第55話:志馬vs零緒 決別の校舎裏
「……どうしたんだよ、零緒。今日は一段とピリついてるな」
志馬がいつものように脱力した軽口を叩こうとした、その刹那――零緒の地面を割るような踏み込みが爆発した。
「――ッ!」
志馬は反射的に腕を十文字に交差させ防御するが、零緒の放った凄まじい掌打は、物理的な衝撃以上に、志馬の心の慢心を激しく打ち砕く鋭さを持っていた。
(これは……天魔理心流の『疾風』!?)
瞬間的に距離を詰め、螺旋の勁力を叩き込むモーションそのものだった。
志馬が驚愕する間もなく、零緒はそこからさらに飛び上がっての鋭烈な旋風脚から、志馬の膝関節を正確に狙い撃ちした凄絶な後ろ蹴りを放つ。
(今度は飛龍爪脚!?)
零緒から息つく暇もなく続けざまに放たれる、天魔理心流の技に激しく驚愕する志馬。
かつて先祖である星貞吉が如月家の先祖と血で血を洗う刃を交え、自らの肉体に刻み込まされた天魔の超人的な身体操作の数々。それを打倒天魔の目的のために研究し尽くし、星家の一子相伝の裏の奥伝として遺した禁忌の技。
零緒が天魔理心流の技を使えるのは、その星貞吉が遺した血塗られた秘録、対天魔の術理を完璧に脳内と肉体に叩き込んできたからに他ならなかった。
そこからは一転して柳生心眼流特有の、丹田の力を伝える独自の「振り」を最大限に活かしてさらに距離を詰めつつ、中指を突出させた拳固での経絡突き、容赦のない肘打ちと、苛烈極まる連撃が志馬の肉体を襲う。
志馬は脳内麻薬を放出して『引導』を強制的に解放し、超人的な反応力で零緒の攻撃を受け流そうと試みるが、零緒の攻撃はどこまでも鋭かった。志馬の動く先、さらにその先を完全に読み切り、的確に死角を攻め立ててくる。
志馬は完全に防戦一方に追い込まれていた。
零緒は激しい攻防の中で志馬の足の甲をドスッと己の足で踏みつけて固定し、完全に退路を断つと、その無防備な胴体へ全体重を乗せた肘打ちを斜め下から打ち上げるように叩き込んだ。さらにはその勢いのまま、腕を跳ね上げるように強烈な掌底で志馬の顎を完全に突き上げた。
普通の人間ならこれ一発だけで確実に首の骨を折られ、戦闘不能に追い込まれるところだった。しかし、引導状態による志馬の驚異的な超反応が、何とか直撃のダメージを最小限に抑え込んでいる。
が、それでも肺を潰されたような激しい呼吸困難と、脳を揺らされた激しい脳震盪が志馬を襲い、ついに片膝をバタリとついて校舎裏の地面へ倒れ込む志馬。
「天魔理心流・天山……いまのお前は、その名前すら知りもしないらしいな……」
零緒が冷たく見下ろす。
「かつて拳法師・星貞吉が、天魔理心流との命がけの闘いの中で、克明に書き記した対抗の技を俺はすべて学んだ。もちろん、それを実戦で完全に破るための研鑽も積んでいる」
零緒の拳が、微かに引き締まる。
「拍子抜けだ……。志馬、貴様は『引導』という便利な麻薬の身体能力に頼ることで、武術としての流派の真髄を完全に見失っている。天魔理心流の本当の実力、その技の理合はこんなものではないはずだ」
零緒の暗い瞳の奥には、深い失望と、それを遥かに上回る強さへの「渇き」があった。
彼にとって、志馬とこれまで過ごしてきた穏やかな学園の時間は、この瞬間――互いの背負う流派が最高潮でぶつかり合い、どちらかが壊れる時のための、単なる前奏曲に過ぎなかったのだ。
「高校生活も、もう残り僅かだ。俺がこの両手で壊すと誓ったのは、いまの目の前にいる未完成でぬるい天魔じゃねえ。俺は、完全な修羅へと進化した『天魔』と闘いたい」
「……零緒……」
「今日限りで、お前との馴れ合いは終わりだ。一度だけ、首の皮一枚の猶予をやる。次に俺と拳を交わす時までに、本物の修羅になっておけ」
早乙女零緒は、倒れ込む志馬を一度も振り返ることなく、無情に背を向けた。
残された志馬は、地面についた自分のガタガタと震える拳をただ見つめ、突きつけられた敗北という現実の圧倒的な重さに、深く沈滅した。
かつての信頼できる友が、一人の冷徹な求道者へと完全につま先を立ち返らせ、自分を遥か後方に追い越して、昏い闇の先へと消えていく。
それは、これまで必死に守ってきた平穏な誠修館の日常が、ガラガラと大きな音を立てて完全に崩れ去った、決定的な瞬間だった。
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静まり返った校舎裏を去り、薄暗い校門を出た早乙女零緒の前に、まるで待ち伏せていたかのように一台の重厚な高級黒塗りセダンが静かに滑り込んできた。
後部座席のスモーク窓がゆっくりと下り、そこから冷ややかな、しかし心臓を掴むような異質な威圧感を放つ男が顔を出した。
「柳生心眼流……壊し屋の早乙女零緒だな。……反吐が出るほど狂った『いい目』をしているな」
男の名は、荒波冴門。元・誠修館学園の二期生だった男だ。
どこで身につけたのか、実戦用の冷徹極まる謎の軍隊式格闘術を操るが、あまりに素行が悪いために当時の1期生筆頭であった如月龍鷹に徹底的に粛清され、学園を退学させられた影の男。
「……何者だ」
零緒がピタリと足を止め、全身のバネをいつでも反撃できる山勢厳の構えへ移行できる気迫を解かぬまま、低く問い返す。
「俺は荒波冴門。今、この関東で最も熱く危険な風を吹かせている巨大組織……『関東灼嵐連合』の特別顧問だ」
そんな荒波に続けて、後ろに控えていた灼嵐の軍師ともいえるネクロマンサー・深見鋼が言った。
「お前のその奥底にある渇き、うちの総長なら一瞬で満たしてやれるよ」
「早乙女君。我々の連合総長・天野千舟は純粋な闘争のみを至高として愛する本物の天才だ。君が如月志馬という『未完成の脆い器』に心底失望しているのなら、我々の傘下へ来い。君が志馬を極限の極限まで追い詰め、最高の状態で完膚なきまでに壊すための、極上の『舞台』を私が用意しよう」
深見の眼鏡の奥の目が、怪しく光る。
零緒は荒波の身体から漂う、伝統的な古流武術とは正反対の、人間を効率よく殺すことだけを目的とした「近代軍隊式の殺意」を鋭く察知した。
そして、今の志馬との生温い「馴れ合い」を自らの手で完全に断ち切ったばかりの己の心臓が、微かにドクドクと昂ぶるのを感じていた。
「……誰と組もうが、知ったことじゃない。俺はただ、あの男が本当の『完成』を遂げた姿を、この手で徹底的に壊したいだけだ」
「ふっ、交渉成立だな」
荒波の歪んだ口角が、不気味に吊り上がった。
そして、零緒に聞こえないほどの小さな歪んだ声で、自らの内に向けて呟いた。
「如月龍鷹……てめぇが命がけで守りたかったこの生温い学園も、天魔理心流の目障りな残滓も、まとめて灼熱の嵐の中で灰すら残さず燃やし尽くしてやる」
こうして、志馬と時には背中を預けて共に闘った無二の戦友・早乙女零緒は、誠修館のすべてを焼き尽くそうとする巨大な灼熱の炎の側へと、自らその身を深く投じたのである。
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夕闇に完全に包まれた放課後の校門の前で、零緒を乗せた黒塗りのセダンがテールランプを赤く光らせ、静かに走り去っていくのを、僕――水島奨は、校舎の窓からじっと見ていた。
早乙女零緒という男は、いつだって不器用なまでにストイックだった。
彼が校舎裏で志馬に突きつけたあまりに手厳しい言葉は、かつての友としての甘い温情なんかじゃなく、一人の妥協を許さない武道家としての、残酷なまでの誠実さだったのだろう。
零緒は自ら進んで、灼熱の嵐が容赦なく吹き荒れる、引き返せない闇の側へと足を踏み入れた。
千鶴先輩が警告した、あの「二期生」の不気味な影が、天野千舟という悪魔的カリスマを伴って、すぐそこまで迫っていた。




