迫王姫 ~悪役令嬢奇譚~②
ハァ、と私はベッドの上でため息をついた。
この一週間、私は何をしただろうか。
クラウス司祭の資料集めを手伝って。
コンラッドに軍隊格闘を習って。
リオンにちょくちょく差し入れをもらって。
アンリエッタとお話をして。
もう王都に来て二週間だが、相変わらず私たちは宮殿内に缶詰になったままだ。
相変わらずクラウス司祭はエルフと接触する方法を探っているらしい。
だが、正直それが上手く行っているとは言い難いらしい。
何も聞かずとも、本にかじりついている顔を見ればわかった。
クラウス司祭の眉間の皺は、日に日に深くなっていっていた。
土台、エルフなんて実在が疑わしい種族と接触しようというのだ。
その方法を探るのは、やはり容易なことではないだろう。
そもそも、エルフの実在を疑っていないのはクラウス司祭だけなのだ。
周りの召喚師たちや魔術師たちだって、エルフについては何も知識はないらしい。
私はひとつ寝返りを打った。
ここの来たときは丸かった月が、今やすっかりと欠けていた。
このまま、肉食系腐男子の対処方法が見つからなかった場合。
この世界はどうなるのだろう。
肉食系腐男子たちは、今この瞬間にも世界に広がりつつある。
今やほとんど全ての動植物がゾンビ化し、我が物顔で地上を這い回るようになっていたとしたら。
そうなれば、もうアンリエッタの白の治癒魔法が完成したとしても、世界はおしまいだろう。
わからないのは残り時間なのだ。
本当に、エルフとの接触に活路があるのだろうか――。
釈然としない思いに私が何度目かの寝返りを打った、その瞬間だった。
コンコン、というドアのノック音と共に、小さく潜めた声が聞こえた。
「エレーナ、起きてるかい?」
ジークハルトの声ー―。
私は目を見開き、ベッドから飛び起きた。
慌ててサンダルをつっかけ、部屋のドアに駆け寄った。
「殿下、殿下ですわね?」
「あぁ、そうだよエレーナ。遅い時間に済まない、ちょっと話したいことがあるんだけどいいかい?」
いいも悪いもない。
私は慌ててドアの内鍵を開け、ドアを開けた。
「殿下――」
月明かりに照らされたジークハルトの顔。
その顔からはもはや、ジークハルトの面影が失われつつあった。
なんて痛々しくやつれて――。
私が思わず顔を俯けると、ジークハルトが乾いた声で笑った。
「あはは、驚くのは無理もない、かな。このところちょっと痩せたから――」
ちょっと、どころではない。
今やジークハルトは立っているのが不思議な程の顔色だった。
「殿下、入ってください」
私が部屋の中に入ると、ジークハルトの足が縺れた。
うっ、と呻いてたたらを踏んだ長身を支えて、私は引きずるように部屋の中に入れた。
まるで介護老人のようなジークハルトをベッドに座らせて、私も横に座った。
しばらく、何も言えなかった。
私はジークハルトのやつれさ加減に驚き、言葉を失って。
ジークハルトはジークハルトで、何だか気恥ずかしそうに頭をかいたりしている。
「殿下、あの――」
「あぁ、済まないエレーナ。先に僕からいいかい?」
私が言葉を飲み込むと、ジークハルトが焦点の合わない目で言った。
「まずは謝罪させて欲しい。この二週間ほど、君と会えなかった。それどころか婚約者である君を追い出すような真似をしてしまって――本当に済まなかったと思っている」
ジークハルトが頭を下げてきた。
私は首を振った。
「いえ、私は気にしておりません……! 殿下、私が心配なのはあなた様の体調ですわ!」
私はジークハルトの手を取った。
いつもなら抵抗があるのに、そのときは何の嫌悪感もなかった。
握った手は冷たくて、水気がなく、骨がすぐそこにあるような気がした。
「こんなにお痩せになって――殿下、お願いですわ。一日でもいい、休養を摂ってくださいませ! 今あなたに倒れられては――!」
そう言うと、ジークハルトが笑った。
物凄く薄い、やっと口角を持ち上げたような笑みだった。
「そのことなんだけどね――僕も流石に侍医に諌められてしまってね。明日一日は公務を休むことにしたんだ。これでようやく、君と話ができる」
その一言に、私は心から安堵した。
やっと休む気になってくれた――そう思った途端だった。
私の心の中に、不思議な声が響いた。
『嬉しい、嬉しい――殿下が私を頼ってきてくれている――』
「えっ――?」
「エレーナ、どうしたんだい?」
「あ、いや、なんでも……」
そう言った途端だった。
私の手の甲の上に、ぴちゃ、と、何かの雫が滴った。
はっ、と、私は手を見た。
ジークハルトが泣いてる? そう思って顔を上げると、ジークハルトが不思議そうに私の顔を見た。
「エレーナ、どうして泣いてるの?」
泣いてる? 私が?
慌てて手を目にやると、私は確かに泣いていた。
なんで? 私には全く泣いているという感覚がない。
その感覚がないのに――驚いているうちにも、涙は後から後から溢れてきた。
『私の殿下がこんなに痩せている、なんて酷い、悲しい――』
また誰かの声が心の中に響き渡る。
私のジークハルト殿下。
この声は、まさかエレーナの声か――?
私は戸惑った。
私は十五歳で、前世の記憶――高柳千鶴の記憶を思い出した。
高柳千鶴という女は、確実にエレーナに転生したはずだ。
今は私がエレーナ・シャルロッテ・フォン・リヴレであり、他の誰でもないはずだった。
だったら――この感情は、涙は、声は、一体誰のものだ?
どう考えても、エレーナの意思が語りかけていて、涙を流しているとしか思えなかった。
「どっ、どうしたんだエレーナ? 何か悲しいことでも……」
ジークハルトは大慌てに慌てて私の肩を掴んだ。
涙を流したまま、私の口が動いた。
「殿下」
もう一度その手を取ると、愛しい気持ちが溢れて溢れて止まらなくなった。
ジークハルトが、はっとしたように私を見た。
『私』は、この人を愛している。
この人のためなら死んでもいいとさえ思うほどに。
でも、それは内なる私、高柳千鶴の感情ではない。
きっと私の中に眠るもう一人の――エレーナの感情だ。
「殿下、お願いです。お願いですからもっとご自愛ください」
『エレーナ』は、そう言った。
心からこの人を心配する感情が次々と沸き起こってくる。
「私は――殿下を心配しております。殿下が倒れられるのではないか、ここに来てからはそればかり考えておりました。私は――貴方の婚約者です。辛いときは私に何でもお話しください。貴方様が辛いときは私が側で支えます、ですから――どうか私を無力な女と思わないでください」
「私」は、エレーナの言葉と声で言った。
その言葉に、ジークハルトが優しく私を抱き締めてきた。
「エレーナ、すまなかった」
抱き締められて、私の心の中に、溢れんばかりの愛しさがこみ上げた。
私ではない誰かが、その温かさと安堵の中に溶けてゆくようだった。
「僕は君を心配させてしまった。僕は――君を、君やアンリエッタたちを救わなきゃいけない一心で――。でも、それが却って君たちを心配させた。すまない。いや、ごめん、ごめんよエレーナ」
ジークハルトの声が震え始めていた。
高柳千鶴も――その声や言葉を嫌がらずに聞いている。
いったい自分は今、エレーナなのか千鶴なのかわからなかった。
「エレーナ、今が踏ん張り時なんだ。僕はなんとしてでもこの国を、この世界を救ってみせる。そのためならどんな試練も乗り越えてみせるよ」
数秒の沈黙の後、ジークハルトは迷ったように言った。
「……でも、正直に言えば怖いんだ。本当に僕にその力があるのか。臣下たちは優秀で、理性的で、僕なんかとても敵わないぐらい……そんな彼らの期待を背負っていると思うと――不安なんだ。今すぐに倒れてしまいたいぐらい、不安で、怖くて――」
エレーナはジークハルトの背中を擦った。
思えば初めて聞くジークハルトの弱音に、エレーナが微笑んだ。
「大丈夫ですわ、殿下。殿下には私がついておりますから。たとえこの地上に二人だけになっても――私だけは殿下の味方です。安心して怖いとか辛いとか、弱音を吐いてください、ね?」
そう言うと、ジークハルトがぎゅっと、エレーナの身体を抱き締める力を強くした。
目が眩むぐらい、幸せと慈愛の気持ちが溢れてきた。
今この場で死んでしまってもいいと思うぐらい、エレーナは全身でジークハルトを感じていた。
どれだけそうしていただろう。
やがて、ジークハルトがぽつりと言った。
「――明日の晩、僕は父に会う」
その言葉に――。
私を支配していたエレーナが消え、代わりに「私」が舞い戻った。
誰にも聞かれないよう、ジークハルトは囁くように言った。
「アンリエッタから聞いた……クラウス司祭がエルフに接触しようとしていると。だが……どれだけ頑張っても……僕ら王家以外はエルフに接触できない。それが……彼らと、王家との、取り決めなんだ……」
一体何を言っている?
私は目だけを動かしてジークハルトを見た。
「おそらく……父は君たちが考えている通りになっているんだと思う。だが、彼らに接触するには……王の、父の証明が必要なんだ。決して……この事は誰にも言ってはいけないよ。彼らは……う……」
そこで、言葉が途切れた。
ジークハルトの身体から力が抜け、ずっしりと身体の重みが伸し掛かってきた。
私は慌ててベッドにジークハルトを横たえた。
予想通り、ジークハルトは静かな寝息を立てて眠っていた。
死んだように眠る、とはこういう事を言うのだろうか。
呼吸しているかどうか怪しいぐらい、深く眠り込んだようだ。
よほど疲れていたのだろう。
穏やかなジークハルトの寝顔を、私はゆっくりと撫でた。
不意に――ベッドにまた、涙が滴った。
それはエレーナの涙ではなく、高柳千鶴の涙だった。
《琥珀のエルミタージュ》では決して表に出さなかった、深い深い慈愛の感情。
それはただの政略結婚であり、愛のない婚約であるはずだった。
でも――エレーナは彼を心の底から愛していた。
高柳千鶴という人格から分離して、この身体を支配するほどに、強く――。
それなのに――エレーナは物語の最後で、彼に婚約を破棄され、国外に追放される。
こんなにも愛している男に裏切られ、引き裂かれ、一人ぼっちで放り出される。
こんなにも愛しているのに。
こんなにも想っているのに。
それなのに裏切られる。
そして引き裂かれる。
それがエレーナの『真実の終わり』なのか。
そうでなければ世界は崩壊してしまうというのか。
それが世界の望む結末だというのか。
エレーナはこの男のためなら、自分の命どころか、世界の命運さえ、引き換えにしてもいいと思っているだろうに。
頭がおかしくなりそうだった。
こんな理不尽、悲劇が、これからエレーナが経験することなのか。
私はジークハルトの寝顔を見ながら、声を押し殺して涙を流し続けた。
エレーナという一人の女性に対する、それは心からの同情と憐れみの涙だった。
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