第53話:逆小手vs四方投げ
季節は初夏を終え、うだるような暑さと夏休みも近づいてきた7月。
この年の六王子は特に暑く、観測史上最高の39.9度を記録していた。
部活動の時間、熱気の籠もる空手道の道場の入り口に、スッと一本の凛とした冷たい空気が流れた。
大学の講義を終え、後輩たちの指導にふらりと立ち寄った神谷千鶴だ。
白の剣道着に濃紺の袴を身に纏い、黒髪ロングのポニーテールを高く結い上げたその立ち姿だけで、道場の喧騒が一瞬にして静まり返る。
「……あの人が、神谷千鶴先輩」
レンは、道着の裾を正した結手の姿勢で固まったまま、その人を凝視した。
輝澄がいつも語っていた「一度も勝てなかった壁」。
輝澄が深く尊敬し、解剖学的なリーチ差や筋力を超えた剣術・体術の真髄を持つその人は、想像していたよりもずっとしなやかで、しかし底の知れない漆黒の湖のような静謐さを纏っていた。
どちらが上というわけではなく、輝澄が周囲を照らす太陽のような元気さが売りだが、千鶴はすべてを包み込む月のような静けさを持っていた。
「大川さん、調子はどう? 随分実力を上げたみたいね……。以前よりも技の甘さが消えたんじゃない?」
千鶴の切れ上がった涼しげな視線が、照れ笑いしながら恐縮する輝澄の横にいるレンに止まる。
「あら、見ない顔ね」
レンは弾かれたように一歩前に出ると、顎を引き、一切の隙を見せない美しい合掌礼をビシッと決めた。
「一年の平坂恋です! 正林寺拳法二段です」
「正林寺拳法……。いい礼法ね」
千鶴は微かに口元を緩め、レンの立ち姿のバランスを観察するように目を細めた。
「力愛不二……だったかしら。あなたの拳からは、大川さんと同じ『守るための意志』を感じるわ」
「レンちゃん、せっかくだから一手ご指南していただいたら?」
輝澄の弾んだ言葉にレンがパッと目を輝かせる。
「いいんですか!?」
「いいわよ」
千鶴は少し意外そうに長い睫毛を揺らして目を瞬かせたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべ、スッと右手を伸ばすとレンの右手首を横から右手で掴んだ。
「平坂さん。……私を投げてみて?」
「失礼します……!」
レンは千鶴に手首を掴まれた状態から、自らの掌を返すとともに、左手の指を千鶴の右手の母指球に引っ掛け、手首の関節を極める正林寺拳法の代表的な柔法の一つ『逆小手』を電撃的に仕掛けた。
だが、千鶴の体軸は微塵も揺るがない。
それどころか、レンが渾身の力を込めた瞬間、その伝わった力そのものが底なしの渦に吸い込まれるように、ぬるりと反転した。
「え……っ!?」
次の瞬間、千鶴が絶妙な円運動で入り身し、体位を転換させる移動とともにレンの体がフワリと半回転し、肩と肘の関節が完全にロックされていた。
こうなるともう骨格構造上、抵抗はできずに重力に従って相手の円運動の軌道へと投げ落とされるしかない。
合気道の術理を体現した、千鶴の淀みない『四方投げ』がレンを完全に捉え、レンは必死の受け身で頭こそ辛うじて守ったものの、彼女の身体はバチィィンと凄まじい音を立てて床に叩きつけられていた。
その直後、千鶴は膝を滑らせて相手の腕をしっかりと床に固め、完璧に動きを封じることも忘れない。
「投げようとすると、その力の流れをそのまま相手に利用されることもある。最後は如何に相手に自分の気を悟らせないか……になるわね」
千鶴はスッと残心を解くと、優しくレンの手を取って床から立たせた。
「でもね……これは平坂さんが私を投げるタイミングを読みやすかったからできたとも言えるわ。正林寺拳法では、鋭い当て身(打撃)を入れて相手の意識を散らし、『虚』の状態にしてから投げると聞いているわ。それなら、私もこんなに簡単には返せなかった。自信を持っていいわよ、平坂さん」
「……はい! 勉強になります!」
レンは床の痛みに顔をしかめる悔しさよりも、千鶴が魅せた技の底知れない深淵に触れた感動で、丸い目をキラキラと輝かせた。
だが、千鶴の表情はふっと厳しい真剣なものへと戻り、道場に集まった面々――志馬、輝澄、和雄、真一、新入生のレンを順にじっと見渡した。
千鶴からすれば一般人の和雄は完全に余計な頭数であったかもしれないが……。
「実は、今日はみんなにどうしても伝えておきたいことがあって来たの」
千鶴はゆっくりと語り始めた。




