迫王姫 ~悪役令嬢奇譚~⑥
玉座の間。
それは王都の中心にある小島の中心にある、白亜に輝く王宮の中心にある部屋。
大陸一円に勢力を拡大した大国・ラビリシアの中枢だった。
月明かりも出ていない王宮の廊下を駆け、宮殿の中心へ。
焦燥に駆られる心臓が、走っているのとは別の理由で早鐘を打った。
なんとか間に合ってくれ――そう願いながらドアを開き、玉座の間につながる廊下に飛び出した私たちは、そこで立ちすくんだ。
地面に転がった二人の衛兵。
二人とも苦しそうな呻き声を上げながら顔を抑えている。
そのうちの一人を、アンリエッタが素早く駆け寄って抱え起こした。
「もし、大丈夫ですか? 何がありました?」
顔をしたたかに打たれたらしい兵士は、まだ止まっていない鼻血を流しながら呻いた。
「ジークハルト殿下が……玉座の間に……」
ジークハルトは本気だ――私はそう思った。
ああ見えて責任感ある男が、臣下である兵士を打ち、押し通った事実。
ディートリッヒから命令されている以上、最初から素通りさせてくれるとは思っていなかったのだろう。
それでも――私にとってはジークハルトが部下に手を上げた事自体、信じられない話だった。
「アンリエッタ、二人をお願い!」
はい! と頷いたアンリエッタに彼らを任せ、私たちは廊下の奥へと走った。
目指すのは、廊下の突き当り、玉座の間につながる荘厳な扉。
外鍵のない巨大な扉は、外に向かって開かないよう、鎖で閉ざされていた形跡があった。
その鎖は両方とも外されている。
遅かった、ジークハルトは――既に中にいる。
扉の前に駆け寄った私は、豪華なレリーフが施された手すりを握り閉め、一息に開け放った。
「ジークハルト殿下っ!」
私は叫びながら、玉座の間に駆け込んだ。
途端に、むっ――と香ってきたのは、濃い血の匂いと腐敗臭だった。
思わず顔をそむけた私は、その瘴気の中に佇む一人の長身を見た。
「エレーナ――!?」
はっとこちらを振り向いたジークハルトの手には――抜き身の宝剣がぶら下げられている。
その宝剣はどす黒い血に塗れ、鋒から黒い血が滴っている。
そしてその足元に広がった血溜まりの中に転がる――首と胴体が離れた死体。
「ジークハルト君……!」
クラウス司祭が、絶望したように大声を上げた。
ジークハルトは、まるで手痛い失敗を見られたかのように、クラウス司祭から視線を外して俯いた。
遅かった――苦い悔恨を感じたのも一瞬のことだった。
一瞬空っぽになった頭にむらむらと湧き上がってきたのは、怒りだった。
私は、血溜まりの中に佇むジークハルトにツカツカと歩み寄った。
そして、頭ひとつ分は高いジークハルトの顔を無言で見上げた。
「エレーナ、これは――違うんだ。僕は……!」
彼がなにか言う前に、私は無言でジークハルトの頬を平手で張り飛ばした。
この一発は予想外だったのだろう。
躱すこともなく張り飛ばされた長身が大きく傾いだ。
「――あれほど、今日は療養しろと申し上げましたのに」
私の中に、また正体不明の感情が沸き起こってきた。
頬を張られたまま何も言わないジークハルトに、私の声が震えてきた。
「殿下、これは裏切りですわ。婚約者である私に対する、何よりも酷い裏切りです。私は殿下に失望いたしました。無力な女だと思わないでくれと言った私の言葉は――残念ながら届いていなかったようですわね」
「私」はジークハルトに容赦なく辛辣な言葉を浴びせた。
それは高柳千鶴ではない、エレーナの心から発した言葉だった。
ジークハルトが、俯きながら言った。
「――すまない」
「もう結構です。殿下、やってしまったことは仕方がありませんわ」
私は一方的に話を打ち切り、そこに転がった遺体を見た。
既に人間のそれではないだろう、どす黒い血の色。
国王が既にゾンビ化していたという私たちの予想は当たっていたようだ。
「ジークハルト君、エレーナ君」
遠慮がちに声をかけてきたのは、クラウス司祭だった。
クラウス司祭は、しばらくジークハルトを見つめた。
その翡翠色の目に浮かんでいるのは、怒りでも憤りでもない。
それは悲しみ――ジークハルトが自分と同じ存在に堕ちてしまったことへの、深い哀れみの視線だった。
だがそれも一瞬の事、クラウス司祭の目から感情が消え、後には凍りついように冷静な表情が戻った。
「――一応、御身を隠そう。何か布はあるかな。決して遺体に触ってはいけないよ。感染の危険があるからね」
事務的な口調とともにいい、しゃがんで遺体を検めようとしたクラウス司祭に、ジークハルトが顔を上げた。
「違うんだ、クラウス司祭」
その声の鋭さに、クラウス司祭だけでなく、私もはっとした。
ジークハルトは絶望が色濃く混じった目で、足元の遺体を見た。
「これは父じゃない」
「は――」
「これは名前もわからない平民の死体だ。服装も違う」
そう言われて、私も遺体を見た。
確かに、その服は簡素なチュニックを着ている。
どう見ても国王の召し物とは思えない、粗雑な服だった。
「僕の父は――あそこにいる」
そう言って、ジークハルトは部屋の奥を見た。
彼に促されて玉座の間の奥に目を凝らした私たちは――そこで驚きの声を上げた。
玉座の間に座ったまま項垂れる男。
その足元を汚しているのは、血溜まりだっただろうか。
もはや事切れているらしいその男の胸に――一振りの剣が突き立てられていた。
「な、なんだよこりゃあ……!?」
コンラッドが悲鳴のような声を上げた。
クラウス司祭も息を呑んだ後、慌てたように玉座に駆け寄り、遺体を見た。
「これは一体どういうことだ……」
クラウス司祭が混乱したように遺体を眺め降ろした。
「遺体が、遺体が腐敗している……! 血も乾いて……! これじゃあ何週間も前に……!」
「何週間も前に殺されていたんだよ、父は」
ジークハルトは低く言い放った。
私は俯いたままのジークハルトの顔を見上げた。
「殿下……?」
「――正直、僕も驚いたよ。だが上等な手段だと思わないか? この状況下だ。王宮に転がる死体がひとつ増えたところで――誰も気に留めはしない」
まさか。
私の心の底を、黒い直感が冷やした。
「――全く、どうしようもない男だった。母をいびり、自殺に追い込んで、僕らさえ玉座から遠ざけようとした卑劣漢だった。化け物になったならいの一番に僕が首を刎ねてやろうと思っていたのに……」
ジークハルトは顔を上げ、玉座で事切れたままの王を見た。
その目には強い憎しみが込められていて――光のない玉座の間でも異様にぎらついて見えた。
ジークハルトは、そこでフッと鼻を鳴らした。
「だが、見ての通りこれをやったのは僕じゃない。残念だが父は何週間も前に何者かによって既に弑逆されていた。ここにいたのは王宮には縁もゆかりもない人間のゾンビだ。そして国王の御身は清められることもなく、腐るまま打ち捨てられてここにある。一体誰の仕業だと思う?」
まさか。
私の心に、再び黒い靄が広がった。
玉座の間に自由に出入りができる人物。
そして――その玉座の間を鎖し、誰も近づくなと命令できる人物。
ジークハルトと同じく、父である国王に深い恨みを持つだろう人物。
まさか、あの男が?
私の額に冷や汗が滲んだ。
あんなに兄を慕っていたのに。
あんなに人畜無害に見えるのに。
「おい、よせよ。まさか――!」
同じ結論を想像したらしいコンラッドが、ジークハルトの肩に手をかけた、その途端だった。
玉座の間の扉が勢いよく開かれる音が発した。
私たちが弾かれたように見ると、重武装の兵士がぞろぞろと入ってきた。
「全員、そこを動くな」
――ディートリッヒ。
私は驚愕の目でディートリッヒを見つめた。
ディートリッヒは、玉座の間の中心で、私たちを順にゆっくりと眺めた。
ジークハルトが進み出て、集団の先頭にいるディートリッヒと向かい合った。
「ディートリッヒ、これをやったのは君だな?」
その声の冷たさに、私の心臓が跳ね上がった。
コンラッドも、クラウス司祭も、驚愕の目でディートリッヒを見ている。
質問には答えず、ディートリッヒは静かに言った。
「兄上が学園から生きて帰ったのは誤算でした。学院でとっくに化け物に襲われて死んだと思っていたのに――ナルフィへは死体を確認しに行ったつもりでした。だが死んではいなかった。僕も悩みましたよ。どのように兄上を処理すべきか随分悩みました」
ディートリッヒは薄笑みを浮かべて言った。
「ですから小芝居を打たせていただきました。玉座の間に化け物を放り込み、父がそうなったと思わせる。兄上なら喜んで化け物になった父の首を刎ねるだろう――そう信じて正解だったようですね?」
凄いでしょう?
ディートリッヒは褒めてほしそうに微笑んだ。
ジークハルトは眉さえ動かさずにディートリッヒを睨んだ。
「正直言えば、僕も半信半疑だったよ。この宮殿の守りは鉄壁だ。玉座の間から四六時中離れなかったあの男が、化け物に噛まれて怪物化したなんて考えられないからね。僕はここに真相を確かめに来たんだ。でもまぁ――君が先手を打って王を弑逆していたのは予想外だったけれどね」
「弑逆? いいえ、国王陛下を弑逆したのはあなたですよ、兄上」
ディートリッヒは冷たく言い放った。
「ね、ねぇディートリッヒ、嘘でしょう……?」
私は、震える声でディートリッヒに言った。
そうだ、絶対にこれは間違いだ。
だって《琥珀のエルミタージュ》のルートでも、こんなイベントはなかった。
ディートリッヒは兄であるジークハルトを崇拝しているはずで、裏切るどころか嘘もついたことはない。
それが私の知りうる限りのディートリッヒという青年なのだから。
「これはなにかの間違い、そうよね? あなたがこんな事をするはずない。だってあなたは――!」
「よせよ、エレーナ。何を言っても無駄だよ」
ジークハルトが私を止めた。
ジークハルトは、射殺すような視線でディートリッヒを見ている。
「ずっとわかっていたさ。いつかこうなるだろうことをね。君は父上と一緒で腹芸が下手なんだよ、ディートリッヒ。そこだけはあのクズに似て正解だったんじゃないか?」
ディートリッヒは顔を引き攣らせた。
「おや、そうでしたか。今の今まで迫真の演技だったと思っていたのですがね――愛しい兄上」
そう言って、ディートリッヒは頬を右手で撫でながら、嗤った。
その笑みは今まで見たことがないほどに不気味な微笑み――。
まるで長年の演技が顔に貼り付いて取れなくなったような――不気味な笑顔だった。
ああ、この顔は違う――。
私は不思議に納得した。
これはゲーム中に見たディートリッヒの顔ではない。
ゲームのキャラが、こんなにも不気味で不自然な笑みを浮かべるはずがない。
今目の前にいるのはゲームのキャラではなく――父を、そして今まさに兄をも裏切ろうとする、人間そのものの目なのだと。
ひとしきり頬を撫でたディートリッヒは、笑みを消して静かに言った。
「ジークハルト・フォン・ラビリシアン第一王子、並びに共犯者一同。国王アーンゲール・フォン・ラビリシアン十三世を弑逆奉った容疑で拘束する! いざ神妙に縛につくがよい!」
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