第8話:蹂躙される聖域
学生たちは既に部活動も終え、夜の帳が下りた六王子の街に社会人が家路を急ぎ、ポケベルの電子音が小さく響く頃、大川輝澄はいつものように金山道場の古びた門を潜った。
女子更衣室で指定ブレザーを脱ぎ、同世代 の女子生徒から羨望の眼差しを受けるだろう空手家として洗練された肉体に、手慣れた動作で真っ白な空手着の袖を通す。
実力は既に師範代クラスとされる彼女は、黒帯をキュッと小気味よい音を立ててきつく締めた。
鏡の前で、普段のロングボブの髪を動きやすいよう高い位置でお気に入りの緋色のリボンを使いポニーテールに結い直すと、彼女の表情は可憐な女子高生のそれから、武道家としての凛としたものへと完全に切り替わった。
道場へと向かう、使い込まれた板張りの廊下で、下級生たちのひそひそと囁き合う不安げな声が耳に届く。
「ねえ、聞いた? 最近、この六王子近所の道場を片っ端から襲ってる質の悪い連中がいるんだって」
「知ってる。昨日はあそこの柔道教室が被害にあったらしいよ。全員ボコボコにされて、道場の看板まで戦利品みたいに持っていかれたって……」
「ウチの道場も危ないかもね……よりによって、今日は金山先生も不在だし。なんか怖いな」
輝澄はその会話を聞きながら、少しだけ美しい眉をひそめた。
今日は師である金山和弘先生が他県での会議で留守であることを思い出し、いつもより道場生が少なく静かな理由を悟る。
胸によぎった不吉な不安を打ち消すように、軽く足踏みをして黒光りする板間の確かな感触を確かめると、輝澄は道場の中央へと真っ直ぐ歩み出た。
「みんな、お喋りしてないで稽古始めよ! 先生がいない時こそ、私たちが気を引き締めなきゃ」
輝澄の凛とした号令に、気の緩んでいた道場生たちが慌てて整列する。
彼女はまず、基本である『平安』(松濤館では「へいあん」。他流派では「ピンアン」とも呼ぶ)の形を確認した後、先輩である武智を自由組手の相手に指名した。
武智は寸分の狂いもない型稽古においては輝澄を凌ぐ精密さを見せるが、いざ間合いの奪い合いとなる実戦的な組手となると、皮膚一枚で威力を浸透させる伝統派の勘を養いつつある輝澄の方に圧倒的に分があった。
「……参った。相変わらず、女子のスピードじゃないな」
武智が、自身の鼻先1ミリで完全にコントロール(寸止め)された輝澄の突きを前に、苦笑いを浮かべたその時だった。
――ドォォン!
道場の入り口にある、頑丈な木製の引き戸が暴力的な衝撃によって文字通り蹴り破られた。
外の生暖かい夜風と共に、土足のまま板間に踏み込んできたのは5人の不気味な影。
先頭に立つ富田英次は、1995年当時に不良たちの間で流行していた派手なブランド物のジャージを羽織り、ポケットに手を突っ込んで下劣で不敵な笑みを浮かべていた。
他の4人も同様に、どこかゆったりとした袖の長いストリートウェアや、厚手のフライトジャケットを着用している。
いくら夜風があるとはいえ、既に春の陽気から初夏の匂いが感じられる5月の季節にしては、あまりにも不自然で防護性の高すぎる恰好だ。
「……んだよ、今日はジジイは留守か。まあいい、看板を貰いに来たぜ。伝統派の『寸止め空手』とやらが、ストリートの命の削り合いでどこまで通用するか、試してやろうじゃねえか」
英次は、あくまで「力試しの道場破り」を装う不遜な態度で、顎を突き出しながら輝澄たちの前に立ちはだかった。
松濤館流の古き悪癖と伝統を受け継ぐ金山道場は、もともと地域でも武闘派として知られており、道場破りの申し出を拒むことはしない。
襲撃であれ何であれ、売られた喧嘩を受けるのが武人の礼儀であるという空気がそこにはあった。
「今日は大人だけの練習で、少年部の子供たちがいないのがせめてもの救いね……」
輝澄は、背後に控える一般の道場生たちを庇うようにしなやかな身体で一歩前へ出たが、それを無骨な手で制したのは先輩の武智だった。
「輝澄ちゃん、ここは男の俺に任せておけ……おい、あんたたちの相手は俺がしてやる」
道場破りの一団から先鋒として獰猛に名乗りを上げたのは、シゲルという名の、これまた不自然に袖の長い黒いスウェットを着た男だった。
「へへっ、よろしく頼むぜ、空手の先輩」
二人が照明に照らされた黒光りする板間の上で対峙する。
一瞬の静寂の中、先に金山空手のスピードを見せたのは武智だった。
「はあっ!」
鋭い前足の踏み込みと共に放たれたのは、彼の得意とする腰の回転を利かせた上段回し蹴り。
だが、シゲルはそれを避ける素振りも見せず、長い袖に覆われた両腕を交差させてガードの体勢を取る。
(入った……!)
防御越しにでも相手の頭蓋を揺らす、完璧なタイミングと軌道の蹴り。
しかし、次の瞬間、まるで獣のような凄惨な激痛に声を上げたのは、攻撃を仕掛けたはずの武智の方だった。
「がああああッ!?」
本作のメインヒロインである大川輝澄。格闘スタイルは松濤館空手になります。
いずれ作中にも記載されますが、空手と一言で言っても、本当に世界中にいろいろなスタイルがあり、最も多様性のある武道かもしれません。
大きく分けて、伝統派の寸止め空手と、極真空手などのフルコンタクト空手に分かれますが、そこからも顔面攻撃の扱いや防具の有無など、ほんとうにルールが多岐に分かれてきます。
伝統派空手も、本土のものと、沖縄のものとでまた分かれます。
ある種、そんな空手を代表して本作のヒロインを務めるのが輝澄です。
伝統派と言われる空手の中で最も世界的に普及しているのが、輝澄の使う松濤館空手で、素早く距離を詰めて一撃を叩き込むスタイルですね。
輝澄の師匠にあたる金山和弘は、直接登場する機会はほとんどありませんが、まあそのモデルは分かる人にはすぐに分かると思います。
モデルとなっている先生が蹴りを得意としたこともあり、輝澄も蹴りを得意とするキャラとなっています。物語が進んでいく中で、他流派の影響も受けていきます。
メタ的に言えば志馬が成長するために……ストーリー的には正義感の強さとルックスの良さから……敵に目をつけられる可哀想な立ち位置ではありますが、そんな逆境を糧に成長していく、みんなに好かれる明るく可愛い女の子として描いたつもりです。
https://kakuyomu.jp/my/news/2912051603875288610




