第7話:極限空手 最強の襲来②
前回の『疾風』は、本能が勝手に発動した奇跡に過ぎなかったが、死線を感知した今、志馬の野生は再び、本能で天魔理心流の再現を試みようとしていた。
その刹那、川住の特定の位置の眼光が、獲物を見つけた猛獣のように鋭く変わる。
志馬の内に眠る、血塗られた「天魔の獣」の胎動を、全日本王者の格闘家としての本能が完全に捉えたのだ。
「そこまでだ、尊!」
その瞬間、武道場の入り口の引き戸が激しく開き、轟音のような野太い声が響き渡った。
現れたのは、川住をさらに一回り上回る180センチオーバーの巨漢、極限空手の重鎮・巻田健一だった。
「世界大会を直前に控えている最高位の身で、こんな高校の道場で何をしている。今の君のガチの一撃を素人が受ければ、取り返しのつかない大事故になるぞ」
「……巻田先輩」
川住は、志馬の鼻先数センチで完全にコントロールされた拳を静かに収めた。
彼は一度だけ志馬のポケットの中の右拳を見つめ、それからニヤリと、どこか楽しげに口角を上げた。
「……すまない。つい、私の格闘家としての本能が、この少年の内にいる『正体』を確かめたがってしまったようだ」
「帰るぞ、尊。稽古の時間だ」
巻田に促され、川住は道場を去ろうと歩き出す。
一瞬だけ志馬の横を通り過ぎる際、彼はその鋭い眼光を驚くほど和らげ、少年にだけ聞こえる声で囁いた。
「……如月くん。君のその凄まじい拳は、まだ君の現在の『身の丈』に合っていない。だが――久しぶりに、面白いものを見せてもらったよ」
川住は一度足を止め、志馬の目を真っ直ぐに見据えて続けた。
「万全の君と、もう一度戦ってみたい……その右腕が完全に治ったら、いつでもうちの総本部道場に遊びに来てくれ。歓迎するよ」
「……っ、あ、はい……」
嵐のような規格外の威圧感が去り、志馬はその場にどさりとへたり込んだ。
背中の紺色の制服ブレザーが、冷や汗でぐっしょりと張り付いている。
そんな無様な志馬を、壁際から歩み寄ってきた零緒が、凍りつくような冷たい目で見下ろしていた。
「如月……今の闘いで確信したぜ。やはり、お前の右拳は、すでに実戦じゃ死んでるな」
零緒は志馬の耳元に顔を寄せ、周囲の上級生たちに聞こえない低い声で、しかし鉄のように重く告げた。
「だが、お前は天魔理心流の使い手だ。かつて我が先祖、星貞吉と血で血を洗う因縁を紡いだ……呪われた一族の血脈だ。お前がその折れた腕を治し、本気で俺とやり合うまで、俺はどんな手を使ってでもお前に付きまとうからな」
零緒が圧倒的な余裕と王者の風格を漂わせながら去っていくのと入れ違いに、廊下の向こうからバタバタと騒がしいローファーの足音が近づいてきた。
「志馬! 奨! 大丈夫!?」
木製の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、大川輝澄だった。
肩口のボブカットの髪を激しく揺らしながら、彼女は道場のただならぬ空気と、床にへたり込む志馬、そして去りゆく巻田と川住の大きな背中を交互に見て、限界まで目を見開いた。
「えええええっ!? 今の、今のってもしかして……極限空手の川住尊と巻田健一じゃないの!? 本物!? 格闘技雑誌の表紙の二人が、なんでここにいるのよ!?」
「あ、ああ……なんか、新入生勧誘の流れで、川住さんと志馬が少し立ち合うことになっちゃって……」
奨が眼鏡を押し上げながら説明するのを完全に遮って、輝澄は両手で頭を抱えて悶絶した。
「嘘でしょー! 最強の二人が並んで歩いてるところなんて、めったに見られないんだからね! ああーっ、もっと早く登校するんだったー!! 志馬のバカ、なんでポケベルで呼んでくれないのよー!!」
「……知るかよ。こっちはマジで死ぬかと思ったんだぞ」
志馬は呆れ果てながら、痛む右手をブレザーの陰に隠してフンと鼻を鳴らした。
だが、彼の視線の先には、先ほど零緒が残していった「天魔理心流の因縁」という宿命の言葉が、鉛のように重く横たわっている。
「天魔理心流……兄貴も、これを知ってたのか?」
志馬の脳裏に、かつて父・丈が、失踪した兄・龍鷹を深夜の道場で厳しく指導していた断片的な光景が、骨の痛みとともに白黒のノイズとなってフラッシュバックした。
今振り返れば、あの五月の少し汗ばむ放課後の道場は、僕たちの世界の静かな地殻変動の始まりだったんだ。
志馬は自らの右手に宿った呪わしい「破壊の力」を呪い、零緒はその力を柳生心眼流で「壊す」ことに狂気的な執念を燃やし、そして輝澄はただ純粋に、武の頂に立つ者たちの眩しい背中を追いかけていた。
それぞれの想いは、1995年の混沌とした空気の中でまだバラバラで、どこへ向かうのかさえ、僕たちには誰も分からなかったけれど。
ただ、志馬が自分の内側に眠る「天魔」という名の凶暴な獣の存在を、初めて明確に意識したのがあの日だったことは間違いない。
ブレザーのポケットの中で小刻みに震え続ける、ヒビの入った志馬の右手。
それを見つめていた僕の胸には、大切な親友が、ここではないどこか遠い、血生臭い奈落へ連れ去られてしまうような、得体の知れない冷たい不安が確実に芽生えていたんだ。
僕たちの、あまりに青く、そしてあまりに危うい季節は、その歩みを狂おしい速度で早めようとしていた。




