第56話:志馬 本格修行を開始
早乙女零緒に完敗を喫した、その夜。
遅めの帰宅をした志馬は帰宅するなり、居間で煎餅をかじりながら「ウッチャンナンチャンのウリナリ」を見ていた父・丈の前に、勢いよく両膝をついた。
ブレザーのネクタイを乱暴に引きちぎるように外し、怒りと悔しさで肩を激しく上下させている。
「親父……頼む! 俺を、天魔理心流の本当の継承者にしてくれ!」
志馬の悲痛な叫びに、丈は「おわっ!?」と煎餅の破片を畳の上に飛ばしながら仰け反った。
「なんだよ志馬、急に。大嫌いなワサビ漬けでも食べて頭でもやられたか? それともまたストラトなんちゃらの聴きすぎで北欧の風で脳細胞を凍らされたのか?」
「冗談言ってる場合じゃないんだ! 今日、零緒に負けた……。あいつ、俺が知らない天魔の技を使ってきやがった。今のままじゃ、俺は誰も守れないどころか、自分自身も制御できないんだ!」
志馬の切実な瞳を見て、丈はふっとおどけた表情を消した。
テレビのリモコンを操作して音を消すと、残った煎餅を一気に口に放り込み、ポリポリと重苦しい音を立てながら志馬を見つめる。
「……あーあ、ついにその日が来ちまったか。俺としては、お前には適当にメタル聴いて、適当に輝澄ちゃんとイチャついて、平和な『ワサビ人生』を送ってほしかったんだけどなぁ」
丈はよっこらしょ、と重い腰を上げて立ち上がると、急に志馬の目の前で片足立ちになり、フラミンゴのような奇妙なポーズをとった。
だらしのない格好に見えて、その軸足の親指は床板を強固に掴み、体幹は寸分のブレもなく垂直に立ち上がっている。
「でもな、志馬。俺が龍鷹の話をする前に覚悟を問うたのを覚えてるか? あの時から、俺は『そのつもり』だったんだよ。お前がこれまでやってきた站椿……じっと立ってるだけの、あの地味でクソつまんねぇ修行な」
「……ああ」
「あれ、ただの暇つぶしじゃねえんだ。天魔理心流の技ってのはな、身体のリミッターを外して馬鹿みたいな出力を出す。例えるなら、軽自動車のボディにF1のエンジンを積むようなもんだ。そのまま走ってみろ。一瞬でタイヤが飛んで車体がバラバラだろ? あのクソつまんねぇ立ち稽古は、お前の身体を『特製強化フレーム』に作り変えるための作業だったんだよ」
丈はひょい、と足を下ろすと、今度は志馬の鼻先で拳をブラブラと揺らした。
「いいか、志馬。お前がいままで『技』だと思って使ってたのは、龍鷹の修行を横で見てた『おままごと』だ。天賦の才だけでそれっぽく見えてたけど、武術のプロから見りゃ、箸の持ち方も知らねえ幼児がフォーク振り回してるようなもんなんだよ」
「……そこまで言うかよ」
「言うね! 呼吸一つ、歩法一つとっても、お前のは無駄だらけだ。急所を打つ角度だって、あと0.5ミリずれてりゃ今頃自分の手首がグシャっとなってたぜ。……今日から、その『おままごと』を卒業させてやる」
丈はニカッと、少年のような、それでいて残酷なほど自信に満ちた笑みを浮かべた。
「継承者への道は、今、始まったばかりだ。覚悟しろよ。明日からはプロレスごっこじゃ済まねえぞ。……ま、死にたくなきゃ、しっかり俺の背中を見とくんだな!」
そう言って丈は、再びテレビをつけて「おおっ、やっぱりブラビのビビアンちゃん可愛いなー!」と、いつものひょうきんな親父に戻ってしまった。
だが、その背中からは、今まで志馬が感じたことのない、巨大な「壁」のような威圧感が明確な密度をもって漂っていた。
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志馬が父・丈から「おままごと」を卒業させられていた頃。
放課後のゲームセンター『ハイテクランド』では、懐かしい重低音の電子音と1997年当時の熱気が立ち込める中、和雄は格闘ゲーム「DEAD OR ALIVE」の青い忍装束に身を包んだくノ一の水風船のように揺れる胸に心を奪われていたが、突如、筐体の前で冷や汗を流すことになった。
「ひ、ひえぇ……。な、何もカツアゲしなくてもいいじゃないですか。俺、今月はイエモンのライブビデオ買うつもりで……ここは平和的に、ラブラブしよう」
最近リリースされた新曲のタイトルをもじって、必死の冗談を言う和雄だが、派手な刺繍の入った特攻服を纏った二人組には効果がなさそうだった。
彼らの背中には、禍々しいフォントで『灼嵐』の文字が躍っている。
「誠修館のガキが、一丁前に格ゲーなんかしてんじゃねえよ。そのニヤけたツラにゲームじゃない本当の暴力を教えてやろうか?」
一人が和雄の胸ぐらを乱暴に掴み、強引に吊り上げようとした。
その瞬間。和雄の脳裏に、かつて子供の頃に道場で何となくしていた動きと、連日レンと繰り返してきた過酷な(主にラッキースケベによる)稽古の光景がフラッシュバックした。
「……なめるなよ。俺がレンちゃんのたわわな果実に触れようとして、これまで何度投げられたと思ってるんだ!」
まったくカッコよくない最低の啖呵を切り、和雄は掴まれた手を、正林寺拳法の法形『巻落』の要領で捕らえた。
「ガアッ!?」
端まれた男が想定外の関節の痛みに悲鳴を上げ、和雄は円を描くような滑らかな動きで、相手の巨体を床へと叩きつけた。
『巻落』は、正林寺拳法において胸倉を下から突き上げるように掴まれた際に相手を制する柔法の一つである。
胸ぐらを掴んできた相手の手首を親指の母指球からタイトに制し、そのまま自らの身体を沈めながら円を描くように相手の腕を螺旋に巻き込み、解剖学的な骨格の重心を完全に奪って投げる技だ。
「……あれ? 俺、もしかして……やっぱり天才?」
床に転がる男を見て、和雄は自分の両手を見つめた。
子供の頃に取得した正林寺拳法1級の素養と、レンへのラッキースケベ狙いの「実戦(?)」が、図らずも彼の身体に眠っていた柔法のキレを完璧に呼び覚ましていた。
だが、その大いなる勘違いは一瞬で打ち砕かれる。




