第51話:夕暮れ 河川敷の誓い
記憶のおぞましい濁流から、一人の武術家としての確かな覚悟を持って生還した志馬は、隣のベンチに静かに座る、輝澄の美しい横顔をそっと盗み見た。
夕暮れの河川敷。
ゆっくりと西の空に沈んでいく大きな夕日は、あの日、薄暗い路地裏のコンクリートを真っ赤に照らしたあの光の残響に、どこかとてもよく似ていた。
「わりぃな……急にこんな時間作ってもらって。どうしても、輝澄にだけは、今日のうちに話しておきたくてさ」
いつもと違う、志馬のどこか吹っ切れたような静かな声のトーンに、3年生の輝澄も、その大きな瞳を真剣な色に変えて真っ正面から答える。
「うん。いつになく真面目な顔をして、どうしたの?」
「実はよ、昨日、親父から全部聞いたんだ。……俺の兄貴が、6年前にこの家から急に消えた、本当の理由。……高校を卒業した後に急にいなくなったとか、そんな生易しい話じゃなかったんだ」
志馬の声は、夕暮れの川のせせらぎに溶けるように、どこまでも静かだった。
「輝澄は思い出したくもねぇだろうけど……。あの日、俺が輝澄を助けようとして……理性を完全に失って、あの男を半殺しにしちまった。それを……兄貴がすべて自分の罪にして、俺の代わりに消えたんだ」
志馬は、あの変質者の男が「死んだ」という冷徹な事実だけを、自らの胸の奥底に完全に飲み込んだ。
それは、今を懸命に生きている輝澄が背負うべき傷では決してない、と一人の男としてそう強く思ったからだ。
ましてや、男が死んだあと、龍鷹が最後の一押しとしてその首の骨を踏み砕いた――そんな凄絶な事実までは、彼女には決して伝えなかった。
それは志馬だけの、そして如月家の男たちだけが一生涯背負い続けるべき、血の宿命だったからだ。
「兄貴が自らのまっとうな人生をすべて棒に振ってまで、俺のこれからの未来を守ってくれたんなら……。俺はもう、自分の我が家の血の宿命から逃げちゃいけないんだ。いつか必ずこの世界の裏側で見つけ出して、最高の感謝を込めて『バカヤロウ』って言ってやんなきゃいけない」
志馬は言葉を失い、二人の間にしばし静かな風だけが流れた。
「志馬……」
輝澄の胸の奥に、言葉にならない切なさと、言葉を失うほどの愛おしさが同時に込み上げていた。
12歳のあの夕暮れ、恐怖に泣いていた自分を救うために、志馬は幼い身を挺して戦い、内なる天魔を暴走させてまで自分を護ってくれた。
彼の人生を歪めてしまったのは、他でもない、自分という存在がいたからだ。
その重すぎる宿命を一人で背負い、血を吐きながらもなお「大切な仲間と学園を守る」と誓う志馬の横顔が、涙の膜の向こうで優しく滲む。
輝澄は溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、ベンチの距離を完全にゼロにするように、スッと自らの細く柔らかな肩を、彼のブレザーの大きな肩へとそっと、深く寄り添わせた。
彼女の髪から、微かにいつもの夕日のような優しいシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「龍鷹さんは、優しくて、本当に、誰よりも強い人だった。だから、自分の選んだ道に後悔なんて100%絶対にしてない。今、こうして志馬が自分の足で、武術家として真っ直ぐ立ってる。それこそが、あの人の最高の誇りなのよ」
輝澄は自らの細い手のひらを、ベンチの上で微かに震えていた志馬の大きな左手の上から、包み込むようにしてそっと重ね合わせた。
「それに、こうなったのには私にだって大きな関係があるんだから。その『バカヤロウ』をお兄さんに届ける時には……絶対に、私のことも隣にいさせてよね。一人で全部、背負い込もうとしちゃ駄目だよ。……私は、何があっても志馬の味方だから」
どこまでも自分の傷に寄り添い、すべてを肯定してくれる輝澄の温もりが、志馬の胸の奥で張り詰めていた孤独な「天魔の檻」を静かに解き放った。
「……輝澄……」
目頭が猛烈に熱くなり、視界が涙で遮られるのを隠すように、志馬は自らの不器用な太い右腕を動かした。
普段の格闘の洗練された初動(起こり)のゼロ運動などどこへやら、ただ目の前の愛しい少女を二度と離さないと誓うような、ひどく不器用で、ひどく必死な力加減のまま、寄り添う彼女の細い肩を、胸の奥へと強引に、しかしどこまでも優しく引き寄せてガッチリと抱きしめた。
輝澄もまた、彼のブレザーの胸元に自らの顔を深く埋め、彼の不器用な抱擁の力強さに身を委ねながら、彼の背中へと両手をそっと回した。
「兄貴は、自分の名前に含まれている龍が大好きで、龍のネックレスを身に付いていた。……もし、これから先、この世界のどこかで天魔理心流の理合を使い、この龍の紋章を掲げて生きている奴がいたら、それが俺の兄貴だ。その時は、俺がこの手で必ず連れ戻す。……如月家のあるべき平穏な場所にな……」
夕闇に染まる河川敷の土手の上、二人の若き超人の誓いは、夜の帳の静寂の中に静かに溶けていった。
それは、凄惨な血の過去を自らの足で完全に乗り越え、何が待ち受けているか分からない不確かな未来へと踏み出すための、少年と少女の「真実」の儀式だった。
夕闇が急速に深まり、河川敷の向こう側に広がる六王子の街のネオンの灯りが、ぽつぽつと星のように灯り始める。
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志馬と輝澄、二人の美しいシルエットがぴったりと寄り添うようにして土手の夜道を歩いていく光景を、僕は少し離れた喫茶店の帰り道に偶然目にしていた。
「あの二人、ようやく納まるところに納まってきたのかな」
その時の18歳になったばかりの僕は、ただそう感じて、親友として心の底から嬉しいと思った。
しかし――。
僕は、そんな簡単な綺麗事では決して済まされなかったのだと、ずっと後になってすべての裏の歴史を知った時に感じることになった。
志馬があの日の真実を知ったこと、それが彼にとっての救いになるのか、あるいは、彼をさらに深く魔道へと引きずり込むための更なる巨大な「呪縛」になるのか。
この1997年の初夏の夕暮れの美しい景色を、僕はいまでも思い出す。
このまま、二人がただ平穏に結ばれてくれるような、そんな優しい世界線がどこかにあれば、どんなによかったか。
そう思わずにはいられなかった。




