第5話:天魔の因縁
誠修館高校・昼休み。校内には、女子生徒たちのルーズソックスが擦れる音や、お弁当を広げる騒がしい声が響いている。
「……っ、つう……」
志馬は、誰も来ない屋上へと続く階段の踊り場で、右手に巻かれた白い包帯を歯で噛みながらきつく巻き直していた。
昨日、零緒を吹き飛ばした天魔理心流の『疾風』。
背中の広背筋から肩、肘、手首へと螺旋のエネルギーを爆発させるその技は、一切の本格的な訓練を受けていない志馬にとって、文字通りの諸刃の剣だった。
「なあ志馬……やっぱり、保健室か病院に行ったほうがいいって。それ、腫れ方が尋常じゃないよ」
隣で小太り眼鏡の水島奨が、青ざめた顔で薬局の袋から湿布を取り出しながらオロオロとしている。
「いいんだよ。下手に騒ぎになれば、昨日の喧嘩がバレる……クソ、一発殴るだけで自分の骨にヒビが入るなんて、割に合わねえだろ」
志馬はブレザーの襟元を緩め、自嘲気味に笑った。
『引導』の強制解放によって脳内麻薬が過剰分泌され、精神のリミッターが外れた肉体は、自らの骨組織の強度を超える数倍の筋出力を生み出してしまう。
結果、志馬の右拳の第2・第3中手骨には、自らの筋圧によって凄惨な亀裂が走っていた。
一方の零緒は、打撃の瞬間に柳生心眼流の防御歩法で打点をずらし、衝撃を逃がして致命傷を避けていた。
純粋な身体操作の練度、そして肉体の完成度において、志馬は今の段階では零緒の足元にも及んでいないのが残酷な現実だった。
「……逃げるぞ、奨」
部活勧誘の連中に見つかったら面倒だ。
腰に付けたポケベルのバイブレーションが鳴るのを無視し、志馬は痛む右手をポケットの奥に隠して立ち上がった。
だが、その唯一の逃げ道を塞ぐように、重い鉄製の非常階段の扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、右腕の負傷など微塵も感じさせない完璧な直立不動、そして昨日よりもさらに冷酷に研ぎ澄まされた「壊し屋」の眼光を纏った早乙女零緒だった。
ブレザーの袖からは、うっすらと黒い痣が覗いている。
「逃げ回ってんのか、如月」
零緒の瞳には、基礎体力で劣る志馬に対する明確な「見下し」と、しかしそれを遥かに上回るほどの、飢えた獣のような執念が宿っていた。
「零緒……悪いが、腕相撲なら後にしてくれ。今、忙しいんだ」
「惚けるな。……聞いたぜ、お前が何者か。その、肉体をねじ切る螺旋の技……天魔理心流だろう」
志馬の垂れ目の眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。
天魔理心流――彼にとっては、長く家の中でタブーとされてきた、呪わしい響きだ。
だが、その言葉が屋上の冷たい空気の中に発せられた瞬間、志馬のヒビが入っている右拳が、彼の心臓の鼓動と完全に同期して、ドクンドクンと熱く、激しく疼き始めた。
「俺の先祖、星貞吉はお前の流派に敗れた。だが、その因縁は今日、俺が受け取った。如月……ただ、肉体が不完全な今のお前に勝っても意味はない。お前のその拳が治るまで、待ってやる」
零緒は、懐から星家に一子相伝で伝わるという、煤けた「奥伝の巻物」を志馬の目の前に突きつけた。
「次は『疾風』なんて生温いもんは通じねえぞ。今のままのお前なら、隙間を突く指一本で十分だ。俺の柳生心眼流が、お前のその腐った血ごと、すべてを叩き壊してやる」
零緒は志馬のポケットの中で不自然に固定されている右腕を鋭く一瞥すると、圧倒的な優越感の気配を漂わせながら、無言で階段を下りて去っていった。
……
その日の夜。如月家のリビングには、数日ぶりに「長期出張」から帰宅した父・如月丈の、能天気なほど明るい大声が響いていた。
「ただいまー! いやあ、今回の九州も飯が旨くてさ。志馬、お前にも地鶏 の炭火焼き買ってきたぞ。これ食えば骨のヒビくらい一発で治るぜ!」
「……っ、親父。なんで俺の右手が折れかけてること知ってんだよ」
志馬は、左手で不器用にプラスチックの箸を動かしてカツ丼を口に運びながら、深く顔をしかめた。
丈はガハハと豪快に笑いながら、志馬の隣の畳にどっかと腰を下ろした。
「見りゃわかる。その腫れ方……お前、ついにやったな? 『引導』を強制解放しただろ!」
丈の瞳は、息子の私闘を怒るどころか、むしろ待ちわびた化物を目撃したかのようにギラギラと輝いていた。
「引導?……輝澄が下劣な輩にやられそうだったんだ。何が悪い? そもそも何なんだよ、あの頭が狂いそうになる力は?」
「はっはっは! 悪いなんて一言も言ってないだろう。むしろお手柄だ! それで、輝澄ちゃんとはどうなんだ? もうチューくらいしたのか? いやあ、あの子も可愛くなったもんなぁ。如月の嫁には勿体ないくらいだぞ」
「……茶化すなよ。そんなんじゃねえ」
顔を真っ赤にしてそっぽを向く志馬を笑い飛ばしながらも、丈の武術家としての鋭い視線は、息子の完全に破壊されている右拳の角度を冷徹に捉えていた。
志馬には全く自覚がないが、彼は12歳の時、丈が兄・龍鷹に『引導』の呼吸法を伝授していたのを壁の隙間から一度盗み見ただけで、その脳内麻薬解放の本質を完全に掴み取ってしまった、恐るべき天賦の才の持ち主だ。
丈は志馬を天魔理心流の後継者として育てたいと願う反面、その早すぎる才能の覚醒が、かつてあの凄惨な悲劇を引き起こしたことも忘れてはいない。
(……龍鷹のときは、俺が力を急がせすぎた。だが志馬、お前もやはり、天魔の呪われた血脈からは逃れられないということか……)
兄・龍鷹は、志馬の「ある罪」を背負う形で、4年前に家を出たまま今も行方不明だ。
志馬はその当時の凄惨な記憶を脳の奥底に封じ込めており、時折激しいフラッシュバックに襲われながらも、今は単に「兄貴は身勝手な家出をした」と思い込んでいる。
「……なあ親父。今日、学校で早乙女って奴に会った。俺の技を『天魔理心流』だって呼んで、星貞吉の因縁がどうこうって……」
丈の豪快な笑みが、わずかに消えた。
「早乙女? ……星の分家か何かか、現世代は知らんな。だが、その若さで星貞吉の奥伝の巻物を授かっているなら、柳生心眼流の歴史の中でも歴代屈指の実力者だろう」
丈はいつになく真剣な表情になり、志馬の目を真っ直ぐに見据えた。
「志馬。天魔理心流の因縁は、そんな星家くらいでは収まらないぞ。古くは戦国期の『天魔拳』の時代から、この流派は常に裏の歴史の影で畏怖され、忌み嫌われてきた。お前がそのリミッターの扉を開いた以上、もう『ただの普通の高校生』には戻れんぞ」
「……戻りたいってわけじゃねえが、俺はただ、普通の奴らみたいに静かに暮らしたいだけだ」
「なら、二度と拳は振るわんことだな。……だが、宿命ってのはいつだって向こうから勝手にやってくるもんだ。もし次、あのアブラギッシュな星の系譜とやり合うなら、その『壊れかけの右手』じゃ話にならんぞ」
丈は再びいつもの能天気なクソ親父の顔に戻り、志馬の頭を乱暴に撫で回した。
「まあ、とりあえず肉を食え! 明日は学校で、面白いことがあるかもしれんぞ?」
父のその言葉は不気味な予言のように、翌日の誠修館高校に吹き荒れる嵐を予感させていた。




