近くではなくて、この状況だと十分はかかると思います」
「はい」
「すみません、わたし、六時から並んでいたんですけど、六時にはもう人がいました」
有本さんは束を抱え直した。抱え直したら、上の一枚が落ちた。
落ちた紙を犬飼さんが拾って、有本さんに返した。返してから、有本さんの肩を押して、歩く向きを変えさせた。
「有本、紙は鞄に入れろ。ここで落とすと拾えない」
「入れます」
「それと、声は張るな。張ると、こっちを見る人間が増える」
有本さんは束を鞄に入れた。入れるときに、鞄の口の金具が引っかかって、二回やり直した。
「入りました」
「よし」
◇
三隅さんは、その手前で止まっていた。
こっちへ来ないで、少し離れたところに立っている。手荷物を片方の肩にかけて、もう片方の手を上げた。
「高町さん、わたしはここから電車です。荷物が少ないので」
「はい」
「向こうの人たちは、みんな、日本でこうなっているのを知りません。撮影のあいだ、誰も一度も言いませんでした」
三隅さんはそう言って歩きだした。歩きだして、一度振り返って、頭を下げた。
下げた高さは、島で会ったときより低かった。
◇
通路を抜けた。
抜けた先の広いところにも人がいて、そこは柵が無かった。柵が無いので、空港の人が三人、横に並んで壁を作っていた。
壁の三人は手をつないでいなかった。つないでいないのに、間隔が一定だった。前へ出ようとした人が一人いて、その人の前で真ん中の一人が半歩ずれた。ずれただけで、その人は下がった。
天井のほうで放送が流れている。放送は搭乗の案内で、こっちのことは何も言わない。言わないまま、二回繰り返された。
壁の外側で、女の人が両手を口の横に当てて何か叫んだ。叫んだ言葉は聞こえた。聞こえたが、意味が分からなかった。
俺の名前と、もう一つ、映画のほうの名前だった。
その人は映画の名前のほうを二度言った。二度目は一度目より短かった。短いほうに、隣の人が声を合わせた。
合った声は、俺のところまで来る前に、天井の高いところで散った。
◇
外へ出た。
外は暑い。島を出るときには上着が要った。ここでは要らなかった。要らないのに着たままだったので、汗をかいた。
六月の日本の空気は、鼻の奥に来る。
外の車寄せにも人がいた。ここは空港の外なので、柵も壁も無い。人は歩道の縁石の上に立っていて、立っている人の後ろに、また人がいた。
誰かが手を振った。振ったので、隣の人も振った。振っている人の数が、振っていない人の数より多くなったところで、車が来た。
◇
車に乗った。
後ろの席に俺と犬飼さん、前に有本さんが乗って、運転は事務所の人だった。
荷物は後ろに積んだ。積むときに、スーツケースの潰れた角が引っかかって、二回押し直した。
鞄は膝の上に置いた。置いたら、中で人形が横になった音がした。音は俺にしか聞こえない。
◇
窓の外を、まだ人が歩いていた。
歩いているのは空港の人で、こっちを見ていない。見ていないのに、車の横に二人ついて歩いてくれている。
車が出るまで、その二人は同じ速さで歩いた。
歩道の縁石の人たちは、車が動きだすと横へ流れた。流れた先で列が崩れて、崩れたところから何人かが走った。走った人は途中で止まって、携帯を上げた。
車は速度を上げなかった。上げないまま、次の角を曲がった。曲がったら、後ろの窓に何も映らなくなった。
◇
「昨日から、うちに三十一本入ってます」
有本さんが前の席から言った。
「何がですか」
「電話です。今朝のぶんは、まだ数えていません」
「はい」
「あと、戸倉さんから、水曜の会議に高町さんも入ってくださいと」
「いつですか」
「七月一日の水曜です。四階の会議室2です」
犬飼さんは横で目を閉じていた。閉じたまま、片手で膝を一度叩いた。
「戸倉が入れと言うなら、入る」
「はい」
「その日は昼をまたぐ。長くなる」
「昼はどうなりますか」
「知らん。だが、昼をまたぐと俺が言っただろう」
犬飼さんは目を開けないままだった。
叩いた音で、有本さんが前を向いた。前を向いてから、また半分こっちを向いて、口を開けて、閉じた。
開けたまま何も言わなかったので、犬飼さんが目を開けて、有本さんの後頭部のあたりを見た。有本さんは前を向き直した。
◇
眠かった。
眠いのに、車の窓の外が明るくて、目の奥が固い。島の光と違って、ここの光は上から来る。
俺は目を閉じた。閉じたら、一回だけ意識が落ちて、すぐ戻った。
戻ったときには、車はまだ同じところにいた。
前の席で、有本さんが窓を少し開けた。開けたら風が入って、鞄の中の紙の端が一斉に立った。立ったので、すぐ閉めた。
閉めたあとで、有本さんは膝の上の鞄を両手で押さえた。押さえたまま、しばらく前を見ていた。
運転の人が信号で止まるたびに、有本さんの肩が半拍先に動く。動いてから、車が止まった。
◇
「飯はどうしますか」
俺は言った。
犬飼さんは目を閉じたまま答えた。
「家に着いたら出る」
「何が出ますか」
「知らん」
「はい」
「君の母親に聞け。俺は聞いていない」
「聞きます」
「聞いたら、俺にも教えろ」
「犬飼さんも食いますか」
「食わん。だが、何が出るかは知っておきたい」
有本さんが前で笑った。笑ってから、口を押さえて、すぐに紙の束を見た。
◇
車が出口に着いた。
出口には棒が下りていて、その手前で一度止まる。運転の人が窓を開けて、機械に券を入れた。
入れたら、機械が短く鳴った。鳴ってから、券が上から半分だけ戻ってきて、運転の人がそれを抜いた。抜いた券は、そのまま運転席の脇の箱に落とされた。
◇
棒が上がった。
上がりきるのを待たないで、車は前に出た。上がっていく棒の下を、そのままくぐった。
くぐった先の道は空いていた。




